この地とともに。
しんくうかん
第472話「私的とかちの植物嗜考・エゾノコンギク」
―ほっちゃれというけれど―
(美味い―あいつの飯がやっぱり一番だな)。
口いっぱいにほおばって食べる。幸せを感じるときだ。
釣り仲間で、大口の取引先の量販店担当の彼、偉そうに大股で事務所に入ってきた。
私の弁当をのぞいて大きな声で『何だ!ほっちゃれでねぇか!!!』。
途端に顔が熱った。
受付の女の子たちが、くすくす笑っている。
恥ずかしかったのではない。いや…少しは恥ずかしかったのかもしれない。が、何よりも女房が一生けん命やりくりしながら作ってくれる弁当である。それを馬鹿にされたこと、言い返してやれなかったことに無性に腹が立ち、ものすごく悲しかった。
ほっちゃれは、今や店頭では見かけない。
サケ・マスの来遊が海岸沿いみられるようになると、林立する竿をかいくぐって、スイッチが入ったように一斉に河川を遡上する。
大方はお盆を界に、十勝川千代田えん堤の下流域は遡上してきたサケ・マスがあふれかえる。
天空からは鳶、鷲が執拗に狙っている。
河岸の森にはキタキツネ、羆が、浅瀬にはタンチョウヅル、カラスが今かと待ち構える難関をかわし、激しい流れに逆らいやっと辿り着くと、身体をくねらせ尾びれで砂礫を何度も掘り続ける。
休む間などない。じわじわと死が迫っているからだ。
何が何でも次代へつながなければならない―ように見えたものだ。
ここ十数年サケが激減している。シシャモも同じだ。
今年はまったく見かけなかった。いや、ここ何年も。
雪解けが終わるとキュウリウオが真っ黒になって昇ってきたのも。
難しいことは分からない、けれどとにかく“住処”と云うものがなくなったのだろう。
住処がないということは、子どもを産み育てることはできない。
野生の生き物は、いつも生死の境で生きながらえる。人間にはもう失った感覚だ。
十勝川河畔の8月、ドボンドボンと跳ね、サケが背びれを出して遡るころ開花して、もう雪が舞うというのに咲いているのはエゾノコンギク。数は減っている―とおもう。
栄養不足と住処がなくなったのだろう。
紅葉が終わるころ、サケの屍が累々とする河畔は腐敗臭が覆い、あちこちでぐちゅぐちゅと音を立てて、びっしりと屍にたかってうごめく蛆は5mmにも満たない。
そんな光景はもう20年も見ていない。
何が豊かなのか分からない時代だ。
第471話「私的とかちの植物嗜考・スギタケ」
―助けられたのは―
スギタケ、ヌメリスギタケ、ヌメリスギタケモドキ、ツチスギタケ。
スギタケの仲間は姿かたちともに、よく似る。じゃあ見分け方はと言えば、出ている場所の違いくらい。
高校3年生のとき仲間と3人、夏休み全日を使って、日高山脈中央部山頂付近にあるといわれる、幻の沼を探検した。アイヌ民族の伝説で、海の生き物が住み「大水のあと昆布やワカメが流れてくる」。
本当なのか!!そんなことはどうでもいいのだ。とにかく「幻、未知」の目指すべきものがあればいいのである。
イワナイ川を源流まで詰めたところから出尾根を越える、サチナイ川の支流のまた支流の最上流大滝の上、鞍部にある。いつも霧に覆われ滅多に人目に触れることはない。
その年の夏はかつてない冷湿害年で、小麦が穂を出したころよりまったく陽が顔を出すことはなく、どよんとした低い雲が平地を覆い、そぼ降る雨の肌寒い日がつづいた。
バス終点の店で買い物をする。地元の人たちが薄暗い店内で世間話をしている。
「今年はセミの鳴き声も聞かんな!」「鳴かんで死んじまったのかね」
おばさんたちが時折ちらちらと我々を見て、目があうとすぐに話しかけてきた。
「その沼は聞いたことがある。だけどどうやって行くのさ。死にに行くようなもんだな」
