用語リストへオ.明後期の社会と文化
■ポイント 明代の経済発展はどのような変化をもたらしたか。また文化にはどのような影響を与えたか。
1.明の社会
A生産力の向上 長江下流域のa 綿織物(木綿) ・b 生糸(絹織物) など家内制手工業が発達。
- c 綿花 の栽培と養蚕に必要なd 桑 の栽培が普及。
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▲特に南京は綿織物(南京木綿)、蘇州と杭州は絹織物の中心的産地となる。 - 穀倉地帯が長江下流域のe 江浙 (江蘇・浙江省)から中流域のf 湖広 (湖北・湖南省)に移る。
→ 宋代の「江浙熟すれば天下足る」から明末には「g 湖広熟すれば天下足る 」といわれるようになる。
解説
宋代には長江下流域の開発が進み、江蘇・浙江地方が穀物生産の中心地域となったので、「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた(6章2節)。産業の先進地帯であったこの地域は、明代の15世紀中頃から、綿織物業・絹織物業が起こり、そのため綿織物の原料の綿花と、養蚕のための桑の生産のため田地を綿花畑や桑畑に転換させたため、穀物生産は減少した。それに代わって、長江中流の湖北・湖南地方が穀物の中心地域となったため、「湖広熟すれば天下足る」といわれるように変化した。
- 江南では宋代以来の大土地所有制とh 佃戸制 が継続。地主が小作人(佃戸)を使役して経営。
- 江西省のi 景徳鎮 のj 陶磁器 生産が増大。▲k 染付 とl 赤絵 の技法が盛んになる。
- 中国産のb 生糸 ・j 陶磁器 日本、アメリカ大陸、ヨーロッパに輸出される。
- スペインのm ガレオン貿易 マニラを経由しメキシコのアカプルコに運ばれる。(第8章1節)
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B特権商人の活動 商業・手工業の発展にともない、明朝政府から特権を与えられた商人が巨富を築く。- a 山西商人 (山西省出身・金融業中心)とb 徽州(新安)商人 (安徽省徽州出身・塩商資本)。
- c 会館 ・d 公所 の成立 都市における同郷者または同業者の互助組織の拠点となった。
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C税制の変化 16世紀 a 銀 の流通の増大に伴い、税の納入もa 銀 でおこなわれるようになる。- b 一条鞭法 の実施 それまでのc 両税法 にかわる納税法として江南から始まる。
= 内容:d 地税と徭役(力役)をまとめて銀納に一本化した 。
解説
唐中期以来の両税法の基本は、現物納と労役の二本立てであり、明でも継承され、里甲制の下で土地台帳である「魚鱗図冊」と租税台帳である「賦役黄冊」によって維持されてきた。しかし、16世紀頃から綿織物や絹織物、陶磁器、茶などの作業が発展し、農村にも銀が流通して貨幣経済が浸透すると、貧富の差が拡大し、税収が困難になった。そのような状況に対応したのが一条鞭法である。なお、このとき賦税(土地税)と徭役(人頭税)の区別がなくなったわけではなく、いずれもが銀納となったということで、徭役が土地税に組み込まれて消滅するのは、次の清の18世紀の新税制「地丁銀」によってである。
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D貧富差の拡大 商人で地主になるもの、地主で都市に住むものが増加(特に江南)。- a 郷紳 科挙合格者や官僚経験者で郷里の名士とされた家。清代まで続き、文化の担い手となる。
- ▲佃租(小作料)軽減を求める佃戸と地主の抗争=b 抗租運動 が激しくなる。
- ▲1448~49年 c 鄧茂七の乱 福建省で起こった抗租運動。数十万の農民が参加したが鎮圧された。
→ 明末・清初には家内奴隷の解放運動である奴変、都市下層民の反権力闘争である民変もおこる。
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・明の皇帝専制体制の動揺が深まる。一方、書画や文学、儒学などの新しい文化が生まれる。
2.明代の文化
A 美術 郷紳など富裕階級が文化生活を楽しむなかで、書画が発達。
B 文学 木版印刷の発達 → 書物の出版が急増 → 文人の活動が盛んになる。
C 儒学の新展開 a 朱子学 が体制化に対する反発から新しい思想が起こった。
D 科学技術 農業など諸産業の技術研究書が作られ、経世致用の実学がおこる。
c マテオ=リッチ とe 徐光啓
※明代の文化の要点
- 仇英らは院体画系の北宗画(北画)を継承。
- 明末のa 董其昌 は、高級官僚を辞し、画家・書家として文人画(南宗画)を大成した。
- 口語で書かれた通俗的な長編読み物=a 小説 が発達。
四大奇書 :b 『三国志演義』 ・c 『水滸伝』 ・d 『西遊記』 ・e 『金瓶梅』 - 戯曲 『牡丹亭還魂記』など。 → 都市や農村の劇場で、盛んに演じられた。
