思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

卑小化

2018-01-15 22:07:53 | 日常
❇︎誤字脱字修正。

最近思うのは、現実に限りなく近い内容で「私」が語るのは慎重にならざるを得ないということだ。何を目的でそれを語るのかという問題を考えると、中々こうした作品群は技巧を凝らさなければ読みにくさを覚えるだろう。
  この「読みにくさ」は文章の話ではなく、その作品の底にあるものが何なのかという問題だ。例えば、作者の苦い生活面を延々と語り、痴話喧嘩で盛り上げ、些細なプライドを守るために嫉妬心を剥き出す、という作品であればどう思われるだろうか?  僕が気になるのは、結局この作品は嫉妬心以外の何ものでもないということだ。執拗に惨めに書くのであれば(同情を誘うのではく、読者からも一歩引かれるとか、嫌われるとか)、またそうした趣向の作品として意図は分かる。また、その嫉妬心に至る理由が後半に判明する場合も、しっかりした構成だと思う。そうしないで日常を描こうと思うなら、今なら漫画の方がある程度読みやすいだろう。これは前も書いた気がするので略。
  ただ、中にはそういうものしか書けないという人もいるだろう。根本的な解決は、自分も含めて人間を愛せなければ小説を書くことは困難だと思うので、まずは自分の精神が落ち着いていくまで習作品と割り切って色々試してみるのが良い。でもそれでも書きたい!  そんなわんぱく小僧が世の中には沢山いると思うので、僕が技法だと思っている卑小化と象徴化について少し書いてみたい。といっても、僕がその技法を用いているかは怪しいところがあることは先に記しておこう。
  卑小化というのは井伏鱒二の論文で見た用語だが、確かにその技法は卑小化と書くのが相応しいと思う。実際に注意深く読んでみれば分かると思うのだが、井伏鱒二作品の多くは「私」を用いている場合が多く、その「私」があまり主張してこないことが特徴だ。この主張しないという書き方が「卑小化」と言えるだろう。この技法を用いる必要がある人は、概ね「自分のことを語りたくて仕方がない人」だろう。(例を作ろうと思ったけど怠いからやめた)主人公は「私」なのだから「私」の設定をしっかり作らなければどうしようもないじゃないか?  と考えているのかもしれないが、そんなことはない。「私」とは何だろうか?  突き詰めると「私」とは所詮一人の登場人物でしかないのだ。卑小化への意識はまずこの「私」を登場人物として扱うことから始まる。「卑小化」とは関係ないが、一人称を作る上で最もいけないのは、主軸の物語に対して何の関係もない説明が挿入されることだ。盗人の「私」が老婆の首をもぎ取って首で人形遊びをしている妻にプレゼントする話だとして、「私」は高校時代痴話喧嘩の末に休学し精神病棟に入っちまったぜ!☆という説明がなされても、蛇足でしかないことは分かるだろう。必要なのは、盗人としてどのような暮らしをしていたか、つまり主軸となる物語以前の物語を簡潔に説明するとか、この首遊びを楽しむ妻のことだとかを書けば良いのだ。
  卑小化した作品を作るには徹底して自分のことを書かなければ良い。それは色々な方法で出来るだろう。例えば、「私」の感情を必要最低限にまで抑える、周囲の登場人物を中心に物語を進める等が分かりやすいだろうか。必要最低限と書いたが、なんならほとんど書かなくても良い。感情は書けば書くほどまだるっこしくなる。あぶらぎっとぎとの唐揚げも時には美味しいだろうが、全く面白みもない経歴のど素人が、本当の事実として作品を読ませたいとすれば、酢の物ぐらいさっぱりした調子を作らないと、押し付けがましい語り手になるかもしれない。儒教には泣き女というものがあるが、あれが良いと思えるなら感情丸出しにしてみても良いだろう。ただ、泣き女も小説も、一つの虚構だということを忘れてはならない。特に嫉妬心のような他者との強弱によって生じる感情は、相当な道化を作らなければ、ただただ見苦しくなるだけなのだ。
  もちろん感情をすべて抜いて書くことは不可能だ。大事なのはその感情を説明しないこと。大切な万年筆を出て行った恋人に折られているという場面だとして「私は机の上の折れた万年筆を見て哀しくなった」と書くよりは「机の上に折れた万年筆があった。漏れたインクが深い溜息を吐かせた。」と書いても良いだろうし、「机の上に折れた万年筆があった」だけでも良いだろう。その辺りは好みの問題か。
  ともかく、小説は「書いてある」ものだ。「書かれてある」でも良い。どちらにしても、「書いている本人」は実に冷淡・冷静に物語を纏めなければならない。数学とまでは言わないが、物語を伝えるためには情報を操作しなければならず、整合性を高めるためにはある程度計算して書かなければならない。現実を舞台にして難しいと思うのは、自分の経歴を用いる上で、その出来事に足を引っ張られがちだからだ。現実の出来事がどれだけ当人にとって悲惨だとしても、小説にする以上は虚構として整えなければならない。それが小説の面白いところで、難しいところだ。
  あ、象徴化について書こうと思ったけど、飽きたからまた別の機会でいいや。