京都デモ情報《ブログ版》

京都周辺で開催されるデモ行進・街宣・イベント・裁判・選挙等の情報を共有するためのページです。

【書評】我々の死者と未来の他者 戦後日本人が失ったもの

2024年06月25日 | 書評



太平洋戦争敗戦と戦後日本社会の断絶は、戦後日本思想の最重要課題であり続け、数々の論者や文筆家や革命家がその断絶を埋めるべく苦闘してきた。三島由紀夫のように、割腹自殺してそれを果たそうとするものまで現れた。太田竜は断絶を辺境で補償しようとして、天皇制に回帰してしまった。多くは、戦時中の大衆の中に、戦後民主主義へ至る芽や戦後社会の箱庭を探し、架橋すべく観念操作したが頓挫した。それは、本書の中でも例示されている。ここから理解できるのは、明治時代直前や後の戦争犠牲者の中から、この断絶を埋める〈我々の死者〉を見出すのは不可能だということだ。戦後日本社会の通底音であった「トカトントン」は、今や天上から鳴り響き、〈未来の他者〉からの声を聞こえなくしている。

戦後日本の世俗社会は高度経済成長に乗ることで、太平洋戦争敗戦の痛みを麻痺させることができた。国家の側が戦前回帰を図ろうとしても、高度経済成長の波が打ち消した。しかしその神通力も3・11福島原発事故により無効化された。目下、東京五輪→大阪万博と昭和二番煎じ劇で高度経済成長が続いているような演出をしているが、より衰退させる効果しかない。それならばと、さらに遡る昭和二番煎じ劇のつもりなのか“台湾危機”を煽っている始末だ。この先は、第二の3・11か第二の太平洋戦争という繰り返ししかないだろう。行き詰った時代を打開するには、どうすればいいのか。著者は、現実を根底から変えることで、〈我々の死者〉と〈未来の他者〉を結合するしかないと訴える。理念的にはその通りだ。

具体的な実践を提案したい。それは脱原発の実現だ。エネルギー政策は社会体制や社会構造とパラレルであり、ここが変われば明治以来続いてきた富国強兵という国家プロジェクトも変更される。つまりは、明治時代以降の戦争犠牲者に新たな意味を見出し、彼らを我々の手に取り戻すことにもつながる。その影響は日本だけでなく世界中に及ぶ。脱軍事、脱借金も連動し加速する。脱原発は、福島原発事故という人類史的厄災をおこした日本人一人一人が背負う責務だろう。とはいえ、政権交代程度では脱原発は実現しない。なぜなら今の世界は、核を支配することで権力が機能する仕組みだからだ。これをひっくり返すには、「四〇〇万人」民衆の力が必要となる。こうして脱原発を実現しても、福島原発で溶け落ちた880トンもの核燃料デブリは微動だにせず放射能をまき散らす。全身の皮を剥がれた山本の痛みを、我々の痛みとして共生する覚悟が必要となる。だが「壁抜け」できるのは、ここだけしかない。

著者と私の見解で異なるのは〈未来の他者〉についてである。〈未来の他者〉について著者は想像を巡らす存在としているが、私は小学生以下の子供を見れば〈未来の他者〉は具体的に感知できると考える。にも拘らず日本人が〈未来の他者〉に鈍感なのは、〈未来の他者〉も自分たちと同じように、見て見ないフリで先送りするしかないという絶望に支配されているからだ。なぜ日本人は「気候変動問題」に対する関心が低いのか、という問いに関していえば、気候変動問題に関心を示せば当然原発問題にも関わらざるを得なくなり、戦後〈我々の死者〉の喪失を見て見ないフリすることで維持されてきた日常が崩壊してしまう、というのが答えである。


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【書評】日本哲学史

2024年05月24日 | デモ



この本を読むと、日本の哲学は手を変え品を変え、西田哲学の「無の場所」をアレンジする作業で、今日までやって来たことが分かる。それは、孤立した理性をどうにかして無の場所に誘引し、宗教に融合させるということ。天皇制と近代を併存させるためのロジックであり、神仏習合に替わる神哲習合が日本哲学の一貫したテーマなのだ。京都学派の戦争協力もこの延長線上にある。著者である藤田正勝氏はこの点を、西田の本意ではなかったなどと曖昧にしている。戦後主体性論争により西田哲学は温存され、今また神哲習合という本来の目的を回復しつつある。

