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第349話「わたし的とかちの植物嗜考・エゾヨモギ」

「むかし餅や団子にはヤマハハコを使っていたが、数が少ないので、どこにでもあるヨモギに取って代った」と師匠、他では聞かない話で大事にしている。が、そのどこにでもあるヨモギに、わたしは二度も命を救われているのです。

9月に入って、北海道に上陸した二本目の台風は道東地方を直撃夜通し荒れ狂うが、陽が昇ると雲一つない快晴。風は強いが、予定していた3泊4日の取材を決行する。

倒木を避け、退かし、湖畔の眼鏡橋の袂に着いたときは昼を過ぎていた。

ベースキャンプを設営ご昼餐、師匠自信作の五味子酒で乾杯。

“夕飯のおかず、きのこを探すぞ!!”

湖岸沿いにつづくエゾ松の森は、台風あとで湿り気は十分、勇んで分散し踏み入るものの予想は外れキノコがない!

目の前に、風で倒されたべろりと皮がむけた巨木が横たわる。よじ登り飛び降りる一瞬、茶色い渦巻き模様が目に映る、むけて落ちた樹の皮か!?…。と、あぁぁぁ、“砕けた蜂の巣だ”もう遅い!!前のめりになった躰は止められない。

巣が壊れ、猛り狂うオオスズメバチのど真ん中に飛び降りちゃった。

“ごぉー”たちまち足元から湧き立つ黒い唸りが、わたしを襲う。

 踵を返し、横たわる樹をまた乗り越え、駆け出す。

ヴォ~ン、不気味な羽音が鳴り響き、取りついた蜂が腕、体をモソモソと這いずり刺しまくる。シャツは破れ、長靴は裂け、擦り傷だらけの満身創痍で森は抜けた。

「湖に飛び込むしかない」。振り返ると蜂の姿はなかった。夕暮れ迫る静寂にことさら、ガンガンガンと波打つ痛みが頭の中で響く。全身に五寸釘を打ち込まれているようだ。

私―ヨモギを採って来てくれ!!仲間―ヨモギ!? 今時期あるかな??

仲間は、かき集めた痩せたヨモギを石で擦り潰し、刺された両足の太もも、両方の二の腕、掌、頭の天辺と残った針を抜き何度も擦りこんでくれた。

ただ、髪が濃い頭頂部(当時)は中々塗り込めなかったが…。

翌朝、わずか患部周辺が腫れているが痛みは半減、で予定通りに取材を終え無事帰還する。

師匠―顔色を見て救急車を呼ぶか!?と思ったがヨモギ力すごいね。

今から5年前、やはりキノコ採りで、スズメバチの巣のある枝とは知らずに揺さぶり刺される。この時は抗がん剤投与中で、そのおかげか強い痛みは感じなかったが、“一度刺されると危ない!!”と聞いていたので焦る。

しかし、藪を出て2時間以上はかかる病院はあきらめヨモギで対処、「どこにいても痛い!は変わらん。」ならば、とキノコ採りを続ける。帰ったときにはさほど痛まず、翌日もその後も、痒かったが大きく腫れることはなかった。

師匠も改めて知ったヨモギのちからは絶大です。

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第348話「わたし的とかちの植物嗜考・ノビル」

子供のころはいつも腹を空かせていた。

学校が終わって家に帰っても、年寄りか病人を除いた大人はみんな働いている、ぎゃあぎゃあ走り回るのは隣近所の子どもたち。その人数たるや近所だけでも大変なものだ。

住んでいた三戸長家の、隣もその隣にも中学生になるお兄さんがいて何かと面倒を見てくれた。借家の裏手はもと川が流れていたらしく、深いところで1㍍ほどもある流れの跡が東を流れる札内川へ途切れ途切れにつづく。

雪も解け、薄茶一色の道端にも黄緑色の新芽がポッポッと顔を出すようになったある日、隣のお兄ちゃんが剣先スコップをその斜面に突き立てている。

やがて掘り出し束ねたのは、ひょろひょろとしたニラのようなものと根が着いたままのタンポポだった。

丁寧に泥を洗い流しタンポポは根ごと適当な長さに刻み、フライパンに油を引き炒める。ジャー、香ばしい美味そうなにおいが部屋に満ちる。

根がラッキョのように膨らんでいるニラのようなものは、さっと、鍋に沸かした湯にとおすと根を切り離し、上の方を10㌢ほどに刻む。

それらをドンと丸テーブルに置き、大きな鉄なべに焚いてある麦飯を茶碗に盛ると、食え。タンポポはちょっと苦かったが油との相性が良く美味かった。ニラのようなものは醤油をかけたが子供の口には合わなかった。特にラッキョのような根は、味噌をつけて食べるのだが噛むと辛くて、ご飯をかきこみなんぼも噛まないでのみ込んだ。

でも腹いっぱい食べて大満足。夏は庭先に植えてある茄子、トマト、キュウリに裏から掘ってきてすりおろした山ワサビ(西洋わさび)をつけて食べる。

日が西に傾くと、風呂を沸かし親が帰ってくる前にガキどもでわいわい大騒ぎで入るのだ。

風呂場も桶も水を汲み上げるポンプまで、みんなお兄ちゃんたちで造ったのだ。物質的に恵まれてはいなかったが豊かで幸せだったと思う。同級生には、学校が終わると納豆を売り歩き、朝は新聞配達の毎日、のものもいた。

