菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

菅沼新七

2009-07-18 18:58:26 | 菅沼家ルーツ

 野田菅沼家・定則の弟に新七?という人がいたようです。其の子孫が松平越中守定綱家臣にいたということで調べてみました。桑名藩寛政四年家中屋敷割というのがありました。この中で菅沼新七郎?・弾右衛門?がみえます。桑名藩は幕末に松平定敬が徳川慶喜に随行。会津と並んで新政府軍から敵視され、一部藩士は、江戸、会津、函館と転戦をした。この菅沼氏はどうなったのだろうか?。


景徳院

2009-07-11 05:16:15 | 菅沼家ルーツ

 長篠の戦いに負けた武田勝頼は、天目山近くで自刀しました。その後、徳川家康は勝頼と殉死した家臣を弔うために景徳院を建立させたそうです。長篠戦後、勝頼に味方した田峰菅沼家、長篠菅沼家も没落してしまいました。勝頼公250年忌の文書が家にありました。これも何かを写したもののようです。


谷川の流れ

2009-07-10 21:53:05 | 菅沼家ルーツ

忙しく過ごしていると、たまにはのんびり谷川の清流でも眺めたくなります。時の流れと同じで絶えることなくずっと昔から続いていますね。

 このブログを立ち上げて4ヶ月、約4000人の方(閲覧数は約11000)に訪問していただいています。特定の人しか興味がないようなブログですが、一日平均30人強がみていただいているようです。感謝申し上げます。


武士の名前②

2009-07-08 05:03:48 | 菅沼家ルーツ

武士の名前は複雑です。菅沼定盈の場合でみてみると、菅沼織部正源定盈とか菅沼新八郎源定盈という長い名前になる。菅沼が名字・織部正は官職名・新八郎は通称・源は氏・定盈は諱である。また幼名は竹千代。

こういった名前の表現が、明治になって、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することになり、それまで複数の名(諱および通称ならびに号等)を持っていた者は、それぞれ自身ので選択したものを「名」として登録し、改名は禁止された。という事です。


武士の名前 

2009-07-07 20:09:11 | 菅沼家ルーツ

私の曽々祖父の調査をしたときに、その妻の出身地と親の名前が戸籍に書いてありました。士族の娘と聞いていたので、藩の資料を探したところ、運良くその年代の分限帳が見つかりました。親の名前は山口脩とかかれていたので、山口姓を探してみたところ、4名いました。

番頭 500石 山口図書

目付 100俵 山口武曹

番士 100石 山口鍵太郎

番士 15人扶持 山口左右吉

しかしどこにも脩という名前はありませんでした。

 武士の名前は通常、姓・通称・諱(いみな)で構成されているとのことです。たとえば、菅沼新八郎定盈の場合、姓は菅沼、通称は新八郎、諱は定盈です。諱名は親しい間柄でも呼んではならず、大名や旗本が将軍に名前を披露する時でも呼ばず、本人も普段から用いなかったそうです。本当の名前を知られると、相手に支配されるという迷信から来ているようです。書に記されるときも用いられないとのこと(正式文書には記したようです)。だが明治になった時に、菅沼新八郎と登録したか、菅沼定盈と登録したか、あるいはまったく違う名前にしてしまった人もいたようです。これではまったく解らない。壁にぶち当たってしまいました。


東山道鎮撫総督 官軍文書

2009-07-05 16:19:43 | 菅沼家ルーツ

 官軍の東山道鎮撫総督は岩倉具定(岩倉具視の次男)だったそうです。後に学習院院長・宮内大臣を務めた人です。其の東山道鎮撫総督が出した文書が家にありました。ただこれは原本ではなく、曽々祖父か曽祖父が写したものかもしれません。

官軍は東海道・東山道・北陸道に分かれて江戸を目指した

文書の一部です

何故このようなものが家にあるのか不明です。


明治初期の学校

2009-07-05 10:19:39 | 菅沼家ルーツ

私の曽々祖父(ひぃひぃおじいさん)は元士族で、その後教師になったようです。其の頃の教科書が家にありました。

こんな様子で授業をしていたんでしょうか。教科書の挿絵です。

明治時代の教科書の一部です

家にはあまり古いものは残っていないのですが、いくつかありますので公開してみたいと思います。とにかく貧乏な家だったので、金目のものはすべて食い扶持に消えてしまったようです。

 


私のこと

2009-07-03 19:36:35 | 菅沼家ルーツ

 私のことをあまり述べていなかったのですが、30歳前後の時に、山岡荘八の徳川家康を読んだときに、菅沼一族、山家三方衆などを知りました。以前、父親か祖父から家の先祖は三河の出身、と聞いたことがありましたので、あぁこれかと思いました。まぁ、その頃はあまり興味がなかったので、それ以上調べてみようとも思いませんでした。しかし最近、宮城谷昌光氏の「風は山河より」が発刊されて、興味が湧き起こってきたのです。本は出るのを待って全巻買って読みました。

 ただ本当に自分の家が三河出身なのかは、解りません。解っているのは、私より5代前の先祖が士族であり、明治になってからは教員をしていたことぐらいです。そこから先は簡単にわかるかと思ったのですが、いまだ不明です。というのもその先祖がずっと今の地にいたのではなく、幕末から明治のはじめ頃、どこからか来たらしいのです。家もその後相当貧乏したらしく、私が子供の頃、家に残っていたのは、昔槍の柄だったという麺棒ぐらいでした(笑)。まぁそんなことでこのブログを立ち上げてみたわけです。