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京都デモ情報《ブログ版》

京都周辺で開催されるデモ行進・街宣・イベント・裁判・選挙等の情報を共有するためのページです。

【書評】阿Q正伝・狂人日記 他十二篇: 吶喊

2025年05月04日 | 書評



全編、金持ちや貧乏人を問わず所属する階級の中で使い物にならなくなった人々の一群である、階級脱落者を主題にしている。『孔乙己』『白光』の中の、いつまでたっても試験に合格しない官僚候補者などはその典型だ。『端牛の節季』『髪の話』『あひるの喜劇』では、階級脱落に怯える教員の一断面を描いている。『故郷』から、階級脱落した友人の卑屈さと魯迅自身の無力感が、社会の縮図となって炙り出される。『薬」『明日』は、女性が最初から階級脱落させられている現実を示す。『阿Q正伝』は、ルンペン階級からも脱落しそうになっている阿Qの姿に、明日の自分を見出す村人たちの苛立ちや虚勢が満ちている。『狂人日記』など、階級脱落してしまった人間の最後の精神的足掻きであろう。

これには、当時の中国という国自体が階級脱落状態にあったことと、魯迅自身も階級脱落者に近い位置にあることが反映されている。そこから、中国の持つ歴史の重みと、その重みがかえって人々を根無し草へ追いやる矛盾に至る。魯迅が突き出した中国の病理を、魯迅を敬愛する毛沢東は革命という手段で制圧した。革命家など階級脱落者そのものであろうが、毒を以て毒を制したのである。

今の日本でいえば、大学教員候補とされている大学院生が、ある程度まとまりを持った層としての階級脱落者だ。あきらかに数が多すぎる玉石混交な大学院で、彼らはポストがあるのかどうかも怪しい大学教員職を目指している。そもそも権力構造が形骸化している日本社会で、大学教員に意味があるのか。大学教員自体、研究職とは名ばかりの中立を装う権力の手先でしかないのでは。目前に人参をぶら下げられ追い回す一時の精神安定より、一から世界を創造するという手応えのある道を歩むべきではないか。革命的文学者たる魯迅の呼び掛けは、今も価値を失っていない。



【書評】一九六八年と宗教 第六章 革命的抵抗の技術と霊術 ―戸坂潤・田中吉六・太田竜―

2025年02月14日 | 書評



『一九六八年と宗教』の第六章『革命的抵抗の技術と霊術 ―戸坂潤・田中吉六・太田竜―』は、太田竜というこれまで左翼の世界で黙殺されてきた人物に光を当てることで、同じように隠されてきた1930年から1968年に注ぎ込む左翼史を炙り出した。それは、戦後左翼の真の意図まで抉り出している。以下、序章と終章も読み込み論評する。

太田竜は革命的なマルクス主義者として出発しながら、最後は荒唐無稽極まるオカルティストに転落した。しかし、それは無軌道なものでも時流におもねったものでもなく、一貫した論理に裏付けられている。本書から、その論理は「大東亜戦争」(250㌻)だと読み取れる。知識人や愛国少年たちは、「大東亜戦争」をソ連アメリカ連合国に対する植民地解放=反帝国主義戦争の総力戦として描き出し、言わば戦時体制左派を形成した。敗戦後も彼らは、「大東亜戦争」の論理を『季刊理論』でお色直しし、革命として引き継ぐ。それは、太田自身が深くかかわった、日共の武装闘争に対する主体性論争の結び付きや、トロツキズムと革共同の絡み合いの中に具体化された。「大東亜戦争」の永久革命化により、唯物論や技術論は霊術と交差し世界革命を現前させる。太田竜の爬虫類人的異星人にまで至る数々の転戦は、このことを証明してみせるためであった、というのが本書の見立てだろう。

