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第61話 「夏休み」


いま編集している郷土の本は、5年かけて十勝をあるいた風土記である。

イラストを描くのに撮った、色あせたスナップ写真があった。浅黒く健康そうな顔をした青年とおっさんたちが、“夏休みだ”という現地の子供たちと一緒に、駅舎のまえに腰かけ何やら楽しそうに笑っている。25年前の私たちである。

 夏休みもあと数日でおわりというとき、手つかずの夏休み帳を母親が見つけて「どぉするの―」と、こっぴどく叱られ、母親は隣に住む高校生のお姉ちゃんに「宿題をみてやってほしい」と、頼んだ。
「あの子は成績が優秀で、学年で〇番目なのサ」
お姉ちゃんの母親は、とりだした紙巻きたばこを首から下げたパイプに差し込んで火をつけると深く吸い込んで、顔をあげ鼻の穴からふーと美味そうに煙をだすと、わたしの親に自慢げにそう話すのを聞いていた。が、お姉ちゃんはほんとうにあたまが良くこころ根の優しいひとで、就職が決まったときも“親がふれ歩いた”のだとおもうが、
「管内でも一番倍率の高い公立高校を優秀な成績で卒業し、都市銀行に勤めた」と、町内で知らない者はいなかった。
次の日の朝、お姉ちゃんがニコニコしながらやってきた。そして休み帳を開き、1ページもまともにやっていないことにしばらくは声もなく、やがて教えながらつい「こんなこともわからないのォォ―」と。
問題の解きかたどころか、すなわち、云っていることがそもそもわからない。というわたしに唖然としたのだろう。
“とにかく勉強となるとまったく頭にはいらない”
わたしにとってはふつうのことが、お姉さんには理解ができないのだ。

わたしたちは、生徒の数もドッサリいた団塊の世代。分からないのがいてもそんなのかまっちゃいられないので、どんどん授業は進み、だから悲しいかな、わたしはどんどんちんぷんかんぷんになっていくのである。
でもお姉ちゃんの教え方は、とてもわかりやすく上手だったように覚えている。
休み帳は何とか進み、昼ご飯を食べたあと“一休みしよう”と、近くの堤防へ出かける。
堤防の草むらに寝転がって空を見ると、真っ青な空に白い綿雲がゆっくりとながれていた。
お姉ちゃんは、「この青い空をね。ジーと眺めていると目が良くなるんだよ」といって、瞬きもしないでずーと空を見つめていた。

お姉ちゃんの唯いつの悩みは、ものすごく目がわるいことなのだ。

たぶん勉強のしすぎだろう。

むかしはほとんどの家が100ワットの裸電球で、その下でなん時間も勉強し、また押しなべて貧乏だったので栄養も足りない。挙句に「メガネをかける女は品格が下がり嫌われる」と、若い女性は無理してメガネをかけなかったので、目はわるくなる一方なのだ。
お姉ちゃんの目は少し離れると、いつも「あんちゃま」と呼び遊んでいたお姉ちゃんの弟の悪たれ高校生か、小学生のわたしなのか分からないほどだからよほどわるかったのだ。
堤防は夏を惜しむように、あちこちで子どもや学生たちが遊び、青々とした流れに糸を垂れている人もいる。
いまその川沿いには、ゲートボール場はあっても寝転がって空を見上げるような草むらは見当たらないし、流れの川底はどす黒いヌルや藻がゆれて、川なかの石など見えやしない。

 ときの移ろいとともに、おおくは変わっていく。
でも、バカなわたしに根気よく教えてくれた隣のお姉ちゃんの優しさをおもい、
「誰にでも、いつもかわらずやさしく…」と、こころがけているものの、なかなかできていない自分に少しイラついている。

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第60話 「衰える」


何年か前から食べたものが、飲みこみにくくなり、そのうち
なにかの拍子に飲み物までが気管にはいってむせて、いつまでも咳こむようになった。
そういえば父親は、「誤嚥(ごえん)」がもとで亡くなったんだよな。

 「なんかさー。食べたものが気管に入って、いつまでも出ないんだよな」と、仲間がせき込みながら言っている。
もう、おなじ年齢の仲間の体はおなじような故障がおきるのだ。
べつに焦っているわけではないのに、ものを食べたり酒を飲んでいてむせるわたしに、いろいろと調べた女房は
「歯科医院で改善の指導をしてくれるようだよ」と。
どうやら、ときどき母親のところへ来る介護師さんに聞いたらしいのだ。
というのも10年前に亡くなった父親は、好物のアロエヨーグルトのアロエが気管に入り、数日のあいだ集中治療室で生死をさまよい、いっとき意識を取りもどし家族と数時間会話をしたものの、肺炎を併発。家族が交代で付き添った一週間ごの、女房がつく深夜亡くなったのだ。

