如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

ありもしない心にとらわれるな

2013-05-09 04:22:48 | Weblog
マハルシの提唱する、「私は誰か」と自問することによるアートマンの探求を少しためしている。何かにつけて「そのように△△△している私は誰か」と自問してみるのである。
はじめはあまり意味のない自問に思えたのだが、しばらく続けているうちに、意外とおもしろいと感じるようになった。
本来の真我をいろいろなガラクタの「私」が埋め尽くし覆ってしまっている。そのガラクタを片づけるための道具が「私は誰か」という設問である。
別に多重人格でなくとも、私の中にはいろいろな「私」がいる。それらは、生きるためにうっかりかぶってそのままの仮面だったり、自分の中に住まわせた他人のキャラクターだったりする。それらを消し去ろうとする必要はないと思うが、それが「私」の本質ではないことは、理解しておいた方がよい。
この方法はサイババの『英知』でも紹介されている。

マハルシは、ゴータマ・ブッダのように見える。思想的ということではなく、生き方が似ているように見える。
そして生き方が似ているということは、その表現の仕方は違っても、思想の本質は似ているのかもしれない。


「ありもしない心にとらわれるな」
これは達磨のことば。
人間は何かを意識するとそれにとらわれる。
意識しない時には何でもなかったものが、意識してしまったがために大きな問題になることはよくあることだ。
「心」があると思うからその「心」に囚われてしまう。そんなものは放っておけばよいのだ。


ラーマクリシュナの言葉
「人生の目的は神を見ることだ、と知る人は実にごくわずかだ」
「絶対者は、人間の限られた能力が理解しているような知識と無知を超越している。罪と徳を、善行と悪行を、浄と不浄を超越している」
「あなたはなぜ、主に委任状をお渡ししてしまわないのだ。お前のすべての心配と責任を、彼にお渡ししたらよいではないか」
これは『抜粋ラーマクリシュナの福音』からの抜き書き。
この本にはラーマクリシュナの日常の生活風景と弟子たちや様々な人との会話がていねいに描かれている。
また、ラーマクリシュナが「母なる神」と呼んでいる人格神の「言葉」もいくつか記録されている。
正確ではないが、彼の思想にはサティアサイに直接つながる考え方が多いように思われる。