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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

猫のこと

2006-04-29 23:40:22 | Weblog
夕方、庭で虫が鳴いている。はやいものである。
虫について詳しくないので、なんという虫が鳴いているのかわからないが、これから秋の終わりまでずっと、さまざまな虫の声を聞く事になる。

4月のはじめに飛来したツバメもこの2~3週間でだいぶんふっくらとつややかになってきたと思う。
えさが増えてきたので、5月になれば卵を抱くだろう。
ウグイスの声もよく聞かれる。
全体に野鳥は増えているのかもしれないと思う。

そういえば、我が家の猫は、たまにすずめを捕ってくる。ねずみやもぐらも捕ってくる。
一度小さな蛇を捕ってきたのには困ったが、猫を飼っていれば、そのくらいは仕方のないことかもしれない。

現在一般に飼われている猫は、もともと北アフリカで野生の猫を飼い始めたのが起源らしい。
なぜ飼い始めたのかは不明だが、ねずみを求めて人の周りで暮らすようになった猫に、かわいいので餌を与えたのだろう。
人間の周りにねずみが増えたのは、定住して農耕を始めたからだから、1万年くらい前からは人間と暮らしていることになる。
猫は人によくなつくし、賢い。ねずみ対策としては、すばらしい効果を発揮する。
しかもとても魅力がある。
古代エジプトで愛され、シルクロードを伝わって、仏教の経典とともに日本に来たといわれている。
小動物を捕ってくるのは猫の最も基本的な行動であるから、しかるわけにはいかない。

VISION

2006-04-29 14:13:02 | Weblog
昨日は、私の見たサイババのビジョンについて書いた。
このビジョンについては、私自身の予知によって生まれたビジョンなのか、それともサイババの遍在に由来するものなのか、考えた事がある。

私自身の予知によるとすれば、時空にループが生じる。因果関係が輪になってしまうのだ。
予知したことをきっかけとしてサイババに会い、サイババにあったことによって時間をさかのっぼった時点での「予知」がある。
だとすれば、このループのそもそものスタートはどこなのか?
それともはじめからスタート地点など存在しないのか?
多少のループがあったとしても、それで時空が混乱するわけではないとは思うのだが・・・

サイババが持つ「遍在する能力」によって起こった現象であれば、ループは生じない。
私の祈りに答えて、数千キロの彼方から、私の前に姿を現したと考えればよい。
たぶん、こちらの考えのほうが、真実に近いと思う。
なぜなら、その時私の見たサイババは、若かったように思うからだ。
予知によるビジョンであれば70歳のサイババのはずだが、あのときのサイババは壮年の力強さと軽快さがあったように思う。
それに、サイババの遍在の事例はほかにたくさんあるのだから、サイババの能力によるものと考えるのが妥当だ。

サイババを見た事以外にも私の体験の中でビジョンと呼べるようなものがあるだろうかと、思い出してみたがそれらしいものはほとんど見当たらない。
なお、ここでビジョンと私が呼んでいるものは、自分で思い描くのではなく勝手に向こうから来て視覚に作用する具体的な映像のことである。

ただ、子供の頃、寝室の暗い天井に何人もの人が浮かぶように出てきて怖かったのは覚えている。
天井は真っ暗で、木目などは見えない。
その暗闇に、ほぼ等身大くらいの人物が複数並んで、こちらを見たりしているのである。
あまりにも昔の記憶で、姿かたちはもうあまり定かではないが、容貌は伎楽面のような顔立ちで、服装はまちまちだったが、どれも見た事のない衣装だった。
服装は今にして思えば、宗教的な雰囲気のものだったようにも思える。
眠っていたわけではなく、寝つけない夜の怖い思い出として残っている。
たぶんこれもビジョンだと思う。しかしこれがどのような意味なのかはいまだにわからない。

