菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

紫陽花

2009-06-21 16:20:58 | 菅沼家ルーツ

 今日は夏至。梅雨のむし暑い日が続いております。雨の季節に似合う花、紫陽花の画像です。寺の山門の前に咲いていました。

寺といえば今までいくつか菅沼氏ゆかりの寺を紹介してきました。

新城 宗堅寺

京都 宗堅寺

新城 鳳来寺

湖西 岩松寺

東松山 浄空院

吉井 玄太寺

安中 海雲寺

等々・・・・たぶん他にもあるのでしょうが


岩手県遠野士族名簿

2009-06-21 04:42:05 | 菅沼家ルーツ

岩手県遠野士族名簿に菅沼要右衛門(仙太郎)菅沼藤左衛門(政吉)がみられる。

明治になって藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は、岩手でもさかんになった。盛岡に鈴木舎定を中心に「求我社」が結成され、同じころ、遠野には「開進社」が結成された。
 求我社や開進社で運動した人々は、その後、岩手自由党をつくり、県議会に進出した。遠野の自由民権運動は、山名宗真たちに受け継がれ、中央の愛国社と連携して政治活動をすすめるとともに、地域の産業開発の運動にも取り組んだ。

〔開進社の人びと〕
 開進社は山名宗真が主唱して結成され、菅沼仙太郎が中心になった。旧士族の人々が集まった。
 菅沼仙太郎・脇山義保・高橋沁太郎・柳田豊治・遊田研吉らは県議会に進出し、遊田研吉は衆議院議員にもなった。和田隆秀や柳田豊治は遠野町長になった。山名宗真は産業振興の運動をすすめた。
 
とのことである。遠野菅沼氏はどの系統だろうか。

権之助坂

2009-06-20 17:01:29 | 菅沼家ルーツ

東京都目黒区にある坂の名前です。

 江戸時代、菅沼権之助という名主がいた。権之助は村人の苦しい生活をみかねて、年貢米へ減らすよう頼んだが逆に罪に問われた。刑場に引かれて行く権之助が、この坂の上から我が家を望んだとのこと。後に村人達は、この坂を「権之助坂」と名付けたそうです。


真田家家臣 菅沼氏

2009-06-20 13:52:25 | 菅沼家ルーツ

真田信之時代に「三百石 菅沼九兵衛」「ニ百石 菅沼次郎右衛門」の二流あった。
九兵衛は信之の小姓を勤めていた時、馬場主水という家臣が追放された事を
恨んで、「信之が大阪の役で豊臣方へ内通して、金銀、矢の根、玉薬を密かに
送りこんでいた」と幕府に訴え出る事件が起こった。幕府が主水に対して証拠を
求めると主水は「拙者は忍びの者ゆえ秘そかに指図されているので同席した
者もなく、従って証人はありません。しかし大阪城より返書を持参した時、
人払いをされたが「菅沼」という小姓だけが伊豆守(信之)殿の前にいました」
と答えた。この証言により当時17歳の九兵衛は評定所に呼び出され
主水と対決となった。その時主水は「書状持参した時貴殿は寝所の
伊豆守殿の前にいた。伊豆守殿は書状を読み終わると押し丸めて酒膳の
傍らへ投げ捨てたではないか」と九兵衛に問うと九兵衛は「伊豆守等身者と
いいながら寝所へ酒膳を持ち込む事はありません。また伊豆守はそれ程
大切な書状を焼き捨てもせず投げ捨てるような不覚者ではありません。
普通の書状でもむざと捨てるようなことはないものです」。とはっきり申し立てた
ので、証拠となるものは無く主水の敗訴となった。これにより九兵衛は
取立てられ九百石の高禄となったが、明治四年廃藩当時の菅沼家の
家禄は百二十石。

