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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

秋の旅(21・おわり)

2007-12-01 12:23:52 | インド旅行記
12月09日
ニューデリー駅に着いたのは11時頃。クロークにバッグを預けて街に出た。駅のクロークはホームにあるところが多く、ニューデリー駅も1番ホームである。預けるときに切符を見せて、そのナンバーを控えている。
駅を出て、今日泊まるホテルを探してみる。どこでもよいような気もする。
ゴールデンカフェで飯を食べる。ここで会った日本の若者は飛行機から荷物が出てこなかったそうだ。航空会社に問い合わせたところ、明日また連絡してくれと云われたという。本人はあっけらかんとしているが、初めての一人旅でのっけから荷物が無くなってはたまったものではないだろう。彼は、パキスタンの方、ガンダーラ遺跡やモヘンジョダロに行くつもりだったのだそうだが、とにかく足止めをくっているのである。

それから、各州の物産店の集まっているところにお土産を買いに行った。しかし、昼飯時から2時までは店をクローズしている。それで、向かいの通りのコーヒーハウスに入った。古いビルの最上階にあるのだが、オンボロのレストランで、ウエイターはおじいさんばかり。お客の方も時間をつぶしているような感じの人が多い。

物産店は、どの店も立派な建物だが、客は少ない。そう云った店が通りに10店くらい並んでいる。州政府の店という事で店員は公務員のようなのんびりした商売をしている。
心が動く物もあるが、あまり買えない気分だ。
その帰りに、歩道の路面に並べて売っていたヒンドゥーの神様のポスターを買った。
ダラムシャラーでのトレッキングの疲れが出ているのだろうが、スリにやられてもおかしくないような不注意な格好でポスターを漁っていた、と後で思う。

宿を探すのも面倒なので数日前に泊まったAJAYに行ってみた。しかしAJAYには良い部屋が空いていない。それで向かいにある同じ経営者のHARE・RAMAに行ってみた。
こちらのゲストハウスでもなぜか最初は窓のない安い部屋に案内された。自分はそんなにみすぼらしい身なりをしているのかと思う。
確かに、薄汚れて少し破れたショルダーバッグひとつで、他に荷物も持っていないのだから、チベッタンの巡礼のように見えるのだろう。バックパックはまだ駅のクロークにある。
その後ふた部屋見せてもらって、最後の部屋が良さそうだったので、そこに泊まることにした。200Rsだがまあまあの部屋である。
しかし、すぐに分かったのだが、その部屋は階段の踊り場の近くで、そのすぐ上には屋上レストランがあったのである。したがって、けっこううるさい。これは失敗したと思ったが、しかたない。結局そんなに良い部屋はないのである。まあ、レストランに近いという事は便利であることは確かだし。

12月10日
今日は、わざわざデリーアウトの航空券を買った唯一の理由であるクリシュナ像に会いにラクシュミ・ナーラーヤン寺院に行った。宿から歩いて20分くらいの距離である。案外近い。
前回の時は案内のおじさんがいたが、今回は靴をおいて勝手に入ることができた。
地球に乗っている神様の像の地球の部分に今回は色が塗られていた。前回来た時は塗ってなかったような気がするのだが。
一番奥の部屋にあるお目当てのクリシュナの今回の着物はグリーンだった。春に来た時に比べ少し化粧が濃いし、マリーゴールドの首飾りは前の時より少ない。前回の方がそう云った意味でもっと良かったとは思うのだが、それでも非常に引きつけられる像である。

帰りに野菜市場を歩く。新鮮な野菜が何でも揃っている。目に付いたのは大根、日本のと同じだ。タマネギは皮の赤紫のヤツ。茄子はソフトボールくらいにまんまる。オクラやニンニク、生姜、何でも手に入りそうであった。リンゴがおいしそうだったので買った。味は良かった。

ゴールデンカフェであった学生はカルカッタイン、カルカッタアウトで、バラナシにも十日くらい滞在したと言うが、バラナシのゴールデンテンプルにもヒンドゥー大学の博物館にも行っていないと言う。
私のように名所ばかり回っている観光客的な旅とは違う旅があるのかもしれないと思った。
ガイドブックを持たずに、行く先々で得た情報だけで旅を組み立ててゆけば、そういう旅になるのかもしれない。『深夜特急』の沢木のような旅である。まあ、私にはできないが。

12月11日
今日は帰国の日。夜の便であるから、最後の観光をして、また土産物でも買おうと思う。
空港へはニューデリー駅からバスに乗ろうと思ったので、まず駅に行って、バスステーションを確認する。バスステーションは駅の反対側である。
しかし、行ってみると、案内板がない。大きなバスステーションなのだが、さっぱり分からない。ガイドブックのバス停の番号を頼りにバス停は見つけたが、そこには時刻表はおろか、行き先表示もない。これでは、ここから空港に行ける自信はない。それでこのバス停から空港に行く事は、即諦めた。

次に、サイクルリクシャでジャマーマスジドに向かう。イスラムの寺院である。オールドデリーにはサイクルリキシャが似合う。
実際のイスラム寺院は、私の中にあるイスラム寺院のイメージとだいぶん違っている。どこでそんなイメージが植え付けられたのか忘れてしまったが、イメージの中のイスラム寺院はタマネギ型のモスクにステンドグラスの窓、香の立ちこめた室内にターバンを巻いた白っぽい装束の僧侶、そんな感じである。実際の寺院がそれとはだいぶん違うと分かってからも、心の奥底にはそのイメージが生き続けているらしい。
イスラムの教えの本質は分からないが、それ自体は悪い宗教というわけではないと思う。今また、イスラムを信仰する人々が増えているという話も聞く。

ジャマーマスジドは、階段の付いた大きな基壇の上の入り口から入ると、広い石畳の広場になっていて、メッカ側に礼拝堂が建てられていた。
広場の中央には池がある。アグラで見たイスラム寺院も同じような形式だったように思う。
広場の周囲には現代とは無関係な顔立ちの老人達がゆったりとひなたぼっこしている。
広場の祭壇側や建物の中には礼拝用にジュータンが敷かれてあるから、今でも毎日時間になるとここに集まってきてメッカに向かって礼拝する人たちがいるのだろうと思う。もちろん祭壇と行っても何もない大理石の白い壁である。
その祭壇の脇に、色とりどりに美しく装丁された本がたくさん積んであった。コーランだろうか。

ジャマーマスジドからラールキラーの入り口の方に歩き、チャンドニーチョークと呼ばれるオールドデリーのメインストリートを歩いた。商店の並ぶ立派な通りである。
想像していたよりもずっと都会的で道路も歩いて渡れないほど広い。
そこから、銀の装飾品を売る店の並ぶ路地に入った。どの店も間口の狭い小さな店である。銀の値段は毎日変わるそうで、聞くと今日は1グラムいくらと教えてくれた。どの店にもハカリが置いてあるのは、目方で売ったり買ったりするためだろう。器や装飾品に加工したものには加工費がプラスされるが、加工費自体は安いものらしい。
銀製の灰皿が欲しくなった。高価ではなかったが、結局やめてしまった。
さらに路地に入って行くと、今度は飾りものの店ばかり並んでいる。造花、ビーズ、リボン、神様に着せる衣装とか帽子、祭りに使う派手な衣装、そんなモノを扱う店がずらっと並んでいる。

コンノートプレイスのインディアンエアラインの前からエアポートバスが出るというので、チケットを買い、時刻を確認した。6時過ぎのバスに乗ることにする。

それから、タンカが欲しくなって、チベット土産の店を歩いてみるが良いものはない。あやしげなガラクタばかりである。
最後に入った店には、それでもいくつか古いタンカが掛けてあった。店員が「タンカか。タンカなら2階にもっとある。」と言う。
私はちょっと腰が引けた。なぜなら、2階に上がる階段はハシゴのようで、その先は暗闇だったからだ。
それでも先に上がっていった店員に誘われて、おっかなびっくり狭い木製の階段を上がってみた。すると、確かにそこにはタンカが驚くほどたくさんあった。新しいものもが多いが、古そうなものもたくさんあって、壁に何枚も重ねて掛けてある。棚には巻いて保管している物も相当ありそうだった。
そのひとつが気に入って値段を聞いてみると900Rs。割合に安い。それを700Rsにして買うことにした。1500Rsくらい出せば結構大きなものも買えそうであった、しかし、お土産にはあまり適当ではないような気がした。

エアポートバスは混んでいなかった。しかし、道は非常に混んでいる。それでも途中からは空港への取り付け道路になりガラガラに空いていた。今度はバスがとばすのに驚いた。
バスは、はじめに国内線のターミナルに停まるのだが、国内線と国際線の表示を見落とすと降りてしまいそうになる。

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この旅で得られた事は、ずいぶんたくさんあった。
とりあえず、やるべきことはすべてしたような満足感がある。

目的を持って現れた神の化身は、人類を、生物を、地球を、宇宙を輝かせるために、神を表現しているのかもしれない。
重要なのは、サイババにしろ、イエスにしろ、人間の肉体を持って現れたことである。かれらは、肉体という有限な物に制約されているように見える。
しかし、有限に見えるのも我々の勝手な思考パターンに過ぎないのかもしれない。
とにかく、人間でありながら、自らが「神の子」であると認識できたり、「神の化身」であると認識できたりする存在が、この世界にかつて生きていて、今も現にいる。
その人が「あなた方も私と同じ神の子・神の化身なのだ。」と言ってくれる。
それを我々が正しい意味において認識できたとき、我々はひとつ前に進めるように思われる。

言葉という不完全な未熟な道具を振り回しても、実物とは似ても似つかない像ができるだけなのであるが、それでも、何か形にしたいのが人間であるらしい。

** 以上で、秋の旅の記録を終わります。

秋の旅(20)

2007-10-27 23:39:41 | インド旅行記
12月07日
たいした予定もなく、少し暖かくなった頃に朝食を取り、9時半過ぎに散歩に出かけた。TIPAのテント小屋にいってみようと思った。TIPAとはチベットの伝統芸能を保存し公演する組織らしい。
行ってみるとテント小屋ではなく、学校のような立派な建物が建っていた。想像していたよりははるかに立派な施設である。
あるいは、ここのグランドにテントを張るのかもしれない。
コーラスの練習が聞こえてくる。斜面の上の林の中の道を歩いてきたので、私が立っているのは建物より高い位置なのだが、歌の練習はその建物の屋上で行われていた。
数人が混声で歌っている。チベットの民謡のようであった。耳に懐かしい歌声である。
昔どこかで聞いたような感じがするのは、芸能山城組のレコードで似たような曲を聞いているからかもしれない。
しばらくそこに立ち止まって、山にこだまするような歌声を聞かせてもらった。

もう少し上まで登ってから、今度は、この道とほぼ並行して斜面の下の方を走っている道に降りて、その先にある寺院を見て、マクロードガンジに帰るつもりだったのだが・・・
後ろから、せっせと坂道を上ってくる若い男がいる。不審な男・・・しかし、どうも日本人のようである。声を掛けてみると、案の定日本人。
彼はこれから、片道4時間ほどの山に登ろうとしているという。しかし、その山の名前も定かではないという。同宿のカナダ人からこの道を行けばいいと聞いたのだという。ずいぶんいい加減な人である。
しかし、誘われて、その人と一緒に登る気になった私はもっといい加減。
その辺りの人に聞いてみると山の名前はTRIUNDというらしい。私の持っていたパンフレットによれば、標高2827m。確かに片道4時間と書いてある。しかし、標高差は1000m近い。時計はもう10時近くを指している。山に登るなら、もっと早く出なければならない。
それで、午後2時まで登ってみて、登り切らなくても下山するという事にして歩き始めた。案内板はないが、道にペンキで矢印が書いてあったりするし、途中までは人家があるので、道を聞きながら登って行く。登山道は民家の庭先に出たりするが、全体には良く整備されている。民家が終わってから少し登った鞍部にシヴァ神を祭った寺院があった。そこまで登っただけで息が上がってしまい、私ひとりなら止めているところだが、それもできない。
その寺院のところで道はふたつに分かれているが、そこで尾根の向こう側に下ってしまわずに、山の斜面を右に登って行くと、後はTRIUNDまで一本道である。1時間おきくらいに水を売る小屋があって、道はダラダラの登りである。佐々木君というその男は、もちろん私よりは歩くのが速いから、私は「先に行ってください。」と言う。それでも私一人で歩くのに比べれば、ずいぶん速く歩いた。
いったいどこまで登るのかという問題があったが、そのうちにめざす場所が見えてきた。目的のTRIUNDは、自分たちが今登っている沢の上に見える尾根にある山小屋であるらしい、そのあたりにはチベッタンの旗もひらめいている。道は深い谷の急斜面に付けられているのだが、岩がしっかりしているし、道幅も広くて安心感があった。岩石の種類はよく分からないが、白っぽく透明感があって長方形にかけるような種類のものが主体である。
最後の登りにさしかかるところで馬を3頭連れた男に会った。馬は小型である。荷を運んだ帰りらしい。歌を歌いながらゆっくり下っていった。最後の斜面は特に急で、標高も2800mと高いから息が切れた。
この辺りの空には大ワシが数羽舞っている。白いきれいな胸毛をした巨大なワシである。そのワシがかなり低いところまで降りてくるので怖さを感じる。
そしてやっとの事で,TRIUNDの小屋にたどり着いた。頂上ではなく尾根の上である。午後2時を少し過ぎていた。
この尾根の上は風が強いためか立木がなく、草原になっていて見晴らしが非常によい。目の前にひろがる山はヒマラヤらしい岩山である。高さは4000m以上あるのだろうか。
TRIUNDという名はこの辺一体を指す名前らしいが、トレッキングでTRIUNDと云えばこの山小屋の所らしい。山小屋はしかし閉まっていた。
私たち2人の他には、私たち程度の軽装の男女2人連れと、ちゃんとしたトレッキングの装備をした4人のグループがいた。
歩くのをやめるとすぐに冷えてきたし、帰りの行程も3時間はかかりそうなので急いで下山した。それでも、マクロードガンジに着いたのは、陽の沈んだ午後5時だった。

12月08日
もう一度ダライラマ寺院に行ってみた。今日は日曜日でインド人の観光客が目立つ。
昼頃にアッパー・ダラムシャラーからバスでロアー・ダラムシャラーのバス停に下った。下る途中で道端の修理工場の溶接機を借りて、乗客を乗せたままバスを修理するのには参った。下り坂でトラブッたらどうなる事かと思う。