- 16世紀始めb 王陽明(王守仁) がc 陽明学 を完成させた。宋の陸九淵の思想を発展させる。
= d 心即理 (心の中に真理がある)、e 致良知 (ありのままの善良な心をめざす)、
f 知行合一 (認識と実践を一致させる)などを説いて朱子学を批判。庶民にも支持広がる。 - ▲明末、g 李贄(李卓吾) は朱子学の礼教を偽善として非難、男女平等を説き投獄される。
- a キリスト教宣教師 によって伝えられた西洋の科学技術の影響を受けた。
- 李時珍『b 本草綱目 』薬草に関する研究書。
- 徐光啓『c 農政全書 』古来の農法を集大成した。
- 宋応星『d 天工開物 』古来の産業技術を分類し、図解付きで解説した。
→ これらの西洋技術は、日本などの東アジア諸国にも影響を与えた。
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E キリスト教の布教 16世紀末からカトリックの布教が盛んになる。- 背景 1512年 ドイツのa 宗教改革 → カトリックの反宗教改革の動き(第8章3節参照)
- イエズス会のb フランシスコ=ザビエル 、日本布教の後、中国布教を目指すも、1552年に広州港外で死す。
c マテオ=リッチ とe 徐光啓
- c マテオ=リッチ 17世紀始め北京で布教開始。中国名d 利瑪竇 。
→ 士大夫層を通じ、天文・暦法・地理・数学・砲術など紹介。
e 徐光啓 の協力で『f 坤輿万国全図 』を作成(1602年)。
→ 中国で最初に製作された世界地図。日本にも伝えられる。 - g アダム=シャール 、e 徐光啓 の協力で、西洋暦法によって、
『h 崇禎暦書 』を作成。 → 清の時憲暦、日本の貞享暦につながる。
また、ユークリッドの幾何学を翻訳し 『i 幾何原本 』 を刊行。
- a 儒学では 朱子学の体制化に反発して陽明学がおこった。
- b 文学では 口語体の通俗小説が流行し、元代に続いて庶民文化が栄えた。
- c 美術では 郷紳などの富裕階級の文人画が隆盛した。
- d イエズス会宣教師によって西洋科学技術が伝えられた。
解説
キリスト教・カトリックの中国布教は16世紀のイエズス会宣教師の活動から本格化した。彼らは、仏教や道教は偶像崇拝であるとして否定したが、儒教についてはその「天帝」の概念をキリスト教の神の理念に近いところから全面的な批判をさけ、むしろ儒教的な儀礼や先祖崇拝を認めた。その結果、明の宮廷の徐光啓のような高官の中に信者も獲得した。しかし、同じ時期の日本での布教では数万単位の農民の入信があったが、中国では一般庶民にはなかなか浸透しなかった。中国のカトリック布教は、科学技術の紹介などと共に知識人の中に留まったのが特徴とうことができる。なお、イエズス会の儒教の伝統儀礼を認める布教姿勢は、後に中国布教を開始するフランチェスコ派などから批判されるようになり、清朝のもとで「典礼問題」が発生する。
用語リストへカ.16~17世紀の東アジアの状況
■ポイント 明から清への交替は東アジア世界にどのような変化を及ぼしたか。
1.日本を中心として見た東アジアの状況
A戦国時代 の終わり。
- 1543年 a ポルトガル人 の種子島渡来。b 鉄砲 の伝来。
- 1549年 c フランシスコ=ザビエル の来日 キリスト教の伝来 。
- 1557年 d マカオ を拠点としたポルトガル人が、平戸、長崎に進出。e 南蛮貿易 が始まる。
- 1571年 スペイン人 f マニラ を拠点に、メキシコとの貿易を開始。
- b 鉄砲 の普及 → 織田信長 の統一事業進む。イエズス会などの宣教師によるキリスト教の布教が進む。
▲キリシタン大名によるローマ教皇への遣使( 天正遣欧使節 ) 1582年出発 1590年帰国。
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B豊臣秀吉 の統一。- 1587年 バテレン追放令 宣教師は追放されたが、貿易は活発に続けられる。
- a 豊臣秀吉の朝鮮侵略 1592~1598 朝鮮ではb 壬辰・丁酉倭乱 という。
→ 明の援軍とc 李舜臣 の水軍(d 亀甲船 )、義兵の活躍により撃退される。
→ 朝鮮は国土が荒廃し、明は国力衰える。豊臣政権も崩壊早まる。
解説
豊臣秀吉は明を征服する意図を持ち、朝鮮にその先導を要求したが、拒否されたので出兵した。背景には、戦争によって家臣に領地を与え続けなければならない軍事的封建体制があった。しかし無謀な出兵は豊臣秀吉の死によって中止され、むしろ政権の崩壊を早めた。また朝鮮の国土、産業は荒廃し、この後の長い停滞が始まった。多大な援軍を出兵した明も国力を消耗し、滅亡を早めた。その一方で、豊臣軍として出兵した大名は多くの朝鮮人捕虜を連行して帰国し、彼らによって陶磁器や印刷技術、朱子学の学問など最新情報がが伝えられ、日本の文化に大きな刺激を与えた。
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C徳川家康 の統治 1603年、江戸幕府を開く。- a 朱印船貿易 を促進 日本人の海外渡航の最盛期となり、東南アジア各地にb 日本町 が生まれる。