行間から浮かび上がるのは、時とともに「実践的天皇主義」(285㌻)なる霊術的世界観に傾き、二項対立の中身を空無化させようとする太田の意思である。太田の一見突飛で独特な革命家人生は、再び天皇を戦場へ引っ張り出し大東亜戦争に擬せられた革命の大元帥とするための、遍歴ではないか。この無理筋への最終回答が、爬虫類人的異星人を敵にすることだった。太田竜は60年代に、「米中対決、第三次世界大戦の切迫、革命的反戦闘争の重要性」(278㌻)を認識し世界革命を切り開かんとした。再び同じ状況を迎えた衰退する現代日本において、そこに霊術を招き入れてはならない。これこそが、ヨガや縄文やエコロジー辺りで降りず、「ロハス的生活」(288㌻)への消費を許さない爬虫類人的異星人まで突き詰めた太田竜の論理的誠実さに報いる道だ。

他にもページをめくるたび、幾多の洞察が誘発される。50年代における日本共産党武装闘争の歴史的評価の見直し、主体性論争や弁証法研究会の中から革マル派と中核派という相違が産まれた理由、ブント人脈と吉本隆明は全共闘発生過程でどのような役割を果たしたのか、戸坂ー田中ー太田ラインがオウム真理教へ至る軌跡、3・11により高度経済成長という革新的ナショナリズムの拠り所を失った戦後日本社会まで、著者の射程が及んでいることを感じる。太田による「呪術」(283㌻)は、今も通底音となって響いている。



【書評】太田竜入門 (別冊eroica 第3号)

2025年02月04日 | 書評



太田竜が主体性論争の渦中いたこと、そこから革共同結成を主導したこと、ここだけを取り出してみても、太田竜が左翼の思想と実践に大きな影響を与えたのは間違いない。共産同赤軍派や東アジア反日武装戦線など言わずもがなである。にもかかわらず、左翼界隈で太田竜の存在は今も黙殺され続けている。しかし、「太田以外の新左翼運動関係者においても、右翼的ナショナリズムや陰謀論へと転向した事例は少なくない」(7㌻)ことを思えば、太田竜から目を背けているうちは太田思想に絡め取られるのではないか。『太田竜入門』を読み、その思いを強くする。

植民地国被抑圧民衆と帝国主義内労働者を合流させ世界革命へ導くという、太田竜が打ち出した革命論は、革命主体を変えながらもモチーフ自体変わることがなかった。それは『何者かによって人類(エコロジスト期であれば万類を含む)の本質的な幸福、すなわち「生の充溢」が疎外されているという受苦的疎外論的認識』(32㌻)を起動力にしていたためである。このことが、辺境探しの果てに人類→動物類→爬虫類と擬人化できる限界まで、「類的」存在からの疎外が止まらなくなった原因でもある。言い換えるならば、太田は受苦的疎外論のドライブを誠実に突き詰めたのだ。鼻の利く売文家なら、沖縄、動物愛護、縄文、環境保護、ヨガ、辺りでストップをかけ、あとは「生の充溢」を文化人類学や心理学や哲学を継ぎ接ぎし語ることで煙に巻く。それは、今も見られる論壇処世術だ。こういった人間たちからすれば、太田竜は疎ましく視界から消し去りたい存在に違いない。

また「私の敵たちの病気を治せば、味方に、仲間に変り得るわけである」(26㌻)という、1983年時点の太田の到達点に光を当てていることも重要である。つまり太田の基軸が、階級闘争や民族解放という妥協の余地のない集団敵対関係から、医者と患者という個人同士の権力支配と協力関係に移行したということである。以降の太田は、急速に天皇へ融和していく。これには「父が漢方医の家系から西洋医学に転身した」(14㌻)ことも土壌にあると考えられる。一見ラディカルでエキセントリックな太田竜の人生は、封建遺制と西洋近代の間を揺れ動きつつ天皇制に折り合おうと四苦八苦する、日本的インテリの典型的パターンを相続したものといえる。死を間近にする太田を診察したのは、漢方も扱う東大の医者だった。その時太田は、医者からの入院の勧めを断ったという。革命家太田竜最後の意地か、それとも安心立命の境地だったのか。暗示的な話ではある。

ともあれ『太田竜入門』から、ようやく共産主義者太田竜を再認識し、歴史の中に位置づける作業が開始される。それは、日和見主義者などによってたかって有耶無耶にされ、挫折した青春ノスタルジーに捻じ曲げられている戦後左翼神話や、閉塞した戦後日本思想に風穴を開けるはずだ。