パターンコート行きのバスが出るまでにはだいぶん時間があるので、荷物をクロークに預けて街を歩いてみた。ロアー・ダラムシャラーと云ってもまだ尾根の途中であるが、ここまで降りてくるとチベッタンは少なくなってしまう。ヒマラヤの山々はこの辺りからの方がよく見えるようだ。
バスの発車時刻は3時45分のはずだったが3時過ぎにバス停に戻ると、すぐにパターンコート行きが1台発車した。日曜日なので臨時便が出ているらしかった。
バスを捜す場合、字が読めないから、車掌らしき人を捜しては、パターンコート行きのバスはどれかと聞いて歩くのだが、みんな親切に教えてくれる。
バスは、ひとつひとつの停留所に寄って乗客を乗せたり降ろしたりして、ずっと満員状態である。その混雑の中を車掌が行ったり来たりして料金を集めている。インドの車掌は私の知る限りでは皆男性であった。
バスは4時間かけてパターンコートに着いた。しかし、駅前ではなく、駅からだいぶ離れた夜の薄暗い街角に降ろされた。
仕方なく、暗い夜道を道を尋ねながら歩いてゆくと、駅のホームのはずれの線路の反対側にたどり着いた。他の人のまねをして、そこから線路を渡ってホームに上がる。

ホームではちょうどデリー行きの列車が出発するところだった。バスの中で、時間を気にしていた人たちはこの列車に乗る予定の人たちだったらしい。
しかし、私の乗る列車は4時間以上後である。なぜそんな列車にしたかと云えば、早い列車に乗るのは忙しいし、早朝のデリーに着いても時間を持て余すだけなので、10時頃ニューデリーに着く列車にしたのだ。
従って、この寒い駅で4時間待たなければならない。とりあえず駅のレストランで食事。ここのベジタブルカリーはおいしかった。インドで食べた中では一番おいしかったと思う。
それから、待合室のベンチに座って寒さよけにシェラフをかぶって時間を潰す。
待合室には軍人さんが多い。
軍人さんはふたつのタイプに分けられる。ひとつのタイプは、これから訓練にでも出かけようと云う予備役の軍人らしい人。彼らの服装は半分軍服半分私服と云った感じで、広げると布団になる大きな荷物を持っている。この人達は列車を待っているらしく、思い思いに布団を広げて寝ているから、明け方の列車にでも乗るのだろう。
もうひとつのタイプは、銃を持った軍人さん。頭に赤青ツートンのターバンを巻いている人が目立つ。銃は小型の自動小銃だったりライフルだったりする。この人達は、この駅の警備をしているのか、見回りらしい事をしている。現役の軍人の精悍さがある。荷物が盗まれないように見回りなどしながら、私に声をかけてくる。
「これはおまえの荷物か。おまえは日本人か。日本は金持ちな国だ。おまえの仕事はなんだ。」
不審に思われて調べられた日には、言葉の壁があるからたいへんだと思う。にこやかに、おだやかに、僧侶のように対応するのがよい。

インドの駅は夏暑くないように、風通し良くできている。シェラフを頭からスッポリかぶっていても少し寒いくらいだ。どの人も何かしら防寒用に毛布などを持っていて、それにくるまっていた。そのうちに、駅に寝泊まりしているらしい少年が床に段ボールを敷いて、売店に預けてあった毛布を出すとくるっとくるまって寝てしまった。

私の乗る列車は、時刻通りにホームに入ってきた。しかし、その混みようは半端でない。移動の兵隊さんが乗っているのである。入り口にも通路にもベットの回りにも荷物が積まれて、私のベットにも誰かが寝ている。それでもなんとかベットをあけてもらって寝ることはできた。
軍人さん達は北の国境沿いから来たらしく、しっかりした防寒支度をしていた。インド人ではないように見える人もいる。国境が定まっていないというカシミールあたりに駐屯していたのだろうか。

秋の旅(19)

2007-10-27 19:54:46 | インド旅行記
12月03日
夕方、日が沈んだ頃に、ニーザム・ムッディーン駅に到着した。薄暗い駅である。駅の外に出てオートリクシャを拾おうとしたがなかなか拾えない。一台つかまえたが値引き交渉をするとすぐに行ってしまった。なんだか妙である。それでもどうにか1台つかまえて、ニューデリー駅まで行き、メインバザールに宿を探した。

12月04日
メインバザールに泊まるのは初めてだが、確かに宿は多い。便利である。街には独特の活気があって、歩いていても楽しいし、興味が湧いてくる。
この辺りには牛が多い。ほとんど車が入ってこないために牛も住みやすいのだろう。それと野菜市場があって、売れ残りやかすの葉っぱなど、牛の餌になるモノがたくさんあるから、野放しの牛でも食べてゆけるのだろう。
ゴールデン・カフェはそんな野菜や果物の露天の並ぶほこりっぽい道ばたにあるレストランである。安いレストランだから、もちろんドアはない。風でほこりや排気ガスが流れ込んでくるテーブルで食べるのであるが、中華料理風の品が食べられるので日本人に人気のようである。
このレストランの掲示板には行方不明の日本人青年の尋ね人の張り紙がある。大学法学部の学生とある。どこにいるのか、生きているのか。インドで行方不明になったら、見つけるのは大変だろう。薬でやられてしまっているかもしれないし、病気で行きだおれてしまったかもしれない。インドは怖い場所ではないが、たとえば、東京と同じくらいには危険だと思う。
興味半分で薬に手を出して結局廃人同様になってしまい、それを助けようとした友人を傷つけた、なんて話をバラナシで聞いたことがある。

まずリカンフォームを済ませた。これで帰りの便は決まったわけだ。次にインフォメーションに行って、ダラムシャラーの気候とか、交通機関について情報をもらった。
ここでもタクシーを奨めるのには参った。ナンボかかると思っているのだろう。
それでも地域別のデータベースが用意されていて、コンピュータで打ち出したリストをくれた。私はデリーからバスで行くつもりだったが、バスは良くないから鉄道で行けとインフォメーションの人は言っていた。それで、この言葉には従うことにする。確かにバスで行くには長距離過ぎるように思えたからだ。

それから、ダラムシャラーに行くためのチケットを買いに駅に行った。午前11時くらいである。
駅の外国人専用の予約オフィスはすごく混んでいた。一応乗る予定の列車は決めていたのであるが、そこにいた日本人の話では2時間くらい並んでいるという。しかし、まあ、それくらいなら仕方がない。少し立っていれば座れるから、疲れることはない。外国人と云ってもパキスタンの人が多いのだろうか、インド人と区別のつかない人が多い。
なかにはぞっとするほどの美人もいる。雰囲気はインド人に近いだが、もっとアラビア風で目は憂いを含んだ深みのあるブルー。その目に吸い込まれてしまいそうになる。

カウンターで日本人がなにやらもめていた。あとで聞いてみると、両替の証明書を持ってこなかったので切符を買えなかったとのこと。彼らは、『地球の歩き方』の編集者だという。立派なカメラをむき出しで首からぶら下げているし、そう言われればそうかなと云う感じの人たちである。メンバーは3人くらいだった。「切符が買えなかったことによって予定がくるってしまったら、ここの責任にして悪く書いてしまう。」とか言いながら食事に行ったがそれっきり戻っては来なかった。

ダラムシャラーの最寄りの駅はパターンコート駅。鉄道の幹線にある大きな駅らしく、急行列車が数本走っている。
そして2時間近く並んで行きと帰りの切符を買ったのだが、ふと考えてみると午前0時25分発の列車のチケットを買うのに前の日の日付を指定してしまったことに気が付いた。気づいたから良いようなものの、こういった基本的なところでミスが出るというのは情けない。
仕方なく、キャンセルの用紙と予約の用紙に再び記入して、また1時間半並んでようやく切符を手に入れることができた。午後3時であった。

ダラムシャラーはだいぶん寒そうである。ゴールデンカフェで会った日本人は、雪でバスが行かないと聞いたとか言っているし、インフォメーションの人も寒いという話はしていた。私は薄いセーターしか持っていないから何か着るモノを買わなければいけないのだろうかと思うが、必要なら現地で買えばよいと思いなおして、結局衣類を買うのはやめにした。しかし、デリーでさえ朝晩寒いほどだから、北に400km、標高2000mの場所はかなり寒いだろうとは思った。

メインバザールには、変な服装をした人がたまに歩いている。サドゥーなのだろうが、寒い場所のためか、黄色の僧服などを着ていて、手に3ッ又の槍のようなモノを持っている。どうもシヴァの信奉者らしいが、仮装行列のようでもある。こんなスタイルの人たちが托鉢?して歩いている。

日が暮れる頃に駅に向かった。オールドデリー始発の列車に乗るのである。デリーの街も交通渋滞のためか一方通行になっているらしく、オートリクシャはずいぶん遠回りして走る。いったんコンノートプレイスに行きニューデリー駅の方に向かい、ヤムナー川の方に走り、渋滞の中を照明で彩られた広場のような所を通り抜け、ずいぶん走ってから駅に着いた。
駅前は、やはり薄暗くて混みあっていた。ホームに入っても座る場所があるかどうか分からないので、入り口の階段にインドの人たちと一緒に腰掛けて時間を潰す。入り口に金属探知器のゲートがあったり、警官が見張っていたりするが、駅員らしい人はいない。
そこでぼんやり座っていると、警官が棒を持って座っている人を追い払い始めた。私の座っているところまでは来なかったが、けっこう乱暴ではある。

寝台列車は9時過ぎに発車したが、スリーパークラスの車両に普通の2等の乗客が乗ってきて、3段ベットの上まで人でいっぱいになった。これにはまいったし、いったいどうなる事かと思う。
しかし一応決まりはあるらしく、ある駅を過ぎるとそう云った客はいなくなり、チケットを持った客だけになった。持っていない客は車掌が出入り口の通路まで追い出すのである。それでやっと寝台車らしくなった。

12月05日
朝、明るくなるにつれて外の景色が見えてくる。まるで日本の秋のような風景である。まだそれほど寒いと云った感じはない。
パターンコートについては全く情報を持っていないから、駅に着いてみないとその先ははっきりとは決まらない。狭軌の鉄道があるらしいが、バスもあるらしい。どちらでも良いと思う。まだ朝である。便はいくらでもあるように思っていたし、遅くても昼過ぎにはダラムシャラーに着くつもりでいた。

パターンコートからダラムシャラー方面に向かう狭軌の列車は、到着したのと同じホームの先端から発車していた。切符を買うのに走るほど乗り継ぎはスムーズだったが、混んでいて座れない。なんでこんなに混むのか分からない。乗客はインド人ばかりでチベッタンの顔は見えない。乗っている人々はインド人といっても肌の色の白い、目の青っぽい人が多く、南の地方ともデリーとも少し違った雰囲気である。

この狭軌の列車は8時40分発であったが、9時頃に動き出した。車両は確かに小さい。車幅は2mくらいにみえる。中央部分の左右にドアがある。
乗客がいっぱいでドアを閉めることができないほど混んでいる。
トイレも付いているが、使う人はほとんどいない。駅に止まったときに車両から降りて、線路脇で立ち小便する男の人が多い。
スピードはゆっくりである。早くても時速40kmくらいだろうか。列車は少しずつだが確実に勾配を登っている。
窓もドアも開け放たれているが、別に寒いわけでもない。線路脇には秋の花も咲いているし、南国風の木々も自生している。
しばらく行くと大きな湖があった。線路沿いの家の造りはデリーなどとはずいぶん違っていて、スレート葺きの家が多い。天然のスレートだから、当然屋根に傾斜をつけるわけで、遠目には、瓦葺きの家のように見える。
線路は単線で、1時間半くらいに一度、下りの列車とすれ違う。すれ違うときはこちらの上りの列車がいつも待つことになっているらしい。
駅に止まったときに車両から降りてみた。レールの間隔は80cmくらい、レール自体は当たり前だがしっかりした造りの本物である。また、この列車にも1等車のような車両が付いていた。ゆったり行くならそちらの方がよかったかもしれない。

線路は山沿いに蛇行していて、トンネルはほとんどない。
そして結局、カングラ・マンディールという名の駅まで4時間以上かかった。途中から座れたから良かったものの、予想外に時間がかかってしまったと思う。
カングラ・マンディールは小さな駅で、そこからさらに、ダラムシャラー行きのバスの出るバスステーションまでは2kmくらいある。このカングラマンディールというのはヒンドゥー教の寺院の名前で、そこに観光客が集まっているようであった。
この辺りまで来てもチベッタンの姿はほとんど見かけない。

カングラ・マンディールのバスステーションからバスに乗り、30分ほどでロワー・ダラムシャラーについた。ここはもう山の中腹である。ロワー・ダラムシャラーのバスステーションはなかなか立派で、多くの人で賑わっていた。ここまでくると幾らかチベッタンの人たちが見られるようになった。
亡命チベット政府のあるアッパー・ダラムシャラーへはさらに別のバスに乗って、また20分くらい登る。

検問を通り小さな教会を見ながら急坂を登りきった所がアッパー・ダラムシャラー。標高は1800m。ここも山の斜面の途中である。平坦な土地があるわけではなく、斜面につきだした尾根の上に小さな街ができていた。どことなく、奈良の吉野山の雰囲気に似ている。

例によってホテル探しからはじめる。最初にホテル・チベットに行ってみた。安い部屋でも1泊税込みで440Rs。ディスカウントは全く受け付けない。受付のおねえさんは、まるで日本人のような雰囲気のチベッタンの娘さんである。一応部屋を見せてもらったら、立派な部屋であった。しかし高いので、他をあたってみることにした。
2軒あたってみたけれど、あまりよい宿はなく、結局またホテル・チベットに戻った。このホテルの部屋の造りはかなり上等である。シャワー・トイレの造りも良いし、窓も広い。しかし、値段を考えれば二重丸のホテルである。ここのレストランは手頃な値段でチベット風のおいしい物が食べられる。

さて、どちらの道を行けばダライラマの住む場所へ行けるのかと散歩しているうちに夕暮れになってしまった。
このアッパーの街だけはさすがに亡命チベット政府の本拠地だけあってチベッタンの人が多い。
気温はそれほど低くなくて、日本で云えば秋の半ば過ぎ、紅葉前の気候である。

