私は今曽野綾子著の「救心録 善人は、なぜ まわりの人を 不幸にするのか」を読んでいる。
そこで面白い言葉を見つけた。
時流に流されることの効用 というテーマで
正直に言って、今日、家庭の主婦でいながら社会と結びつこうとすることは、正直にむずかしいことである。毎日の生活は大切なことなのだが、何か当たり前の仕事みたいになってしまう。それを偉業だと言ってくれる人もなければ、経済的に特に評価してくれるのでもない。自分の行為を信じるには、私の場合、多少とも神がかりになることで、、、つまり、神がそのようにすることを命じているのだと思うほかはない。 (中略)
私が小さい時から祈ってきた聖イグナシオの祈りに、
「我が知恵、わが記憶、また我が意思をことごとく受け入れたまえ。それらはすべて主の賜なり」という一節があった。
えらくいい子になったように見えるので、この精神を別の言葉に翻訳すれば、
「わては何も悪うないでぇ。こうなったんは××のせいやァ」ということである。 (P99)
私は笑ってしまった。「本当だなー」と思ったのである。
実は私もそのように思い、四十年歩いてきた。
人には「開き直っている」と言われながら、、、
それどころか「わがままで、勝気で 根拠のない自信家だ」と私は自分のことを思う。
「あんたそれでもクリスチャン???」と言われながら、「そうよぅ!! だから誰でも信じれば救われるのよ」と言ってきた。
曽野綾子さんの本は本当に面白い。。。
だからこう言うんですよ
クリスチャンの楽天家とね フフフッ
神様がそうおっしゃってるんですね?
ちょっと気が楽になるかも?