4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 管理人さま (ジョン・カモン) 2015-01-04 22:44:31 ずいぶん、ずいぶんとご無沙汰です。管理人様、皆様お元気でしょうか? この、菅沼家ルーツは今まで、大変に勉強させて頂いてきました。ここのところ、「更新」されていないので少し気がかり、さみしいですのです。ぜひ、何とか続行させたい、そんな思いもありましてコメントさせて下さい。 年末に「埼玉県苗字辞典」に記載されていた各地(埼玉県内)を訪れてみました。 一番の目的は菅沼定盈の甥である菅沼新蔵(弥五左衛門)と言う者が三河より来て500石知行された(新城菅沼家譜に記載)その確認をする事でした。 時代は1590~1604年の間のことです。1590年は定盈が阿保に来た年、また1604年以前に新蔵は亡くなったとされています。 郷土の歴史研究をされている先生にお聞きしたところ、本庄市の児玉町吉田林地区に536石の菅沼三五郎の記録がありました。 この三五郎のことは以前このブログ内にもあったと思います。ただ知行されたのは1625年~の事で上記時代より少し後でした。彼の子孫は幕末に上野の山に陣をとった「彰義隊(しょうぎたい)」の副隊長クラス「頭並(かしらなみ)」だったそうです。 と言うことで「新蔵」ではないようです。なぜ、新蔵にこだわるかと申しますと、先祖かも知れないからです。 あと、定盈の領地は阿保8000石、忍(おし)2000石とありましたので、とりあえず行田市の忍城址を初めて訪れました。 それ以上の調査は時間切れ(寒さと疲れ?)で、すすみませんでした。新蔵は定盈に召し出されたそうですから、その領地の一部を知行と言う事かもしれません。 次に、本庄市児玉町の下浅見「には「真福寺」があります。ここは信州伊那出身の「朝日寿永」の菩提寺だそうです。1603年よりこの地を領していたようです。 注目すべきは、この朝日氏と共に信州より移住して来たのが「菅沼園右衛門」です。彼の父は「菅沼弥次郎高房」とあります(埼玉苗字辞典より)が、この高房とは「菅沼定忠」のことで、つまり、設楽原・長篠合戦で武田勝頼についた菅沼宗家「田峯(だみね)」城主と言う事です。 定忠は合戦で敗退後、現飯田市の知久平(ちくだいら)にて処刑されたと聞きますが、そうではなかったようです。この時、知久平城主は後に、吉井に移封された菅沼定利(さだとし)、定忠のいとこでした。 信州伊那には定忠が隠匿していた場所があり、お墓(高房)があり、ご子孫がいます。それは下浅見も同様のことでした。 さらに、この定忠の子孫は、このブログでかなり以前ですが、静岡県湖西市の「岩松寺(がんしょうじ)」の物語りを投稿しました、その付近一帯に集中している菅沼姓、先祖は定忠の娘(良姫)と言われています。 このようにして「菅沼家ルーツ探索の旅」がとてもワクワクして来ました。 ではここで一旦止めます。 返信する 山口修について (山口図書) 2018-05-12 17:21:29 お久しぶりです。山口修はどうやら、当家の親戚になるかと思われます。山口家の分家の方が渋川におられますが、山口家の家系譜や具足、刀、籠等を大切に保管されています。当方は前回貴方様が投稿された山口図書の末裔になります。貴方様にとっても、先祖解明の足掛かりになる事が出来れば幸いです。暫く投稿がない様ですので、それだけが気がかりです。宜しくお願いいたします。 返信する 山口様 (ジョン・カモン) 2018-06-13 22:09:38 はじめまして、私も管理人殿のことを気にしておりました。 返信する 末先祖供養吸 (箇様恐多) 2023-08-15 16:18:35 恐多明治維新後、加藤源左衛門の時宦官のとん等の佞言により没落し供養もできない状態になっている。私にとっては英霊であり先祖である。 以下の文読まれたし。 本國不知生國参河山本内臧(草冠)頭成本姓 源初名對馬守道号道吸とある。源の初めの名前と文献があるため、大伴、藤原、源、平全ての長者だった人物がいたと思われる。(めがね十二年先におらんだかぴたんよりもらい申候外の外である。長者であれば家紋は彼の遠江守。名を日本に上。誉れ八州に振。此時某打ちめくり。次第不同にうちなかすまくのもんをそかそへける。資はそのおくり名である。) 元陳、難波田憲堅、具英、具高、具和、具近、具挙、元以、旗本一時 波多と名前があるため下記の通り滝川氏も同様。 返信する 規約違反等の連絡
管理人様、皆様お元気でしょうか?
