この地とともに。
しんくうかん
第445話「私的とかちの植物嗜考・ルイヨウボタン」
―言いにくい―
「キノコもそろそろ終わりかな」
そう思うけれども未練がましく出かけたのだから、10月も末のことか。
キノコも見当たらない、ほとんど葉の落ちた乾いた森を当てもなく歩く。
薄暗い谷間に入る。と、大豆ほどの紫色の沢山実を着ける茎が何本もある。
〔こんなのあったかな!?実りは良さそうだが…〕
これまで気が付かなかったのか、いつも来るところなのだけれど初めてだった。
多分、この時期にもなると午後の一時をのぞき、ずうっと陽は当たらずに明日になる。
日向でゴロゴロしていたい時期なのに。ちょっと過酷だな!!
でも、そんな環境だから種は存続できるのだろう。
というか、長い時間をかけて適応してきた―のが自然なのかもしれない。
〔見た目は甘酸っぱくて旨そうだ〕
触感も味覚に大きく反応するようで、摘まむと硬くて、食い気はどっかへ飛んじまった。
葉を見て根元周辺を観察して、果実を持ち帰ったが名は分からなかった。
翌年、“花が咲くであろうとき”に行くと、花らしきものも見当たらない。
〔まだ早いのか…〕
花芽の紅い花弁がのぞくクリンソウ、年々確実に花株は増えているが、谷地は枯れてきて乾燥も進みこの先は分からない。それで必死なのか。
中心を流れるか細い沢。両岸の段差を見ると、大地を肥し、多種な植物を育んでいるようだが、水中に生き物の気配はない。
下草はシダ類で歩きやすいのだけれど、ずんずん奥へ行くほど、何か変に不気味だ。
幹の太いハルニレもあるが大方はヤチダモで、素人目だけれども幹の太さから推定100年。すると、入植ご一度伐採した二次林ようである。
奥まった処にフタリシズカの群落がある、シャッターを押して周りを見る。
広がる薄い緑色の葉。その上にはっきりしない薄黄色の花がある。調べるとあの実の花でルイヨウボタンという、名前も言いにくそうな一風変わった花である。
ここは、実を見つけたところから尾根一つ越えた谷間。
花はぼやけた色だが甘そうな果実で誘い、家族を増やしているんだな。
それにしても目を凝らしても何か、ぼやける。何度も眼をこする。眼(脳)が悪く、周囲の環境との色合いの調整ができないのかも知れない。
「先生。何か、メガネの度数が合わないようなんだけど」
先生は言いにくそうに、「ずうっと検査結果はほとんど同じ。で、加齢でしょう」
頭はぼやけても新しい発見もある。寂しい気もするけれども自然なのだから仕方ない。
第444話「私的とかちの植物嗜考・エゾノウワズミザクラ」
―黴臭かったが―
だだっ広い平野がつづく。
橋を渡ると、生まれ故郷の田園の広がるなかを走る。
神社わきを走り抜けたときだった。
あけ放った車窓から、何とも言い知れぬ香気が鼻腔をつく。
スモモは終わった。はず…エゾノコリンゴはもうすこし先の、はずだ。
昨年あたりから、休みの日は女房を乗せて温泉を巡っている。
罪滅ぼしのつもりで温泉好きな女房への孝行。
結構喜んでいるようには思えるけれど、本当の処は分からない。
が、休憩室で待つ30分は、昔のわたしにはできないことでもある。
車の中にはほのかに甘い、香水とは違う、言葉で表すことの難しい、何とも言えぬ香りが漂う。どこかなつかしい、思い出深い気がする。
そうだ―。所帯を持つまえのことだ。ドライブをしていて、花の時期は過ぎたはずなのに、一緒にいるとそれは匂ったのだ。
若いころ彼女は、香水をほとんど使っていなかった、ように思う。
他の女性と一緒にいても香水の匂いがせいぜい。
この蜜のような甘い香りは、彼女以外で嗅いだことがなかった。
よもや昔に戻ったのか―それはないだろう。と、思っているうちに温泉に着いた。
温泉で洗い流れた、のか。わたしの花粉症がひどくなったのか。
分からないけれど、帰り道であの香りはしなかった。
翌週、山菜採りに出かけた森の中、おっっ、あの香りだ。
香りは歩くとどんどん近寄って、とろけるように甘い香しい匂いが包み込む。
枝葉をいっぱいに広げ、下から上まで隙間もないほどライラックのごとく白い小花の房をつけている。
エゾノウワミズザクラだ。
材にもならず雑木扱い。で、どんどん姿を消した。
鳥が黒い果実を好みあちこちで発芽したのだろう。春には花を咲かせるたくましい奴だ。
開花した樹々の香しき森は、生き物に力を与えてくれる。
それは現代人にとって、立派な観光資源だ!!と思うのだけれど。
しっかり“母さん”となっちまった女房。揚げ物や黴の臭いが纏っていた。
が、また家族が増えて空き部屋はすべて埋まっちまうという。
あの匂いはその前兆か―。
だがわたしは布団部屋で寝る顛末。でも、黴臭さは消えつつあるようだ。
第443話「私的とかちの植物嗜考・スモモ」
―わたしは…―
エゾ山桜とキタコブシが散る。と、雨山(新嵐山)も遠くの丸山チャシも灰色の山肌は一変する。春の紅葉である。
ピウカ川を挟んだ向いの庭先で、山裾の赤いトタン屋根の傍らにも、ポッポっと白い花の開花はスモモ、鶯の声が響くいかにものどかな生まれ故郷が呼ぶ思い出だ。
スモモは身近だった。「青い実を食べると赤痢になるぞ」と云われても、幹に登ってポケットをパンパンに膨らませて帰った。
赤くなってひび割れができても、甘さが勝ることは少ないスモモの果肉。
腐り気味のところに少し甘味を感じるくらいなのだから、食べるのはせいぜい1、2個。
潰れて果汁で、ズボンを汚すだけなのだけれども採ったものだ。
祖母もお袋も、床に広げた新聞紙のうえに仕入れた山盛りの、スモモより大きな色づいた実を、爪楊枝でへたをとっては一つ一つ瓶に入れている。
時期になるとはじめる、梅干作りだ。
残った実は、梅酒や砂糖漬けにしていたが、酸っぱいのが嫌いで子ども心にはうれしくなかったけれど、部屋中に漂う甘い香りは好きだった。
〈こんなにたくさんあるのになぜスモモは使わないのだろう〉
スモモは酸っぱいことから名がついた―と云われている。
あまりにも酸っぱいのか、うまく漬からないのかは分からないけれど使うのは梅の実。
結婚するとその仕事は女房の役割になった。
慣れた手つきで、黄色地に薄い紅色をまぶした梅の実のヘタをとりながら
「スモモは果肉が少ないからね!」
「どうしてほとんどの家がスモモを植えていたのかな」
「昔、“薬効がある”と―ウメの代わりになるか!?と思ったのかもしれないね」
原産地は中国で、花も樹もそっくり。
どうやって十勝へ根付いたのかは分からないけれど、スモモはやはり李だった。
どこか間抜けているのに、完璧を装う。
お金なんかはないのに、いい振りこく。
結局“自分ではないもの”を見せようとするからすぐにボロが出て、恥の上塗りをしていた気もする。
今はそんなこともなくなった―と思っているけれど多分、良いように忘れているだけだ。
今見掛けるスモモの樹は大方細い。
自然発芽した二代三代目だろう。
何があろうと“自分は自分”たくましく胸張って生きろ―と言っている、のかな。