確かに遠回りするように思える。けれどもすそ野は原始に近い森が広がり、目もくらむ急峻な渓が山脈の奥深くと続く所よりは―と、このコースを選んだのだが。
サチナイ側の沢に至るまで3日もかかっちまったが、イワナイ川は小滝の連続ではあったが、背尾根直下は階段状で登りやすかった。問題は、荷を軽くするため主食以外は現地調達としたものの連日の雨で、濡れて倍に重くなった天幕と衣類である。
また、野獣の臭気がどこまでもついてくるように、ずうっと鼻先に漂のも気になった。
その日の夜地面から、「うっ…うぅぅぅ」微かな嗚咽が伝わってくる。
真ん中で濡れなかった寝袋に、交代で寝ている仲間で、「家へ返りたい!ヴぅぅぅ」。
それからは毎晩泣いて、日中はすぐに座り込んでメソメソと。サチナイの支流も滝が多く下りは危険が伴う。仲間の荷を分けて背負い、抱きかかえるようにして滝を迂回する。
「このままでは危険だ」結局一週間目に、沢を伝い下山したのである。
その数年後、大学生パーティー5人がヒグマに襲われ、3人が命を落とす。
仲間を助けたつもりだったが、助けられたのかもしれない。
春から秋まで発生する、ヌメリスギタケモドキ蕗と煮ると相性がよく、質素ではあったが食は進み、力が出て随分と助けられた。
だが、ヌメリスギタケはもっとうまかったが、悲しいかな数は少ない。
第470話「私的とかちの植物嗜考・ヤマシャクヤク」
―まわり道―
偶然である。それだけに出会いは掛け値なしに嬉しい。一時であるけれども。
その日は朝からしょぼつく雨であった。
「こんな日こそ最適」と、飛び出したのは若いころの話。
いま相当躊躇する自分にじれったい。
肌寒い雨の日は、生き物の大方は家に閉じこもる。
だが、「こんな日こそ…」と、おなじく狙っている輩もいる。
だらだら決めかねる自分を追い出すように、家を出た。
狙っていた穴場から離れた空き地に車を停めた。
ワラビでパンパンのずっしりと重くなったリュックを背負い、ハアハア喘ぎ斜面を登ってくる帰りのことを思うのだけれども穴場は知られたくはない。荒らされたくはないのだ。ちょっとそんなところに、嫌らしさを感じるけれどね。
「もういいかな」持ち上げるのもやっとなほど採った。
痛む腰をかばいそっと背筋を伸ばす。ん…。谷の向こうのミズナラの林床、笹原に黒いツンツンとしたものがびっしりと見える。(ムラサキワラビじゃねぇか!?しかも、ふ、太い)
リュックはそのままに、間を流れる渓縁からのぞきこむと、水量は少ないが川底まで5,6メートルはある。傾斜も結構きつそうだ。
大きくなったクサソテツやヨブスマソウをかき分け、楽に渡れそうな場所を探し上流へ。谷間は狭まって来たが泥の傾斜で上り下りは一層困難な様子。だが大分離れたようなので渡ることにした。
案の定足をとられて、泥のなかに何度もつんのめって、ずいぶん時間を食ってしまう。
なんとか斜面にとりついた。が、地表を覆う濡れた笹に滑って僅かな斜面で何度も登っては滑り落ちてと繰り返す。ついにへたり込んだ先、笹薮の中に深紅の花冠が見えた。
初めて見た鮮やかな色彩に心が躍った。「園芸の花なのか」と。
「一株の筈はない。まだあるはずだ」周囲をていねいに探したがなかった。
ヤマシャクヤクは話では聞いていたが、何十年も見つけられなかったが、初めての出会いがベニバナヤマシャクヤクだったのだ。
まだ蕾である。2、3日後、開花の状態の撮影もした。だが、そのご毎年出かけて見るがヤマシャクヤクとの出会いはない。
遠回りは、近道よりもたくさんの出会いがあり、新しい発見が潜んでもいるのは必然だ。
分かっていても楽な近道を選ぶ。
久しくいっていないが今年は行ってみよう。
採掘されてはいないはずだから???な。