すでに亡くなったものもいるが70を過ぎた今、堂々と胸張って真摯に生きているようだ。

そんな姿に会うと嬉しくなってきて“俺もまだまだ頑張らなきゃ”と、思うのだ。

あのニラのようなものは間違いなく「ノビル」。どれほど周囲にあったのか分からないが、美味いと感じる歳になったのに今はほとんど見かけない。

繊維質が強いアサツキは中々噛み切れないが、歯ごたえと上品な辛みの相まった根の膨らみは絶品。

来春はしっかりと探して酢漬けも堪能しよう。

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第347話「わたし的とかちの植物嗜考・ツリガネニンジン」

 

 

ツリガネニンジン

私的とかちの植物嗜考

youtube#video

 

 

まだ9時前だというのに、気温が上がると朝っぱらから元気なエゾゼミは、もう盛りを過ぎたのか。

あれほど耳障りだった鳴き声も今日は気にならない、そういえばまもなくお盆だ…。

そんなころだろう、ツリガネニンジンが開花するのは。

ごごの日差しを受けて汗ばむ身体に、風が心地よい・・・でも、何となく秋を感じさせる。

 

春、トトキと云われる山菜ツリガネニンジンの若芽。この時期似たような若芽は多いが茎を折るとすぐにわかる、特徴はにじみ出る白い乳液

“極上”の山菜も食べなければただの雑草で刈るしかない!!」と、ネットで販売もしている。間違いなく美味い!!しかし、もてはやされる本州に比べ、十勝ではなじみが今一つの気がする。

そんな山菜は結構多く、ゼンマイ、コシアブラ、ハリギリ、カキドオシ…。

またアサツキ、ノビル、セリなど、本州では野菜、が、こっちではあくまでも山菜、販売されていないのもある。

アイヌ民族いがい、私たちは本州から移民の末裔、文化が違う―ではちょっと乱暴すぎる。

 

ある時女房が「こっちには美味しくて、肥えている山菜が沢山あったからでないの」

・・・なんか納得。

 

いくらでもある!!と云っても所詮は野生、必要以上に採るとバランスは崩れ、たちまち枯渇する。谷内を好むツリガネニンジン、生息域も開墾地となって追い打ちをかける

 

花が枯れるころ大きくなってくる根は、ニンジンに似ている

朝鮮人参と変わらない薬効がある」と、師匠には教わったが、―それほどの薬効はない―という学者も。

でもその方がいい、自然に任せ放っておいた方が…いつまでも、身も心も豊かな大地でいられるのだから。

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第346話「わたし的とかちの植物嗜考・タラノキ」

初対面は、「とかちの山菜ガイド(1983年・昭和58年刊行)」の撮影の時だった。

カメラを手に、芽吹きが始まったカラマツの林内を山菜・薬草の芽出しを探し歩いた。

カラマツ林の林床は何故か下草の少ないところが多い。で、有用な植物やキノコが群落する。低い目線での撮影もしやすく、思わぬ穴場を見つけることもある。

案の定、背丈ほどのタラノキが群生している。が、芽が出ただばかりでまだ早いなか、撮るのに具合よく伸びたものを一本見つける。

撮影後、指で茎をつかもうとして、あまりに鋭い棘に躊躇した。

山菜という植物に興味を持ったのは、カメラマンを生業とした撮影の対象としてで、30歳前の私はあの独特の苦み、エグミを、“美味い!”と歓じるにはまだ至っていなかった。

でも女房から、「お母さんがタランボの天ぷらを食べたい!と云っていた」と聞いていたので、棘棘の間を恐る恐る右手の指で挟み茎を引き寄せ、左手の指で先っぽの芽をもぐ

痛っ!!

芽の根元は細かい棘が密になっていて、もいだ時思いっきり棘が指に刺さってしまった。

ジャンパーのポケットが膨むほどは採れたが、血のにじむ指先を舐めなめ車に戻ったのだ。

それからは車にはいつも、撮影道具と一緒に針金ハンガーとゴム手袋を用意した。

タラの芽は、「癖がなく美味しい」と云うが、採って時間が立つと灰汁が強くなるのかえぐい。少し伸びて葉が広がった方が時間が立ってもえぐみは少なく、好みだが旨味は増す

一時、雪の残る春先、群生するタラノ木の先がすべて、スパッと斜めに鋭利な刃物で切り採られているのに出会う。専門家の話では切った茎をハウスで栽培し、路地、天然物が出回る前に店頭に並べる―と云うことらしい。その時はタラの芽をほとんど見かけなくなって、枯死したが林立するところも見た

最近また、あちこちで立派なタラの木が芽を伸ばしているのを見ると、商売としては、あんぢょう(うまく)いかなかったのかもしれない。

連鎖して成り立つ自然の生産力は、目を見張るものがある。しかし、歩留まりは悪く限りもあって、“逆らう”と長続きできない―と云うことなのか!?

我々も同じ環にいるのに、きっとまたあの手この手で商売にしていくのだろう。

いちいちそんなことを考えて生きるのは極めて難しい。要はバランスなのだが、つり合いは私欲があると上手くいかない

自然体で考え、薬効も高いウコギ科のタラノキ、美味しい味覚も併せてもっと有効な活用を考えられないか―と常々思う。

晩秋、熟すとウドと同様に黒く色づく果実。

苦味、甘味が後からきて…えぐい、が体にいいはずだ

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