菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

大番頭って何?

2009-05-31 19:29:49 | 菅沼家ルーツ

新城菅沼家がしばしば就任した大番頭とは

 江戸城二の丸の警衛および京都・大坂の在番をつとめ、江戸府内を巡行する役職で、12組に分かれていた。組ごとに番頭が一人ずついて、だいたい5000石から1万石級の大名が勤めていた。詰所は中の口から入った右側で、小十人組と使番の中間の部屋である。資格は5000石高で、菊の間席である。
 12組のうち2組は二条在番、2組は大坂在番を満1年ずつ交替で勤務し、残りの8組のうち毎日営中と二の丸に2組ずつ宿直勤務する。大番頭は戦争のおりには将軍の先手として活躍し、部隊長であるから重要な役とされ、背中に差す旗も長さ6尺、幅4尺の四半の旗を用いた。こうして大番頭は武官であるから、登城のときは駕籠ではなく騎馬で行った。50歳以上で願い出たもののみ駕籠登城が許可された。
・・・・・ということです。

江戸幕府の役職を現在の会社組織にたとえるとというのがありました。

大御所=取締役会長
将軍=代表取締役社長
大老=代表取締役副社長
老中=取締役専務・専務執行役員
京都所司代=取締役常務・京都支社長・宮中及び西国監理担当
大坂城代=取締役(上席)・大坂支店長・西国監理担当
若年寄=取締役・執行役員
側用人=役員待遇・社長室長
寺社奉行=上席理事・宗務専管
側衆=理事・社長室秘書
留守居=理事・社屋管理担当
大番頭=理事・警備担当(12組あるので、警備第一部長、警備第二部長、警備第三部長云々)
大目付=理事・監理担当
江戸町奉行=主幹・江戸市中司法及び行政専管
勘定奉行=主幹・経理・財務担当と主幹・天領担当
作事奉行=副主幹・工務担当
普請奉行=副主幹・土木担当
長崎奉行=上席参事・長崎市中司法及び行政専管
京都町奉行=上席参事・京都市中司法及び行政専管
禁裏附=上席参事・宮中事務担当
などなど
因みに側衆・留守居・大目付・大番頭・奉行などは複数補任されているので、「長」はいないことになる。

・・・・だそうです。


大名家からは消えても特別の家

2009-05-31 06:58:03 | 菅沼家ルーツ
 新城菅沼家は石高7000石。大名ではない。しかし旗本の中でも特別な家ということで、交代寄合に列した。大名並に参勤交代を行い、江戸城でも譜代大名と同じ帝監の間に詰めた。またしばしば役職(大番頭・伏見奉行等)にもついていた。

お願い

2009-05-30 07:44:16 | 菅沼家ルーツ

 何気なく「菅沼家ルーツ」というブログを立ち上げたのですが、忙しい身の上の為、記事のネタの調査や、ゆかり名ある場所の訪問記など考えてはいても、ちょっと出来そうにありません。で・・・このブログをご覧になった方で、家の由緒や資料など何でもよいのですが、メールで送っていただければ、記載いたします。よろしくお願いいたします。


