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ヤンキーズはまあ君依存症??!

2014-06-02 15:08:28 | スポーツ

「もしタナカが毎日先発できるなら……」 ヤンキースの田中将大に対する深刻な依存を現地メディアが特集
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140601-00010005-fullcount-base
田中が登板した11試合は9勝2敗。他の投手の先発時は20勝23敗。
ヤンキースはタナカ以外の部分で脆弱性を無様に露呈した ・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 凄いねぇ!!まあ君!!君だなんて失礼な位に成りましたね。
「まあ守護神」に格上げですね。

田中投手は「勝ち運」と言う凄いものを持っている強運の持ち主だから、お宝ですよ。
技術だけではこうはならない。

どんなに素晴らしい投球して、相手に1点もやらなくても、味方が打ってくれなければ勝てないのだから。

「沢村賞投手」の斎藤雅樹投手なんて、本当に素晴らしい投球をしているのに、彼が投げていれば安心しきっている様な巨人打線は、全然打ってくれなくて、たった1点しか取られてないのに「負け投手」にされているのを見た時には、打線のふがいなさに腹が立ったもんです。

私は巨人ファンでもなければ野球ファンでもないけど、斉藤投手のファンだったので、ほんと、イライラしたわ・・・・(^^;;




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メディチ家

2014-06-02 01:05:36 | 歴史
 ルネサンス時のイタリアにおける、芸術の守護者であった「メディチ家」

イタリアはエミーリア地方で収穫される葡萄、ランブルスコ種で作られる、とても美味しいワイン「ランブルスコ」の醸造元に「メディチ家」も有り、これが上質でリーズナブルで本当に美味しい♪
現代でも、ワインを通して一般人と繋がりの有るメディチ家。

フィレンツェの大公に成ったメディチ家は絶えたけど、現代まで血筋はしっかりと続いている。
・・・・・・・・・・・・・・・
13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されているが、それ以前の経歴や一族の出自に付いてはあまり明らかにされていないそうで、medici とは「薬」の意味なので、薬問屋か医師であったのではないかとされているのだそうだ。

 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360年 - 1429年2月20日)は、15世紀始めのフィレンツェのメディチ家当主で、一族の繁栄を築いた人物。ローマ教皇庁とのつながりを深め、銀行業で成功した。
その息子コジモ(1389年 - 1464年、コジモ・イル・ヴェッキオ)が父ジョバンニの築いた銀行業を受け継ぎ、発展させた。
1429年には父が亡くなり、メディチ家当主となる。1433年、政変が起こりフィレンツェを追放される。しかし翌年、反対派のアルビッツィ家が失脚・追放され、コジモはフィレンツェ共和国に帰還する。

メディチ家のフィレンツェ支配を確立したコジモはフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後ロ-マ皇帝にならい、「祖国の父」「pater patriae」の称号を贈られた。通称コジモ・イル・ヴェッキオといわれる(イル・ヴェッキオ il Vecchio は老人の意)。

コジモの孫息子ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)がメディチ家最盛時の当主でボッティチェリ、リッピなどの芸術家やフィチーノ、ミランドラら人文主義者を多数保護し、芸術・学芸のパトロンとして、祖父コジモと並んで、後世まで模範と仰がれた。古典の教養も豊かで祖父コジモの代に創立されたプラトン・アカデミーを主宰。自ら詩作や批評を行い、その文才は現代でも評価されている。

「パッツィ家の陰謀」
そのロレンツォ・デ・メディチと弟のジュリアーノを1478年4月26日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサの席上、フランチェスコ・デ・パッツィ(パッツィ銀行ローマ支店長)らが襲撃、弟は殺害されたが、ロレンツォは傷を負うが、かろうじて難を逃れた。

暗殺者らは市民にメディチ家への反乱を呼びかけるも失敗。捕らえられて即刻処刑された。パッツィ家関係者らへの報復は容赦の無いもので、パッツィ家当主をはじめ100人近くが捕らえられて、処刑された。
この事態にパッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス4世は激怒し、フィレンツェを破門し、ナポリ王国と同盟して宣戦布告した(パッツィ戦争)。
ロレンツォは大きな危機に直面したが、自らナポリに乗り込み、ナポリ王フェルディナンド1世と会見を行う。この勇気にナポリ王も感心し、和平を結ぶことに成功。
その後もしばらく不穏な状況があったが、1484年に問題の一端を担った教皇シクストゥス4世が薨去したため、事態は収束に向かった。最大の危機を乗り切ったロレンツォの支配体制は、この後、確固たるものとなった。

弟の遺児:ジュリオ・デ・メディチ(1479年 - 1534年)を引き取り養子とした。枢機卿となり、後にローマ教皇クレメンス7世となった。

三男:ジュリアーノ・デ・メディチ(1479年 - 1516年)
フランスの王族の娘と結婚し、フランス王フランソワ1世からヌムール公の称号を与えられた。これ以降メディチ家はフランスとの結び付きを深めていった。またレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザは、ジュリアーノの依頼により彼の愛人(コスタンツァ)を描かせたもの、とする説もある(通説ではジョコンダ夫人を描いたもの)。
ウィキ参照
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貴族の出でもないのに、フィレンツェの支配者に成ったメディチ家。
こともあろうに「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でのミサの席上」で暗殺しようとするなんて、キリスト教徒は人殺しは許されてない筈なのに、随分と血生臭い歴史を残してくれている。
十字軍遠征、魔女狩り=知識の有る女性が魔女の言い掛かりをつけられて、火刑にされたり、残酷なエピソードには事欠かない。

ダヴィンチが「男色の罪」で裁かれるところを、メディチが後ろから手を回して無罪にした、と言う説も有り、芸術と芸術家その人の「守護者」であった事は間違いのない事実らしい。

 芸術家とは金銭を生み出さない仕事なので、昔は貴族のお抱えにして貰うしか、食べる道がなかったし、現代だって、食べて行くのは大変な職業だから、こう言う「守護者」には大いに興味が沸く。

今もこう言う人達が居てくれたら、どんなに良いだろうか!?と思う。

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