12月06日
シェラフだけかけて寝たら明け方寒かった。それで上から毛布をかけたらちょうど良くなった。
料金が安いのは、部屋の真上がレストランだからで、宵のうちは少しうるさかったが、真夜中から明け方にかけては本当に静かだった。
日が昇ってから屋上にでてみると、近くの緑の山の向こうにうっすらと雪をかぶった高い山が見えていた。

ゆっくりの朝食を食べてから、ダライラマ・テンプルの方に歩いて行ってみた。バス停のある小さな広場がこの街の中心で、そこから南に向かってのびる尾根の鞍部の上に、2本の道が家2軒ほどの間隔で平行して走っている。そのうちの右側の道を行くとダライラマ寺院に行ける。
ホテルから少し歩いた左手に、マニ車で周囲を囲んでいるラマ教寺院があって、チベッタンのおばさん達が参拝している。寺院の建物の中には大きなマニ車があって部屋の壁は仏画・仏像・灯明で飾られている。
通りを小豆色の僧服を着たラマ教の僧侶が2,3人で連れ立って、あるいはひとりで思い思いの方向に歩いて行く。その通りに面して土産物屋が並んでいる。
しばらく行くと道はピークを右に巻いて、人家が少なくなるが、ピークを過ぎるとまたひとかたまりの建物の集まった鞍部に出る。ダライラマ・テンプルはこの先の丘の上にある。
このあたりにはとりわけラマ僧の姿が多い。僧衣の赤っぽい小豆色は良い色である。ラマ僧の僧衣の生地は寒冷な場所で過ごせるように厚めの物である。彼らはほとんど革靴を履いている。

ダライラマ寺院はそれほど大きい寺院ではない。鉄筋2階建てくらいに見える。その向かいに守衛のいるしっかりした門があるのでその先にダライラマがいらっしゃるのだろう。寺院の前は公園風になっていて、行事の時にはここに信者が列を作るのだろうと思われた。
寺院の見所は2階部分にあるふたつのお堂である。
西側にある部屋には、すばらしい壁画が描かれている。ダラムシャラーにダライラマたちが逃れてきたは1950年代である。したがって、この寺院自体新しい物だから、この壁画の作者も現代の人のはずであるが、その絵のすばらしさと色彩の豊かさは伝統の力を充分に感じさせる。左右の壁のマンダラはすっきりした感じで現代的でさえある。いつまでも見ていて飽きない。
中央の部屋が本堂らしい。部屋の向かって左側には閻魔大王のような神様と十一面観音のような仏様の大きな像が並んでまつられていた。これも新しく作られた感じの像である。全体に新しく、しかも信仰のしっかりと生きている感じがここのすばらしい所なのだろうと思う。
この寺院は山の斜面から南に張り出した尾根の上にあるために、周囲の眺望もすばらしい。

ダライラマ寺院からの帰りには丘の東側を巻いて戻る道を選んだ。この道は途中から人ひとりがどうにか通れる道になってマクロードガンジに抜けていた。この道の下の斜面にもチベッタンの僧侶達の宿舎が並んでいた。

電話をかけに電話屋さんに出かけた。店番は男の子のような女の子で、大人びて落ち着いていた。電話をしていたのは、がっしりしたからだつきの、30歳くらいの僧侶とその弟子らしい20代そこそこの女性の僧侶である。店番が云うには男の方はスワミだという。スワミとは優れた僧侶のことを指すのだろうか。たしかに、大きな子供のように天真爛漫で人柄の良さそうな男ではあった。女性の僧侶は頭を丸めていたが、とても美しい人だった。

秋の旅(18)

2007-10-21 16:36:58 | インド旅行記
11月28日
今朝のダルシャンでスワミにビブーティーを出していただいた。はじめてである。
それからハンカチを使っていただいた。私は5人目だったが、それでもビブーティーを充分に私の手の中に載せていただいた。不思議なものである。ビブーティーはスワミの手にできてから配られるのではなく、信者に渡す分だけが、必要なだけその都度スワミの指先に現れるのではないかと思える。なんかすごく感激してしまった。場所は、マンディールの正面に向いた位置で、グループの人がずらっと並んでいたのだ。
生誕祭の前からいまいちうまくいっていなかったものが、全てパッと解消されたような、みんなとても幸せな気分になれた。
例のオーラが見える青年は感激したらしく涙を溢れさせていた。実際スワミの力はそのようなものなのである。彼があのように感極まって涙を流してしまうのは、相当強い霊感を受けたからだろう。私は鈍いから、なかなかそうはならない。
そう云えば以前、11月15日くらいだったか、ビブーティを出している手元を見ていたら、その時距離は5メートルくらい離れていたのだが、ビブーティを出す瞬間にその手の所が鈍く光って見えた。フラッシュと見間違えた可能性が全くないとは言えないが、その位置にカメラはなかったし、光の色もフラッシュにしては赤っぽい感じがした。
その話をグループの人にしたところ、人によってまたその人の状態によっていろいろな見え方をするようだ、との事。サイババの起こす現象は、同じ現象でも見る人によって少しではあるが違って見えているのかもしれない。
もらったビブーティはハンカチにくるんで大切にしまった。
ビブーティをいただくだけでこんなに感激してしまうとは思わなかったが、オーラの見える青年に影響されたようで、バジャンが終わってもしばらく広間に座ってその余韻をかみしめてしまった。
ちなみに、今日が本当のスワミの誕生日だという事で、ケーキが用意されていた。本当の誕生日が別にあるという事が理解できないのだが、まあ、良い日を選んで誕生日にするとか、そういったこともあるのだろう。

11月29日
今朝は、スワミに声を掛けていただいた。「どこから来た?」「JAPAN」「JAPAN?」。彼は知っているのに聞いてくれるのだと思う。
でも、私の口からインタビューをお願いすることはできなかった。一度呼んでいただいているのに、またお願いすることなど欲張りすぎに思えたのだ。
そして、二日続きでビブーティをいただいた。ただ祈るのみであった。二日も続けてなんて、こんな事は珍しいと、あとでグループの人が言っていた。

バジャンの練習をするというので、アシュラム内のグループの人の入っている部屋に行ってみた。細長い8畳くらいの部屋を4人が使っているらしい。ベットのない部屋である。部屋の隅にそれぞれの荷物をまとめてある。窓際にスワミの写真が飾ってあり、香が焚かれている。歌われたバジャンは、インドの有名なものと、日本製のもの。

11月30日
今日は午後のダルシャンで最前列に座ることができた。三日続けての最前列である。とても不思議な感じさえする。
もう充分にサイババと一緒に過ごすことができたという満足感があった。これ充分だという気持ちと、もっともっと近づきたいという気持ちの両方が混ざり合っている。

ホテルの料金を支払い、荷物をまとめ、これからの旅に必要のないものはグループの事務所に置いてきた。

12月01日
朝のダルシャンに出てから、宿を引き払った。
宿を出る前に、同じ宿に宿泊しているグループの女性に声を掛けてみた。最近あまり部屋を出ていないようで、今日もまだバジャンの前の時間なのだが部屋にいるようだったからだ。
部屋から出てきた彼女が言うには、風邪の菌がリンパ腺に入って2,3日動くこともままならなかったそうだ。しかし、回復してきたという。あと数ヶ月はプッタパルティーに留まるつもりだそうだ。

12月02日
これでバンガロールともお別れだと思うと、少しばかり寂しい思いもある。プッタパルティでの日々は私にとって宝物であったと思う。
しかし、どの道ここにいつまでもいるわけにはゆかない。
まだ薄暗い朝の駅に向かって歩きながら、そう思う。

寝台車の部屋は2人部屋で、クーペと呼ばれるタイプの客室である。
私のベットは2段ベットの上段である。しかし、寝るとき以外は下段のベット兼シートに座っていることもできる。同室の紳士は私と同じくらいの年齢のおだやかな感じの人である。
広い個室に2人だから、ずいぶんゆったりした感じだ。洋服のロッカーと食事用に小型のテーブルもあり荷物をおくスペースも十分ある。窓は大きな一枚ガラスで薄茶色のUVカット。そのために外の景色は秋のように見えてしまう。このガラスは、外から見ると中が全く見えないようにできている。そのためもあって、ホーム側から見るとあまり良い車両には見えないのだが、車内のつくりはまずまずである。

走り出してしばらくすると、食事の注文を聞きにボーイが来た。どのくらいの値段なのか少し不安であるが、あんまり貧乏げに旅するのもつまらないので、同部屋の紳士と同じ物にする。
もちろんこの列車には、食堂車が付いているからそちらに食べに行っても良いのだろうが、車両が少し離れているので面倒である。それで、ボーイに注文するとボーイが運んできてくれるのだ。出てくるものはアルミで包まれていて飛行機の機内食のような感じである。見た目は機内食ほどきれいではないが、味は機内食より良かった。味がよいのは、車内で調理しているからだろう。
朝食が終わると飲み物を聞いてきて、昼食の注文を取って行く。
それから、別の人がシーツと枕と毛布を持ってきた。最後に車掌がチケットのチェックに来て一通り終わり。

最初の駅はバンガロールから3時間くらいのダルマバラム。バンガロールよりもこの駅の方がずっとプッタパルティに近い。50kmくらいである。バスの数も多い。この駅から乗ればもう1日プッタパルティーにいられたわけだが、切符を買うときにはそれをよく知らなかったし、バンガロールにもう一度寄っておきたい気持ちもあった。
ダルマバラムは小さい駅である。しかし、ここからわずか50km先にはサイババがいる。

列車は、乾いた感じの土地を北に向かって走っている。だいたいは畑で、周囲に木が並んでいたりする。あまり人影は見えないし、人家も少ない。デカン高原は広大な平原なのだと実感する。水さえあれば充分に穀倉地帯になるのだろうが、どの程度の雨量があるのかと思う。

この列車は、ニーザム・ムッディーンまで2400kmを35時間くらいで走りきるから、車中一泊である。これだと割に楽ではある。やはり、車中で2晩は少しきつい。
午後になって駅のない場所で列車がしばらく止まった。はじめの話では、機関車が線路からはずれたとか言っていたが、本当はストライキであったらしい。春の旅でもストライキがあったことを思い出した。

アシュラムでもらった文庫本森本哲郎の『人間へのはるかな旅』を読む。興味深い内容で退屈しない。今私が読むべき本であるような気がする。読みながら、あるいはこの本はスワミが私に与えてくれたのではないかと思う。

秋の旅(17)

2007-10-21 15:04:58 | インド旅行記
11月23日
生誕祭当日。ずいぶん早く起きて行ったつもりだったが、もう千人以上の人が並んでいた。もちろん男性だけで、である。女性の方も同様だろうから、マンディールに入れるかどうかぎりぎりのところかと思う。マンディールの周囲に場所を決めてダルシャンラインを作っているのだが、南側の広場、東の通路、北の広場もすでに一杯で、結局私はインディアンキャンティーンの前の列に並んだ。まだ5時前である。その後も人はどんどんどんどん集まってきて、アシュラム中人で溢れかえるようになった。
普段ならダルシャンラインになれている人達が多いから、待たされても問題ないのだが、この日ばかりは違っていた。6時頃になっても何の音沙汰もないものだから、列を作って座っていた人達が立ち上がってマンディールに向かって動き出してしまったのだ。これでもう収集はつかなくなってしまった。セバダルの人の数は知れているから、動き出した群衆を制することはできそうもない。

私はその時点で式典に参加するのは止めて、宿に戻ることにした。式典を遠くから見ることに、それほどの興味はなかった。
しかし、外に出るためにガーネーシャゲートに行くのがたいへんだった。
やっとのことで宿に帰り着いたが、疲れが出てそのまま寝込んでしまった。風邪がぶり返したらしい。寝起きに寒いところでほこりを吸い込みながら座っていたのが利いたらしい。

11月25日
23日24日と二日寝たので、体調はずいぶん回復した。朝からダルシャンに参加する。やっと静かにダルシャンを受けられると云う感じがする。
インディアンエアラインのオフィスに行って、ゴア~デリー間のチケットの依頼をした。依頼をして宿に戻ってから、もう少しアシュラムに止まるべきではなかったか、ゴアに行っても何もないし、この旅行の目的はサイババなのだし、とつまらないことをまた考えた。そして結局、チケットが取れたら、それはスワミがゴアに行った方がよいと言っている、チケットが取れなかったら、それはスワミがもう少しアシュラムに留まれと言っていると解釈する事にして、落ち着いた。全てはスワミのご意志であると、少なくともこの旅においては思える。
 
11月26日
航空券は取れなかった。私は少しほっとして、航空会社の人に「スワミが私にここに留まるように言っている。」とうれしそうに言った。航空会社の人は笑っていた。
それで今度は、デリーに帰るための列車のチケットの予約をするために、バスターミナルに行った。ターミナルは生誕祭の名残でまだ少し混雑していた。しかし十日先の列車のチケットを買うことに支障があるとは思えなかったが、聞いてみたら、すでに売り切れだという。
日本に帰れなくなっては一大事。それで、どんなクラスでもいいですと言ったら、12月2日のAc1stクラスになってしまった。100ドルを超えるチケットである。
とにかく、これで帰りの手配はできたわけである。日本には帰れそうである。

しかし、デリーで一週間時間を潰すのはもったいないような気がした。頭に浮かぶのは、ジャイプル。イスラム圏の、砂漠の雰囲気のある観光都市である。行ってみたいと思う。
コーベット国立公園。ゾウサファリがあって野生の虎が見られるかもしれないところ。ジャイプルとコーベットを組み合わせればちょうど一週間だろう。ゾウサファリには興味がある。日本で旅の計画を立てるときに、いつも頭にあったのはゾウに乗ることだった、しかし、結局まだその機会がない。しかし、ほこりっぽい砂漠の空気や、ゾウで歩くインドの草原がホントに楽しいかどうかあやしいものではあると思えたりする。
デリーでぶらぶらのんびりする方がよいかもしれない。そう思ったりもする。しかし、デリーにあまり良い思い出はない。それにデリーには、たいして見るべき所もないようだった。
そのほかに行くところと云えば、ダラムシャラー。しかし、単にダライラマがいる所と云うだけで、ガイドブックには地図もない。行ったらつまんない所だったという事にもなりかねない。まあそれでも良いのだが。
ダラムシャラーを日本の神様の師匠の方は、プッタパルティーとはまた違って霊的な感じのする場所だと言っていた。しかし、別の人の話では寒いだろうと言う。それに遠い。バンガロールからだと3000kmである。列車で旅する距離だろうか。それでもダラムシャラーにひかれる。行って行けないことはないと思う。

