木陰の椅子

「シニア夫婦二人暮らしのつれづれ」から「一人ぼっちのつれづれ」に。明日も良い日にするために頑張りたいなと思います。

思い出の虫干し…

2024-01-25 | つれづれに

強風と猛烈な冷え込みで外に出る気になれず、かつての仕事部屋に何年も蓋を開けていないダンボールを見つけ、整理しようと思いたった。

正社員として再び働き始めたのは、下の子が小学4年生になった時で、そういう職種があることさえ知らなかった写植(写真植字)オペレーターとして。
32歳だった。
活字を用いず、文字板からレンズを使って1文字1文字ずつ感光紙に印字して印刷版をつくるもので、2ヵ月の講習後、現場に配属された。この再スタートが、後期高齢者となった今に続いてる。

 

 

40歳になった頃、仕事の幅を広げたくて夜間のデザイン学校に通い版下を学び、カラス口等を使って取説用のイラストなどを描いたり、切ったり貼ったり、顧客から受注して印刷所に渡すまでのなにもかもを手仕事で進めた。
楽しかった~!

やがてデジタル化(DTP)が進んで、それらはパソコンで出来るようになり、若者たちが入社してきて、私はデザインやコピーライター、旧態依然の版下、営業・顧客管理、やがて経理と仕事は多岐にわたり始め、"何でも屋さん"は定年まで続いた。
これらも楽しかった。
やりがいがあった。
のめりこんだ。

 

 

娘が交通事故で重傷を負って長い入院生活となり、共通の話題を得るため、一緒に放送大学で学び始めたのは42~43歳の頃?


 

30代半ばから会社の同僚たちと山歩きはしていたが、慢性関節リウマチ発症でその仲間たちとの山行が難しくなり、一人登山をすべく基礎から山のことを勉強しようと、1993年5月、区主催の「中高年のための山歩き講習会」受講。
受講後、講師に指名されて40名ほどの山の会を設立。一人登山どころか、15年間副会長として大勢の仲間達と山を楽しんだ。

 

 

いつ頃だったか、柳ジョージが好きだったこともあった、のを思い出した。
BOX型のツアー記念カセットテープ。コンサートに行った時、買ったのかなぁ?

 

 

このての整理は思い出の虫干しに終始して進まないものだが、キチキチに詰め込まれていた半分を処分できたことにビックリ。今ではそれほど思い入れもなくなったのかもしれない。
ダンボールはあと2つ。
コンサートグッズとか、映画のパンフレットとか、諸々の企画展ノベルティとか、旅のあれこれとか、手がけてきた仕事関連とか、こちらは思い入れの強い物たち。
今回のようにさっさと出来たらいいけれど、多分出来ないだろうな。

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浮かない気分の直し方

2024-01-20 | 一人になって

ほとんど雪が降らない我が家のあたりだけれど、今日は平野部でも雪が…との予報。
今にも降りそうではあるけれど、どうだろう?
ホントに降るのかな?
つけっぱなしのテレビから悲し気なハーモニカのメロディーが流れてきて、夕方辺りには絶対に雪が積もっていそうな気になってくる。

昨日、社協で中古の録音デッキを購入してもらい、昨年末来の騒動に終止符が打たれたというのに、あんなに悩まされていた問題が解決したというのに、なんだろう、この浮かない気分は?
辺り一面を覆っている鉛色の空気・空のせい?

姫孫長女ちゃんがお正月に来た時、サンタクロースさんからのプレゼントの編み機で、アームバンドを編んでくれた。
パステルカラーの美味しそうな色合いのアームバンド。
それをはめた腕でキーを打つと、少しだけ嬉しくなるけれど…。

 

 

この春からは畑の3分の1ほどを花畑にする予定。
簡易温室のビニールの中で、キンセンカ、瑠璃ヒエンソウ、ゴテチャ、キンギョソウ、ヒャクニチソウなどが育っている。
どんなふうなレイアウトにしようか、などと考えるのだけれど、なんだか気持ちがのらなくて、止めた。

 

 

あ~ぁ、あ~ぁ、あ~~ぁ!
なんでこんなにつまらないんだろう!
仕方ない、こうなったら動くとしよう。
お昼ご飯でもつくろうか!
夫の仏壇から下げたご飯が溜まっちゃってるから、焼き飯でも?

 

 

昨日畑から採ってきたスティックブロッコリーを茹で、焼き飯には残り物のイカリング揚げやピーマン、玉子、タマネギなど。
味付けはいつもの梅干しとシソの実塩漬け。
スープはインスタントだったけど、美味しかった。
すごく美味しかった。

 

あれ? なんだか元気が出てきたような。
うっそ!!!
つまらなかったのは、お腹がすいてたから?
そんなはずないのは分かっている。分からない理由を探しても仕方ない。とりあえずはこのまま昼寝に突入しようと思う。
「気分が浮かない時は寝ること」。

長い年月の間に出した答え。

 

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令和6年、明ける。

2024-01-13 | つれづれに

早いもので令和6年も明けて、もう13日。
元旦の能登半島地震、翌日の日航機と海上保安庁機の事故、さる方のお屋敷火災、遠い存在ながら、日々を楽しませてもらった方々の訃報。それもあってか、政界の金問題、大企業の不正など、昨年から続いている負の問題までもが、必要以上に重く気持ちの中に入り込んでくる。

長い規制が外されて、ノーマスクでも大手を振って歩けるようになって、気持ちも明るく上向いて迎えた新年だったのに、なんという幕開けか。
情け容赦なく凍える中に放り出されてしまった地震被災者の方々。
どうぞ、少しでも早く暖の取れる場所に戻れますように。
安心して眠れる夜が訪れますように。
健康を維持できる食事がとれますように。
病やケガの治療を受けられますように。
もっともっと、あれもこれも、地震前の暮らしを取り戻せますように。
祈ることしか出来ないから、祈ります。

 

私はと言えば、初めて一人で過ごす予定の年末年始を、録音機器の件はとりあえず脇に置き、のんびりしようと思っていたが、30日に義息子三男のお嫁さん・Mさんから「これから行ってもいいですか?」との連絡があり、やって来た。
そして「明日、パパも来ます」と言われ、ほとんど買い物もせずに過ごす予定だったから大慌て。寝具の準備、年越し・迎春の準備に追われ、なんとか整った31日午後、「発熱で行けなくなった」と連絡が。
大食漢の息子君だからと用意した寿司、年越し蕎麦を前にMさんと呆然。年越しはお寿司を食べられるだけ食べて、年越しのお蕎麦は、なんと元旦の朝に食べた。
さらにそのあたふたの最中に、35年前に亡くなった奥様のお兄様が亡くなったと連絡が。ここ6~7年は年賀状のやりとりさえも絶えていて、夫が亡くなったことの連絡もしていなかったし、おじさんとはいえ義息子達も音信不通だったようで、その後のてんやわんやはおしてしるべし。


2日には三男君一家5人がやって来て賑やかに楽しく過ごしたが、4日に彼らが帰京するやいなや、年賀状が来なくて気になっていた二人の友人から、辛く切ない内容のメールが続けて届いた。
そしてネッ友さんの愛犬ちゃんの悲しいお知らせも。

 

 

今朝の冷え込みは酷かった。
サッシの室内側の結露を拭こうとしたら凍っていたし、ストーブの室温表示は0度。それ以下の表示は出来ないからマイナスだったかもしれない。外の水道の蛇口にはツララが下がっていたし、暖気運転しようとした車は、鍵の解除もできなかった。

令和6年は動き始めた。
始まったばかりと言うのに、こんな年は早く過ぎ去って欲しいと、思っている。

コメント (6)
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