【書評】ドイツ・イデオロギー

2024年11月17日 | 書評



「実際のところ、実践的唯物論者つまり共産主義者にとって大切なのは、現存の世界を革命することであり、われわれのまえにあるものを実践的に攻撃し、変革することである」(18㌻)。この一文に『ドイツ・イデオロギー』は尽きる。では、実践的唯物論とは何か。端的に言えば〈分業を廃止する〉これである。「分業によって人格的力(諸関係)が物的な力へと転化されていること―これは、それについての一般的観念を頭のなかからたたきだすことによって廃止できるというものではなく、諸個人がこうした物的な力をふたたび自分たちのもとに従わせ分業を廃止することによってのみ廃止できる」(115㌻)。このようにして実践的唯物論は哲学ではなく、哲学そのものを批判する革命論としてある。「批判ではなく革命が歴史の原動力であり、また宗教、哲学、その他の理論の原動力でもあるということである」(51㌻)。

唯物論か観念論か、疎外か物象化か、技術か法則か、といった議論が左翼論壇内で延々なされてきたが、これらは実践的唯物論を哲学に退行させるスコラ議論でしかない。『聖ブルーノや聖マックスがさっそく現実の共産主義者のかわりに、共産主義者についてのフォイエルバッハの観念をもってくるということである。このようにする理由のひとつは、そうすることによって、かれらが共産主義をも「精神の精神」として哲学的カテゴリーとして、つまり対等の相手として攻撃できるからであり』(59㌻)。ここから言えるのは、マルクス主義神学というものがあり得ないのと同じで、マルクス主義哲学などというものもあり得ないということだ。「現実が明らかにされるとともに、自立的な哲学はその糧道をたたれる」(70㌻)。哲学というと世界や人間とは何か、抽象的に規定しようとする浮世離れした学問一般というイメージだが、ヘーゲルしかりプラトンしかり、哲学ほど理想国家の名のもとに支配と被支配の分業を正当づける世俗イデオロギーはないのである。

『ドイツ・イデオロギー』は、このようなギリシャ哲学から近代ヨーロッパ哲学に至る観念論や唯物論をひっくるめた、全ての哲学の有り様を批判するものとして示された。にもかかわらずソ連共産党や日本共産党は、ヘーゲル哲学の概念を物質に置き換えただけの弁証法的唯物論へ後退させた。新左翼も概ねフォイエルバッハの人間主義的唯物論か、それへの反発から分業による疎外を哲学に差し戻す物象化論で留まっている。『哲学者たちは、分業に従属させられなくなった諸個人を「人間というもの」の名のもとに理想として思い描き…』(136㌻)。資本主義国家の中でいくら職業哲学者が論争を重ねても、商品化で現わされる分業を拡大するだけ。革命家マルクスの哲学批判の立場からは、「自然の歴史と人間の歴史は相互に制約し合う」(65㌻)ことが打ち立てられ、人間による一方的な自然征服、自然と人間の間の分業も否定される。

マルクスや共産主義というと私的所有の廃止や生産手段の国有化、物財の平等な分配、辺りが強調されがちだが、「共産主義は、われわれにとって、つくりだすべきなんらかの状態、現実が基準とすべきなんらかの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは現在の状態を廃止〔止揚〕する現実の運動である」(42㌻)というくだりは、まず分業の廃止から読み解かなければならない。私的所有の廃止など共産主義でなくとも、公地公民として古代律令国家ですら行っている。分業を廃止するには、まずもって国境を無くす世界革命が必要不可欠だ。『共産主義は、経験的に、主要な諸民族の行為として「一挙に」そして同時にのみ可能なのであり』(42㌻)、このことは、今日改めて確認されなければならない。