オーガニゼイションの団体さんが、帰った。
それから、グループのミーティングは夜の7時半から事務所の建物の前で行われている。昼間公然と日本人が集まって行動すること自体を自粛しているのである。夜集まるのだったら、まだ昼間の方がよいのではと思ったりもする。
アシュラムには現在かなりの数の日本人が入っていて、その中には問題を起こしているグループのメンバーも入っているらしい。
そんなこともあって、いろいろと気を使ったり心配したりしているらしい。
もっとも、日本人だと思っているとシンガポールチャイニーズだったりするので、どの人が日本人なのか本当のところはよく分からない。
 
11月27日
工事の終わったアシュラムは静かだし、生誕祭が終わってスワミも落ち着いたらしく、ゆったりとしたダルシャンが行われている。

ウエスタンキャンティーンが開く前はよく通っていたレストランに久しぶりに寄ったら歓待してくれた。ウエスタンキャンティーンがオープンしてから、だいぶん客は少ないらしい。
日本人の件については、地元の新聞に大きな記事が出たらしく、よく知っていた。どうも知らないのは私のような英語も分からない日本人だけなのかもしれない。どのような記事が載ったのか、私の英語力では聞き出すこともできない。
この件は、銀行で話したチベッタンの青年も知っていた。日本人に風貌の似た東洋人にとってはいい迷惑だったかもしれない。彼はアシュラムの外にあるチベッタンレストランの人だったと思う。
 
博物館に行く坂の途中で、金を恵んでくれと云うおじさんにあった。ハイダラバッドに住んでいるというインド人である。帰りの旅費まで滞在に使ってしまったので、帰りの旅費が欲しいのだそうだ。身なりはきちんとしていて、お金を無心するような人には見えないのだが。
「自分も旅行者で、必要な金以外は持っていない。アシュラムのアコモデーションに相談すると良い。スワミは信者を見捨てたりはしない。」と云うようなことを言って別れた。
本当に旅費が必要なら、同じハイダラバッドから来ている人に借りれば、あとで返す事も簡単にできるはずだと思う。
黒い服の部族の人達は、まだかなりプッタパルティーに残っていて、中にはみやげ物を売ってお金を稼いでいる者もいる。思っていたより普通のインド人である。にこにこ笑って買ってくれ買ってくれと、せがまえれたりする。

グループの事務所に寄ると、旅行者が残していったものが大量に置いてあった。その中に本もあった。
ここの生活にふさわしくない書籍は捨ててしまうとのことで、その中から一冊文庫本をいただいた。そう云った厳格さに私などはなじめなかったりする。

宿のマネージャーに1日にチェックアウトする旨伝えると、「今度いつ来るか?」と聞く。「20年後。」「20年!?」「インドはとても遠いからね。」
そお、インドはとても遠い。あなた方は非常に幸せな人達だ。会おうと思えば毎日スワミはすぐそこにいるのだから。

秋の旅(16)

2007-10-17 23:28:35 | インド旅行記
11月22日
一昨日、ガーネーシャゲートを入った所で、セキュリティーの人にチェックを受けた。今までガーネーシャゲートでチェックを受けたことはなかったのだが、なぜかと思った。
いつものようにゲートを入って歩いていると後ろから呼ぶような声が数回聞こえた。しかし、まさか自分が呼び止められるとは思わなかったから、振り返ろうとも思わず歩き続けたら、私を呼び止めているのだと言う。そしてゲートの詰め所の警官の前まで連れて行かれた。
「アコモデーションの許可を受けたのか?」
「いいえ、外に泊まっている。」
「いつインドに来たのか?どこからインドに入ったのか?」
「えー、パスポートを見ますか?」
「あー、見せて下さい。」
「バンコクからコルコトに入って、それからネパールに出国して、先月の16日にバラナシに入って、24日にプッタパルティーに来たんですが。」
「日本のどこから?」
「GUMMA」
「分かりました。問題ありません。」

少しショックである。ガーネーシャゲートには常時多くの人が出入りしているし、そのなかには外国人もたくさんいる。なぜ私がチェックを受けなければならないのか。人相が悪いからなのか?挙動不審に見られたのか?
その話をあちこちでしてみると、山辺さんも、ふたりずれの日本の神様も、とにかく日本人らしい人は手当たり次第にチェックしているらしいことがわかった。どうも雲行きがおかしい。
チェックしているのは、警察官本人ではなく、私服で30歳くらいの数人の男性である。

聞いた噂をまとめてみると次のようになる。
いろいろ問題を起こしている例のグループが大挙してインドに入国したいう事。その人達がアシュラムに入ることを警戒しているらしい。それから、爆弾を仕掛けるという脅迫電話が入ったという話もある。警戒の厳しさからみれば、爆弾の電話の話も単なる噂ではないかもしれない。アシュラム内には日本人に対する悪い噂がいろいろ飛び交っているらしい。

ミーティングでも、その話がでた。
外に泊まっていた日本人のひとりは、アシュラムに入れなくなったという。理由についてはわからない。
それから、年輩のおばさんは、それまで泊まっていた宿から出されてしまったという。理由は、日本人と関わり合いになってトラブルになりたくないという事だそうだ。
状況は思ったより深刻である。
私のような無計画な旅の途中なら、また旅に出ればよいだけであるが、スワミの傍にいることだけを目的にここに来ている人達にとっては、私のよりずっと大きな問題である。
しかし、手の打ちようがない。へたに騒げば事はさらに大きくなり、最悪の場合日本人全員退去になっても仕方のない状況である。
アシュラムは善意で運営されている民間の施設である。そして我々は単なる外国人旅行者にすぎない。アシュラムに出入りさせてもらっていることに感謝こそすれ、こちらから強く要求できる立場ではない。とにかく行動を慎んで、しばらく様子をみるしかない。

そして、とうとう昨晩は、私の泊まっている宿の部屋にまで調べに来た。
ホテルや宿を一軒一軒調べて、日本人滞在者のチェックをしたのだ。
私の部屋に来たのは、夜中の11時過ぎである。制服の警官らしき人が来たが、さいわいその人は私の顔を覚えていたらしく、特に話しもせず「I know you」と言って、握手をして帰っていった。
アシュラム内の宿泊施設でも同様のチェックが行われたそうだから、徹底している。
しかし、何を基準にして、どうしようとしているのか、全く分からない。

たぶん彼らには、理由のいかんを問わず、プッタパルティーを立ち退かせるくらいの権限はあるような感じがする。
それにしても、夜中に一軒一軒調べるというのはよほどのことである。まるで指名手配犯を追っかけているようである。
しかし、日本人をさらに選別する確固たる基準は、たぶん何もないのではないか。
日本人はとんだ悪名をいただいてしまったらしい。

今日、スワミがアシュラムの外に出かけるところに出くわした。
その時、日本人らしい女性ばかり30人ほどのグループが、本屋さんの脇にずらっと並んでいるのが見えた。
こう云った場合、普通はスワミの見える場所に寄ってくるものなのだが、彼女らはそうしないで、列を作ったまま、厳しい目でこちらを睨んでいるようにみえた。
後で聞いたところでは、どうもこの人達は問題になっている日本人グループのうちのひとつらしい。彼らはこのあとすぐにバンガロールにバスで移動したらしい。アシュラムに滞在できず外のホテルを確保することもできなければ、そうするしかないのだろう。

もうひとつの話。
例の手かざし治療の教祖様が泊まっているホテルに、インドのオーガニゼイションの人が会いに行く時に、通訳を頼まれて同行した旅行会社の人の話。
この旅行会社の人は、30歳くらいの男性。この旅行会社は、信者さんが経営しているサイババ専門の小さな旅行会社らしい。
その教祖様が云うには「2000年の輪廻を経て、6ヶ月前にシャクティーパットグルになりました。」とのこと。
オーガニゼイションの人が、一度ダルシャンに出てスワミに会うことを奨めたが、その教祖様はダルシャンに出ることは拒否しているとのこと。それならなぜプッタパルティーに来ているのか、理由が分からない。結局双方の意見は全くかみ合わなかったという。

今朝は、ダルシャンラインに早く並ばなくてはと、4時を少し回った頃、ガーネーシャゲートに向かった。おあつらえ向きに小雨が降っているので、広間に早く入れてもらえるかもしれないと思った。ガーネーシャゲートが開いたのは、4時半頃、雨降りなので人の列は、広間の脇のひさしの下と、その向かいの建物の下にできていた。それで私はひさしの下に並ぶことにした。
ゲートが開いてすぐアシュラムに入ったのにすでに大勢の人が並んでいた。生誕祭の前日だから、アシュラムに滞在している人も普段よりだいぶん多い。

列に並んでからあまり待たずに、すぐに広間に入れてもらえた。
ずいぶん早く入れてもらえたと思ったが、入ってみると指定された座る場所が普段と違う。
広間の東側に作った列の人数を数えて、100人くらいが入ったところで、広間に人を入れるのは打ち切り。
そのうちに、ダルシャンの時広間を管理するセバダルの人達が入ってきた。しかし、まだ彼らが配置につくわけでもない。広間には掃除のおばさんがいるし、生誕祭用の飾り付けの手直しをしている人もいる。どうも、私が並んでいたラインはダルシャンラインではなく、何か別のラインであったらしいと気づく。
しかし、並んでしまった以上は、はじめからそのつもりで並んだような振りをするしかない。
私のほかにもその列をダルシャンラインと思っていた人はいるようで、質問している白人の男性もいた。

これからどうなる事かと思っていると、マンディールに案内された。

マンディールというのは、寺院の事である。ここには以前2回入った事がある。午後のバジャンの後のメディテーションの時である。
マンディールは、二百人も入ればいっぱいになるほどの大きさである。祭壇の位置には、シルディーのサイババとスワミの写真が飾ってある。
メディテーションの時には、そこでしばらく瞑想をするだけであるが、それでもじわっと感じるものがあった。スワミの力は、距離や時間に関係なくあらゆる場所・過去未来に行き渡っているはずだが、私のような者は、マンディールなどのスワミに関係のある場所で、わずかながらそれに触れることが出来るのだと思う。

そして朝、これからマンディールで行われるのは、メディテーションではなくオームカーラムと呼ぶそうである。
マンディールの中は薄暗い。私のような外人には、セバダルが懐中電灯の光で座る場所を指示してくれる。
我々は、普段ダルシャンラインで5時15分頃からオームを21回全員で唱えているが、それをマンディールの中で行い、そのあと特別な歌を歌うのである。神様を目覚めさせる祈りの歌だというその歌を、専門の女性がリードをとって30分ほど歌った。これは、とてもすばらしい経験であった。
毎朝やっているのだろうが、朝が早いのとダルシャンラインに並ぶ時間に重複するので、知らなかっただけなのだ。オームカーラムを終えると6時半くらいになる。この頃には、広間は人でいっぱいになっている。オームカーラムに参加した人の多くは地元のインド人らしく、ダルシャンには出ないで、外に出て行く。私のようにダルシャンに参加する者は、広間の後ろの方に座る事になる。

秋の旅(15)

2007-10-14 23:25:41 | インド旅行記
11月18日
ゴアに行きたくなった。バンガロールに出て、列車に乗ってゴアに行き、海を見ながら数日のんびりして、それからボンベイに行き、ボンベイから飛行機でデリーに行く。良いアイデアだと思う。ゴアから直接デリーならもっとよいかもしれない。
今度インドに来る時は、ボンベイイン-ボンベイアウトなんていう事になるのだろうが、それがいつになるか分からない。

アシュラムに、黒い装束のインド人が大挙してやってきた。たぶんひとつの部族だろう。男性だけであるが、小さなかわいい女の子がひとりいる。やはり上下黒である。あまり豊かな人々ではないようだが、集団としてはとてもまとまりがある。総勢50人以上の集団である。彼らがどのような集団なのか訪ねたいと思いつつ、何と聞いたらよいのか思いつかない。

オーガニゼイションの団体さんが来たのでミーティングはしばらくしないとの事。それでも1日に一度くらいは事務所に顔を出すことにしている。
この事務所の入っている建物からの眺めはすばらしい。北側には人家がほとんどなくまばらな林の向こうに湖が見えている。南側には、博物館の建っている丘の森が見える。もちろん風通しもいい。インディアンエアラインのオフィスもすぐとなりの建物だし、国際電話のオフィスもあれば郵便の事務所もあるらしい。

グループの山辺さんという人が話した事で、先日グループのミーティングがもめた。何を言ったかというと、ある件についてスワミに手紙でお伺いを立てたと言うのだ。
手紙に、これこれをする事に賛成であればこの手紙を受け取って下さい、反対であれば受け取らないで下さい、そう書いてスワミに差し出したらば、スワミはその手紙を受け取った。だからこれこれする事にスワミは賛成である。だからグループはそれに従うべきだ。そう言ったのである。
これには弱った。スワミが手紙の内容を受け取る前から分かっているというのは、信者の定説である。受け取ったのだから賛成はスワミの意志である。なるほど。
しかし、また一方で、スワミが、手紙を受け取ったからと言って、その手紙に書いてある願いが全て叶うわけではありません。スワミには人間にははかりがたい不確実性があります。信者はそれを楽しみなさい、そうおっしゃっていたはず。手紙を受け取ったからといって、それで、スワミがこれこれした方がよいと強く意志表示をしたと解釈すべきではない。反対はしなかった、ただそれだけである。
それに、そう云ったお伺いを、山辺さんが世話人とも他の誰とも相談することなく、ひとりの判断で行なったことに疑問を感じる。それは、グループとしての活動から逸脱しているのではないか。まあ、確かにそうだ。信者の総意として、お伺いする方がよい。
結局、インタビューに今度呼ばれたときに、その点をスワミに直接確認してみるのがいちばんよい。そうすればスワミの奇跡も確認できるかもしれないし、スワミの気持ちもはっきりする。いちばん危険なのは、こういった方法で神の意志を伺い、神がこう云ったのだからそれは絶対だと主張することだと思う。最終的に、自分達の事は自分たちの責任で決めなければならない。

11月19日
昨日から、生誕祭がはじまった。サイババの講演があったり、少しずつ華やいだ雰囲気になってきた。しかし、信者の数が多くなるにつれて、朝のダルシャンラインを作る時間が早くなり、午後も早くなってきている。
ダルシャンもいつものやり方とは違っていて、インタビューは一般信者から呼ぶことはないようで、あまりおもしろくない。