個人タクシーをしていた父親は、大方三どの食事は自宅でとっていて、よくむせていた。また食べながらぼろぼろとごはんを下に落とし、当時飼っていた犬がそのことをわかっていて、知らない間に父親のご飯どきになると足もとにちょこんと座り、食べこぼすのを待っていた。
家事すべてを仕切ってそんなことをみていた女房は、私がせき込むたびに「父親と同じ症状だ」と、いろいろと調べたらしいのだ。
地域包括支援センターというところの専門員が来て、何点か質問をして
「いいですか。十数の問のうち三問以上当てはまれば、無料で指導を受けることができますから…」と。
聞くと、いま指導を受けているひとのほとんどが後期高齢者のようで、なおかつ脳梗塞などの病気で体の機能のどこかに障害を持ち、そのために満足な食事ができない。“飲み込みがわるい”だけで、あたま以外はほかに悪いところのないわたしのような者はまれなのだ。
なんとか三問当てはまるようにして、指導を受ける歯医者さんを決めたのである。
月に一回四か月のコースで、歯医者さんへ行くと
「口を大きく開けて、あーと大きな声をだしてください」と
先生
「馬鹿にしないで、もっともっとおおきな声をだしてください―」
<まるで小学低学年か幼稚園じゃないか>と、おもっているわたしのこころのうちを、当てたようだ。
そして
「口やのどの筋肉も他とおなじで、年齢とともに衰えるのです。だから鍛えもどしてやらなければならないのですよ」と、
なるほど

「先生―ということは死ぬまでこの訓練はつづけなければ…」と、わたし
「そうです」と、先生はこともなげにいう。

仕事をしながら思い出したように口を動かし、舌を出し、だれもいないのを見計らって声をだしながらふっとおもった。
もしかして「心(精神)」も同じく鍛えていかないと衰えるのかな!?
かつての生きるために必死になった時代と違い、物質面ではすべてが満たされる現代。
“心を強くする”って極めて難しい問題だなー、と考えるきょうこのごろだ。

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第59話 「ウソ」


いまの世“
ウソ”だらけ。と、いってもいい。それほど誤魔化しがおおい。公を筆頭に、経済人、学識者たち―と、あげればきりがない。たぶんいち部の人たちの仕業だろうが、いったいなんなのかとおもうことがある。 

ネットでマイナス30度対応の某有名メーカーの寝袋を、悩みぬいたすえ購入した。
悩んだわけは新品なのに価格が三分の一ほどでそれに広告が、あまりにも某メーカーそのもので、ディスカウントページになんども登場し、それが私には不信を抱かせたのだ。
でも「残り在庫わずか」に負けてしまった。
これまでも取材用に酷寒対応寝袋をネットで買った。が、満足な商品ではないものの、ウソでもなかった。

数日ご、とどいた包みを不安のなか開けてみる。と、収納袋はまさに某メーカーそのもの。袋から取り出した寝袋は、見た目にはダウンとしてのふくらみがあるものの、マークは某メーカーをそっくりまねたみるからに雑なつくりで、ごわごわと肌触りのわるい内側の布に縫いつけた、体熱を逃がさない襟巻は、全体の四分の一のところにとり付けてある。
いくら足の短い私でも四頭身では役にはたたない。
発送元をみると中国語らしい個人名が…。
仕方がないので返品はあきらめ、そのよる体感テストをしてみることにした。
真冬の古いわが家の朝は、部屋のなかでも限りなく氷点下に近くなる―でフィールドでなくとも体感テストは家のなかでバッチリなのだ。
眠りについたとき全く問題はなかった。が、明け方がたゾクゾクと足もとから迫る寒さで目が覚めた。気温はマイナス1度。
予想通りの結果である。

となりに住む母親の、もう何年も繰り返すいわゆる“まだらボケ”がまたはじまった。

こころにどんどんふくらむ妄想は、周囲の特定のものを犯人に仕立て上げ、異常に追及するのだ。
すなわち、まわりからすると「頻繁にウソをつく」となるのだが、本人は被害者として固く信じ、むやみに空想は増殖するのだからたちに負えない。
こちらが言うだけ、火に油を注ぐようなものである。
我々子どもたちはもの心ついたころより
「うそつきは泥棒の始まりだゾ」
「七度尋ねてひとを疑え」
「オオカミ少年になるぞ」
と、ことにつけ口うるさく聞かされていたのだが―。

 ときに大きな計画をたて、そのとおりにならなかったら―ウソをつき騙したことになる。
つまり…紙ひと重である。
人間はかんたんにウソをつける動物なのだ。

だから、その「根っこにある生き方」が大事なのかもしれないな。

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