この地とともに。
しんくうかん
第326話「距離」
鼻をつままれてもわからない真っ暗闇。
「母さん明かりが灯っている? 誰かいる??」。「狐火だ!いいから早くしなさい」。
眠そうに、いつものことだ―と当たり前のように云うお袋、“腹が痛い”と夜中に騒ぐ私を、住居向かいの厠までは面倒と玄関先で用を足させた。一息つき、しゃがんだまま顔を上げた先の暗闇にチカチカ、ボーと光るものを私は見たのだ。
朝、外へ出て見ると東の方角に広がる畑の中に、ポツンポツンと根元から一㍍ほどのところを残した伐り株が立っている。
お袋は、「狐がその幹で体や尾を擦ると暗闇で光るのだ」と教えてくれた。
5歳のころ新嵐山の麓に住んでいた時の体験だが、彼らの姿を見たことはなかった。
母方の祖父は、「開拓に入った時、熊よりも困ったのは狐。夜中に、家(拝み小屋)に入って鍋の中身を食べる、頭が良くて、物音一つ立てずまともに姿は見せない」。
現在のところに転居してからは、郊外の畔道や川原で時々狐を見かけた。でも目が合うと、タッタッタと先立って歩き少し行くと立ち止まる、また振り向き顔を見る。それを何度か繰り返しサッと側らの藪に消えて、彼らとの距離が縮まることはなかった。
祖父は、「じっと顔を見るのは、今度会った時化かしてやる―と、覚えているんだ」。
昔、野生の生き物は普通に身近に居て人の暮らしの様子を窺っているが、姿はめったに見せない。つり合いは取れ平和だった。それは神秘で、我々は物語を育んだ。
この地で、カメラマンでご飯が食べられるようになったとき、彼らを撮影する要望は少なくはなかった。それで大いに苦労もした。
最後の秘境知床に、近代の知床大橋が完成。ウトロの民宿から、撮影してほしい!と依頼があった。日々民宿泊する都会の若者であふれ、「パンフを作る」と云う。今思えば、秘めるこの大地と人の生活との接点が宿の中では見えたのだろう。朝、モデルの客と宿主を乗せた私のジープはカムイワッカを目指す。と、湯の滝の手前で車が列をなしている。降りた先を見ると、道脇に物欲し顔の狐が2匹ちょこんと座っている。
「うわーかわいい」金平糖を掌に載せ差し出すモデルたち。彼らは躊躇なく咥え、カリカリと音を立て旨そうに食べる。「撮って撮って」、宿主が叫ぶ。
一週間撮影。オジロワシや釣った魚を上空に放るとカモメがさっと咥える、単焦点の広角、標準レンズでモデルを入れ人と野生の景を、さほど苦労しないで沢山撮った。30代のときだ。
野の生物が市街地を駆け回る動画が流れ、視聴者の撮る見事な野生の画が、日常普通に見る今、人間も彼らもお互いにリスクは高まっている。
微妙に釣り合っていた垣根はもうすでにない。が、見ようとするほど神秘は奥へ奥へ引っ込んで、薄っぺらくなっていく気がする。