占い館『たいようの館』 占い三昧の日々を報告します

占いの定義は難しい。当たる当たらないに始まり安心な要素より不安な要素のほうが多い。ぼくは占い師ではなく推命家です。

ルッコラの種のもと

2009年06月19日 16時56分45秒 | Weblog
昨年末から畑で越冬させて、
春に花が咲き、
種(写真はまだ鞘)となったルッコラ。

これを乾燥させて、
鞘がカリカリになったら
新聞紙の上で鞘を割り
中の種を取り出す。

けしつぶほどの小さな茶色の種が取れる。

それを来年蒔いてまた収穫する。
たったそれだけのことだか、
偉大な循環だ。

ラブレターと、生きた証

2009年06月19日 16時30分58秒 | Weblog
最近引越しをして片付けをしていたら、
昔もらったラブレターと写真が出てきた。
(もらった以上に出したけど)

もう20年以上も前だというのに、
あの頃つきあっていた彼女の顔や香りまでが
一瞬でよみがえってきた。

思い出話は恥ずかしいからしないけど、
今どうしているかな。

写真と記憶はあの頃で止まっている。

確実に20数年の時間を刻んだんだから、
会わないほうがいいよな。

そして思う。

人の生きた証とは何か。
(難しい話が来たぞ~)
それは過去しかないということだ。

自分の存在など100年もすれば誰も覚えてはいない。
せいぜい子供と孫くらいまでが、
記憶の限界で、
それ以降は「無」だ。

なんだかせつな的だが現実だ。

その生きた証でさえも、
自分だけの自己満足であり、勝手な記憶。
何の役にもたたないし、
他人にとってはまったくどうでもいいことだ。

しかし、だ。
それでいいではないか。
何かの役にたつものなど、
仕事でやればいい。

自分を満たすものは勝手な思い過ごしでいいのだ。

過去しか自分を満たすものがないのであれば、
思い出に残るような過去を作ろう(自分に言い聞かせている)。
迷っている時間なんかない。
ただひたすら、行け~~~だ。
今はすでに過去なんだから、
今を大切に生きていなければ、
素敵な過去、生きた証は作れない。

今日は何かテンション高いなあ。
熱中症にでもかかったかな、
草取り・・・やめよ。