deep forest

しはんの自伝的な私小説世界です。
生まれてからこれまでの営みをオモシロおかしく備忘しとこう、という試み。

25・引っ越し宣言

2008-05-13 10:25:46 | Weblog
「いよいよ今年、引っ越します」
 お父ちゃんがいきなり宣言した。
「家を建てます」
 ぼんやりと虫を捕まえたりボールを追っかけたりしている間に、両親は密かに計画を進めていたのだった。いや、密かに、でもなかろう。何度か、子供たちも情報は耳にしていたはずだ。郊外にいい土地があるのよねえ、とか、あそこなら居心地よく過ごせそうだ、とかなんとか。ところが、それが引っ越しという一大事業を意味しているとは思ってもいず、オレには青天の霹靂だったのだ。
 確かにこの長屋は、家族六人が住まうにはあまりに手ぜまだ。そこでいよいよ、大きな庭付き一軒家の建築に着手し、そこに移り住むのだという。すでに土地は買ってあるらしい。この言葉数の少ない父親が、そんな大それた野望を実行に移していたとは驚きだ。しかし驚き以上に、ごぼぜこ通りを離れるさびしさと、友だちを失う不安が、子供心をむしばむ。春には5年生になる。小学校への登校はどうするのだろう?まさか、転校というやつか?
 で、週末だ。とりあえず、一家全員でフェローに乗り込み、その土地を見にきたのだった。今の家からは車でわずか10分ほどの距離で、転校の必要はないということだ。歩いて小学校に通うには遠くなるが、苦というほどのこともない。が、そこにはごぼぜこ通りとはまったく違う風景がひろがっている。街なかとはとても言えない、つまり「殺風景な」というか。とにかく、なにもないのだ。見渡すかぎりに田んぼだ。かろうじて隣には、何年も前につぶれたボウリング場が、廃墟となってたたずんでいる。家並は、叫び声も届かない距離にぽつりぽつりと散見できる程度だ。そのはるか奥には、伊吹山脈の稜線。とんでもないド田舎だ。いや、これまでもド田舎に住んでいたのだが、ひとの顔が行き来する程度には文明的な地区だった。今度は、正真正銘の未開発地だ。稲が刈り取られた田んぼには、レンゲが一面に咲き乱れ、チョウチョが飛び交っている。そのひろびろとひらいた田んぼの一部を埋め立て、業者はわずか一反ほどの砂利敷きの土地をつくったわけだ。それがさらに分割され、わが家には野球の内野フィールドほどの広さが与えられている
「どや?気に入ったか?」
 お父ちゃんは誇らしげだ。ここに自分の城が建つのだ。気分が悪いはずがない。
「ここが駐車場で、玄関を入って、ここが台所で、廊下をずんずんいくと水洗のトイレがあって・・・」
 彼の頭の中には、すでに設計図が描き上げられている。熱病におかされたような笑顔を張り付かせて、お父ちゃんは説明にふける。
 オレは、こんなところに引っ越したくない、と身震いしつつ、うわの空でそれを聞いている。だいいち、こんな荒野に放り出されて、どこで誰と遊べばいいというのか?おさむちゃん家のプラレールも、たかちゃん家の物干し台も、こうちゃん家のおもちゃも、ごぼさんでの缶蹴りも、野球も、キャッチボールも、すべて遠い彼方に置き去りにしなければならないではないか。
 ところが、お父ちゃんが青空を見上げて宙空にまで図面のつづきを描きはじめると、子供たちの目はその指先にクギ付けにさせられた。
「階段をのぼるやろ。で、二階の東南角がのりまさの部屋、佳隆は西南のちょっと広めの部屋な。ゆかは・・・」
 自分の部屋!思春期に足を踏み入れようかというませガキにとって、それはなんと魅惑的な言葉であることか。気持ちが揺れ動く。
「ま、本町の長屋に比べたら、ここに建つ家は御殿みたいなもんやて」
 門前町のごぼぜこ通りは、本町という町名が示す通りに、町の中央に位置している。せまいながらも、メインストリートなのだ。確かに住み心地はいい。しかし、ひろびろと開けたこの土地も、まんざら悪くないかもしれない。なにしろ、自分が好き勝手に使える部屋が与えられるのだから。それは秘密基地だ。子供心がうずく。たちまちここに引っ越したくなった。
「で、お父ちゃん、ここはなんていう名前の町なん?」
「狐穴や」
「き・・・きつねあな・・・」
「そう。きつねあなっ!」
 それを聞くと、またしても引っ越すのがいやになった。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園