根室市歴史と自然の資料館。根室市花咲港。
2022年6月14日(火)。
道の駅「スワン44ねむろ」を8時30分ごろに出発し、近くの春国岱へ立ち寄ってから、根室市歴史と自然の資料館へ向かった。根室市街地へ通じる高規格道路の上を跨線橋で渡り、丘陵地帯を抜けると花咲港に出た。岸壁に沿って通り抜け、再び丘陵に登ると資料館に9時過ぎに着いた。
入館は、無料である。根室見学の第1目標をノツカマフ1・2号チャシ跡、ヲンネモトチャシ跡の見学としていたので、リーフレットや見学情報の入手を期待した。自宅で事前チェックしているときに、見学上の注意があり、気になったからだ。受付でリーフレット類を探索したが、あるであろうチャシのリーフレットがなかったので、受付内部の事務室に尋ねると、無くなった、という返事であった。
つい、激しい口調になり、見学センターの役割を果たしていないと文句を言った。ないのは仕方がないので、展示を見学していると20分後に、リーフレットのカラーコピーや見学用資料をクリアファイルに入れて持ってきてくれたので、申し訳なく恐縮した。
建物は、レンガ造りで1942(昭和17)年に大湊海軍通信隊根室分遣所として建設された。戦後は花咲港小学校として利用されたのち1989年に移転、90年に改修され郷土資料保存センターとなっていたが、2004年に現在の名称に変わった。
資料館は、根室市内の遺跡から出土した考古資料、ロシア初の遣日使節であるラクスマンの根室来航に関する資料、樺太に設置されていた国境標石などの歴史資料のほか、シマフクロウ、ラッコ等、この地域を特徴づける自然資料も展示している。
「日本100名城」の第1番に選定された国史跡・根室半島チャシ跡群のうち見学可能なノツカマフ1・2号チャシ跡、ヲンネモトチャシ跡の地形模型も展示されている。
北海道内には500ほどのアイヌ時代のチャシ(砦、祭祀の場、見張り場)が確認されているが、とくに千島列島への入口でもある根室半島は、チャシが集中している場所の一つで32か所のチャシが確認されている。このうち、24ヶ所のチャシ跡が「根室半島チャシ跡群」として国の史跡になっているが、見学先として整備されているのはノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所だけである。
根室市内のチャシ跡が築かれた正確な年代は不明だが、16~18世紀頃とされている。根室市内のチャシ跡は、海を臨む崖上に、半円形や方形の壕を巡らした「面崖式」のチャシ跡が多く、壕を組み合わせた大規模なものが多いことで知られている。
ノツカマフ1・2号チャシ跡はノツカマップ湾に突き出した岬の上にある。オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕が巡る。
1号チャシ跡は幅5メートル深さ約3メートルの半円形の壕が70メートル×25メートルの範囲で2つ連結しており、壕の内側に盛土が観察できる。2号チャシ跡は幅約3メートル、深さ約0.5メートルで半円形の浅い壕が巡っている。
ノツカマップは、1778年にロシアの商人シャバーリンが来航し交易を申し出るなど日露外交交渉発祥の地としても知られている。
ヲンネモトチャシ跡は、温根元湾の西岸に突出した岬の上に盛土をして、壕で区画し、盛土頂上に平坦面を2ヶ所作り出している。温根元漁港から見ると「お供え餅」のようにみえ、形の良好なチャシ跡として知られている。
近くには、約1,300年前のオホーツク文化期の竪穴住居もあり、この湾が古くから人々に利用されてきたことが分かる。
1789年クナシリ・メナシの戦い
1912(明治45)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、砂に埋まっている石が発見された。掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていた。
■横死七十一人之墓
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられている。この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、文化九年は西暦の1812年であり、この年の4月に造られたことがわかる。裏には漢文で文章が書かれており、現代語訳にすると
「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」
という意味になる。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということだけしか分からないが、真実の歴史はどうであったのか。
寛政の蜂起和人殉難墓碑(根室市指定史跡)
■ ノッカマップイチャルバ
1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップで「イチャルパ」(アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われている。寛政元(1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )の供養のために、アイヌの人たちが中心になって祭事が催されている。
ノツカマップイチャルパの様子
■松前藩
江戸時代の北海道は、蝦夷地と呼ばれていた。蝦夷地は松前の殿様に植民地のように支配されていた。当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができなかった。しかし、松前は蝦夷地の交易による利益で、藩が成立していた。最初は、松前藩主や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになった。交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品、ガラス玉などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは・毛皮・ワシの尾羽(矢の羽に使う)などの産物があった。
鷲の羽 納沙布岬のラッコ
オジロワシの羽 エゾクロテンの毛皮
コタンケシ遺跡出土のガラス玉
■根室と飛騨屋
根室や厚岸、クナシリ島の交易を最初に行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋の武川久兵衛(たけがわきゅうべえ)であった。飛騨屋はもともと材木商であったが、松前藩に多額の金を貸し、松前藩はこの金を返す代わりに、根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたのである。しかし、根室やクナシリ地方には、強力なアイヌの勢力があって、飛騨屋の交易は順調に進まなかった。
武川家の墓所(岐阜県下呂市)
■ロシアとの関係
