もとなりくんの「今週の政治 ‘とんでも’」

日本の経済、安保危機を打開する力は、国民の結束と強い政治しかない

「言うだけ番長」は「甘ったれ番長」?! 前原氏は大臣の資質無し、まして首相などとんでもない!!

2012-02-25 20:38:05 | 政治
_ブログ筆者よりのお願い
このブログは、各週の乾坤一擲の政治テーマ、視点を掲載したいと思っているのですが、現在、次から次へと‘とんでも’が飛び出し、まるでモグラたたきをしているような状態におかれています。いま、週に2本、3本という状態にありますので、最新記事のみならず、一週間分をごらんになってください。ブログ内の「記事一覧」機能も活用ください。

昨日、前原民主党成長会長が、マスコミが彼につけた「言うだけ番長」のネーミングに反発し、産経記者を、取材から外すことを宣言してそれを実行したということが報道された。この経緯については、各社が報道し批判しているが、ここでは当事者である産経の記事を、下記「関係記事」に示すので参照願いたい。この件に関する政治家の名誉と報道のあり方の問題については、産経側に特段の問題があるとは思えず、それゆえ前原氏の対応は、公党の責任ある立場の人間のそれとしては不適切であると言わざるを得ないだろう。しかし、ここで述べたいのはこのことではなく、前原氏、もっと言えば日本の指導者の資質とはいかにあるべきかということである。前原氏が、一議員の立場にとどまる人であれば、ここでことさら取り上げることはないが、現在前原氏は、首相に最も近い人の一人であると目されているから、この問題は看過できないのである。ここでのテーマについてもっと言えば、もともと「公(おおやけ)性」のものである政治の中でも、その「公性」が凝縮されるはずの大臣、さらには総理大臣(首相)とはどういう人であるべきかという、基本的な問いかけをしたいということである。このことについて、以下三つのことを述べさせてもらいたい。

[1]_ <「民主党は言うだけ」の体質を改めよ>
<「野田的なるもの」を増やし、「小鳩的なるもの」から脱却せよ>
まったくもって、前原氏の甘チャンぶりにはあきれてしまう。この人が6年前に、43歳の若さで民主党代表として颯爽と登場し、執行部の若返りを進めたり、それまでの何でも反対の立場から提案型の野党に変わることを目指したり、労組依存からの脱却を志向したりしている姿を見るとこの人であれば、政治の改革のみならず、停滞する日本の経済、社会の改革をもやってくれるのではないかとそれなりの期待を抱いたものである。しかし、その後の「偽メール事件」によって、その政治的脇の甘さが露呈し、その後も次々と脇の甘い姿勢が見られるようになった。そして、政権交代後は、威勢はよいが思いつきにしか過ぎない発言が目立つようになり、しかもその発言のフォローを何もせずに、またすぐに次の新たな威勢のよい発言をする、こういうことが繰り返されるようになった。その結果、昨年から「言うだけ番長」との不名誉なあだ名がつくことになった。これは、前原氏が国交相時代に建設凍結を表明した八ツ場(やんば)ダムの迷走、党政調会長就任早々に米国で、突如として武器輸出三原則見直しを打ち出したり、東日本大震災の復興財源をめぐり、確たる根拠なく税外収入を政府案より2兆円積み増すと表明したり…、などの事実に沿ったものである。

もっとも、何の根拠もなく、その場の思いつきで自分の人気取りのためだけに、「言うだけ」という政治家にあってはならない悪しき性向は、一体に民主党の特徴、DNAであるとも言える。鳩山元首相の普天間の最低でも県外移設、東アジア共同体、新しい公共…、そして菅前首相の雇用の創出、最小不幸社会、熟議の国会…。この二人は「言うだけ」の連発によって日本をガタガタにしてしまった。小沢元代表にいたっては、「天下・国家のため」とか「清潔な政治を」「政治改革」などと二十年間も「言うだけ」で、実際にやってきたのは、私利私欲のためだけの金と数の力による政局ゴッコ、そして不毛な政党の創立と破壊の繰り返しだけであった。

しかしながら、民主党のこの悪しき性向も、野田首相になって、ようやくまともな方向で沈静化の動きが出てきている。やろうとしていることが必ずしも十分な内容を備えていない、国民に十分アピールできていない、迅速で断固とした対応が出来ていないなどさまざまな問題はあるものの、少なくとも野田首相は「言うだけ」の人ではないように見える。言ったことが本当に実現するかどうかは、現在の政局・情勢からすれば予断は許されないが、少なくとも今のところ、やる気は言葉だけのものではない迫力が感じられる。これは政治家が持つべき最も基本的な要素であると言えるだろう。民主党は、「野田的なるもの」の拡大をめざさなければならないだろう。
なお、「小沢的なるもの」は、民主党にのみならず自民党にも、そして社民党にも残存しており、日本の政治を腐らせる元凶になっている。この人の排除なくして日本の政治の明日はないと言える。小沢氏については、これからどんどん批判をしていくことになるので、ここではその予告だけに留めおきたい。