この、菅沼家ルーツは今まで、大変に勉強させて頂いてきました。ここのところ、「更新」されていないので少し気がかり、さみしいですのです。ぜひ、何とか続行させたい、そんな思いもありましてコメントさせて下さい。
年末に「埼玉県苗字辞典」に記載されていた各地(埼玉県内)を訪れてみました。
一番の目的は菅沼定盈の甥である菅沼新蔵(弥五左衛門)と言う者が三河より来て500石知行された(新城菅沼家譜に記載)その確認をする事でした。
時代は1590~1604年の間のことです。1590年は定盈が阿保に来た年、また1604年以前に新蔵は亡くなったとされています。
郷土の歴史研究をされている先生にお聞きしたところ、本庄市の児玉町吉田林地区に536石の菅沼三五郎の記録がありました。
この三五郎のことは以前このブログ内にもあったと思います。ただ知行されたのは1625年~の事で上記時代より少し後でした。彼の子孫は幕末に上野の山に陣をとった「彰義隊(しょうぎたい)」の副隊長クラス「頭並(かしらなみ)」だったそうです。
と言うことで「新蔵」ではないようです。なぜ、新蔵にこだわるかと申しますと、先祖かも知れないからです。
あと、定盈の領地は阿保8000石、忍(おし)2000石とありましたので、とりあえず行田市の忍城址を初めて訪れました。
それ以上の調査は時間切れ(寒さと疲れ?)で、すすみませんでした。新蔵は定盈に召し出されたそうですから、その領地の一部を知行と言う事かもしれません。
次に、本庄市児玉町の下浅見「には「真福寺」があります。ここは信州伊那出身の「朝日寿永」の菩提寺だそうです。1603年よりこの地を領していたようです。
注目すべきは、この朝日氏と共に信州より移住して来たのが「菅沼園右衛門」です。彼の父は「菅沼弥次郎高房」とあります(埼玉苗字辞典より)が、この高房とは「菅沼定忠」のことで、つまり、設楽原・長篠合戦で武田勝頼についた菅沼宗家「田峯(だみね)」城主と言う事です。
定忠は合戦で敗退後、現飯田市の知久平(ちくだいら)にて処刑されたと聞きますが、そうではなかったようです。この時、知久平城主は後に、吉井に移封された菅沼定利(さだとし)、定忠のいとこでした。
信州伊那には定忠が隠匿していた場所があり、お墓(高房)があり、ご子孫がいます。それは下浅見も同様のことでした。
さらに、この定忠の子孫は、このブログでかなり以前ですが、静岡県湖西市の「岩松寺(がんしょうじ)」の物語りを投稿しました、その付近一帯に集中している菅沼姓、先祖は定忠の娘(良姫)と言われています。
このようにして「菅沼家ルーツ探索の旅」がとてもワクワクして来ました。
ではここで一旦止めます。
山口修はどうやら、当家の親戚になるかと思われます。
山口家の分家の方が渋川におられますが、山口家の家系譜や具足、刀、籠等を大切に保管されています。
当方は前回貴方様が投稿された山口図書の末裔になります。
貴方様にとっても、先祖解明の足掛かりになる事が出来れば幸いです。
暫く投稿がない様ですので、それだけが気がかりです。宜しくお願いいたします。
明治維新後、加藤源左衛門の時
宦官のとん等の佞言により没落し
供養もできない状態になっている。
私にとっては英霊であり先祖である。
以下の文読まれたし。
本國不知生國参河
山本内臧(草冠)頭成本
姓 源初名對馬守道号道吸
とある。
源の初めの名前と文献があるため、大伴、藤原、源、平全ての長者だった人物がいたと思われる。
(めがね十二年先におらんだかぴたんよりもらい申候外の外である。長者であれば家紋は彼の遠江守。名を日本に上。誉れ八州に振。此時某打ちめくり。次第不同にうちなかすまくのもんをそかそへける。資はそのおくり名である。)
元陳、難波田憲堅、具英、具高、具和、具近、具挙、元以、旗本一時
波多と名前があるため下記の通り滝川氏も同様。