
昨日の続きである。
水滸伝や三国志を読んでいた頃は、あまり宗教には関心がなかった。
クラスにはキリスト教の信者もいたようだが、無宗教である事、無神論者であることの方が、一般的だった。
超能力などはすべてまやかしだと思っていたわけだ。
しかし、無神論者というほど、神についての知識があったはずもなく、ただ何も知らなかっただけというのが正しい。
知らないという事と、否定するという事は、全く違う。
十分に理解してから神・宗教を否定するなら立派な無神論であるが、知らないで否定しても、それはほとんど意味を成さない。
私が超能力とか宗教に興味を抱いたのは前にお話したように予知夢をたくさん見たからであるが、サイババに関心を持った理由についてはまだ話していなかった。
わざわざインドまで出かけてゆくには、それなりの理由がなければならない。
表向きの理由と、もっと本質的な理由。
いつも表向きの理由ばかり口にしているといつの間にかそれが本当の理由であったように自分でも思ってしまうようになる。
セルフマインドコントロールってやつでしょうか?
表向きの理由は、「イエスのような人がこの地上に今現在いるというなら、しかも会う事ができるというなら、とりあえず行ってみる価値がある」。
しかし、実のところもっともっと強い理由がありました。
これから話す話は、サイババの周囲ではよくある話なのですが・・・それでも自分の経験でなければ自分でも信じないかもしれません。
一言で言えば、私は1970年頃にサイババを見ている、そういうことです。
1970年といえば大阪万博のあった頃です。
サイババは1926年生まれですから、まだ40代半ば。私は10代半ばです。
インドでサイババを見たのなら当たり前の話ですが、もちろん日本でサイババを見たわけです。
そのとき私は切羽詰った状況に追い詰められておりました。
あることに相当悩み、誰に相談できるわけでもなく、学校帰りの道を悶々として歩いておりました。
あとは祈るしかないというのが、私の結論でした。
わらにもすがる思いで、それこそありとあらゆる思いつく限りの「力あるもの」に祈りました。
神だけが力あるものではありません。
ありとあらゆる力あるものに、それこそ自分の魂と引き換えでもよいからと祈りました。
そのときに、私の頭の中に浮かんできたのがサイババの姿でした。
頭の中に浮かんだといっても、視覚としては、数百メートル離れた里山の上のほうから、オレンジ色の服を着たアフロヘアの男が軽やかな足取りでこちらに降りてくるビジョンです。
後で思い返すからビジョンなどともっともらしく言えるわけですが、そのときは、何でこんな姿が思い浮かぶのだろうと不思議に思いました。
サイババなど知るはずもありません。
その姿は、神様とは程遠い、ロック歌手みたいな派手な衣装にヘアスタイル。
しかし、その後どうしようもないと思われたその問題は、思いのほかスムーズにクリアできました。
そして、今度は別の悩みが出来ました。
「何かに自分の魂を売り渡したのではないか」という悩みです。
実際、私はありとあらゆるものに祈ったわけです。
目的を達成するために、私のすべてを差し出して祈ったわけです。
ですから、魂を売り渡したとしても、それはいたしかたのないことなのです。
そして、私は無神論者になりました。
神もいなければ悪魔もいない。
心の平安を保つためには、そう思うしかなかったのです。
宗教には興味を持たず、信仰心もなく、わかるはずもないサルトルなど読んでみたりしていました。
さて、それから20年近くが過ぎたある日、テレビで別所哲也さんがサイババにあったときの映像を見て、驚きました。
何者なのかはわからないけれど、あの時に見た人らしいのがインドにいるようだ。
しかも、そう悪い人でもなさそうだ。
それは私にとっては、かなりの慶事でありました。
水滸伝や三国志を読んでいた頃は、あまり宗教には関心がなかった。
クラスにはキリスト教の信者もいたようだが、無宗教である事、無神論者であることの方が、一般的だった。
超能力などはすべてまやかしだと思っていたわけだ。
しかし、無神論者というほど、神についての知識があったはずもなく、ただ何も知らなかっただけというのが正しい。
知らないという事と、否定するという事は、全く違う。
十分に理解してから神・宗教を否定するなら立派な無神論であるが、知らないで否定しても、それはほとんど意味を成さない。
私が超能力とか宗教に興味を抱いたのは前にお話したように予知夢をたくさん見たからであるが、サイババに関心を持った理由についてはまだ話していなかった。
わざわざインドまで出かけてゆくには、それなりの理由がなければならない。
表向きの理由と、もっと本質的な理由。
いつも表向きの理由ばかり口にしているといつの間にかそれが本当の理由であったように自分でも思ってしまうようになる。
セルフマインドコントロールってやつでしょうか?
表向きの理由は、「イエスのような人がこの地上に今現在いるというなら、しかも会う事ができるというなら、とりあえず行ってみる価値がある」。
しかし、実のところもっともっと強い理由がありました。
これから話す話は、サイババの周囲ではよくある話なのですが・・・それでも自分の経験でなければ自分でも信じないかもしれません。
一言で言えば、私は1970年頃にサイババを見ている、そういうことです。
1970年といえば大阪万博のあった頃です。
サイババは1926年生まれですから、まだ40代半ば。私は10代半ばです。
インドでサイババを見たのなら当たり前の話ですが、もちろん日本でサイババを見たわけです。
そのとき私は切羽詰った状況に追い詰められておりました。
あることに相当悩み、誰に相談できるわけでもなく、学校帰りの道を悶々として歩いておりました。
あとは祈るしかないというのが、私の結論でした。
わらにもすがる思いで、それこそありとあらゆる思いつく限りの「力あるもの」に祈りました。
神だけが力あるものではありません。
ありとあらゆる力あるものに、それこそ自分の魂と引き換えでもよいからと祈りました。
そのときに、私の頭の中に浮かんできたのがサイババの姿でした。
頭の中に浮かんだといっても、視覚としては、数百メートル離れた里山の上のほうから、オレンジ色の服を着たアフロヘアの男が軽やかな足取りでこちらに降りてくるビジョンです。
後で思い返すからビジョンなどともっともらしく言えるわけですが、そのときは、何でこんな姿が思い浮かぶのだろうと不思議に思いました。
サイババなど知るはずもありません。
その姿は、神様とは程遠い、ロック歌手みたいな派手な衣装にヘアスタイル。
しかし、その後どうしようもないと思われたその問題は、思いのほかスムーズにクリアできました。
そして、今度は別の悩みが出来ました。
「何かに自分の魂を売り渡したのではないか」という悩みです。
実際、私はありとあらゆるものに祈ったわけです。
目的を達成するために、私のすべてを差し出して祈ったわけです。
ですから、魂を売り渡したとしても、それはいたしかたのないことなのです。
そして、私は無神論者になりました。
神もいなければ悪魔もいない。
心の平安を保つためには、そう思うしかなかったのです。
宗教には興味を持たず、信仰心もなく、わかるはずもないサルトルなど読んでみたりしていました。
さて、それから20年近くが過ぎたある日、テレビで別所哲也さんがサイババにあったときの映像を見て、驚きました。
何者なのかはわからないけれど、あの時に見た人らしいのがインドにいるようだ。
しかも、そう悪い人でもなさそうだ。
それは私にとっては、かなりの慶事でありました。