[2]_ <批判に打ち勝たなければ真の指導者たりえない!>
ここで問題にしたいのは、前原氏がなんと驚くことに、「記事を読むだけで暗い気分になる。これは子供のいじめやペンの暴力の次元だ」と言ったということである。この言葉によって彼は「言うだけ番長」のみならず、実は「甘ったれ番長」でもあることが明らかになってしまった。これが前原氏の言葉であるなら、彼は政治がどういうものであるのかが全くわかっていないし、また彼の精神構造も政治とまでは言わないが、少なくとも真の指導者には向いていないと言わざるを得ないことになる。こういう人に大臣、まして首相になってもらうと我々国民は困るのである。途中で引きこもりになってもらっても、すべてを自分以外のものに責任転嫁されても、周りにどなり散らされても、やけくそになってもらても、居直ってもらっても、政権にしがみつかれても、そして政権を放り出されても困るのである。こういうものがいかに悲惨な結果を日本にもたらすかは、菅首相の例で嫌というほど味わわされている。とにかく今回の前原氏のような、弱く甘えた精神構造では、首相はおろか、大臣の職責すら全うできないだろうと考えざるを得ないのである。

現在、アメリカの共和党、民主党の大統領候補指名獲得選挙が行われているが、日本は、このシステムに学ぶ必要があるだろう。この厳しい選挙戦はちょっと目には全く意味のない、時間と金、エネルギーの浪費、それどころか、党内の対立抗争を煽り、党を分裂させる以外の何物でもないように思えるが、実は非常に巧妙にできた「強く優れた指導者を作るシステム」であるだろう。この一年から長い場合は二年にもわたる選挙戦は、大統領候補者の(政治的清潔さの)身体検査はもちろんのこと、ディベート能力(制作力、論理的討論力)はどうか、ネガティブキャンペーンに耐えれるかどうか(強い精神力、闘争力があるかどうか)、人間性はどうかなど、ありとあらゆることが国民の前に提示され評価と同時に批判もされ、これに耐え抜き勝ち抜いた人だけが大統領になれるのである。この中で、大統領候補者と国民との相互理解が進み、信頼関係が醸成され、国のために一身を捧げる強い大統領が誕生することになる。こういう厳しい選挙を勝ち抜いたからこそ、また、すべての要素が確認された人であるからこそ、国民は大統領を信頼し、尊敬もし、自分たちの大統領だとも思うのである。そして、そういう国民の強い信頼が、大統領が国民(世界)のためにいかなる苦難にもくじけることなく、強い意志を持って、毅然かつ断固とした行動に出れる基盤になっているはずである。
橋下大阪市長が、昨年のダブル選で受けたプライベートなことについての猛烈なネガティブキャンペーンに耐え、屈しなかったどころか、それを逆にバネにして結果としての圧倒的勝利を得たということを思い起こしてみよう。こういう資質こそ、大臣や、そしてそれよりも更に厳しい職である首相に要求されるものである。
現在の日本に必要とされているのは、このような批判を克服する力であり、それは政治家のみならず、国民一人一人にも要請されている要素ではなかろうか。

[3]_ <国民は「大臣」の機能、権威を、政治に、国民の手に取りもどす必要がある> 
    <大臣の機能を、利権漁りの具にまで堕しめる政治屋たちを許すな!>
今まさに日本は、巨額の財政赤字、少子高齢化、長期にわたる経済不振、技術競争力の相対的低下、周辺国からの日本の主権侵害・領土侵犯などといった内憂外患の文字通りの国難に直面している。この困難を克服することは容易ではなく、国民が一丸となって、困難の克服に乗り出す必要がある。そして、政治家、特に大臣、首相はその先頭に立たねばならないのだから、「批判されたから暗い気持ちになった、やる気が出ない」というようなことでは、話にもなんにもならないのである。