- 1600年 オランダ船 リーフデ号が漂着 1609年 c オランダ との交易始まる。
d イギリス は1613年に平戸に商館を設ける。→ ポルトガル、スペインの排斥をはかる。
▲伊達政宗の 慶長遣欧使節 メキシコ、スペイン、ローマに派遣。1613年出発 1620年帰国、交易開始できず。 - オランダ人 1624年 e 台湾 に進出 ▲f ゼーランディア城 を築く。
→ アジアの貿易をめぐり、中国人・日本人・ポルトガル人・オランダ人が争う。 - 1623年 アンボイナ事件起こる。(9章2節) → d イギリス の東アジアからの後退。
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D日本の鎖国 江戸幕府のキリスト教禁止と貿易統制を目的とした政策。- a キリスト教禁止令 1612 直轄領に発令、1613 全国へ発令。
- 貿易の統制 1616年 中国船を除き、外国船の来航を平戸・長崎に限定。
→ 1623年 イギリス、平戸商館を閉鎖。1624年 スペイン船の来航禁止。 - 鎖国の完成 1635年 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止。 1637年 島原の乱、起こる。
1639年 b ポルトガル 船の来航を禁止。
1641年 c オランダ の商館をd 長崎 の出島に移す。
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・日本は19世紀前半までd 長崎 での中国(清)とオランダとの貿易のみとなる。
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2.中国東北地方の変化
A女真 ツングース系民族。女直ともいう。中国の東北地方で農牧・狩猟生活を営む。
- 後に信仰する文殊菩薩から自らをa 満州 に改称、その地を満州(マンチュリア)というようになった。
- 明の支配下にあり、薬用人参や毛皮の交易に従事。部族間の争いが激しくなる。
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B金 の建国 16世紀末 a ヌルハチ が自立し、部族を統一。- 1616年 b アイシン (c 後金 ともいう)を建国。 → 遼東平野に進出、明を圧迫。
- d 八旗 を編成。狩猟組織をもとにした女真の軍隊組織。
→ 所属する武人は旗人といわれて旗地を与えられ、支配階級を形成する。 - モンゴル文字をもとにe 満州文字 を作る。清朝では漢字と併用される。
解説
ヌルハチは、女真の中の建州女真に属し、姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)。1583年に自立して次々と他の女真の部族を従え、1616年に自分の姓を国号としてアイシンを建国した。この国は、漢字ではかつての「金」に続く女真の建てた国なので「後金」と称した。ヌルハチは明軍を破って遼東半島に進出して瀋陽(奉天)を都とし盛京と名づけた。自身も山海関を越えて中国本土に侵入を試みたが、1626年、カトリック宣教師が製造した火砲によって武装した明軍との戦いで、砲弾に当たり負傷した。それがもとで同年死去した。
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C清 1636年 第二代a ホンタイジ 皇帝を称し、国号を改める(太宗)。- 内モンゴル( チャハル部 )、朝鮮を制圧し、長城以南に侵入、蒙古・漢人の八旗も組織。
→ 明軍を脅かす。明は軍事費増大のため重税を農民にかける。
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3.明から清へ
A明の衰退 16世紀後半 a 北虜南倭 に苦しむ。軍事費が増加、財政難に陥り、衰退を早めた。
- 一方で、巨大な陵墓(明の十三陵)の造営を続け、財政難がさらに深刻化。
- 1572年 b 張居正 の改革 皇帝c 万暦帝 の時の内閣大学士。一条鞭法の普及などをはかる。
→ 中央集権化と財政の再建を目指すが地方出身の官僚の反発を招き、失脚。 - d 東林派 と非東林派の党争が激しくなる。顧憲成らが無錫に再建した東林書院を中心とした官僚たち。
→ e 宦官 の横暴 → 社会不安高まり、各地に暴動起こる。 - 1592~1598年 f 秀吉の朝鮮侵略 → 明は援軍を送り疲弊する。
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B明の滅亡- a 金 (後金)がたびたび長城を越えて侵入し、明を脅かす。
- 明の重税と大飢饉を背景に、各地に農民反乱が起きる。
- 1644年 b 李自成の乱 が起こる。反乱軍、北京を占領し、最後の皇帝崇禎帝が自殺し明が滅亡。
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・清軍が長城内に入り、北京を占領し、遷都。清の中国全土支配が完成。(次節へ)