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【書評】〈近代の超克〉論

2024年02月23日 | デモ



『〈近代の超克〉論』著述の動機として廣松渉は、『一旦時潮が変われば、戦前・戦時の「近代超克論」の変種や粧いを変えたファシズムに易々と罹患しかねない』(84㌻)ことを危惧し、「日本ファシズムがファシズムを否定しながら成立した経緯こそ、こんにちわたしらは注意しておかねばならない」という松本健一の文言を同項から引用しつつ、「いまファシズムの危機を蝶々したり、軍国主義の兆候を叫んでいる手合いの多くは、一朝ことあらあばそのままの位相でファシズムの担い手にな」りかねず、そのような政治勢力へ引き付けられなようにすることを挙げている。

そこで審判に掛けられるのが、東洋的無によって主観と客観の二元論的対立構造を止揚せんとする、西田幾多郎と弟子からなる京都学派だ。彼らは、「西洋哲学を突き抜けた」(209㌻)と自負する西田哲学の立場から、戦前戦中にかけて「近代の超克」という思想ムーブメントに加担した。そこで、東洋的無を具現化した天皇制に西洋近代が包摂される、世界支配イデオロギーを創出する。さらには、マルクス主義すら取り込み、資本主義批判から戦争に資する統制経済と戦時体制を正当付けた。こうして西田哲学は「近代の超克」から、日本ファシズムを形作ったことが本書で示される。

どういう訳か、戦後もこれら西田哲学各派は思想としての戦争責任や検証を素通り出来た。その一部は、マルクス主義に横滑りしたことを煩悶することで贖罪代わりとし、マルクス主義陣営に宿った。恐らく廣松は、このような西田哲学の戦後的変種に、ファシズムが温存されていることを見抜いたのだろう。本書によって〈近代の超克〉に群がった西田哲学は、その派生もろとも核心部を串刺しにされる。結果として、本書では直接取り上げられていない左翼風な粉飾を施した西田哲学の戦後的変種が、戦前戦中の西田哲学と同根であり、同じような道をたどり同じ結末に至ると見通せる。

「論者たちは、成程、哲学的人間学に定位することによって、マルクス主義における“欠隙”をも埋めようと企て、その若干の論点において、戦後マルクス主義のある風潮に先駆けたかもしれない」(252㌻)

廣松の真意が、この一文に仄めかされている。「戦後マルクス主義のある風潮」は転向問題を口実に、マルクス主義の欠隙を主体性論や疎外論で埋める体で、近代の超克を延長しようとした。結果はいわずもがな、廣松の読みの正しさを証明している。今後も『〈近代の超克〉論』は、日本ファシズムの発生機序を明らかにし、成長を阻む役割を果たすだろう。と同時に、根底的な宗教批判と哲学批判を欠いた日本思想を、社会変革の理論に据える危険性についても理解させる。廣松が同時代の戦後思想家とあまり関りを持たないようにしたのは、案外これが理由かもしれない。

「近代の超克」ムーブメントには、日本浪漫派と文学界グループも関わっている。彼らは西洋近代の極致たるマルクス主義の挫折から、「原日本的古代」「日本の古典」(194㌻)に回帰し近代を超えようとした。それは結局、天皇制に収斂し日本ファシズムの推進力になり果てた。この水路は戦後になっても中途半端な迷えるマルクス主義者たちを、「原日本的古代」や「日本の古典」の実体探しに引き込み、陰謀論や謀略論、カルト宗派、エコロジー、親鸞へと導いている。心情的な原日本的古代と日本の古典に、西田哲学が理論的構図を与えたため、これらは戦後も延命できたと考えられる。


