この地とともに。
しんくうかん
第251話 「共生(棲)・共存かはたまた・・・」
久しぶりに笑えるお笑い番組を見ていた。
隣で一緒に見ていた女房は突如スクッと立ち上がり、テレビのリモコンを手に取りボリュームを一気に下げる。
何にごとだ!!女房の顔を見る―と、隣の仏間の戸をあけ放ち耳に掌を当てて「お父さん―何か聞こえる…。」声を潜めているつもりらしいがあきらかに普通の音声だ。
以前から“気になること”もあったので、音がするというところで息を殺し耳を澄ますが何も聞こえない。
気になる事はふたつ、ひとつは朝仏壇に手を合わせ居間にもどるとき畳の一か所がポコッとへこむところがあった“気がした”ことと、10月女房がひざの関節の手術とリハビリのためひと月半ほど入院したとき、台所の掃除をしていてこげ茶色の米粒様なものが―「なんだ・・・」
もうひとつは話が夏までさかのぼる。
真向いのアパートのオーナーが変り改築が始まり、以前入居していた住人の残していった大量のごみを業者が外へ出していたとき、孫が走り回る鼠を見た!と云うのだ。
「入ってくるかもしれないぞ!!戸を開け放すな!!!」と云い渡していたのだが、女房は隣家に住む孫たちを見かけるたびにベランダの戸をあけ放ち『どこ行くのぉー』とか声をかけ、そのまま開けっ放しにしている。用があると玄関口ではなくベランダから出入りする孫たち―と、気にはなっていたのだが…。
女房は「昨日の朝も音がして、足でどんどんと畳を踏みつけると音は止まった」と。
仏間の畳の縁を足の裏でグッと踏みつけながら見て回る。と、一段高くなった床の間との境目が異様にへこむ。
畳を持ち上げると、何と幅40センチ奥行き30センチほど上側のござ部分を残し中身がごそっとかじり取られ、食いちぎった畳屑に混じってあの茶色の米粒様なものがあった。
このまま畳がなくなってしまうと困るので、とりあえずホームセンターで鼠の嫌う匂いスプレーと猫いらずを買ってきて、鼠が出入りしていると思われる穴をふさぎスプレーを周囲に噴射する。
しかし、普段から「野生との共生・共存を考える」ことを信条としているわたしにとって、家鼠は野生なのか!?
共生(棲)は今のところ害はあっても利は考えにくい。が、新年の干支との共存は吉報か厄か、猫いらずは使うのを躊躇しているが、スプレーをあっという間に使い切った女房は迷うことなく使うだろう。
第250話 「不慮」
弟を訪ねた帰り道、国道は平日にもかかわらず込んでいた。
師走は何かにつけ気忙しく、いたる道々で往来する車は多い。
数台が連なって、断続して走っている前方車のブレーキランプがチカチカと赤く光って道の中央で停まった。
“どうしたんだろう。事故かね…”助手席の女房がつぶやく。
わたしの車がどんどん近づくのに前の車はブレーキを踏んだままだ。
直線道では先に何台停まっているのか!?何があったのか全く状況が分からない。
間もなくして恐る恐る避けるように、一台がそして後続の一台と次々と右車線にふくらんで前の車も行った走行車線の真ん中に、前両足でふんばって、潰れてぺしゃんこになった下半身をズルッ、ズルッと引きずり、それでもなお横切ろうとしているキタキツネがいた。
不運にも、道を横切ろうとして先頭を走っていた車に轢かれたのだろう。
以前は轢死したキタキツネをよく見かけたが最近はほとんど見ていない。
キツネだけではない、煎餅のようにぺちゃんこに潰れた蛇やカエルを時期になるとよく見かけたものだが・・・。
個体数が減っているのか!?または学習して世代交代のたびに代々伝わり、ちょっとやそっとでは道には出てこなくなってきたのか…いやいやそうではあるまい。野生の生き物が、人間さまが自在に付けた網の目のように走る道を、横切ることなく移動することなど不可能に近い。道だけではない海や空、いまや宇宙空間までもが我々が作り出したありとあらゆるものが走り飛び交っているのだ。
だから彼らにとって、いわば娑婆に出ることはもはや“不慮の事故”ではなく、事故に遭うのは日常で、それをかいくぐって生き延びることは稀、すなわち“不慮の出来事”なのだ。
