如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

シヴァ神

2006-03-30 23:42:22 | Weblog
シヴァの話が出たので、シヴァ神の絵をアップしておきます。
これはニューデリーの街角の路上に並べて売られていたシヴァ神のポスターです。
目を閉じているように見えるかもしれませんが、拡大すると半眼に開いています。
かなり美形です。そういえば先日のクリシュナの像もやはり美しかったですね。
なぜそうなのか?たぶんそうしたほうが喜ばれるからということでしょうか。

バガヴァッド・ギーターについて

2006-03-27 22:23:06 | Weblog
前々回、オーソドックスなインド思想と書いたので、その中でも特に名高い「バガヴァッド・ギーター」を紹介しておきます。
ギーターは「マハーバーラタ」という大叙事詩の一部なのですが、インドはもちろん、現代では世界中でよく読まれているそうです。
ギーターでは、クリシュナが英雄アルジュナに教えを説きます。

一説だけ紹介しておきます。
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あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ。
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。放擲(ほうてき)のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。
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少し説明しておきます。
この文章の「私」とはクリシュナのことであり、この場面でクリシュナは彼の本当の姿である偉大な神としてアルジュナに教えを説いています。
「放擲のヨーガ」とは「行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、を神への捧げものとすること」です。
ここで「行為を神への捧げものとする」とは、「行為の結果を捨て、結果に執着せず、行為そのものに専心し、その行為そのものを神に捧げる事」のようです。
「バガヴァッド・ギーター」の日本語版としては、岩波文庫(上村勝彦訳)をおすすめしておきます。

写真は、デリーの有名な寺院のクリシュナです。

ひばりの高なき

2006-03-26 08:35:07 | Weblog
昨日は今年初めて、ひばりの高なきがありました。春です。

前回、心に強い力があると書きましたが、事実ではありますが、これでは如意樹のたとえ話の本筋からズレてしまうと、あとで反省しました。
このたとえ話は単純なストーリーなのですが、サイババによる解説のほうは、実はかなり難解なのだと思います。
「善いことを考える」ことと、「心を浄らかに保つ」ことが、どうして同じ意味になるのか?
「心を浄らかに保つ」とは、具体的にどういう意味なのか?
私には、どうもすっきりしない部分があります。

さて、このあたりで、サイババについて、基本的なところを確認しておきます。
生年月日は1926年11月23日頃。男性です。生まれた場所は、アシュラムのあるプッタパルティ。バンガロールから北に200kmくらいのところ。
現在のプッタパルティには空港まであるが、これはアシュラムがあるために最近できたもの。サイババの生まれた頃は、相当の寒村であったらしい。

サイババの生い立ちや、サイババの起こす奇蹟についての詳しい研究書は、「サイ・ババの奇蹟」(ハラルドソン著 技術出版)くらいしかないと思う。
この本にしても、サイババについて好意的な立場から書かれているわけだが、一応、科学者の立場で関係者への聞き取り調査を繰り返しており、今後これ以上の本は出ないかもしれない。

サイババの思想についてはたくさん本が出ているので、興味のある方は読んでいただければと思う。
彼の思想は、ごくオーソドックスなインドの思想だから、読んでためになる事はあっても害になる事はありません。

「如意樹の木陰」のこと その2

2006-03-23 22:33:28 | Weblog

昨日のつづきですが、サイババはこうおっしゃっています。
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「私たちは如意樹の木陰に座っているのです。
悪いことを考えれば悪いことが生じ、善いことを考えれば善いことが生じます。
ですから私たちの想いや行いが浄らかであれば、人生という如意樹は望みのままに善いことを与えてくれます。」
「善いことも悪い事も、私たちの心から生ずるのです。決して外部から来るのではありません。
ですからまず第一に私たちは、心をできるだけ浄らかに保たなければならないのです。」
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こういった宗教的な言葉は、いろいろ読んでいると、なんとなくわかるような気になってくるのですが、たぶんこれだけ読んでもなかなかピンと来ないのではないかと思います。
また、似たような意味の言葉は、表現やたとえは違いますがキリスト教の聖書にも出てくるでしょうし、仏教関係にもあると思います。

とにかく、私たちの「心とか意識とか思考とか意志など」には、自分たちが思っているよりもずっとずっと強い力があるらしいのです。



「如意樹の木陰」のこと

2006-03-22 22:42:42 | Weblog

「如意樹の木陰」についても、一応お話しておきましょう。

これはインドのお話。
ひとりの旅人が夏の午後、道を急いでおりました。
しかしあまりの暑さに、涼しげな木陰を見つけて、そこでひと時休むことにいたしました。
木陰に入ると、気分がよくなってまいります。
「これで、冷たい水でもあれば」そう旅人が思いますと、水が目の前に出てきました。
「これで、横になれる籐のベットでもあれば」そう思いますと、すばらしいベットが現れました。
「この素敵なベットを妻が見たらどんなに喜んでくれるだろう」そう思いますと、目の前に妻が居りました。
「まさか妻がここにいるわけがない。悪魔かもしれない。私は食べられてしまうのだろうか。」そう思ったとたん、妻は旅人を食べてしまいました。

