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如意樹の木陰

古い記事ではサイババのことが多いです。
2024年に再開しました。

ヨハネの黙示録

2006-04-16 23:17:09 | Weblog
写真の花は、「花だいこん」。
とてもきれいな花だ。最近はあちこちに自生して増殖している。
満開の桜の下に花だいこんの花はよく似合う。

すこし「ヨハネの黙示録」について書こうと思う。ちなみに共同訳新約聖書では「ヨハンネスへの黙示」である。
私の持っている文字の大きな読みやすい新約聖書が共同訳なので、こちらの表現になじんでしまっている。

まず、サイババに関連したところでは、「黙示録にサイババのことが書かれている」と言われたりする。
黙示録19章に出てくる白馬の騎手のことである。確かにそう読めないこともない。
黙示録があまりに有名なため、証明は全く不可能であるが・・・

それから、黙示録には「666」という数字が出てくる。「この数字は獣の名、あるいは獣を表す数字であり、人間を指している」という。
しかも、「すべての者の右手か額にこれを刻印し、刻印がなければ買う事も売る事もできないようになった」という。
右手か額にICチップでも埋め込まれるようなイメージだ。
しかし、私はこれについて面白い解釈を見つけたので一応紹介しておこう。
私はこの「666」は、パチンコやパチスロの「模様が三つ揃う事」を言っているのではないかと考えている。
パチンコ台のダイヤルは右手で持つように右側にある。パチスロであれば絵柄を揃えるために意識を回転する絵柄に集中している。
「666」が揃えば(絵柄が揃えば)カウンターに行き玉やコインで景品を買い、交換所でその景品を売って現金を手に入れる。
揃わなければ(つまり刻印がなければ)買う事も売る事もできない。
つまり「666]はギャンブルという獣なのである。
新約聖書に書かれた事柄にしては、あまりにも日常のありふれた光景でありすぎると思うかもしれない。
しかし、現実に毎日数万人の人たちがパーラーと呼ばれる場所に集まり、意識を集中してパチンコやパチスロをしているのである。
その異常ともいえる精神エネルギーを黙示録のヨハネが心の通信機で受け取ったとすれば、彼には、それは獣の仕業として見えるだろう。

ノスタラダムス その3

2006-04-16 07:46:43 | Weblog
12日のブログに書いたように、ノストラダムスの「諸世紀」に私の送ったイメージが載っている件は、「それによく似たイメージ」が載っているのであって、完全にぴったりというわけではありません。

これについて、少し説明を加えておきます。
たとえば、「山田太郎」という言葉をイメージにして送ろうとしたとする。
さいわい、漢字の場合には文字ごとにイメージがあるので送りやすい。
「山」は、マッターホルンなどの山らしい山をイメージする。
「田」は、水を張った畑。しかし、水を張った畑をイメージしたら沼に見えてしまいそう。
さらに「太郎」の方は、もっとむずかしい。なぜなら人によっていろいろなイメージがありうる。
「太」と「郎」に分けて送ろうとする人もいるし、「太郎」をまとまったひとつのイメージとして扱う人もいるだろう。
別々に分けて送るとすれば、「太」は太い大木のイメージ。「郎」は男のイメージ。
少なくとも送った本人は何を送ったか分かっているので、それでもなんとかなるだろう。

このようなイメージは、どのように見積もってもあまり重要ではないと感じられるが、はたしてこれをノストラダムスは受け取って書き留めてくれるだろうか?
私が思うには、まじめにしっかり送れば、受け取ってくれる可能性は十分にあると思う。
ノストラダムスは結構律儀な人だと思うし、「諸世紀」の理解者を求めているはずである。
そして実際、「諸世紀」には大事件とは関係なさそうな、とらえどころのない詩もたくさん載っている。

さて、「諸世紀」よりもはるかに有名で、はるかに多くの人に読まれている予言書が他にある。
それは、新約聖書の最後にある「ヨハネの黙示録」である。
私にはなぜ、聖書の最後にこのような預言書が納まっているのか理解できない。
理解できないけれども、とにかく世界中の数億の人々が、間違いなくこの預言書を読み、なんらかの影響を受けているのである。
「ヨハネの黙示録」については、いつかまた考えてみたい。