現場を横切るとき、対向車に気づかいながらスピードを落とし首を伸ばし脇見をするも、幅ある女房でよく見えない。さらに背筋を伸ばしのぞくと、確かではないが、苦しそうに開いた口からだらりと舌をだし、前足の爪を立ててむごたらしい下半身を引きずり、満身で道の際まで行こうとするキタキツネ姿が見えた気がした。
いたたまれなくアクセルを踏みそこをすり抜け、バックミラーを見る。
もがくキタキツネを避け、後続車も一様に同じような動きをしている。
子どものころよく祖父母から“騙された”話を聞かされ、ずるがしこい動物のイメージがこびりついて、キタキツネはあまり好きな動物ではない。
この一連は世の常…だがなんとも云えず悲しかったナ。
第249話 「看板に偽り・・・」
胃を取って3年が経過した。食べ方にも随分と慣れてきて日々結構な量を食べていると思うのに、体重は57-58㎏で一向に増えないし、腹もへこんだままだ。
病気になる前まで来ていたスーツやジャケットはことごとくぶかぶかで、皺くちゃの顔に薄くなった頭、筋だらけの首筋と相まって見るからにみっともない。
高齢の域に入ったのだからどうしようもない―と思うものの、個性ある生き方を追求している我としてはこのまま捨て置けない。で、「昔やったスーツ残っていたら返してくれ!」すると二人の弟が、「大方は投げた」と言いながらも何着か持ってきた。
よもや―と思っていたが小躍りする。
あのツイードがあったのだ。もともとはスーツだったのだが、ズボンはきつくなったので投げたと云う。この時代のツイードはもう手に入らない。多少重いもののまったく風を通さず厳寒期にもコートなんかはいらない。
何度も手を通し、洗濯を繰り返し40年を経た今も型崩れなく、正に「看板に偽りなし」。
思っていることとやっていること、また他人の見ているところと往々にして食い違いが生じる。それだけにビタッと合うと本当にうれしい。なかなか少ないことに想えるが…。
極端にずれていない限り、時に口で言い含めて、心のどこかでどちらかが妥協するからだろう、時間の経過とともに納得しているわけではないが大体は治まったようにみえる。これが―考える動物となった人間―の大きな特徴なのだろう。
そんなことからか、我が身を諌めるように―と先達者が様々な諺を生みだし、自信のある人は、それらをもじって○○語録なるものを世に出すのもその類と思う。
自在に・・・いやときには勝手に変化する“命=心”は、ほとんどがどんどん自分の都合のいい方に持って行く。それに大いに翻弄され、振り返ることなくいると知らないうちに歯車が外れ、とんでもない状況に陥ってしまうこともある。
その深奥はやはり『無私』が要で、いろいろ左右する発端なのかもしれない。
もう今年も残りわずか。ものすごい勢いで日々が過ぎ去る。
このままいくときっと、我が寿命もあっという間に尽きるのだろう。
この先は「中身も表も同じであること」を揺るがぬ信条としていこう―と。が、よく考えるとこれまで決意した心情が多すぎる。
どこかで整理し一本化しなければ…。
第248話 「謂われ」
物心ついたころだろう。よく本を読んでいた記憶がある。
白内障が進み高齢化になったいまは中々読み切るのが難しいが本好きに変わりはなく、本棚から分厚い伝記物を取り出しては拾い読みし机の上に置いておく。
時時目に付き元の場所にしまうもののまた―と繰り返していて、机の上はいつも上積になった本が鎮座する結末となる。
その本棚の隅に安易に取り出さない3冊の本がある。
掛川源一郎のアイヌの写真集が2冊、もう一冊は幼年向け昆虫図鑑。この3冊はケースが劣化しボロボロになっていて、取り出すたびにボール紙でできたケースがポロポロと崩れるので今はめったに手を付けない。すなわちわたしにとってはとても大切なものの一つ、いや三つなのだ。
昆虫図鑑は昆虫採集に夢中になっていたとき母親が買ってくれたもの。
奥付を見ると「昭和34年第2刷…」と、60年前出版され写真は一枚もなくすべて細密画に近い絵で描かれ、図鑑と云うよりは昆虫物語でこの本をどれだけ開いて読み込んだ事か!
