思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

健康と芸術

2018-02-16 18:38:14 | 文章
梶井は「肺病にならんと小説は書けんぞ」みたいなことを言っていたそうだが、確かに梶井のような作風を目指すなら何らかの心を奮わせるものが必要なんだろう。
  少し前に「桜桃」が面白くないと書いたが(しばらくこの感想だろう)どうも改めて考えると、あの作風は一つの太宰治らしい美のあり方なのかもしれない。太宰はこんな言葉を残している。

芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。

  人々を楽しませることが奉仕に当たるとして、桜桃の楽しみ方はどうにもスキャンダラスにしか思えない。それは「太宰治」という設定を用いることで、自殺願望の理由まで書くつもりのない作品だからだ。どうしても、桜桃を読む上では作者の存在が必要になってくる。
  元々、不倫や浮気騒動なんか今でも盛り上がれるものなわけで、こうして死にたがりの人間という設定の人間が「死にたい」と書くことで、読者らはまた太宰が喚いたぞと楽しめるわけだ。僕は太宰治がどうも、こうした読者の感覚をよく理解していたように思うのだ。楽しませ方の問題なのだろうが、奉仕と言えば奉仕だ。
  ただ、こうしたやり方は太宰治が現在も有名だから成り立っている。無名になってしまうと、いよいよ興味を失う作品ではないかと思えてならない。残り続ける名作、という印象はあまりしない。土台、太宰治は「人間失格」「走れメロス」と入水自殺以上のことを大半の人々は知らないだろう?

  話は戻ろう。僕は自分が不健康だから、もしくは、不健康になりやすい神経を持っているから、とまでは言わないまでも、健康と芸術を繋げようとする輩があまり好めない。いや、言い方が悪かった。健康的なほどよく書けるという理論が分からない、と同時に、不健康だからよく書けるというのも分からないのだ。
  確かに、最近僕はシュルレアリスムにかぶれて頭の悪い、もしくは奇想天外、いや、頭痛のするような?  滅茶苦茶と書くのがいいか、ともかく、そういう発想を捻り出すにはどっと疲れている方がいい。疲れているほど、現実を離れて空想の世界を作り出しやすい。だが、そこで出た発想は面白いとは思うものの、やはりそのまま文章にすると読み辛く、何度も手直しする必要が出てくる。こればかりは少し冷静になっている時でないといけない。そういう意味では健康的でないといけないのかもしれない。
  そもそも、文章が滅茶苦茶になる精神状態であれば(一応書いておくが、僕はこのブログを記事でよく誤字脱字をするが、それは歩きながら打ち込んでいるせいだということを付け加えておこう)書くよりも前に、休息が必要だ。読みやすい文章を書く(想像させやすい、とか、美しい、でもいいだろう。ともかく、ただ、乱雑に並べるのではなく、ある程度練ってみた文章だ)には、それなりの神経を使う。何度か見直さないとやっぱり上手くいかなかったりする。山会でもそうだが、まずは文章から読みやすくする必要のある人がちらほらと見受けられた。捻ってみるのも大切だが、まずは基本から始めることが必要だと思う。
  結局、どちらにせよ思うのは書く上で必要なのは、別に健康でも不健康でもなく、想像する能力に他ならない。自分を遠くから見る。色々な視点がある。電灯から見下ろす視点、電灯から電灯へ移る視点、合わせ鏡に際限なく反射する視点。小説はどのように描かれるかが重要なわけで、それを制御するには、俯瞰的に想像を働かせられることと、それを言葉にできるだけの知識が必要なんじゃないかと思う。
  岡本かの子なんかも自己顕示欲が強い文章らしいが、名作と言われているものは抑え気味らしい。何やら夫の方が手直ししているとの話もあるが、自己顕示欲の強い文章というのは当人もあまり意識していないようなので、あながち間違いでもないのかもしれない。
  まずは俯瞰から。