ところで、ここで政党の幹部の問題から、なぜ急に大臣の話が出てくるのかということであるが、これは大臣は「公性」の最大の職責だからである。現在の政党は、政党助成金という国民の税金を使っているのだから大きな「公性」を持っているのであり、民主党の政調会長である前原氏は、公的立場の人間であり、今回の言動はこの点からしても許されるものではない。しかし、政党の幹部までに範囲を広げると、あまりにも問題人が多過ぎて焦点が定まらなくなるので、せめて大臣レベルでの「公性」だけでも確保したいということである。また、国民の立場からすれば、政党の幹部に対しては監視の目、そして批判が届きにくいが、「公性」の最高峰である大臣には、そうではないだろうからである。そしてなによりも、政策は各担当大臣が取り仕切って実効するものだからである。

ところが、最近では猫の目のように大臣が代わり、また資質、能力に問題がある人が多く、大臣が果たすべき機能と、その権威は地に堕ちている。なにしろ、「個別のことは回答を差し控える」と「法と正義に基づいて進める」という二つの言葉を知っていれば大臣は出来ると、大臣自身が言っているのだから、何をか況やである。昨年の海江田経産相のように、国会で菅首相に功を奪われたと言って悔し涙を流し、こんな首相の内閣にはおれないので、辞表をたたきつけると言いながら、いつまでも未練たらしくずるずると経産省の地位にとどまり、優柔不断性をさらした人もいた。ところが、そういう人が民主党代表戦(実質的な首相決定選挙)に立候補し、一時は最有力とまでされたのだから、びっくり仰天である。このような有様は異常を通り越して、異様な事態であると言わざるを得ない。このこと一つ取っても、現在の日本の政治、そして社会の価値規範の劣化が著しく進んでいることがわかる。

そもそも政治は政府が行うもの、すなわち大臣の集まりである内閣が行うものであるにも関わらず、日本では大臣は、年功褒賞として与えられるものという考えがあり、やる気や能力などは二の次とされてきた側面がある。だから、消費者庁長官などは、民主党の2年半足らずでなんと8人目であり、拉致問題担当相は6人目だ。その他のポストも似たりよったりの状況である。党利党略を優先するあまり、大臣の機能は著しく損なわれ、結果、日本の政治は全く機能不全に陥っているのである。

さらに言えば、いわゆる「表紙の張替え」という詐欺まがいの手法も大きな問題である。これは、中身が劣化、腐敗してどうにもならなくなっているにも関わらず、中身はそのままにして、表面だけを新たな表紙で飾って、すなわち大臣を変えて、新しいものとして売り出すやり方である。このことの目的は、これによって国民の眼をくらまし、批判をかわし、古い利権構造を温存させ、自分たちの利益を確保しようということである。また、この表紙の張替えは、責任をうやむやにするという点でも、非常に有効な手段となっている。鳩山首相の嘘で固めた「マニフェスト」も、普天間基地の問題も、民主党の三人目の表紙の野田首相になると、だれがどの責任を負うのかがあいまいになっている側面がある。前原国交相の八ツ場ダムの迷走問題もそうである。この迷走で、地元の人はまた更に数年間の苦痛を強いられることになったが、大臣が何人も代わって、だれにどこまでの責任があるのかがぼやけてしまった。これは本来、大臣とは数年間の任期のもとで、しっかりした仕事をしなければならない職務であるにもかかわらず、その能力がない、それが怖いので、任期をこまぎれにして何人もで短期間を担当すれば、責任はうやむやになると同時に、大臣というポストの名誉は、みんなに回ってくるというメリットがあるのだろう。結局、現在の日本の政治は、政治家の問題が起きるたびに大臣を交代させること、それも能力ある人に代えるのではなく、単に「表紙」すなわち顔を代えること、それはすなわち国の政治の機能を著しく損なうこととの引き換えに、事態をうやむやにし、政治家全体で一人一人の利益を守るための助け合いをしているのである。
こういう異常な状況は一日も早く変革されなければならない。我々国民は、国の政治の機能を我々のために取りもどさなければならない。それには、大臣には意志と能力のある人を就け、いい加減な人が大臣になることを阻止していく必要もある。そして大臣の権威と政治の機能を大臣の中に、国民の側に取り戻す必要がある。

次に、本来大臣とは非常に重い責任を持つものである。というのは、大臣は国の政策の責任者であり、国にとって必要な政策を決定し実現しなければならない立場の人だからである。ところが、政策というのは必ず賛否両論、つまりそれによって益を得る人とそうでない人がいるのであり、それをうまく調整して決定していかなければならない立場である。そもそも、反対のない政策であれば、誰でも賛成していることだから、わざわざ政策という必要はないし、また誰がやっても同じようなやり方になるはずだから、大臣などは要らないのである。だから、政策に反対や批判は付き物なのである。場合によっては、一方の側に、ある程度の不利益、あるいは痛みを需要してもらわざるを得ないことも少なくない。言い換えれば、批判されること憎まれること、場合によっては、生命すらも危険にさらされるようなことすらある。しかしながらそれでも大臣たるものは、全体の利益のために、そういう厳しく辛い状況を乗り越えて、決断し、実行していかなければならない。とは言え、大臣といえども生身の人間であるので、国民の支持、応援なくしてこういうことが出来るわけはないので、国民もしっかりバックアップしていくことが重要である。そのためには、大臣にはやる気と能力が備わっていなければならない。これが本来の大臣のあるべき姿であるだろう。

