真田信之時代に「三百石 菅沼九兵衛」「ニ百石 菅沼次郎右衛門」の二流あった。
九兵衛は信之の小姓を勤めていた時、馬場主水という家臣が追放された事を
恨んで、「信之が大阪の役で豊臣方へ内通して、金銀、矢の根、玉薬を密かに
送りこんでいた」と幕府に訴え出る事件が起こった。幕府が主水に対して証拠を
求めると主水は「拙者は忍びの者ゆえ秘そかに指図されているので同席した
者もなく、従って証人はありません。しかし大阪城より返書を持参した時、
人払いをされたが「菅沼」という小姓だけが伊豆守(信之)殿の前にいました」
と答えた。この証言により当時17歳の九兵衛は評定所に呼び出され
主水と対決となった。その時主水は「書状持参した時貴殿は寝所の
伊豆守殿の前にいた。伊豆守殿は書状を読み終わると押し丸めて酒膳の
傍らへ投げ捨てたではないか」と九兵衛に問うと九兵衛は「伊豆守等身者と
いいながら寝所へ酒膳を持ち込む事はありません。また伊豆守はそれ程
大切な書状を焼き捨てもせず投げ捨てるような不覚者ではありません。
普通の書状でもむざと捨てるようなことはないものです」。とはっきり申し立てた
ので、証拠となるものは無く主水の敗訴となった。これにより九兵衛は
取立てられ九百石の高禄となったが、明治四年廃藩当時の菅沼家の
家禄は百二十石。
とのことです。 真田部屋より引用
未だ松代に残っております。
「菅沼次郎右衛門」の系図によると
神川陣の時にはから真田家へ奉仕していたとあります。
「菅沼次郎右衛門」には二人の男子があり
それは「菅沼九兵衛」と
「菅沼弥惣右衛門」です。
また「菅沼次郎右衛門」は「菅沼次郎右衛門忠久」の子
となっていますが、一度他の系譜と突き合わせて
考えてみたいです。