とのことです。 真田部屋より引用


上野戦争・函館戦争

2009-06-20 09:33:42 | 菅沼家ルーツ

 旧幕府徹底抗戦派の中心である彰義隊は、江戸城無血開城後も上野寛永寺に立てこもっていた。新政府軍は大村益次郎にこれを攻撃させた。勝敗はたった一日で新政府軍の勝利に終り、彰義隊はほぼ壊滅した。

 徳川家海軍副総裁の榎本武揚等は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。幕府軍艦開陽丸にて江戸を脱出、函館五稜郭に函館府を設置し統治しようと画策した。これに新撰組の土方歳三や彰義隊生き残り渋沢成一郎・菅沼三五郎等も加わる。しかし新政府軍に攻撃され、榎本等は降伏した。これにより戊辰戦争は終結を迎える。

ここに出てくる旧幕臣菅沼三五郎であるが、函館戦争で負傷し、まもなく亡くなったようである。土方歳三もここで戦死している。


再 お願い

2009-06-19 19:05:27 | 菅沼家ルーツ

全国の菅沼さんへ

菅沼家に関係あることをあれこれ取り上げて掲載しております。

家のいわれや家紋のことや、ルーツの調査をしているなど、なんでも結構です。ございましたらメールでいただければ掲載いたします。よろしくお願いいたします。

画面右側の「メッセージを送る」よりメールを送ってください。


江戸古地図

2009-06-17 05:52:35 | 菅沼家ルーツ
 新城菅沼家江戸屋敷は今の日本橋浜町三丁目にあったとのことで、探してみました。古地図 地図右下の新大橋のところです。また中央区図書館資料にもありました。資料では文久年間発行された「江戸に二つとないもの」番付に「七千石の表門定紋・朱塗槍」とあるのは、菅沼家のことではないかとも書かれています。

菅沼神社

2009-06-13 19:43:07 | 菅沼家ルーツ

長野県にあるようです。菅沼家との関係は全くわかりません。

菅沼神社

また埼玉県深谷市には菅沼天神社というがあるようです。菅沼姓で梅鉢紋を使用している家が結構あるようです。梅紋といえば菅原道真。菅の文字がつく家に多いようです。また菅沼家ルーツに関係のある地に、静岡県駿東郡小山町菅沼天神原というのもあるようです。豊橋市 下地町にも天神という地名があるようですね。菅原とか天神とか天沼なんていう地名は菅原道真信仰に関係があるみたいです。


武士の大リストラ 明治維新

2009-06-13 15:40:19 | 菅沼家ルーツ
 明治維新後の武士は、最初は俸禄を支給されていました。明治6年の秩禄処分により一時金を支給することにより、廃止されます。これによって士族の特権はまったく消滅してしまいます。多くの士族は一時金を元手に商売をしたりしますが、ほとんどが失敗し没落してしまいました。藩によっては荒野を開墾し農業をはじめたりしますが、慣れない事もあって悲惨を極めたようです。警察官、軍人、教師、公務員等になった人も多かったようです。資産も誇りも失った没落士族が多かったということでしょうか。

大津市義仲寺 菅沼曲水の墓

2009-06-06 15:08:29 | 菅沼家ルーツ

 木曾義仲・巴御前・松尾芭蕉などの墓がある。義仲寺(ぎちゅうじ)という。ここに菅沼曲水の墓が昭和になってから立てられたという。

 ― 膳所藩士菅沼曲翠(初め曲水)は、芭蕉翁の最も信頼した門人の一人であった。幻住庵は曲翠が翁に提供したものである。享保2年(1717)7月20日、曲翠は藩の悪家老曽我権太夫を槍をとって刺殺し、自らも責任をとって切腹した。翁は「幻住庵記」に「勇士曲水」と記し、また、初見の印象を「ただ者に非ず」と言っている。
 この事情から、没後曲翠の墓は造られなかった。昭和44年(1969)7月、膳所不動寺筋(現・中庄1丁目)の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑を建て、年々の忌日に法要を行う。昭和48年当寺内に「曲翠墓」を建立。没後257年初めての建墓である。 ―

ということである。