deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

7・スピリッツ賞

2019-08-21 15:34:14 | Weblog
 開高健を読んでも、小説を書いてみよう、とはならなかった。が、ふと、マンガなら、と思い立った。開高健にはのめり込んだが、文壇はあまりにも敷居が高そうだ。それなら、という軽薄な思いつきだ。教師生活をはじめて二年目の夏。ちょうど夏休みで、時間はふんだんにある。
 扇風機が回る音だけが響く、ぼろアパートの一室。コタツが骨だけの姿になったちゃぶ台上には、ビッグコミックスピリッツがひろげて置いてある。開いたページには「新人募集!スピリッツ賞。賞金100万円」の字が踊っている。物心がつきはじめた頃から「よっちゃんはマンガが上手やねえ」と周囲に言われて育ったこのオレだ。ちゃんと描けば、さくっと大枚をせしめることができるかもしれない。真っ白な画用紙を前に、さて、と取りかかる。
 まずはワク線引きだ。ところが、これがなかなかめんどくさい。「何百何十何ミリ×何百何十何ミリ」と、サイズの指定がやけにバラバラだ。30センチ×20センチ、でもかまわないではないか。これほど細かい数字が必要なのだろうか?さては、描きはじめようとする者の意欲をこの時点で試し、粗忽者をふるい落とそうという出版社の意図にちがいない。そうはいくものか。きちんと数字の通りに線を引いていく。オレはこう見えて、仕事には極めて几帳面なのだ。線を引き終えたら、鉛筆で下絵描きだ。
 ところで、ここで注釈を入れなければならない。オレはこの瞬間、マンガの描き方をまったく知らない。一般知識としてのぼんやりとしたイメージはあるが、描いた経験もなければ、きちんとした作法を勉強したわけでもない。だから、すべての作業がなんとなく行われている、と知っておいてほしい。
 さて、いきなりマンガの制作に入ったわけだが。本職のマンガ家は、原稿に触れる前段階で、あらかじめ「ネーム」という、つまり一話分のアイデアからページ分のコマ割りをし、コマ内の構図決めからセリフまでをざっくりと整頓した絵コンテをつくっておくものだ。ところが、そんなことも知らないこの自信満々のチャレンジャーは、ワク線を引いた画用紙にいきなり画を描き込んでいく。鉛筆で下描きをし、その上にペン入れをして、最後に鉛筆線を消しゴムで消す、という程度は知っているので、とにかく原稿用紙に直接、鉛筆で画とフキダシをのせ、話を進めていく。
 テーマは、ボクシングだ。なぜかオレは、毎月「ボクシングマガジン」を買って、マニアックなまでにその世界のことを勉強している。そこで、物語の舞台を高校のボクシング部に設定し、そこでのドタバタ劇を描いてみることにしたのだ。たいしたストーリーもオチもない、風景スケッチだ。私小説作家の開高健がよくやるスタイルなので、マネてみた、とも言える。とにかく、ボクシング部に放埓なふたりの男子がいて、もうひとり、天衣無縫な女子マネージャーがいて、その三人を部室内で動かす、というだけのやつだ。話の後先は考えず、思いつくままにサクサクと描き進んでいく。
 据わりのいいところで終えると、14ページ程度におさまったので、いよいよ本番のペン入れだ。本来なら、鉛筆線を黒インクでなぞる、という行程なのだが、このときのオレは、ペン入れの作法を知らない。各種出版されているマンガの入門書でも読めば、「Gペンを使い、インクは製図用のものか、なければ墨汁を用いる」などとちゃんと書いてあるのだが、この無鉄砲な男はどういうわけか、黒インクとはボールペンのことである、と思い込んでいる。というわけで、鉛筆で描いたアタリを、ボールペンでなぞり倒していく。ペンが入ったら、ページ全体に消しゴムをかけ、鉛筆線を消す。こうすれば、原稿用紙上にはインク線だけが残る、というわけだ。そして、ベタぬりという運びになる。こいつだけは、どこでなにを読んで知っていたのか、墨汁を使う。キャラの毛髪がベタで真っ黒になると、画がキリリと締まってくる。最後に、これもまたどこでなにを読んだのか知れないが、トーン貼りだ。スクリーントーンという、つまり白でもなく黒でもないハーフトーンの場所に、細かいドットの並んだ、マンガ専門の透明シートを貼っていくのだ。色付きシール、と考えてもらえばいい。こいつを、苦心惨憺してカッターで切り抜き、貼っていく。できた。完成だ。
 わりといい出来だとは思うが、スピリッツに連載されている作品と比べたら、なぜだか明らかに見劣りがする。ペンの線の質が、どう考えてもおかしい。違和感が隠しきれない。ボールペンで描いてあるのだから当然なのだが、オレにはまだ、その奇妙さの正体がわからない。それでもとにかく、描き上がったひどいシロモノを茶封筒に入れ、指定された住所に送った。
 数週間もたった頃、一本の電話があった。
「きみは天才だから、すぐに東京にくるべきだっ!」
 スピリッツの編集者を名乗る人物は、受話器の向こうでそう言っている。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園