このようなわけで、気に入らない記事、自分を揶揄する言葉を聞くと、簡単に意気消沈するような人は、とても大臣の職は勤まらないので、もう大臣になるのはやめて欲しいのである。そもそも「言うだけ番長」などという不名誉な呼称は、前原氏自身の言動がそうだからそうなっただけの話であり、身から出たさびにしか過ぎない。そういう自らの言動を省みることなく、「ペンの暴力だ」と言ってマスコミのせいにするようなことでは、とても本来あるべき姿の大臣の厳しい職責を全うすることなど出来るはずもない。まして、総理大臣など‘とんでも’ないことである。我々は、鳩山、菅の二内閣の二年間の悪夢、あのように限りなく惨めな日本の姿をもう二度と見たくないのである。


【関係者、識者コメント】 _いずれも24日、産経()電子版からの抜粋
 _「大阪府の松井一郎知事は24日、記者団に「一瞬で前言を翻すからそう言われてもしようがない。腹が立つこともあるだろうが、取材を全面拒否するのはやり過ぎでおかしい」と述べた。また、松井氏は前原氏の言動について、「言うなら、やればいい、やらないことは言わないのが一番だ」と批判する一方、橋下徹大阪市長が日ごろからツイッター(短文投稿サイト)を利用して意見を述べていることに触れ、「言いたいことがあるなら橋下さんのようにツイッターで反撃して、言い返せばいい」と話した。」

_ 「みんなの党の渡辺喜美代表は24日の記者会見で、民主党の前原誠司政調会長が産経新聞の報道内容を理由に本紙記者の記者会見出席を拒否した問題に関し「野田佳彦首相もぶら下がり取材に応じていない。政調会長もそういう姑息なことをやる。民主党の体質でしょうね。語るに落ちた話だ」と批判した。」_ 「政治評論家、三宅久之氏の話「公の会見で特定の報道機関の記者の出席を拒むことは、政党助成金を受け取っている公党の要職にある者として、あり得ない行為だ。民主主義下で与党が批判されるのは健全な政治のために当然であり、それを謙虚に受け止めることなく、気に入らない者を排除することで自分の正当性を守ろうとする前原氏の対応は、政治家として幼稚としか言いようがない」

【関連記事】 _24日づけ産経(電子版)_
【前原氏本紙を排除】「これはペンの暴力」 他社も抗議
 民主党の前原誠司政調会長が23日、定例の記者会見で本紙記者を排除した。前原氏の言動を「言うだけ番長」と表現した本紙報道は「ペンの暴力」だと主張している。しかし、次期首相候補にも数えられる政治家のこの日の行動は、常軌を逸していると言わざるを得ない。
 23日昼、本紙記者は人事異動のあいさつをしようと、前原氏と国会内で接触した。すると前原氏は「君に話があるんだ」と話し、記者を衆院議員会館の自室に連れて行った。
 「ことあるごとに『言うだけ番長』と書くのはなぜか。(本社の)会長の名前で正式に文書で回答してほしい。それがなければ今後、産経には政策調査会の取材を認めない」
 前原氏は記者にこう通告した。その上で「記事を読むだけで暗い気分になる。これは子供のいじめやペンの暴力の次元だ。回答が来るまでは記者会見も取材も認めない」と語った。
 記者は事情を政治部上司に報告。前原氏に再度接触し、どういう内容の回答を求めるのか、文書で提示するよう求めた。この時、前原氏は「考える」と述べるにとどめていた。
 こうした状況で、前原氏は本紙記者を記者会見から排除した。この段階で、幹事社の朝日新聞記者が政調職員に抗議。その後開かれた記者会見でも、他社の記者が前原氏の対応への異論や抗議の意を伝えたという。
 前原氏の定例記者会見は週2回開催。フリーの記者も参加でき、通常は名刺の提出も求められない。
 前原氏は1月31日の記者会見でも、北海道新聞記者に対し「あなたは出入り禁止だ。事実と違うことを書いた。今、すぐ出ていってください」と述べ、記者会見場から退出するよう求めたこともある。・・・(以下略)」

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