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【書評】1968

2023年12月20日 | 書評



「現代的不幸」なる結論ありきに合わせるため、膨大な資料を切り貼りした本。当事者にインタビューすると、このヤリ口が使えないのでインタビューしなかった、という話でしかない。「現代的不幸」とは、高度経済成長という時代の転換点に起きる不安感のことで、著者が学問的装いでレッテル貼りするため作ったワードだ。マスコミによる数々の学生運動語りで、「純粋」の次に使い倒されている陳腐な解釈である。「現代的不幸」ということにしておけば、日本の学生運動を一過性のお祭り騒ぎか自分探しに貶めることができ、それ以上考えなくて済む。あの時代に対する苛立ちを抑えられない人が読めば、冷笑を浮かべ気持ちが収まるだろう。著者は、戦後日本社会が抱えた安保・沖縄という宿痾に、若者が落とし前をつけようとした苦闘から目を逸らしている。それは、今も果たされないままだというのに。

骨子や論拠が学生の小論文レベルであり、中身は政治的パンフレット。やたら分厚い本の割に、スラスラ読めるのはそういうこと。ページ数稼ぎにより、学術書としての体裁を取り繕おうとしているのではないか。もう一つ陳腐な学生運動解釈として、セクトの介入、もしっかり挙げられている。3・11以後という衰退の時代に、著者が社会運動へ関わろうとする動機と願望と役割が見えてくる。学生運動や社会運動を学問やノンフィクションとして取り上げたい人は、「自分探し」「純粋」「セクトの介入」を頭から外して、考察すべき。テレビや雑誌といったマスコミ報道も、「自分探し」「純粋」「セクトの介入」は、手軽で便利なのは理解するが陳腐になるので使うべきではない。見る側も、そのような切り口は飽きている。


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【書評】差し迫る、 福島原発1号機の倒壊と日本滅亡

2023年12月14日 | 書評




福島原発事故収束作業は行き詰っている。溶け落ちた880トンもの核燃料デブリが原子炉圧力容器直下で鎮座し、相当分が原子炉格納容器底部にはみ出している。そして、この核燃料デブリが原子炉を支えるコンクリートを溶かしたため強度不足となり、震度6強の地震で原子炉圧力容器ごと倒壊する可能性が高い。それだけでも3・11を超える大事故だが、核燃料プールを巻き込めば放射性ダストの飛散により史上類例のない惨事となる。つまり我々は、日本滅亡と隣り合わせ運任せの日常にある。この現状を本書は、科学に基づき淡々と明らかにしてゆく。

思えば3・11から12年もの間、日本社会は福島原発事故を見て見ないふりしてきた。その象徴が東京オリンピックだ。覚えているだろうか、このオリンピックが「復興五輪」と呼ばれていたことを。今となっては噴飯もので、東京オリンピックのトの字も話題にならない。復興どころか、日本の衰退を全世界にさらけ出したからだ。我々は高度経済成長の果てに突き付けられた、この敗北をいい加減認めなければならない。にもかかわらず、まだ大阪万博や札幌冬季五輪といった昭和の戦後復興二番煎じ劇を演出し、その真打である原発再推進に執着している。小型原発や核融合など悪足掻きでしかない。

読後、原子炉倒壊を防ぐことが我が国の最優先課題だと分かる。そして福島原発事故収束作業をどうするのか、考えなければならない。原子炉倒壊を防ぐにはどうしたらいいのか。核燃料デブリを取り出せるのか否か。著者は、日本の経済成長を支えた技術者らしい修繕案を提示する。けれども、無限の熱エネルギーを渇望する非合理な社会に触れることなく、技術的合理性だけ囲い込み抜き出しても通用せず跳ね返されるだろう。何せ日本は、官民一体で放射能汚染水を処理水と言い換え海に棄てる国だ。そもそも核燃料デブリを取り出すべきなのか、仮に取り出せたとして何処に保管するのか、展望は見えてこない。今の政治経済体制の下ではどの政党が政権を担おうとも、見て見ないふりを国是とする圧力に支配される。

我々は「台湾危機」などにかまけている余裕はないはずだが、フクシマという本当の危機から目を背けるためなら何でも乗るらしい。そんな日本人の都合や俗世の権益争いなどお構いなしに、その時はやってくる。崩壊寸前の原子炉を支えるコンクリートは、日々冷却水や放射線、潮風に晒されている。また、幾多の地震によるダメージも蓄積していく。本書は福島原発1号機に焦点を当てているが、2号機3号機も1号機と同様かより酷い状態だと考えられる。あえて言えばもう時間切れであり、日本社会は文明転換の捨て駒になる覚悟を持つべきステージへ移行したのだ。


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