この時期には、お菓子が配られることが数回あった。たぶん信者が持ち込んだ大量のお菓子を配るのだろう。インド風の甘いお菓子である。
夕方、食事が配られたこともあった。この時は、葉っぱを糸で縫って作ったお皿がまず配られて、そのうえに、インド風の炊き込みご飯がよそられるのである。少しカレー風味で、少し酸っぱくて、豆の入ったライスである。

ウエスタンキャンティーンが開くようになって、アシュラム外のレストランは閑古鳥が鳴いている。私も、食事はほとんど中で食べているから、外ではコーヒーだけである。いつも、宿の一階のレストランで大きいカップにミルクコーヒーを頼んでいる。
ウエスタンキャンティーンを開けたり締めたりするのはスワミの指示らしい。このアシュラムは基本的には全てスワミの指示で動いている。

秋の旅(14)

2007-10-14 20:43:27 | インド旅行記
11月13日
ダルシャンでどこに座れるかが、私の毎日の最大の関心事である。朝早起きするのもそのためである。5時前はまだ暗く、宿の人も玄関のソファーで毛布にすっぽりくるまってミイラのようなスタイルで寝ている。それでも、道に出ればダルシャンに向かう人がぽつりぽつりと歩いて行くので、お茶と軽食の屋台が出ていたりする。ガーネーシャゲートの入り口の前には花を売るおばさん達が出ている。ゲートを入ってすぐの所にあるガーネーシャの像にお参りする人がいるためだ。ゲートを入ると、すでにダルシャンラインはできていて、百人程度は並んでいることが多い。いつも良いくじを引く人がいるので、その人の後ろに並びたい気もするが、グループの人が並んでいる時はその列の後ろにつくことが多い。

5時15分頃にオームを21回唱える。その後、5時半頃にマントラらしきものを唱える10人くらいの男性の一隊がマンディールから出てきてガーネーシャの前で祈った後、アシュラム一周をスタートする。唱える人はほんのひとりかふたりなのであるが、ものすごく良く通るすばらしい声である。
そのすぐ後に女性のナガラサンキルタンが、ガーネーシャの前から出発する。この時の女性の先頭をきってリードボーカルを歌うのは、白いサリーを着た背の高い年輩のおばさんである。たぶん180cmくらいはあるだろう。
このころになるとだんだん東の空が黄色く染まり始める。その後に男性のナガラサンキルタンがスタートする。女性の方は鉦とタンバリンくらいしか使わないが、男性の方は風琴も使われる。私はダルシャン優先なのでナガラサンキルタンには加わらないが、これに参加している日本人もいる。
ナガラサンキルタンがスタートする頃に、広間に入るくじ引きが行われ、6時頃には順に広間に入る。私は、貴重品をマネーベルトに入れているので、いつも身体検査をされて余分に時間がかかってしまう。しかし、マネーベルトをはずすのもトラブルの元のようなので、いつもそうしている。

ダルシャンラインの辺りの木にはカラスがたくさん集まっていて、糞が落ちてきたりする。アシュラムは緑が多いこともあって、カラスの寝場所になっているのである。インド人だけでなく外国人でも、アシュラム内では裸足で生活している人を見かけるが、彼らは鳥の糞などあまり気にしていないようである。

午後のダルシャンのためのダルシャンラインは、日陰に作られることが多い。それでもずいぶん暑いし、工事の関係でほこりっぽい。工事の方は少し遅れているのではないかと思う。生誕祭にとにかく間に合わせなければならないから、ダルシャンの時にも溶接していたり、機械が動いていたり、2階のベランダでは、サイババが下にいるのに作業を続けていたりする。

11月14日
今日からウエスタンキャンティーンがオープンした。それで、インディアンキャンティーンの2階は閉店した。ウエスタンキャンティーンのコックさんはイタリア人だそうで料理はイタリア風。肉のような食感の物が出ていたりして、おいしい。これを20Rs以下で食べられるのは贅沢なありがたい気がする。ただし、インドの人にとってはここは入りづらい場所なのだろう。ほとんど入ってこない。インディアンキャンティーンの一階の食事は食べたことがないが、お代わり自由の定食が6Rsである。インドの人にはそちらの方が口に合っているのかもしれないし、20Rsは3食分だからずいぶん高いわけだ。インディアンキャンティーンの2階のメニューでも私には充分と思われたが、ウエスタンキャンティーンが開くと、やはりだいぶん差があることが分かった。
それより私にとってありがたかったのは、インディアンキャンティーンの1階に漂っているヨーグルト飲料の酸っぱい匂いから遠ざかれたことである。

このアシュラムには、どの宗教の人も出入り自由である。ヒンドゥー教徒以外ではやはりキリスト教徒が多いかもしれない。
アシュラム内で信者のグループが集会を持つ事は黙認されている。ただし、アシュラムの他の人々に迷惑にならない範囲でのことであろうが。
バジャンの練習を木陰でやっているグループはいくつかある。ギターなどは使っても良いらしく、賛美歌のようなものも歌われている。
日本人にしても、西洋人にしても、バジャンで歌われる歌にはなかなかなじめないのが実情のようである。バジャンで歌われる歌は1回あたり15曲くらい、1日2回で30局。一週間に一度くらいは同じ歌が歌われるのだろうか。数百曲のバジャンがあって、それぞれメロディーがついている。覚えられるわけはないのだが、リードしてくれるから、現地の言葉を知っている人は、それにあわせて歌うことができるのだと思う。
しかし、バジャンで信者が熱狂してしまうと云うようなことはない。信者達は基本的にはいつもたいへんに冷静である。ダルシャンの時手紙を渡そうとして、じたばたする人がいることはいるが、それもたいしたことはない。毎日毎日スワミがダルシャンに出てきて、信者とごく自然に触れあっている事によって、こう云う穏やかな雰囲気が作られているのだろうと思う。
 
11月15日
小さな女の子どもをふたり連れた夫婦がアシュラムに来ている。小さい方の子供は、まだ自分では歩けないくらいだ。
サイババの英文を毎日翻訳している夫婦もいる。旦那さんが翻訳して、奥さんが校正している。
その奥さんの話では、サイババは子供の頃スーパーマンのように空を飛んでいたと云う話があるそうだ。サイババの子供の頃を想像するとさぞかしかわいかったろう、と言う。この奥さんに限らず、女性にはサイババをあたかも恋人のように慕っている人が多いようだ。
この旦那さんが風邪で入院した。もうひとり、若い日本の男性がやはり風邪で入院した。アシュラムに風邪が流行っているのである。
その若い男性が入院した病院の部屋のスワミの写真からアムリタが出たという話だ。グループの人も実際にそれを見て確認したという。しかし、だからといって騒ぎになるわけでもない。ここでは、そう云ったことは良くある事として受け取られている。

宿の料金が値上げされると聞かされた。450Rsだという。高い。一気に3倍である。マネージャーに下げてくれと言うと400Rsまでは下げたが、それ以上は下げてくれない。とんでもない話だが、強く拒否できなかった。多分あんまり高い値段を言われたので、実感が湧かなかったのだ。
それで他の宿を探してみた。アシュラムの東の方、ガーネーシャゲートから歩いて10分以内に新築や工事中のアパート・マンションはたくさんあるのだが、ゲストハウスは見あたらない。しかしアシュラムの北の方にはずいぶん宿があった。ガーネーシャゲートから遠くなる分少し安い。しかし、まずまずの部屋は350Rsである。それでも替えようかと思ったが、遠くなる事と、部屋が少し落ちる事を考えてやめにした。
私の泊まっているのと同じ宿に、同じグループの女性が泊まっていたのを知った。聞けば、しばらく前からここに泊まっているのだそうである。彼女は200Rsで泊まっているという。インド人の知り合いの紹介だそうだ。ということは、まだ値下げ可能なわけだ。
考えてみれば、こう云うことになったのは、私が態度をはっきりせずに、いつチェックアウトするか分からないような事を言っていたのが原因なのだ。1ヶ月泊まるからいくらにしてくれと、そう交渉していれば、問題はなかったのだが。しかし、それは後の祭り。
ちなみに、もうひとり、同じグループの若者が下の階に数日前から入っている。彼は450Rsのままだそうである。彼は、生誕祭を前にして、それまで泊まっていた宿を追い出されたと云う。その辺の理由はよく分からないが、生誕祭には多くの人間が押し寄せることだけは確かなようである。
その若い男は、人のオーラが見えるのだそうである。見えると言うよりは感じると云う事かもしれないが、とにかくそう云ったものを感じることができるのだそうである。
彼も体調を崩している。しかしきまじめだから、私のように宿の部屋でごろごろしていたり適当に栄養を付けたりしない。寝る時以外はほとんどアシュラム内で生活しているようである。

11月16日
ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」を借りて読んでいる。おもしろい。
ヨガナンダは今世紀の前半にアメリカにヨガを普及させた人物である。カルカッタの実業家の次男で大学も出ているヨガの出家者である。この人の師は、ババジの弟子であるという。ババジとは、ヒマラヤ山岳地方に住むヨガ行者で、数百年、あるいは数千年生きているが、まだ30歳くらいの容貌だという。この人の系列の様々なヨガ行者の話や、ヨガナンダが外国で会った食事をしない聖女の話など、写真入りで詳しく書いてあった。いかにも詳しく確信を持って書かれているので、つい信じたくなってしまう。
彼のヨガは呼吸法を主体とするものらしい。そう云えばダルシャンの時に見かけるドイツ人は、この本の写真の人のように、瞑想による法悦状態に入っているようだった。

インドは奥の深い国で、日本では想像もできないようなことが起きている国なのだと思う。それに比べると日本というのは狭い国で、みんなが同じように考えて同じように生きている。

11月17日
24時間バジャンを歌い続ける日があった。わたしはとても参加できないが、日本人グループのかなりの人数は参加していた。スワミは普段と変わりなく、いつもと同じ時間で現れて時間で住居に戻った。自由参加という事もあり、それほど気合いが入っていると云う感じもない。明け方早めに行ってみたが、広間にいる人の内の半数近くは居眠りをしているようであった。風邪でもひかなければよいと思った。

工事は完成に近づいて、足場の取り外しが始まった。明日から生誕祭のスケジュールが始まるのだから、ぎりぎりで間に合わせた感じである。

アシュラム内に機関銃で武装した兵士が数名いた。何事かと思う。兵士の服装は黒ずくめで、特殊部隊のよう。使っている車はブルーの乗用車であった。

今泊まっている宿の隣の宿に料金を聞いたら350Rsだという。それで、今の宿の男に明日から隣に移るといったら、300Rsでいいよという。
あとで、宿の主人同士で話し合っていた。こんな事が起きるのも、宿の料金の設定がいい加減だからだと思う。それに、アシュラムの外に関して云えば、それほど部屋が埋まっている感じもしない。それなのに普段の3倍では取り過ぎである。
しかし、2階に泊まっていたオーラの見える日本人の男性は、値下げ交渉ができずにまた別のホテルに移っていった。北の方の少し離れた場所だそうである。

オーガニゼイションJAPANが主催の百人を越える団体がアシュラムに入った。飛行機はチャーター便だそうである。事務所の入っている建物をほとんど占有するらしい。それで、前からアシュラムに宿泊している人達の多くは、シェッドに移動している。シェッドというのは体育館のような所である。貴重品の扱いには気をつけないといけないだろうと思う。
オーガニゼイションの団体さんがここに泊まるために、グループの人達は数日前から部屋の片づけや移動など準備にいそがしかった。しかし、団体さんの方はそのあたりの状況をあまり知らないようで、準備をしていたグループの人達は多少不満げであった。それにしても団体さんの人数があまりに多いので、アシュラム内でもずいぶん目立つ。

スワミは、サイババ教を創設したわけではない。彼は精神的な指導者であり、教師であると思う。サイババを自分の教師(グル)としている人は、サイババの写真を飾り、写真に向かって瞑想をするが、それは、自分の中にグルを生かし続けるためである。グルのハートを自分のハートとして、毎日の生活を送るということである。サイババが『神の化身』であるように、全ての人が『神の化身』なのであるから、サイババのハートに近づくことが、目標なのである。その過程を霊性修行というのだろう。したがって、霊性修行は個人的なものである。霊性修行に決まった形はなく、それを量るモノサシのようなものもないだろう。
そして、全ての宗教が目指すものも、結局そのあたりにあるのではないかと思う。どの宗教も『神を愛しなさい、全ての人を愛しなさい。』と云う。人間は、愛する対象にだんだん似てくるものであるらしい。愛すると云うことは、対象をありのままに理解し、その存在を認めることであろう。
現在のサイババのアシュラムは、サイババ個人のカリスマによって成り立っているのであり、彼に会うことによって受ける精神的な影響が、アシュラムを存在させているのである。したがって、現在のサイババが肉体を離れたときには、本人が予言している次のサイババ、プレマサイババを待ち望むようになるのかもしれない。
もっとも、インドにはサイババ以外に多数のグルがいるようで、サイババひとりが飛び抜けているわけでもないような話も聞く。精神面を重視する人々から見れば、サイババの物質化による奇跡は、やはりマイナスに評価されるかもしれない。

秋の旅(13)

2007-10-10 21:41:53 | インド旅行記
11月11日
毎日の生活が安定してきた。風邪はなかなか抜けきらないが、悪くなるわけでもない。生誕祭に向けてアシュラムには人が多くなり始めている。
ギリシャ人のグループが何回もインタビューに呼ばれている。同じグループである。12人ぐらいのグループで服装もきちっとしているし、背丈も揃っていて、年齢は25から30くらいか。グループとして統率が取れていることは遠目にも分かる。はっきりした目的を持ったグループのようである。
彼らは、バンガロールからプッタパルティーまで歩いてきたという話である。それをスワミは誰に聞くこともなくご存じだったという話。そのくらい徹底したグループに対してならスワミは、それなりに優遇してくれるのだろう。それにしても、バンガロールからプッタパルティーは200km。一週間近くかかる距離である。

サイババの最近の奇跡としてクマール先生が話してくれた話にこんなのがあった。
ダルシャンの時、スワミはひとりの婦人から手紙を受け取ると、その場で手紙を差し出していた他の婦人にその手紙を投げ返したのだそうである。手紙を渡した婦人は、その手紙はスワミに渡そうとしたのであるから返して欲しいと言い、受け取った婦人はスワミからいただいたのであるから私のものだと言うので、もめたそうである。それで、よくよくふたりの話を聞いてみたところ、最初に手紙を出した婦人の方は、寄付金の入った封筒をスワミに渡したのだそうである。金額は5000US$。だから返してもらいたい。スワミに渡したのであって見ず知らずの人に渡すお金ではない。では受け取った方の婦人がその日渡そうとした手紙の方はというと、生活が苦しいのですがなんとかならないでしょうか、と云う内容が書いてあったのだそうである。それで、スワミが受け取った手紙を別の婦人に投げ返した理由が分かったわけである。

