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木陰の椅子

「シニア夫婦二人暮らしのつれづれ」から「一人ぼっちのつれづれ」に。明日も良い日にするために頑張りたいなと思います。

「私の本棚」新刊

2024-02-10 | つれづれに

「私の本棚」に加わった1~2月の新刊4冊。
あらすじは表紙カバー裏面より。私は、この大雑把に書かれたあらすじを読んで選ぶことが多い。

●「アンドクター」 聖海病院患者相談室 藤ノ木優
聖海病院で研修医として働く綾瀬凪沙は、患者に寄り添う医者になるという理想と現実のギヤップに戸惑っていた。当直中に採血した患者の左腕に痺れが残り、凪沙は患者の恋人から医療ミスだと責め立てられる。助っ人として現れた患者相談室の神宮寺の手腕で激昂する患者たちは宥められたものの、彼は凪沙に対して「お医者さまの対応で裏方が苦労する」と辛辣で……。
新米医師×医者嫌いの非医師の成長を描く感動の医療ドラマ!

 

 

読み終わって★★★★★。
振り返れば、理想と現実のギヤップって私にはあまりなかったような。そもそも理想を持たなかったのかな? 関わってきた職場的に、自分の仕事を頑張ってやっていればそれで良し、それ以上に意欲を出せばそれも良し、仕事熱心なのは当たり前の時代だった。
著者は現役医師さんだとか。この頃の医療現場を垣間見ることができたのは良かった。

 

●「ミッドナイト・バス」 伊吹有喜
故郷に戻り、深夜バスの運転手として働く利一。子供たちも独立し、恋人との将来を考え始めた矢先、バスに乗車してきたのは、16年前に別れた妻だった。会社を辞めた長男、結婚と仕事で揺れる長女。人生の岐路で、忘れていた傷と向き合う家族たち。バスの乗客の人間模様を絡めながら、家族の再出発を描いた感動長編。

 

 

読み終わって★★★★★。
伊吹有喜さんは大好きな作家。特に「BAR追分シリーズ」は大好きで、何度も読み返している。
「おいおい、どっちにもいい顔するとどっちも不幸になるよ」、と言ってやりたいけれど、そうせざるを得ない心情も理解できるし、自分に重ねてしまった場面も多々。自分の親たちもきっとそうだったように、親になるというのは重いことです。

 

●「外科医島へ」泣くな研修医6  中山佑次郎
半年の任期で離島の診療所に派遣された、31歳の外科医・雨野隆治。島ではあらゆる病気を診なければならず、自分の未熟さを思い知る。束の間の息抜きを楽しんだ夏祭りの夜に、駐在所の警官から電話が。それは竹藪で見つかった身元不明の死体を検死してほしいという依頼だった___。現役外科医が生と死の現場をリアルに描く、シリーズ第6弾。

 

 

読み終わって★★★。
シリーズ1~5は読んではおらず、いきなり6からスタート。こちらも著者は現役外科医さん。分業で選んだ診療科だけに特化する今の医療現場で学んできた研修医が、少しずつ成長していくが、ベテラン医師との二人体制に、とりあえずは安心して読み進めることができた。

 

●「アンの娘リラ」赤毛のアンシリーズ8 松本侑子新訳
アン48歳、第一次大戦が始まり息子3人が兵隊として欧州の戦場へ。出征を見送り、激戦が報じられる不安な日々、赤十字の活動をして、家族の無事を祈る。そして悲劇、感涙の復員。アンの娘リラの視点で描く戦争と銃後の暮らし、リラの成長と甘い恋。日本初の全文訳・訳註付アン・シリーズ完結の第」8巻。地図と写真入り。

 

 

読み終わって★★★★★。
「赤毛のアン」シリーズは、19世紀のアン・シャーリーの誕生と少女時代から、20世紀のアン・ブライス50代まで、半世紀を超える女性の生涯とカナダの激動の時代を描いた壮大な小説。
私の中では村岡花子訳が不動の1位だが、今回買い揃えた松本侑子さん全文訳は、村岡さんが本に残せなかった部分も全て掲載されており、分かりやすい訳、多くのページを割いた訳註など、ファンには垂涎の新訳だと思う。。
村岡さん訳の本はもうボロボロ、しかも変色してしまっているが、「私の本棚」の一等地に静かに鎮座している。

