
全編、金持ちや貧乏人を問わず所属する階級の中で使い物にならなくなった人々の一群である、階級脱落者を主題にしている。『孔乙己』『白光』の中の、いつまでたっても試験に合格しない官僚候補者などはその典型だ。『端牛の節季』『髪の話』『あひるの喜劇』では、階級脱落に怯える教員の一断面を描いている。『故郷』から、階級脱落した友人の卑屈さと魯迅自身の無力感が、社会の縮図となって炙り出される。『薬」『明日』は、女性が最初から階級脱落させられている現実を示す。『阿Q正伝』は、ルンペン階級からも脱落しそうになっている阿Qの姿に、明日の自分を見出す村人たちの苛立ちや虚勢が満ちている。『狂人日記』など、階級脱落してしまった人間の最後の精神的足掻きであろう。
これには、当時の中国という国自体が階級脱落状態にあったことと、魯迅自身も階級脱落者に近い位置にあることが反映されている。そこから、中国の持つ歴史の重みと、その重みがかえって人々を根無し草へ追いやる矛盾に至る。魯迅が突き出した中国の病理を、魯迅を敬愛する毛沢東は革命という手段で制圧した。革命家など階級脱落者そのものであろうが、毒を以て毒を制したのである。
今の日本でいえば、大学教員候補とされている大学院生が、ある程度まとまりを持った層としての階級脱落者だ。あきらかに数が多すぎる玉石混交な大学院で、彼らはポストがあるのかどうかも怪しい大学教員職を目指している。そもそも権力構造が形骸化している日本社会で、大学教員に意味があるのか。大学教員自体、研究職とは名ばかりの中立を装う権力の手先でしかないのでは。目前に人参をぶら下げられ追い回す一時の精神安定より、一から世界を創造するという手応えのある道を歩むべきではないか。革命的文学者たる魯迅の呼び掛けは、今も価値を失っていない。