サイババのビジョンでさえ、テレビでサイババを見るまでは、ビジョンを見たという自覚がほとんどなかったわけである。
結局、見ても見えない。聞いても聞こえない。
それでも、こちらの理解力におかまいなく、いろいろなものが来ているのかもしれません。

祈り AUM SRI SAI RAM

2006-04-29 00:58:48 | Weblog
昨日の続きである。
水滸伝や三国志を読んでいた頃は、あまり宗教には関心がなかった。
クラスにはキリスト教の信者もいたようだが、無宗教である事、無神論者であることの方が、一般的だった。
超能力などはすべてまやかしだと思っていたわけだ。

しかし、無神論者というほど、神についての知識があったはずもなく、ただ何も知らなかっただけというのが正しい。
知らないという事と、否定するという事は、全く違う。
十分に理解してから神・宗教を否定するなら立派な無神論であるが、知らないで否定しても、それはほとんど意味を成さない。

私が超能力とか宗教に興味を抱いたのは前にお話したように予知夢をたくさん見たからであるが、サイババに関心を持った理由についてはまだ話していなかった。
わざわざインドまで出かけてゆくには、それなりの理由がなければならない。

表向きの理由と、もっと本質的な理由。
いつも表向きの理由ばかり口にしているといつの間にかそれが本当の理由であったように自分でも思ってしまうようになる。
セルフマインドコントロールってやつでしょうか?

表向きの理由は、「イエスのような人がこの地上に今現在いるというなら、しかも会う事ができるというなら、とりあえず行ってみる価値がある」。

しかし、実のところもっともっと強い理由がありました。
これから話す話は、サイババの周囲ではよくある話なのですが・・・それでも自分の経験でなければ自分でも信じないかもしれません。

一言で言えば、私は1970年頃にサイババを見ている、そういうことです。
1970年といえば大阪万博のあった頃です。
サイババは1926年生まれですから、まだ40代半ば。私は10代半ばです。
インドでサイババを見たのなら当たり前の話ですが、もちろん日本でサイババを見たわけです。

そのとき私は切羽詰った状況に追い詰められておりました。
あることに相当悩み、誰に相談できるわけでもなく、学校帰りの道を悶々として歩いておりました。
あとは祈るしかないというのが、私の結論でした。
わらにもすがる思いで、それこそありとあらゆる思いつく限りの「力あるもの」に祈りました。
神だけが力あるものではありません。
ありとあらゆる力あるものに、それこそ自分の魂と引き換えでもよいからと祈りました。
そのときに、私の頭の中に浮かんできたのがサイババの姿でした。
頭の中に浮かんだといっても、視覚としては、数百メートル離れた里山の上のほうから、オレンジ色の服を着たアフロヘアの男が軽やかな足取りでこちらに降りてくるビジョンです。
後で思い返すからビジョンなどともっともらしく言えるわけですが、そのときは、何でこんな姿が思い浮かぶのだろうと不思議に思いました。
サイババなど知るはずもありません。
その姿は、神様とは程遠い、ロック歌手みたいな派手な衣装にヘアスタイル。

しかし、その後どうしようもないと思われたその問題は、思いのほかスムーズにクリアできました。

そして、今度は別の悩みが出来ました。
「何かに自分の魂を売り渡したのではないか」という悩みです。
実際、私はありとあらゆるものに祈ったわけです。
目的を達成するために、私のすべてを差し出して祈ったわけです。
ですから、魂を売り渡したとしても、それはいたしかたのないことなのです。

そして、私は無神論者になりました。
神もいなければ悪魔もいない。
心の平安を保つためには、そう思うしかなかったのです。
宗教には興味を持たず、信仰心もなく、わかるはずもないサルトルなど読んでみたりしていました。

さて、それから20年近くが過ぎたある日、テレビで別所哲也さんがサイババにあったときの映像を見て、驚きました。
何者なのかはわからないけれど、あの時に見た人らしいのがインドにいるようだ。
しかも、そう悪い人でもなさそうだ。
それは私にとっては、かなりの慶事でありました。