菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

権之助坂

2009-06-20 17:01:29 | 菅沼家ルーツ

東京都目黒区にある坂の名前です。

 江戸時代、菅沼権之助という名主がいた。権之助は村人の苦しい生活をみかねて、年貢米へ減らすよう頼んだが逆に罪に問われた。刑場に引かれて行く権之助が、この坂の上から我が家を望んだとのこと。後に村人達は、この坂を「権之助坂」と名付けたそうです。


真田家家臣 菅沼氏

2009-06-20 13:52:25 | 菅沼家ルーツ

真田信之時代に「三百石 菅沼九兵衛」「ニ百石 菅沼次郎右衛門」の二流あった。
九兵衛は信之の小姓を勤めていた時、馬場主水という家臣が追放された事を
恨んで、「信之が大阪の役で豊臣方へ内通して、金銀、矢の根、玉薬を密かに
送りこんでいた」と幕府に訴え出る事件が起こった。幕府が主水に対して証拠を
求めると主水は「拙者は忍びの者ゆえ秘そかに指図されているので同席した
者もなく、従って証人はありません。しかし大阪城より返書を持参した時、
人払いをされたが「菅沼」という小姓だけが伊豆守(信之)殿の前にいました」
と答えた。この証言により当時17歳の九兵衛は評定所に呼び出され
主水と対決となった。その時主水は「書状持参した時貴殿は寝所の
伊豆守殿の前にいた。伊豆守殿は書状を読み終わると押し丸めて酒膳の
傍らへ投げ捨てたではないか」と九兵衛に問うと九兵衛は「伊豆守等身者と
いいながら寝所へ酒膳を持ち込む事はありません。また伊豆守はそれ程
大切な書状を焼き捨てもせず投げ捨てるような不覚者ではありません。
普通の書状でもむざと捨てるようなことはないものです」。とはっきり申し立てた
ので、証拠となるものは無く主水の敗訴となった。これにより九兵衛は
取立てられ九百石の高禄となったが、明治四年廃藩当時の菅沼家の
家禄は百二十石。

とのことです。 真田部屋より引用


上野戦争・函館戦争

2009-06-20 09:33:42 | 菅沼家ルーツ

 旧幕府徹底抗戦派の中心である彰義隊は、江戸城無血開城後も上野寛永寺に立てこもっていた。新政府軍は大村益次郎にこれを攻撃させた。勝敗はたった一日で新政府軍の勝利に終り、彰義隊はほぼ壊滅した。

 徳川家海軍副総裁の榎本武揚等は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。幕府軍艦開陽丸にて江戸を脱出、函館五稜郭に函館府を設置し統治しようと画策した。これに新撰組の土方歳三や彰義隊生き残り渋沢成一郎・菅沼三五郎等も加わる。しかし新政府軍に攻撃され、榎本等は降伏した。これにより戊辰戦争は終結を迎える。

ここに出てくる旧幕臣菅沼三五郎であるが、函館戦争で負傷し、まもなく亡くなったようである。土方歳三もここで戦死している。