労働者が全階級を無くせるのは、労働者が分業の主体であり、分業を廃止することに利益を持つ唯一の階級だからだ。このことを『ドイツ・イデオロギー』は明確にする。問題は分業を廃止する共産主義革命において、一定期間プロレタリア独裁段階として党や国家を介在させなければならないことである。なんとなれば、党や国家は分業を押し広めるための機関だからだ。労働者階級に分業の廃止が共産主義として意識されにくいのは、これが理由であろう。この矛盾を解くには、常に党を革命の渦中に置くことしかない。「なぜなら、分業とともに精神的活動と物質的活動、享受と労働、生産と消費がべつべつの個人のものになる可能性、いやむしろそういう現実が生まれるからである。そして、それらが矛盾におちいらずにすむ可能性は、唯一分業がふたたび廃止されること以外にないからである」(34㌻)。



【書評】我々の死者と未来の他者 戦後日本人が失ったもの

2024年06月25日 | 書評



太平洋戦争敗戦と戦後日本社会の断絶は、戦後日本思想の最重要課題であり続け、数々の論者や文筆家や革命家がその断絶を埋めるべく苦闘してきた。三島由紀夫のように、割腹自殺してそれを果たそうとするものまで現れた。太田竜は断絶を辺境で補償しようとして、天皇制に回帰してしまった。多くは、戦時中の大衆の中に、戦後民主主義へ至る芽や戦後社会の箱庭を探し、架橋すべく観念操作したが頓挫した。それは、本書の中でも例示されている。ここから理解できるのは、明治時代直前や後の戦争犠牲者の中から、この断絶を埋める〈我々の死者〉を見出すのは不可能だということだ。戦後日本社会の通底音であった「トカトントン」は、今や天上から鳴り響き、〈未来の他者〉からの声を聞こえなくしている。

戦後日本の世俗社会は高度経済成長に乗ることで、太平洋戦争敗戦の痛みを麻痺させることができた。国家の側が戦前回帰を図ろうとしても、高度経済成長の波が打ち消した。しかしその神通力も3・11福島原発事故により無効化された。目下、東京五輪→大阪万博と昭和二番煎じ劇で高度経済成長が続いているような演出をしているが、より衰退させる効果しかない。それならばと、さらに遡る昭和二番煎じ劇のつもりなのか“台湾危機”を煽っている始末だ。この先は、第二の3・11か第二の太平洋戦争という繰り返ししかないだろう。行き詰った時代を打開するには、どうすればいいのか。著者は、現実を根底から変えることで、〈我々の死者〉と〈未来の他者〉を結合するしかないと訴える。理念的にはその通りだ。

具体的な実践を提案したい。それは脱原発の実現だ。エネルギー政策は社会体制や社会構造とパラレルであり、ここが変われば明治以来続いてきた富国強兵という国家プロジェクトも変更される。つまりは、明治時代以降の戦争犠牲者に新たな意味を見出し、彼らを我々の手に取り戻すことにもつながる。その影響は日本だけでなく世界中に及ぶ。脱軍事、脱借金も連動し加速する。脱原発は、福島原発事故という人類史的厄災をおこした日本人一人一人が背負う責務だろう。とはいえ、政権交代程度では脱原発は実現しない。なぜなら今の世界は、核を支配することで権力が機能する仕組みだからだ。これをひっくり返すには、「四〇〇万人」民衆の力が必要となる。こうして脱原発を実現しても、福島原発で溶け落ちた880トンもの核燃料デブリは微動だにせず放射能をまき散らす。全身の皮を剥がれた山本の痛みを、我々の痛みとして共生する覚悟が必要となる。だが「壁抜け」できるのは、ここだけしかない。

著者と私の見解で異なるのは〈未来の他者〉についてである。〈未来の他者〉について著者は想像を巡らす存在としているが、私は小学生以下の子供を見れば〈未来の他者〉は具体的に感知できると考える。にも拘らず日本人が〈未来の他者〉に鈍感なのは、〈未来の他者〉も自分たちと同じように、見て見ないフリで先送りするしかないという絶望に支配されているからだ。なぜ日本人は「気候変動問題」に対する関心が低いのか、という問いに関していえば、気候変動問題に関心を示せば当然原発問題にも関わらざるを得なくなり、戦後〈我々の死者〉の喪失を見て見ないフリすることで維持されてきた日常が崩壊してしまう、というのが答えである。