輪廻転生の話もある。スワミ自身がシルディーのサイババの生まれ変わりと言っているくらいだから、ほかにあっても不思議ではない。今回聞いた話の中では、スワミにインタビューに呼ばれたスリランカの青年がヴィヴェカーナンダの生まれ変わりだったという話。これは、インタビューの後、スワミが傍にいた学生に話した事として伝わっていた。ヴィヴェカーナンダはラーマクリシュナの弟子である。
輪廻転生の発想はどこから出てきたのかと考えてしまう。肉体は親から子へ受け継がれてゆくものである。脳の機能や性格、精神のあり方なども肉体の一部分として遺伝によって同様に受け継がれてゆくと思われる。それなのに、人格の受け継ぎ方だけが、親から子へではなく、肉体の物質的因果関係とは別の次元で行われているというのだ。何か変な気がする。
『前世療法』と云う本が出版されていて、精神医学の面で効果を上げていることは確かのようだが、だからといって、前世のカルマによって今の人生が影響を受けているとか、人格の発達・向上が遺伝によってではなく輪廻転生によって進められてゆくとかが証明されたわけではもちろんない。
現象として、過去に存在した誰かの人生を自分の人生として感じてしまう人が存在するという事だけである。
別の考え方としては、この現象をテレパシーの一種として説明する事も出来る。通常のテレパシーと違う点は、受け取った情報を自分の経験として感じてしまうところだ。
前世療法というくらいだから、過去に遡ってゆく、未来にいければ来世療法なのだが、そう云った話は聞かない。そういう、過去から現在への方向性が、カルマを背負って輪廻転生するというイメージになるのだと思う。
もっとも、テレパシーと呼んでも輪廻転生と呼んでも、現象は同じなのだから、どちらも正しいという事もできる。

輪廻転生でもうひとつよく言われるのは、何らかの関係のあった人達が、転生して再び関係を持つ傾向がある事である。前世では兄弟だったが、今生では夫婦になったとか、主従の関係になったとか、である。過去に良い関係だったから引きつけられるように再び一緒になったのかと思えば、そうでない場合もあって、犬猿の仲であったり宿敵であったりする場合もあるらしい。しかし、それは、前世において印象の深かった人物のイメージを、現世の似ている誰かに投影しているに過ぎないような気もする。さらに、もっと複雑にテレパシーのネットワークが絡み合っている場合もあるかもしれないが。

スワミの特徴的なしぐさ。第1は、手のひらを上に向けて空をなでる。第2は、指で空中に何か書く。第3は、上に向けた手のひらを物を投げるように後ろに跳ね上げる。第3のしぐさは第2のしぐさに続いて行われることが多い。第4は、ヨダレを拭うように唇を拭くしぐさ。

第1のしぐさはよく見かける。まるで空中に何か手触りの良いものがあって、それを無意識に撫でている感じである。私もそっとまねしてみたら、何となく分かるような気がした。ただこのしぐさは、インドでは人前でしない方がよいだろう。不敬とにらまれそうである。
第2のしぐさは、ダルシャンの時に、信者の間を歩いていて、誰かと目があったりした後に、チョコチョコッと空中に書き留めるのである。いわゆる閻魔帳に書いているような感じである。第3のしぐさは、信者についていた悪い物をぽいっとどこか別世界に送ってしまうような、そんな感じに見えることもある。
第4のヨダレを拭うしぐさは、あまり見た目の良くない動作である。おいしい食べ物を見たときとか、実際においしい物を食べた直後とかに、そんな動作をしそうである。なぜそうなのか?あるいは、スワミの健康状態がとても良くて、赤ちゃんのように唾液がたくさん出てしまうのかもしれない。

物を出す場合のしぐさは有名である。手のひらを下に向けて、ちょうど鞠をつくような手の位置で、その手を水平方向にくるくると数回回して、ヒョイと掬う感じに手のひらを閉じながら上に向けるのである。
その他にも、手紙やインタビューの依頼を断ったりするとき、あるいは、前に出て来る人を制するときに使う両手の平を前に出した姿勢、その手のひらを顔の辺りまで上げれば、人々に答えるしぐさにもなる。
スワミの動作には、全く無駄なところがなく、歩くのは速い。しかし、目の動きなどはゆったりしていて、きょろきょろするような風は全くない。一つ一つの物や人をはっきり見ている感じである。

ダルシャンに行って私たちが期待するのは、サイババを見ること。サイババと目が合うこと。ビブーティをもらうこと。サイババに声をかけてもらうこと。サイババの足に触れることである。少しでも近くに長い間いてもらいたいと、そう思っている。
しかし、そういった欲望のようなものが、だんだんもっと大きなものに飲み込まれて、しばらくすると、ただそのスワミの雰囲気に浸っていれば幸せと思うようになる。

秋の旅(12)

2007-10-10 20:29:22 | インド旅行記
プレマサイババ
我々はたぶん神をつまりスワミを理解することはできないのだろうが、理解しようとする、つまり近づく努力は必要だし、ともかくスワミの雰囲気にどっぷり浸かってみる事によって、ぼんやりスワミが見えてくる事はあるらしいのである。
しかし、スワミの雰囲気は相当強い。たとえれば太陽のようなものである。あまりまともに当たっていると、疲れてしまう感じである。慣れるまでこちらで適当に加減することは必要かもしれない。

再び風邪気味である。ダルシャンに出る元気もなく、部屋でごろごろする。
朝はずいぶん冷えるようになった。ダルシャンラインに並んでいても、背中の方からジワッと冷えてくるので、ワイシャツをクルタピジャマの下に着ている。ショールを羽織っている人も多い。

アニ・クマール先生のお話を伺った。スワミが講演をする時英語で同時通訳する人である。学校の先生で生物を教えているらしい。
このクマール先生は日本人贔屓で有名なのだそうである。なぜそうなったのかは知らない。しかし、スワミが日本人をさして「おまえの日本人が来ている。」とクマール先生に言うそうだから、相当である。
彼は、それほど若いうちからスワミの傍にいたわけではなく、信者である奥さんに連れられてはじめてここに来た時も、アシュラムの外に滞在したのだという。科学的に物事を考え、しかもそれを学生に教える立場の人にとって、奇跡で有名なサイババは、少し距離を起きたい存在である。
それが、どんな理由か、今では家に帰る間もないほどスワミの傍にいるという。
こういう講演でクマール先生の話す言葉は、ほとんど全てスワミの言葉であると思う。充分にサイババを知り尽くした人が臨機応変にその言葉を引用している感じ。これでなければあのような同時通訳はできないと納得した。
彼の話の中で印象に残っているのは、『真理・真実も場所と時をわきまえて話すのでなければ、かえって悪い結果をもたらす』という事。『相手にプラスになるように話すのが正しい話し方』という事。相手のことを考えて、相手の立場に歩み寄って、相手に受け入れられる事を話さなければ、意味がないという事。
そう話すクマール先生の話も、薬を砂糖に包んだりオブラートにくるんだりしているように思われた。
たとえそれが真実であっても、それによって相手が落胆し悪い方向に進んでしまうような話をするよりも、相手を勇気づけて前向きに生きられるような言葉を使った方が良いという事だ。私には、耳の痛い話である。

建物の管理の事務所の留守番を一度してみたが、英語が分からないのでほとんど役に立たなかった。それでも、こういった仕事を引き受けてみると、はじめて分かることもある。
アシュラムの宿舎には、それぞれの部屋に建設費用を出した人がいる。その人はドナーと呼ばれ、使用について優先権を持っている。しかし、優先権と云っても一年中というわけではもちろんない。
ドナーでない一般の人は3人ないし4人一組でひと部屋を借りている。最長期間は2ヶ月だという。
また日本人に限っては、25歳に達しない人は、アシュラムに宿泊できないのだそうだ。かつて宿泊した大学生がメチャクチャをやらかして、アコモデーションがそのように制限してしまったのだそうである。日本人の25歳以下は子供扱いという事だ。どうも日本人の評判は良ろしくない。最近いろいろトラブルを起こしているだけでなく、以前から問題を持ち込んでいたらしい。
日本では宗教的な教育が全く欠如しているので、そのために、聖地に土足で上がり込むような、さらにもっとひんしゅくをかうことをしてしまう人が出てきてしまうのだろう。あるいは、こういったことが起きるのは、テレビでやっている海外取材もののバラエティ番組の悪影響かもしれない。
 
グループに晴海さんという30歳くらいの男性がいる。
晴海さんは事務所にいることが多いので、話す機会も多い。彼は自分のアガスティアの葉を見つけてもらったと言っていた。場所はマドラスの近くらしい。バラナシで会った人に続いてふたりめである。晴海さんが、それを当然のこととして淡々と語っているのを聞くと、本当に見つかることもあるのだと思ってしまう。見つかるべき人は見つかるのかもしれない。
ちなみに、春の旅行の時バラナシでアガスティアの葉の話しをしてくれたおじさんは、今もアシュラムに来ている。たぶんあれから一度は日本に帰っているはずであるが、またこうして、こちらに来ている。この人は現在、グループには属さずアシュラムの外に宿泊している。少し離れた安いところらしい。
そういえば、春に来たときには、スワミのアガスティアの葉が博物館に展示してあったが、今回見に行ったときには展示がなくなっていたようだ。あるいは、単に見落としたのかもしれないが、アガスティアの葉についてのトラブルが報告されて、展示を取りやめた可能性はある。

スワミの講演集を借りて読んでいる。76年の夏期講習の講演をまとめたものである。対象が大学生という事もあって、スワミはずいぶんはっきりと、学生向けの話をしている。
興味深い言葉としては「自らの神聖を忘れてしまった人間は狂った猿だ。」と云っている事。

それから、ふたり連れのあやしげな日本男児が現れた。ふたりともひげを伸ばしていて痩せた体型。少し野性的で危険な感じさえする。しかも、いかにも日本人である。旧日本軍の陸軍軍人のような、あるいは野武士のような、そんな古いタイプの日本人の雰囲気を持っている。話してみると、たいそう言葉が丁寧である。年長の方が45歳。落ち着いた話し方をする。インドのアシュラム回りをだいぶん長くしているそうである。自分の考えをしっかり表現する力を持っていて、日本のヨガ道場についても詳しい。若い方は35歳くらいだろうか。年長の師匠について歩いているという感じ。こちらも丁寧な言葉を使う。不思議なふたりである。
私は、彼らふたりを日本の土着の神様がサイババに会いに来たようにも感じた。なぜそう感じてしまうのかは分からないが、そんな感じがするのである。彼らはふたりとも白いクルタピジャマを着て、頭に白いハンドタオルを巻いているのだが、その姿が日本神話にでてくる神様のように見える。

プッタパルティーのサイババは、シルディーのサイババの生まれ変わりだという。その、次の転生の話。
現在のサイババの次のサイババは、現在のサイババが94歳?とかでこの世界を離れて、その8年後とかにバンガロールよりもさらに南の地方で生を受けるという。彼は7人?の聖人によって育てられ、『プレマサイババ』として活動する。
シルディーのサイババから、サティアそしてプレマと矢継ぎ早に転生を繰り返して、神がインドで活動する、その理由は何なのだろう。

秋の旅(11)

2007-10-08 02:54:24 | インド旅行記
午後の時間
午後のダルシャンの待ち時間に「サイババ イエスを語る」を読んでいる。
新約聖書を読んだ人なら誰でも、イエスの時代にイエスと一緒に生きた人々を思い、自分がその時代に生きていたらどうだったろうかと思ってみたりするものだ。2000年前に生きたイエスはわずか3年ほどの伝道であったから、彼に実際に会った人の数はそれほど多くはなかったろう。
なぜ、キリスト教が、つまりイエスを教祖としたユダヤの教えが、イエスの死後あのように広まっていったのか、私にはよく分からない。わずか3年ユダヤの乾いた土地で伝道をしたユダヤの男、捕らえられたイエスを弁護し助けようとする信者さえいなかった。そして銀貨30枚で売られた男。彼の地元でさえ、当時の彼の評価はそれほど高くなかったように思える。すぐに忘れ去られても仕方のない、ひとりの変わり者であった。
彼はいくつかの奇跡を起こしたが、彼よりも以前にも以後にも似たようなことを行ったと云われる人はいただろう。なぜ彼だけが救世主としてあれほど祭り上げられたのか分からない。ただ言えることは、「イエスの教え」を布教していった人々が優れていたということ。
辺境の地でわずかに3年の間布教活動をして処刑された男の物語を、救世主の物語としてまとめていった、その人物はすごいと思う。
アシュラムに来ている西洋人の多くはキリスト教徒であろう。その人達の多くはサイババとイエスを重ね合わせている。

それにしても不思議に思うのは、午後のダルシャンである。ダルシャンは4時ころに始まるのに、会場の大広間には3時少し前に人を入れてしまう。そして、スワミは3時を過ぎた頃に住居から出てきて、女性の信者の間を通ってすぐマンディールに入ってしまう。それから4時までの間、姿を見せることもあるが、ほとんどマンディールに入ったままのことが多い。我々は4時までの1時間を広間に座って待つわけだが、セバダルの指示でぎっしり詰めて座らされているから、暑いし身動きがとれない。おしゃべりは原則禁止だから、千人以上の人が、ムッとする昼下がりの時間を思い思いに過ごすことになる。
この時間の正しい過ごし方はたぶん瞑想である。瞑想している人はいる。ちゃんと足を組んで背筋を伸ばして座禅のような感じで瞑想している人もちらほらいる。そういった正しい姿勢ではなくとも、結果的に、私を含めてみんな瞑想らしき事をしているわけである。
瞑想以外では、本を読む。白い服を着た学生たちは教科書らしきものを持ち込んでいる。外国人にも本を持ってきている人が多い。
その中でも、日本人は特に本好きのようで、ダルシャンラインにいるときから黙々と本を読んでいる人が多くて、それが目立ったりする。
それ以外には、『AUM SRI SAI RAM』とか『OM SAI RAM』とかノートにびっしり書いている人。口の中で何か唱えている人。
居眠りしている人も結構いる。泣き出す子供もいる。まだ小学校に上がらないような子供には、ずいぶん長く感じられる時間であろうし、蒸し暑い。
しかし、さいわい、信者の人達はほとんど体臭がしない。それは、菜食主義のためかもしれないし、シャワーを使ってから来るためかもしれない。

