思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

子供

2017-08-02 02:58:00 | 日常
K田君と久しぶりに会った日に、子供は作るのかと尋ねた。彼は経済的に余裕はできないだろうから作らないと答えた。多分、彼らの場合、それだけではないだろう。
  子供が欲しいと彼は言っていた気がするのだが、それが何故今になって作らないのだろうか。そんなことが疑問に思えたりもするのだが、今の世の中をよく理解しているせいか、彼自身がまた教師のせいかもしれない。
  僕らも子供を作る気はない。それは経済的な問題もあるし、今の子供や先生の話を聞いていると、生まれた子供が可哀想な目に合う気がしてならないと思ったり、また、僕らの性格を考えると生まれた子供も大変な未来が待っているような気がしてならない。K田君は今子供を作るのは上流と下流の方々で、中流は作らないとかなんとか言っていたな。
  ある意味、僕にとっての子供は、僕によって書かれたくだらない小説どもになるが、どれもこれもがくだらないので、手足がなかったり、目が四つあったりする。奇形児しか生まれないのだ。それでも生まれた子供を愛することはできるだろう?  と言われたこともあるが、僕はこいつらを強く愛することはできない。せめてと、昔の奇形児たちをロボトミーやら、整形やらしてやることはあるものの、それも幾らかマシになったぐらいで、やっぱり奇形児は奇形児のままになる。
  それはとても可愛らしい子供だね、と言う人々もいるが、その腹の底では何を考えているか分からない。特に学生というのは信じられないもので、あいつらは年上に媚びへつらい、年下に良い格好を見せたがるものだ。もちろん、そんな方々は全員ではない。よくいるような例として、だ。これだから部活動は続けられんね。
  どちらにしても、奇形児を人に見せるのは恥ずかしいことだ。どうです?  首が三つあって可愛いでしょう?  とは言えない。拙いものですが、どうぞ見てやってください。ぐらいの気持ちになる。
  僕は赤子を見せる相手を選ぶ。見てもらっても仕方ない相手には見せない。それは例えば、影響を受けやすい人だったり、自分を愛して止まない人だったり、何はともあれ、毛色の合わない人には見せる意味もない。逆に言えば、僕から小説を見せる相手というのは、信用しているとか、相手の腕を買っているとか、見せたらどんな反応を示すのだろうとか、そんなところになる。もちろん、見せてほしいと頼まれて断るつもりはない。
  自分の作品を愛せる人は、余程自信があるのかもしれない。確かに、どんなに不細工だろうと自分の子供は可愛いのかもしれないが、残念ながら小説というのは、最終的にその子供を舞台の上で踊らせてやる必要があるわけで、不細工なら化粧や整形をしてやり、踊り方も下手くそなら整える必要がある。
  ともかく、最初に作り出した骨格からどれぐらい美しい化粧を施せるのだろう?  初めからしゃくれていたら、そいつはどうやってもしゃくれたやつにしかならない。それが美人と思う奴もいるかもしれないが、僕は勘弁だね。