A4サイズ140ページの世界がわたしにどれだけの夢と希望と自然界への憧れを膨らませてくれたかは計り知れない。その中でひときわ心魅かれたものが“ギフチョウ”である。
―京都嵐山に多く生息し・・・-
父親の実家に遊びに行ったある時のこと、叔父に嵐山のことを話すと「嵐山・・・お前の生まれたとこのすぐ近くにもあるベ―」と。驚いて「えっどこどこ」と、聞き返すと雨山の向かいにあるという。
わたしは芽室の新嵐山(雨山)の麓で生まれ育ち、5歳のとき帯広へ出てきたのだ。
母親に頼み込んで、叔父の運転する小型トラックに母親と乗って嵐山へ向かう。
敷いたばかりの砂利道だったが、びっくりしたのは砂利と云うよりソフトボール大ほどもある石がごろごろしていて、車が大きく左右に揺れてしょっちゅう飛び跳ねる。着いたところは、道を挟んだ新嵐山の真向い、美生川のほとりで、対岸の切り立った崖の真上はコロボックル伝説の残る丸山チャシ。なぜここを嵐山と云うのかは叔父にもわからないらしい。
カメラマンになってから何度もこのチャシに登った。
早春、頂から望むと雪を抱く日高の山並みと広がる平野を美生川の流れがキラキラと陽を受けて光っている。目を下すと、ところどころ苔が覆うほぼ垂直の崖のあちこちにエゾムラサキツツジが散りばめたように開花していた。
間違いない!! “嵐山”だ。
第247話 「復活」
ここにきて撮影の仕事が増えている。
撮影は、企画の補佐的に自分で撮影して商品にする―といった状態だったので、ここ何十年も撮影料をいただく仕事はゼロだ。
だから増えたのではなく新たに“復活”と云うことになる。
山好きのわたしは、高校生になったある時「俺はカメラマンになる。そして仕事として野山を駆け廻るんだ!!」と心に決め写真学校へ進学上京する。しかし間もなく、都会の華やかで優美な環境にがっつりとのみこまれ表面は写真家を目指す形をとっているものの、内実勉学はそっちのけ状態で遊びほうけて1年は過ぎた。
2年めに入り報道写真学科に進む。
著名な報道写真家三木淳氏の講義を受け衝撃、奮起してジャーナリストへの道への舵を固める。
でもやはり心意気だけで勉学は長くつづかず、結局だらだらとした日々を送りあっという間に卒業をむかえる。
でも運が良かった。
偶然に偶然が重なり新聞社でカメラマンとして2年、広告・商業写真を生業に19年、そして思い通りに十勝の野山を舞台にどっぷりつかり、その成果物を世に送り出しつづけ、写真撮影にどんどん枝葉が生えて今の基礎を固めた。
仕事の幅が広がると、写真を生業とするものも仲間に加わり、現役時代の弟子たちも次々と独立。写真事務所を開業するようになって、自然とまた意識的に、撮影と云う仕事は遠ざかり30年にもなっていた。
それがここにきてまた写真撮影だけの仕事が舞い込んで来たのだ。
面白いことに撮影を終えてパソコンに取り込んだ写真を整理していると、悪い癖も、いいところ!?も“むかしのまま”と思えるところだ。
デジタル化で現像待ちもなければ、失敗したか!!の不安もない。結局、機械以外は何の進歩もなかったことなのか。まあ後退もしていなかったようだけど…。
そろそろアメマスだな―とお気に入りの川へ出かける。
1頭目、ラインを引き上げようとしたそのとき根がかり・・・と、まもなくグーンとラインが深みへ引き込まれた。
ややして水面に顔を出したのは、以前と変わらない精悍な顔つきの60㌢近いアメマスだった。ここ数年まったく遡上が見られない状況だったのに復活か!?