この午後の時間をゆったり楽しむようになったときには、アシュラムに溶け込んでいるわけだ。

私は、風通しのよい場所に座りたいし、会場のあちこちに座って違う角度からサイババの動きを見てみたい事もあって、属しているグループの人達とは離れた場所に座ってしまうことがしばしばだった。もっとも、アシュラムの外に滞在していた私はダルシャンラインに並ぶ時に単独で並んでしまうため、結果的にそうなってしまうようでもあった。
グループのメンバーは、いつも大体同じ場所に陣取っていた。そのあたりは確かによい場所なのだ。
しかし、その場所にも欠点はある。人垣の中に入るため風通しがあまり良くないこと。マンディールの正面ではないので、インタビュールームの前辺りにスワミがいる時よく見えないこと。スワミがグルッと周囲を歩く形になるためにその都度体の向きを変えなければならないこと、などである。

秋の旅(10)

2007-10-07 00:11:54 | インド旅行記
ハンカチ
インタビューに呼ばれた翌日の午後、少し疲れた気がして昼寝をしたら寝過ごしてしまった。子供が、.興奮した日の夜熱を出すのと同じようなものである。いくつも夢を見た。巨大地震の夢、荷物をいっぱいに積んだノアの箱船のようなジェット機がやっと離陸したものの墜落する夢。しかし、どの夢もそれほど恐怖感がない。内容のわりに怖くないのだ。
十年ほど前、予知夢を立て続けにたくさん見たことがあった。その中には翌日のテレビの一場面の予知夢もあった。だから、あまり恐怖感のない夢はたとえ予知夢だとしても映画の一場面かもしれないと思うことが多い。
UFOの夢を見たりするのだから、それをいちいち将来起きる事実として受け止めるわけにはいかない。それよりもUFOの飛来をほとんど信じていず、あまり興味もないのに、なぜUFOの夢を見るのか、そちらの方がはるかに不思議である。しかもそのUFOの形はたいそうクラシックな「空飛ぶ円盤」なのである。

私のいる宿は、アシュラムのマンディールから歩いて5分とかからない。直線距離にすればマンディールから200m程度である。だから宿にいても、バジャンの声などは風に乗って宿の部屋まで聞こえてくる。そんなとき町はとても静かである。

部屋の窓から前方の建物の間にレストランのテーブルが見えるので、捜してみた。そのレストランは、狭い路地のいちばん奥にあって、ガーネーシャゲートから近いこともあってずいぶん繁盛していた。コーヒーやトーストの出来はこの辺りでいちばんかもしれない。私の宿の1階の食堂の主人はイタリヤ系の夫人だが、ここの主人も同じである。宿の部屋の窓から見えるのは、このレストランの外の階段を上がった2階の席で、そこに座る人はある程度いつでも決まっているようだった。

アシュラムでは、広間の拡張工事と平行してマンディールの2階のテラスに何か作り始めている。たぶん生誕祭向けの工事なのだろう。工事はダルシャンやバジャンの間も続けられる事がある。スワミは工事の進行がとても気になるらしく、バジャンの前などに工事現場を見ては指示を出している。スワミがどうして工事の進み具合にこれほど気を配るのかと思うこともある。

せめて、マントラを覚えようと思って、本を買った。マントラは祈りの言葉。本にはバジャンの歌詞もたくさん載っている。バジャンは神をたたえる歌。バジャンの時、その本をめくって歌い出しの歌詞で曲を捜すのだが、これは案外難しい。しかしある程度バジャンが歌えれば、毎日のバジャンがもっと楽しくなると思う。
アシュラム内の書店では、さまざまなサイババの本を売っていて、いろいろな国の言葉に翻訳したものが並んでいたが、この時はなぜか日本語の本は置いていなかった。

新しくツアーの日本人グループがアシュラムに入って、目立って日本人が多くなった。
その日の夕方、日本人向けの説明会がアシュラムで開かれた。説明してくれたのは、小太りの60歳くらいの男性で、サイババの傍でよく見かける人だ。サイババの側近のひとりだろう。
説明の中で強調されたことは、アシュラムの外へ出るな、という事。このことが、これほど強調されるとは思わなかった。確かに、わざわざ日本から来たのだから、アシュラム内で修行に精を出すに越した事はないのだが、まさか、アシュラムの外に魔界があるわけでもないだろうと思う。
しかし、説明者の話し方は、まるでアシュラムの外に非常に邪悪なものが待ち構えているかのようである。そして、サイタワーと○×△には行ってはいけないと念を押す。いったいそこに何があるのだろうかと、事情を知らない私は逆に興味を感じてしまった。
外には悪い誘いもある。また、外で出される食事は、作る人が信者でない場合があって、たとえベジタリアン料理でもその料理人の好ましくない思いが料理を通して食べる人に伝わる。だから外に行くな。そう云った話をされた。
これをそのまま受け取った人がいて、外でクルタ・ピジャマを注文してしまったのだけれど、どうしたらよいでしょうかと質問。それを取りに行くことくらいは大丈夫です、との答え。
もうひとりの男性の質問は、タバコはどこで吸えますかとの質問。外に出てタバコを吸えないのなら、アシュラムの中でどこか吸える場所はあるかと云う意味。この正直?な質問には少し間が空いたが、喫煙は悪い習慣ではあるが、どうしても吸いたいならシェッドの裏のアシュラムのスミにあたる場所で吸うようにとの回答であった。

説明会の翌日グループの人に、説明会でなぜあんなに外出をしないように話したのか、そのわけを聞いてみた。
それによると、この年の5月頃、日本から来ていたあるグループが霊感治療をアシュラム内外で有料で始めたのだそうである。金額もかなり高かったし、スワミの名前を使ったりもしたようで、当然問題になり、彼らはアシュラム内から退去させられることになった。
ちなみに、アシュラムの規則を読んでも、『アコモデーション(アシュラムでの宿泊を管理する部署)は、理由を告げることなく退去を命ずることができる』となっている。
この退去の時さらにまた、いろいろと騒動があったようである。
その一件で、アシュラムでの日本人の評判は相当悪くなったらしい。そして、今でも、それは尾を引いていて、説明会の時に名前のあがったホテルには、彼らがしばらく滞在していたり、手かざし治療をしていたりしたらしいのである。今いるのかどうかは分からない。あれだけ強く言うところを見れば、いるのかもしれない。

その翌日、今度はスワミにハンカチを使っていただいた。
ダルシャンでスワミがビブーティを出したとき、周囲の人がスワミにハンカチを差し出しているのを見て、私もそうしようと思って、昨日ハンカチを買っておいたのがすぐに役立ったのだ。ハンカチを買った次の日にすぐなんて、アシュラムに偶然は存在しないっていう事の証明?
いちばん前の列に座っていたら、少し前の所でビブーティを出して、その後私の前に来たので、ハンカチを差し出したらビブーティをそのハンカチで拭いて、投げて返してくれたのだ。
これじゃあ、芸能人の追っかけとかわらない。
それでも、例によって私は非常にうれしい。にこにこしながら外に出たら、年配の信者の人に「赤ちゃんのように嬉しがっている。」と言われた。まあ、事実である。
アシュラムでは、スワミと何らかの交流を持つことが私の目的なのであって、スワミと目があって、私の用意したハンカチを使っていただいて、そのハンカチを私にスワミが投げ返してくれたのである。そこに意味・価値を見いださないで、何のためにアシュラムに来たというのか。スワミの本ならどこでも読めるし、他の信者さん達と仲良くなるなら、スワミがいなくてもできる。ここでなければ絶対にできないことをするのがよい。もちろん、あまりやりすぎてはいけないということは、わかっているつもりではありますが。

秋の旅(9)

2007-09-29 18:05:34 | インド旅行記
インタビュー
今朝はいちばんくじの列に並ぶことができた。すごくついていると思う。ここ数日、ほとんど毎回のダルシャンで会場の最前列に並んでいる。何か、偶然以外の法則が働いているのではないかとさえ感じてしまう。
朝のダルシャンが終わってから、日本人のグループに加わることにして、事務所に行った。
それから、はじめてのミーティングに出た。最初にアサトママントラを唱える。それから、今日の言葉、これはサイババの言葉が毎日掲示板に書かれるものを訳しているらしい。それから、今日の実践、これは世話人がサイババの本から選んでいるらしい。それから、連絡事項。それと、人数確認。人数は、重要なポイントで、スワミにダルシャンの時,「HOW MANY?」と聞かれたら即答えられないとインタビューを逃してしまうかもしれない。最後に、ガヤトリマントラを唱えて終わりである。人数は、男性女性併せて20人前後である。メンバーの人数は女性の方が少し多いらしい。
私と同じ宿に泊まっている例の女性達も話を聞きに来ていたが、彼女たちは結局グループには入らなかった。「私たちは、インタビューが目的で来ているわけではありませんから。」と、妙に突き放すように言ったのが印象的だった。

午後のダルシャンでも、いちばん前の列に座ることができた。私はついている。そう云うツキが、グループに入ることによって逃げてしまうのではないかと少し心配していたが、そんなことはないようだった。座った場所は、スワミの入ってくる入り口の正面いちばん奥である。
スワミの歩くスピードはいつもずいぶん速い。ひとつひとつの動作を見ていると、ゆっくり歩いているように思えるし、けっして小走りなどしないのであるが、しかしスイッと行ってしまわれるのである。
そのスワミが今日は私の前に近づいてきて、私に!!「どこから来たのか。」と尋ねた。「日本。」、「インタビューをお願いします。」私の後ろにいたグループの人がインタビューを依頼する。私もインタビューをお願いした。「何人だね。」「19人。」。しかし、話はそれだけで、スワミはもう次に移動している。
インタビュールームに入れる人数はおよそ25人までなのだそうで、そのためにスワミは人数を聞くのである。インタビューを依頼した場合、だめなときには「ウエイト」と言ったり、手で待ての仕草をしたりするのだそうである。やはりだめか、そう思った次の瞬間、先の角を曲がったスワミがこちらを見て合図をした。私にはよく分からなかったが、それがインタビューOKの合図であったらしい。持ち物の座布団や本を抱えて、ダルシャンのじゃまにならないよう気を付けながら、マンディールの建物のインタビュールームの前に向かう。同じグループの女性達も広場の向こう側から集まってきた。
マンディールの建物の前の辺りは学生の座る場所で、信者さん達が座る床の高さよりは1メートルくらい高くなっている。インタビューに呼ばれた人は、男女別々にインタビュールームの前に座って、サイババがダルシャンを終えて戻ってくるのを待つのである。

戻ってきたスワミはそこにいる私たちにとても親しげに接してくれた。最初に女性達が同じグループなのかどうか確認をした。そして、待望のインタビュールームへ。
聞いていたとおり、6畳くらいの部屋である。先に入っていたインドの男性2人と我々のグループで20人くらいであるが、それで部屋はいっぱいになってしまった。部屋の隅にスワミの座るイスがひとつあって、我々は、床に詰めて座っている。私は部屋の入り口に近い、スワミから離れた場所に座った。とても、前の方に座る気持ちにはならなかった。この部屋に入れるだけで十分と思った。傍観者には傍観者の位置がある。
まずインド人のふたりに言葉をかけて、何が欲しいかと尋ね、指輪をひとつ取り出して与えた。ごく自然に、しかしこれから出すぞという雰囲気のうちに、あっと言う間に出してしまう。
そのインド人のふたりが部屋を出たあとは、我々のグループだけである。インタビュールームのドアの開け閉めは、スワミが自ら当然のことのように行う。部屋の天井のファンのスイッチも自分で入れる。
私はもう何も考えていない。部屋に入る前には、何を聞こうかなどとあれこれ考えたりしたのだが、この部屋の中では、まさにこの時を至上の時として味わい尽くすしかなかった。以前どうだったとか、今後どうなるとか、そう云ったことは、つまらない事であった。大切なのはこの今であって、いかに密度高くこの時を味わい尽くすかであった。スワミは「How are you?」と一人一人に、声をかけられた。ある女性は夫が信仰を持たず肉食を続けていることを改められないか尋ねた。しかし、明確な回答はなかった。ほかの女性には結婚して家庭に入ることを奨めたりもしていた。そう云われた人の中には、「私にはスワミがいる。私が愛しているのはスワミだけである。」と言う人もいた。もちろんそれは笑顔での会話であるが。
髪を少し染めた若者が指輪を出してもらった。私はそれをできる限り集中して見たつもりであったが、気づいたときにはもう指輪がスワミの手にあった。右の手の平を下にして少し動かしたのはいつものやり方である。ビブーティを出すときと同じである。物質化しているとき、サイババがその手のひらに集中していることは確かである。しかし、それ以上の事は何も分からない。それより驚いたことは、出て来た指輪がいかにも出来たてと云った感じに虹色に光を放っていたことである。どんなすばらしい宝石でもあんなには輝かないだろうほど輝いていた。もちろん、宝石を輝かせるためのスポットライトのようなものはこの部屋にはない。
仕事のことを尋ねた男性もいた。スワミは大丈夫と答えていた。
私はといえば、口に出す言葉が見つからなかった。インタビューに呼ばれたら質問しようと考えていた事がなかったわけではないのに、スワミをを前にするとどの質問もつまらない事に思えてしまった。そして私は、「風邪を引いています。」と言った。確かにこの旅で私の困っていることは風邪のことであった。しかし、その事を言うためにわざわざ日本から来たはずはないし、スワミにしても、私の心の中の混沌を感じていたに違いない。しかしまた、今になって考えてみれば、そのときの「風邪」というのは、案外私にとって本当に最大の問題であったかもしれない。アシュラムには世界中の風邪が集まってきていたし、私はバラナシ以来ずっと風邪気味であった。そのために体力を落とし、マドラスでは休息しなければならなかった。風邪は万病の元、健康でなければ何も始まらないのである。
それから、スワミは、女性全員にビブーティを出した。8人くらいの一人一人にビブーティを出し続けたのである。しかし、男性には回ってこなかったため、てっきり男性の方にも回ってくると思って準備をしていた私はちょっとがっかりした。それから、年輩の女性にスワミの着ているのと同じオレンジ色のローブを与えた。それをポイっと放り投げて与えたのもフランクな感じで悪くはなかった。
それから、もうすぐに日本に帰るという夫婦を奥にある別室に連れていって祝福した。聞いた話では、別室ではスワミはもっと個人的に祝福し、抱きしめてくれたりするそうである。
最後に、スワミは袋詰めのビブーティを全員に手渡した。人の間をスワミが歩いて一人一人に手渡してくれるのである。手渡しながら、声をかけてくれる。私に「風邪?」と問いかけてくれた。「はい、でも、問題ない。」「そう、問題ない。」そう言ってくれた。それは、私の中の混沌に対する答えでもあったように思われた。
私は最高に幸せな気持ちだったし、あらゆる質問に対して、スワミの答えが聞こえてくるような感じだった。