 


雪… 雪… 雪が降り続く 

2024-02-06 | 一人になって

雪予報。
関東地方も、かなり大変なことになるかもとの予報。
夕方辺りからだろうとのんびりしていたら、え?  もう?  お昼頃には舞い始め、あれよあれよという間にどんどん降り出してきた。
大変! 冷蔵庫に何もない。
パンも牛乳も卵も昨日で食べきっている。
週1の筋トレが終わったら買い物にとおもっていたのに……。
慌てて防寒コートを着て、一番近いスーパーに向かった。
買い物を終えて出たら、なんと、ワイパーが動かないほど積もっている。
手で雪を払って、なにしろ運転嫌い、運転怖い、運転したくない私。一人になってそうも言っていられなくなり、最低限の運転はする。
(せいぜい週に1~2回、近くのスーパーまでだけど)
とにかく慎重に慎重に、運転に集中して帰宅した。

 

 

長靴を出し、物置から6~7年前だったか、前橋気象観測所始まって以来という大雪が降ったときに購入したスコップや長靴を出し、昨日プランターに移植した大量の花苗にシートをかけ、畑や庭の見回りに…と動いた。
その間も雪は勢いを増して降り続き、辺りがどんどん白に覆われていく。
その様子をスマホで捉えて家に入った時には、雪まみれ、悴んだ指のちぎれそうな痛みに半べそだった。

 

 

 

嵩を増していく表の雪を眺めながら、日中はほとんど見ないPCのスイッチON。毎週月曜日の筋トレも「雪で中止」との連絡があったし、のんびりとネットサーフィンをして過ごした。

 

 

夜11時になっても、まだ降り続いている雪。
テレビでは、雪国の人が言う「箒で掃ける程度の雪」に右往左往の様子を伝えている。
有難いことに、食料も確保した私はこのまま数日は、引きこもり状態でもなんら問題はない。


ふたたび思い出の虫干し!

2024-02-02 | 一人になって

寝室に行くまで(かなりの夜更かし派)のほとんどを過ごすのは、居間と、続いているキッチンのどちらか。
部屋が暗いのが好きじゃないため、夕方から夜11時、12時まではどちらも電気を煌々とつけ、暖房もファンヒーターと石油ストーブと、時にエアコンも使っている。
しかし、さすがに光熱費の高さが気になって来たこの頃、10時を過ぎるあたりからはキッチンのみで過ごすようになった。
キッチンにはテレビがないから、夜はラジオを聴いて過ごすことが多い。チューニングは変えないから、常時NHK FM。

 

一昨夜だったか、思わずラジオに耳が、目までもが釘付けになった。
30
代の頃から夢中で聞いていた「ブルース・スプリングスティーン」の、あのダミ声が聞こえてきたからだ。
もう何年も聴いていないけれど、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」から始まったファン歴は長い。19854月だったかな、初来日の代々木オリンピックプールでのコンサートにも行った。1,800円も出して買ったプログラムを、ステージに夢中になっている間に盗まれてしまった悔しい思い出もあるが、エネルギッシュな熱いライブだった。
その後、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」以前のLPや新しいアルバムCDを聴きまくったのを

覚えている。

 

 

 

 諸々の事情からここ数年は音楽から離れていて、その間にオーディオ機器が次々故障し、今はCDを聞くこともできない。
でも亡くなる前に夫が、イジェクト部分が壊れてしまったCDデッキとプレーヤーを繋ぎ、LPを聞けるようにしてくれていたのを思い出した。
これは嬉しい。

ボン・ジョヴィやガンズ&ローゼス、そうそう、ローリング・ストーンズなども聞けるじゃないか。

何よりも吉田拓郎、かぐや姫、長渕剛、五輪真弓など、ファンになり出した頃の、今ではかなりノイズのあるLPを聞けるじゃないか。

 

 

 