このころ、ロシア人は高価な黒テンやラッコの毛皮をもとめて、シベリヤからアリューシャン列島・千島列島に進出していた。1778年にはロシア人が クナシリアイヌのツキノエの案内で、根室のノッカマップに交易を求めて来航した。ロシア人は千島列島のアイヌとも交易を行っていて、ツキノエは、ロシア人商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示した。
■老中田沼意次と蝦夷地
江戸時代の日本は、長崎での中国・朝鮮・オランダ、対馬での中国、琉球での中国貿易、そして松前での中国・ロシア貿易の他は、外国とは交易していなかった。
当時の江戸幕府は財政的に行き詰っており、蝦夷地での交易の莫大な利益に目を付けたのが、老中田沼意次であった。幕府は蝦夷地に調査隊を派遣した。ただこの調査で、飛騨屋の経営も調査され、帳簿にも記入しないどんぶり勘定であることがわかり、交易だけでなく、現地でアイヌを使ってかなり強制的に働かせていることも明らかになった。しかし、途中で田沼が失脚していまい、幕府は蝦夷地に対して何の政策も行なわなかった。
■最初の蜂起
1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害した。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害した。
クナシリ島で蜂起したのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心の合わせて41人で、番人らを襲撃した。彼らはクナシリ島の若きアイヌリーダーたちで、フルカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人を殺害した。さらにメナシ地方(標津・羅臼付近)では、49人を殺した。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人が蜂起し、71人の和人を殺した。このあたりにいた和人で生き残ったものは4人いたが、ほとんど全てが殺された。
クナシリ・メナシの戦い関係地名図
■蜂起の原因
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べた。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになった。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われていた。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べる食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態であった。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきた。さらに、女性に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末であった。
■直接の原因
このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていた。
1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまった。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまった。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのである。本当に毒殺であったかどうかは、今となっては真相は分からないが、たとえ偶然であったとしても、蜂起に至るのは時間の問題であった。
■鎮圧隊の松前出発
この蜂起の事実が松前城下に伝わったのは6月1日で、すぐに260人の鎮圧隊が組織された。鉄砲85丁・大砲3挺・馬20頭も準備され、6月11日から19日にかけて、根室のノッカマップに向けて出発した。
■ノッカマップでの取リ調べ
鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着した(この年は閏年で、6月が2 カ月ある)。蜂起に関係したアイヌたちをノッカマップに集め取り調べが始まった。最初は捕まって殺されるかもしれないという疑いからなかなか集まらなかったが、7月16日までにメナシの183人とクナシリの131人のアイヌがノッカマップに到着した。
アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせた。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人が、合わせて130人が蜂起し、殺害に加わったことが判明した。さらに、なぜ蜂起したかについても詳細に取り調べられた。この内、直接の加害者である37人が牢に入れられ、彼らが持っていた弓などの武器も全て没収された。
■37人の処刑
7月20日に取り調べが行われ、その日に直ちに37人に対して、重罪であるという理由で死罪が決定した。
翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだし、首をはねていった。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒し37人全てを処刑した。その後、処刑した者全員の首をはね、洗って箱に塩詰めにし、胴体は一つずつむしろで包んで大きな穴を掘って埋めたのである。
7月24日には37人の胴体を埋めた塚に、太さ30センチメートル、長さ3.6メートルの角材の四面を赤く、四角を黒く塗り、ノッカマップ岬の四方から見渡せるところに建てた。現在はこの場所がどこか不明である。7月27日には、長老のアイヌたちに、今後二度とこのようなことがないように申し渡して、鎮圧軍はノッカマップを出発した。37個の首は松前郊外の立石野で首あらためが行われた。
ノツカマップイチャルパのヌサ(幣)場
ノツカマップ岬(ノツカマフ1・2号チャシ跡が所在)
■アイヌと松前藩
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが、松前藩には何のお咎めもなかった。結局、幕府は特にこの戦いに後、新しい政策を打ち出せず、蝦夷地を黙認した。しかし、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対しては、再度強い関心を示し、幕府の目が北に向くきっかけになった。
■アイヌの勢力
この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、さらに、本州から持ち込まれる生活物資無しには、生活できなくなっていて、アイヌ自身による独自の政治勢力が育つ可能性が、非常に弱くなるという道をたどることになった。
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力をつみ取られ、政治的にも経済的にも従属関係となり、和人支配下で働かされるということが、日常的になっていった。