全部で30分くらいのインタビューが終わって、部屋から出ても余韻が全身を包み込んでいるのが分かる。インタビュールームは異次元空間につながってるんじゃないかとさえ思えた。部屋に入ってスワミがドアを閉めた瞬間から、インタビュールームは部屋ごと4次元空間を旅して、スワミがドアを開けた瞬間にアシュラムに帰ってきたような感じだ。ものすごく密度の高い空間、あるいは空飛ぶ円盤に乗せてもらった感じである。
インタビューが終わって、広間に戻ってから、バジャンが始まった。もちろんいつもと同じバジャンなのであるが、インタビューを終えた後でのバジャンは全く違っていた。感動がこみ上げてくるのである。スワミに向けて合わせた手を離すことができないような感じ、高揚して歓喜によって目が異様に輝いているのが自分でも分かる。インタビュールームは暑くなかったのに、気が付くと全身にだいぶん汗をかいている。異常なほど大きな感動の波に飲み込まれて、充実した感じに酔っている自分を感じながら、バジャンが終わってからもしばらく広間に座っていた。
宿に戻る頃には、それでも落ち着いてきたが、幸せな気分はずっと続いていた。

インタビューの翌日。グループのミーティングでは、みんな昨日の余韻をまだ楽しんでいるようであった。昨日指輪をもらった人に、その指輪を見せてもらった。リングは黄銅色でそれに白色透明の3ミリくらいの石が載っている。昼間の明るい日差しの中で見せてもらっているためか、昨日インタビュールームではじめて出てきた時のようなきらめきは感じられない。もらった人はサイズが少し大きくて緩いと言っていた。これから太るので大きめのものを出してくれたのだろうかとか、次に呼ばれたときに調整してもらえばよいとか、いろいろな事を言われていた。スワミにもらった指輪は死ぬまではずすべきではないという人もいた。だとすればなかなかたいへんである。グループには以前に指輪をもらっている人がいて、それも見せてもらった。リングは同じような材質だが、石は透明なグリーンだった。

秋の旅(8)

2007-09-29 12:15:05 | インド旅行記
グループ
プッタパルティに入って1週間目である。日本から持ってきた本もだいたい読み終わった。
気温は高め。窓を開けて天井ファンをゆっくり回しておいて、クルタ・ピジャマでちょうどいい感じ。日本から持ってきて、ここまで着てきた長袖のポロシャツは暑くて着る気にならない。日本で考えていたときは、日焼けとか蚊に刺されるとか考えて長袖を選んだけれど、インドにしろ、バンコクにしろ、カトマンドゥにしろ、風通しの良い半袖シャツがよい。それから帽子は必要だ。気温は暑くても何とかなるが、直射日光に頭をさらしていると、どうも頭が痛くなったりするし、疲れるのが早い。

メディテーションツリーに行ってみた。2月にはオレンジ色の実が付いていて鳥が集まっていたが、秋のこの時期は静かだった。メディテーションツリーはアシュラムの南の丘の中腹にあって、気根を持った大木が良い木陰を作っていて、名前の通り瞑想したり本を読んだりするのに適した場所だ。
ところで、私は瞑想というのがどうもよく分からない。私は体が固くてあぐらをかく事すら苦手であるから、座禅などできるはずもない。したがってそう云った指導を受けた経験がない。基本的には、良い姿勢を保ち、余分な力を抜き、腹式呼吸をし、何かに集中すればよいのだろうけれど、その何かがいまいちよく分からない。呼吸自体に集中してみることもあれば、身体を包む光を思い浮かべてみることもあるが、たいがいそのうちに眠くなってしまう。メディテーションツリーの下で居眠りをしたことはないが、ダルシャンの会場でスワミを待ちながら船を漕いだことはあった。

宿に、日本人5人のグループが入った。男2人に女3人。年齢はまちまちである。リーダー格の男は私と同じくらいの年齢。インドに長くいて、フリーマーケットを巡って日本に輸出するような仕事をしているらしい。彼は普段プーナにいるのだが、4人に頼まれてインドの案内をしていると云う。彼は何度かプッタパルティーに来たことがあり、他の人は初めてらしい。もうひとりの男性は頭を丸坊主にしているが、音楽関係の仕事だという。女性達の方は、エジプトに行きたい人とか、イスタンブールに行きたい人とか、日本の両親から病気が重いので帰って来いと言われて里心が付いてしまった人とか、いろいろである。彼らのインドでの旅の主題はアシュラム巡りだそうである。他にもそう云った「アシュラム巡り」の人は結構いるらしい。リーダーはプッタパルティーよりプーナの方がずっと良いから、ぜひ行ってみてはどうかという。ヨガの修行の設備だとか、周辺のレストランとかお酒を飲む場所とか環境が整っていて、自由な雰囲気であるらしい。
しかし、現在のプーナには『和尚』はいない。
そのリーダーも「もしインタビューを望むなら、例の日本人グループに属するのがよい。」と言ってくれた。

午後に、例の日本人のいる事務所に話を聞くために行ってみた。場所は、ウエスタンキャンティーンの前の道を、まっすぐ北に行った突き当たりである。事務所の開いている時間は午前10時から午後2時までと、午後6時から8時までらしい。その時間、メンバーが交代で事務所を開けている。
説明に当たってくれた人は、とても親切で、好感が持てる。
この日本人グループは、バラバラにアシュラムにやって来てバラバラにインタビューを希望する日本人が多いので、「日本人は、まとまりなさい」とスワミが言われて、それでできたのだそうである。その事もあり、グループのリーダーはスワミ自身であり、実際のまとめ役の人は世話人と呼ばれているらしい。インタビューを主な目的としているグループであるから、活動の方は自由参加が基本らしい。主な活動は、毎日午前11時から、ミーティングを30分くらい行う事と、午前午後のダルシャンにグループで参加することである。その他に、セバのできる人は各自の許す範囲で奉仕活動に参加してもらう。そんなところである。
このグループは個人でアシュラムに来た日本人が集まったものなので、直接オーガニゼイションとは関係がないようである。だから、日本にあるオーガニゼイションで活動している人もいるし、参加していない人もいる。
話を聞いたものの、私はまだ決めかねていた。ひとりでいた方がよいのではないかという思いが、まだあった。

彼らの話を聞くかぎりでは、サイババの日本人に対する期待はずいぶん大きいらしい。期待と言うよりも預言的な言葉であるらしい。しかし、あるいは、この言葉はどの国の若者にも同様に言っているのかもしれない。スワミにビジョンを見せてもらえば、それにむかってがんばろうという気持ちになるものである。
確かにサイババのアシュラムの中でも、日本人の行動は他の国の人々に比べて多少特異な感じではある。簡単に言えば、楽しむと云う意識に欠けているというのか、堅いというのか、要するにしたむきでまじめな感じである。しかし、それらは欠点ではなく美点だとは思う。

 「サイババに呼ばれた人以外、アシュラムに来ることはない。」「あなたがアシュラムに来たのは、サイババがあなたを呼んだからである。サイババが呼ばなければ、サイババに会いに来ることはできない。」そんなことをスワミが言ったと云われている。それに対していつも私の心に浮かぶのは「イスカリオテのユダもイエスが自らの使徒にしたのだ。」ということである。神の価値観は人間のそれと必ずしも一致しないのである。その事を承知していなければならない。
 スワミに呼ばれたという表現は少しばかり優越感を与えるのだけれど、別に優れているから呼んだのではないのである。心貧しい人だから呼んだのかもしれない。私も心貧しい人である。心が飢えているから、神のような存在を求めるのだと思う。現実の人間社会の疎外感にうんざりして、何かに生きている意味や自分の存在価値を見いだしたい、そんな人が心貧しい人である。まあ、それでも、サイババが呼んでくれたことに、その人は意味を見いだしたわけで、間違いなく呼ばれたのである。それは間違いない。

秋の旅(7)

2007-09-29 08:12:32 | インド旅行記
手紙
宿の一階の道路に面した部分のふた部屋は食堂と雑貨屋さんになっている。食堂はメニューもない、詰めて座っても10人くらいのものだが、イタリア風の食事ができるので、適当に繁盛している。しかし、値段は少し高い。インドで150円のスパゲッティは高級料理に属する。
愛想のないおじさんとおばさんでやっている雑貨屋さんには、日用品なら何でも揃っている。ここで手に入れた粉末の洗濯用洗剤はすぐれものだった。それまでは入浴用の固形せっけんを洗濯にも使っていたが、洗濯用洗剤はやはり全く違うのだ。その粉末洗剤を少しの水でバケツに溶いて、それに衣類を浸して30分待ってから、少し洗えばあら不思議、汚れがきれいに落ちてしまうのである。旅で汚れた鞄も靴もみんな洗ってしまって、すっきりする。
 
だいぶん体力が回復してきたようだ。ダルシャンの雰囲気にも慣れてきたし、手紙を書いてみようと思う。春に来た時には受け取ってもらえなかった。受け取ってもらえなかった理由は、自分で考えてみて何となく分かった気がする。今回はどうだろうか。今回は、日本語で書くことにした。拙い英語で書いたところで心が伝わるわけはないだろし、サイババは日本語も理解するという話だから問題はないだろう。何よりも大切なのは、手紙を書く時の私の気持ちであり、手紙を渡すときの私の心の持ちようなのである。
 
翌日のダルシャンで、サイババは、私の手紙を受け取ってくれた。幸せな気持ちでいっぱいになった。こんなにうれしい気持ちになったことは久しくなかったように思う。とにかく手紙を受け取ってもらえたのであるから、春に来た時に比べれば大進歩である。知り合いになった日本の人に「まるで子供のように喜んでいる」と言われたが確かにそんな気分であった。

アシュラム内には二階建ての立派な売店があって、アシュラムの生活に必要なモノから、みやげ物までひととおり揃えることができる。その一階にあるパン屋さんとアイスクリーム屋さんには、いつも列ができている。
それから人気があるのはココナツ売場である。1個5Rsのココナツが飛ぶように売れている。

アシュラムには、日本人のグループがある。春に来た時、ホワイトフィールドからプッタパルティーに移動するのに同乗させてもらったバスを仕立てたグループだ。他にも日本人のグループはあるようだし、私のように個人的に動いている人間もいる。
そのグループの人と知り合いになったので、アシュラムの事など教えてもらうついでに、そのグループの人のいる宿舎に案内してもらった。場所はアシュラムでもいちばん北側に並んだ建物の一階であった。そこは、寝泊まりする場所ではなく事務所風になっていたので、日本人グループが事務所を構えているのかと思ったが、そうではなく、そのあたりの建物の管理の取り次ぎを彼らがまかされていて、そのための事務所なのだそうだ。しかし、出入りするのはやはり日本人が多い。奥の部屋には布団や座布団、折りたたみの座椅子などの中古品のストックが保管してあり、薬や日本語のサイババ関係の本もあった。
ほとんどの日本人は普通の観光ビザでインドに入国しているから、半年しか滞在できないわけだが、私が春に来た時に見かけた人も何人かいた。インドの夏はさすがに暑いので、秋から春にかけてやって来る人が多いのかもしれない。
この時期のプッタパルティの気候は、軽井沢の夏の感じである。アシュラム内は良く整備されていて、緑も多い。その木立が野鳥の住処になっていて、朝晩はうるさいくらいである。

手紙を受け取ってもらったこともあって、順調な感じである。生活のリズムも安定してきた。ラジオもテレビも新聞もない生活も悪くない。
インタビューに呼ばれたいと思う。サイババの所に来るからには、誰しも思うことではある。しかし、現実にはそれほど簡単のことではない。1週間も経つとそのへんの状況はだんだん分かってくる。私が個人でインタビューに呼ばれる可能性はほとんどないだろう。それは、私の気持ちの問題でもある。私が、インタビューに呼ばれることを確信しており、それが、自身のおごりや傲慢によるものでなく、私心がなければ、スワミは私をインタビューに呼ぶだろうが、自らを振り返れば、私はほど遠いところにいるのである。
たとえば、会場に集まる3000人の信者から毎日30人をインタビューに呼ぶとして100日かかるわけだ。もちろん、誰でもかまわず均等に呼ぶわけではないから、連続して何回も呼ばれるグループもあれば、何年通っても呼ばれない人もいる。しかし、外国人の場合には、グループ単位でインタビューに呼ばれることが多いのは事実のようである。
この日本人グループの場合にも、ある程度の間隔でインタビューを受けているらしい。しかし、3ヶ月呼ばれないこともあるという。
スワミの生誕祭が近づくと催し物があったり有力な信者が来たりして、一般のインタビューの機会が少なくなると云う話も聞いた。

私がインタビューの機会を得るためには、この日本人グループに入れてもらうのがベストであろうと思う。それでも私がグループに入ることを躊躇しているのは、やはり、自分がサイババの信者であるという自覚がないためなのかもしれない。
私の場合、信仰というのは、純粋に個人的なものだと云う気持ちが強い。それを、何教の信者であるとか、誰それの信者であるとか、宣言することには無理を感じる。神はただ神であって名前もなければ姿もない。私は、神前で柏手を打ち、道端のお地蔵さんに手お合わせるが、それは、そういった具体的なモノをヨリシロにして自分の内にある何かと交流しているように感じる。
しかし、サイババは生きている人間である。正直なところ、最初は、サイババに向かい手を合わせる事にさえ抵抗を感じたのである。人は全て平等という考えからすれば、手を合わせて人を拝むという行為をして良いものだろうかと不安になったのである。
しかし、手を合わせてみると、それは相手に対して自分の意識を集中させるために適した姿勢であった。そして、サイババに対して手のひらをかざすという、あまり行儀の良くない行為までするようになった。太陽に手をかざすように、サイババに手をかざすとパワーをもらえるような気がするのだ。サイババは確かに特別な人のようである。