さっそく自室にこもって、LPをキャビネットから取り出して、再びの思い出の虫干し。


幸せは、ほかほかと心地良く…

2024-02-01 | 一人になって

寝室の暖房はオイルヒーターだけ。
エアコンの設備はあるけれど、室外機が屋根に乗っていて、数年前から、使うと家中が震えるようになった。築45年の古家。人が住まない年月もあったから劣化も仕方ない。
新しいエアコンの付いている、誰も使っていない部屋もあるし、夫が使っていたストーブなど何台かのストーブもあるのに、スイッチONしてあるのかどうか、温かいのかそうでないのか、正に昼行灯のようなオイルヒーターを手放せない。
ふ~んわりと覆ってくれるこの優しい温かみが好きで、20年来の冬の友となっている。

 

 

昨年大晦日から、羽毛布団の上にサラリとかけていたひざ掛けを、毛布に変えた。
100均のゆるゆる靴下を(夏でも靴下を履いている)、裏ボアのブーツのような靴下に変えた。
真冬でも、ブルブル震えながら洗髪・洗顔・身体を洗ってから湯に浸り、ほぼ1分で上がるというカラスの行水だったが、知り合いがヒートショックで急死したことを知り、自分の年齢や一人暮らしということも考えて、身体を洗ったら湯に入り、洗顔したら湯に入り、洗髪したら湯に入り、を繰り返すことにした。

風呂から上がり寝室に入ると、入浴前にスイッチを入れたオイルヒーターが、温もりはそれほど感じられなくても、ひんやり感もない程度に温めてくれている。
布団に腰まで入り、フリースの上着を羽織り、オイルヒーターを背中近くに引き寄せて、小一時間(この時間で身体の熱もおさまる)の読書をする。

 

 

これらで万全、冷え込み厳しい夜も、おだやかに眠らせてもらっている。
トイレに起きるのも1回だけになった。
睡眠特効薬“ほかほか”は、すぐそこにありました。


思い出の虫干し…

2024-01-25 | つれづれに

強風と猛烈な冷え込みで外に出る気になれず、かつての仕事部屋に何年も蓋を開けていないダンボールを見つけ、整理しようと思いたった。

正社員として再び働き始めたのは、下の子が小学4年生になった時で、そういう職種があることさえ知らなかった写植(写真植字)オペレーターとして。
32歳だった。
活字を用いず、文字板からレンズを使って1文字1文字ずつ感光紙に印字して印刷版をつくるもので、2ヵ月の講習後、現場に配属された。この再スタートが、後期高齢者となった今に続いてる。

 

 

40歳になった頃、仕事の幅を広げたくて夜間のデザイン学校に通い版下を学び、カラス口等を使って取説用のイラストなどを描いたり、切ったり貼ったり、顧客から受注して印刷所に渡すまでのなにもかもを手仕事で進めた。
楽しかった~!

やがてデジタル化(DTP)が進んで、それらはパソコンで出来るようになり、若者たちが入社してきて、私はデザインやコピーライター、旧態依然の版下、営業・顧客管理、やがて経理と仕事は多岐にわたり始め、"何でも屋さん"は定年まで続いた。
これらも楽しかった。
やりがいがあった。
のめりこんだ。

 

 

娘が交通事故で重傷を負って長い入院生活となり、共通の話題を得るため、一緒に放送大学で学び始めたのは42~43歳の頃?


 

30代半ばから会社の同僚たちと山歩きはしていたが、慢性関節リウマチ発症でその仲間たちとの山行が難しくなり、一人登山をすべく基礎から山のことを勉強しようと、1993年5月、区主催の「中高年のための山歩き講習会」受講。
受講後、講師に指名されて40名ほどの山の会を設立。一人登山どころか、15年間副会長として大勢の仲間達と山を楽しんだ。

 

 

いつ頃だったか、柳ジョージが好きだったこともあった、のを思い出した。
BOX型のツアー記念カセットテープ。コンサートに行った時、買ったのかなぁ?

 

 

このての整理は思い出の虫干しに終始して進まないものだが、キチキチに詰め込まれていた半分を処分できたことにビックリ。今ではそれほど思い入れもなくなったのかもしれない。
ダンボールはあと2つ。
コンサートグッズとか、映画のパンフレットとか、諸々の企画展ノベルティとか、旅のあれこれとか、手がけてきた仕事関連とか、こちらは思い入れの強い物たち。
今回のようにさっさと出来たらいいけれど、多分出来ないだろうな。