これが如意樹の木陰のお話です。
如意樹は、思った事・考えた事をすべて実現してくれる木なんですね。

そして、私たちはいつもいつでも如意樹の木陰に座っている、サイババはそうおっしゃっています。


「だるまばらむ」のこと

2006-03-21 22:24:50 | Weblog
私のハンドルネームのだるまばらむは、インドにある駅の名前。
駅の名前ということは、多分町の名前なのだろうと思う。
インドの時刻表では、DHARMAVARAM JN. と書かれている。
JN.はJUNCTIONのことだろう。
この駅は、サイババのアシュラムのあるプッタパルティからバスで30分ほどのところにある最寄り駅である。
また、この地方で最大の都市であるバンガロールからは200KM以上離れている。
この駅名をHNにしているのは、少し理由があるのだが・・・たいしたことではない。
ただ、以前よその掲示板でしばらく使っていたので、今回初心に帰って、これで行こうと思ったしだい。

予知夢について

2006-03-21 00:34:24 | Weblog
サイババと並んで、このプログのもうひとつの大きなテーマは「予知夢」。
サイババに比べれば、こちらは多少科学的なアプローチも可能だ。
日本では、こういった超常現象とか超能力についての科学的な研究は、あまり行なわれていないようだが、外国ではある程度学問として認知されているらしい。
といっても、予知夢の関係の書籍として私が知っているのはウルマン他による「ドリームテレパシー」(工作舎)くらいだが。

私にしても、自分が予知夢を見ている事に気づくまでは、非科学的の一言で済ませていたと思う。
それは、そのように教育されてきたのだからしかたがない。

予知夢によって、私の世界観はずいぶん変わったように思う。
正直なところ、自分は超能力者かもしれないとか、特別な人間だとか、多少は思ったわけだ。
そうではないとすぐにわかってくるのだが・・・誰でもはじめは、多少そう思うよね。
それから、今度は、予知夢を合理的に説明しようとして、本を読んだり、仮説を立てたりした。
「ドリームテレパシー」を読んだのもその頃。
そんな話も、追々できると思う。

今日は早く寝るつもりだったのに・・・おやすみなさい。

初めてサイババに会ったときのこと

2006-03-19 23:01:59 | Weblog

このブログの大きなテーマであるサイババについて、スワミ・サティアサイについて多少とも早いうちに語っておいたほうがよいだろう。
写真は、10年近く前に、私が始めてスワミのアシュラムのひとつであるホワイトフィールドに行った時のものです。
ホワイトフィールドは、インドのバンガロールと言う大きな都市の郊外にあります。

この時、私は多少失望し、かなり疑いの目を持って、スワミを見ていたように思います。
写真に写っている私は、どことなく醒めているし、周囲に溶け込んでいない。

その時が初めてのインドで、わたしはかなり混乱していました。
インドに入ったのは、サイババに会う事が目的でしたが、半分は観光旅行のつもりでした。
だから、デリーで入国したし、さきに北インドを観光してからサイババのところに行くはずでした。
しかし、デリーに着いてみると観光するような気分にはとうていなれず、結局インドに入って2日目には、もうバンガロールにいたのです。

そのバンガロールのホテルで見たものは・・・商業的なパンフレットに載っているサイババの写真。
サイババ目当てにくる外国人にシルクやジュウタンを買ってもらうためのパンフレット。
このパンフレットはかなりショックでした。
聖なる遠い存在であるはずのサイババのイメージが音を立てて崩れてゆくように感じられた。

それから翌朝、アシュラムにサイババに会うために出かけたのだが、今度は人が人を神のように拝む事にかなり抵抗を感じた。
「天は人の上に人をつくらず」というのが、私の常識でした。
いかにも目立つオレンジ色のローブも、アフロヘヤーも、私の[聖なるもの」のイメージとは違っていました。

しかし、写真でもわかると思うが、そのときすでに70歳を超えていたにもかかわらずスワミは精悍に見えた。
信者の間をくまなく歩くのだが、その歩き方、振る舞いになんともいえぬ魅力があるのは事実だった。

その後、私の考えも変わってゆくわけであるが、この写真を見ると最初のころが思い出されるわけです。