ノイバラ

2009-05-27 20:11:56 | 菅沼家ルーツ

バラの花の季節です。華やかなバラも綺麗ですが、素朴な野バラもよいものです。

ノイバラ

何か玉虫らしき虫がついています

「人生は重き荷を背負いて、いばらの道を行くが如し」とは徳川家康の言葉ですが、こうやってみてくると菅沼家の先祖の人々は本当に大変な思いをしていたんですね。


田峯菅沼家その後

2009-05-26 21:59:14 | 菅沼家ルーツ

 田峯城主の菅沼新三郎定忠(さだただ)は、家老の城所道寿(きどころどうじゅ)らを率いて武田方に従軍するが、武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫する。菅沼定忠は敗れた武田勝頼(かつより)を案内して田峯城までたどりついたが、武田氏の敗報を受けた留守居の菅沼定直と家老の今泉孫右衛門道善(どうぜん)らが謀反をおこし、城門を堅く閉ざしてしまい入城できなかった。菅沼定忠は武田勝頼とともに支城の武節城(稲武町)を経由して信濃国に逃れた。天正4年(1576年)復讐を誓った菅沼定忠は、田峯城を急襲し、謀反の一族96名を惨殺し、首謀格の今泉道善は鋸引きの刑(生きたままノコギリで首を切り落とす)に処された。田峯城のすぐ西の丘には、今泉道善処刑の地が残る。天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、菅沼定忠は徳川氏に赦免を願い出るが許されず、信濃国伊那郡知久平にて牛久保城(豊川市)の牧野康成(やすなり)に誅殺され、田峰菅沼家は滅亡する事になった。

と記されています。

田峯菅沼家の一族郎党も路頭に迷ったのでしょうね。「岩松寺」この存在を私は知りませんでした。このブログにコメントをいただいている「ジョン・カモンさん、チェリーさんの書き込みで、初めて知りました。田峯菅沼一族のたどり着いたのが岩松寺のようです。千手観音もありますね。私の家の墓所は昔、千手院といったようです。今は廃寺になってしまって家の墓になっています。何か縁を感じますね。

 


山法師

2009-05-26 06:23:09 | 菅沼家ルーツ

雑木林の中にヤマボウシの花が見事に咲いていました。

名前の由来は、中央の丸い花穂を坊主頭に、4枚の白い花びらを白い頭巾に見立て、比叡山延暦寺の「山法師」になぞらえたのだそうです。


長篠菅沼家のその後

2009-05-25 23:09:56 | 菅沼家ルーツ

 長篠菅沼家の当主菅沼正貞は長篠・設楽が原の戦いの時、長篠城を退去し武田側に走ったことを、武田側に徳川への内通と疑われ、信州小諸城の牢獄へ入れられ、そこで獄死したと言われてています。またその妻と子供は小諸城内で軟禁されていて、武田氏滅亡後、その子供菅沼半兵衛正勝は家康に拝謁して許され、田口(設楽町田口)に五百石の采地を与えられたという事です。後に徳川頼宣に従って紀州に移り、子孫は紀伊藩城代として明治を迎えている。と記されています。

また江戸中期に、老中となった田沼意次の父意行は菅沼半兵衛の子供との記述もあるが、この半兵衛の系統だろうか?。


菅沼家の明暗を分けた長篠・設楽が原の戦い

2009-05-24 18:22:47 | 菅沼家ルーツ

 三河菅沼家の明暗を分けた長篠・設楽が原の戦いについて。あまりに有名なので、ここであえて述べなくても良いかと思っていたのですが、掲載しておきます。武田軍対織田・徳川連合軍の最終決戦。結果は周知のとおり織田・徳川連合軍の大勝利となります。菅沼家にとっては一族を分けた戦いでありました。徳川方の菅沼定盈・定利・藤蔵(定政)はその後大名となっています。一方武田軍に味方した田峯菅沼・長篠菅沼家は滅亡または没落してしまいました。歴史は当主についての記述はありますが、その家族郎党がどうなったかあまり資料はないように思われます。きっとどこかに隠棲し、時代が経って由緒を失ってしまった家もあるかもしれませんね。


菅沼六兵衛丞 菅沼六右衛門

2009-05-24 05:20:01 | 菅沼家ルーツ

 無量院という寺は由井郷にいた菅沼氏によって、延徳二年(一四九〇)庚戌年五月廿五日に起立とある。この菅沼氏は同地(八王子市二分方町)に現在も居住しておられる。古くからの土豪であろう。下山治久著『八王子城主・北条氏照』所収文書に北条氏照感状写がみられる(奥信濃古文書)。それは菅沼六兵衛丞が永禄七年(一五六四)に、下総国葛飾郡国府台の戦いで与えられたものである。

菅沼六右衛門

1490年(延徳2)弐分方村に庵室を草創(のちの無量院).弐分方村民.

八王子市の資料にあるようです。この菅沼氏はどの菅沼だろうか?