思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

いじめについて

2017-07-21 13:58:08 | 日常
  いじめというのは、なにをもっていじめとするのかが難しい。なにとなく「いじめ」と表記するより「虐め」の方がしっくりくる。ひらがな表記の柔らかさは「いじめ」の犯罪の意識を弱めているような気がしなくもない。
  それはともかく、僕もいじめられてきた方で、その原因か何かは知らないが、多分現状とか、これからとかに何らかの障害を患っている可能性もなくはないが、問題はいじめてきた人々に対してどうしてやりたいかということ。
  復讐。そう考える人は多いかもしれない。僕の場合、復讐を考えたことはあるが、それは出会ってしまったらの話で、基本的に地元にいない僕としてはそんな相手と出くわす機会がない。それは昔の話。今はどうかというと、まず「いじめ」ってなんだろうと考える。
  この辺りH田君とは気が合う。彼の考えによると、豚や鶏も「いじめ」をするのだから、人間が「いじめ」をしたって何もおかしなことではないじゃないか?  という考えなのだが、これは全くもって僕も同意見だ。鶏小屋の話は僕も知っている。それと学校の「いじめ」を関連して述べているサイトもある。人間も結局は動物なわけで、弱者を虐めることでストレスを発散できる生き物なんだろう。それは何もおかしいことではない。極々自然なことなんだ。
  確かH田君がいうには、I上君はその話を認められないらしい。確かに彼の場合、その作品傾向から考えても認めるわけにはいかないのだろう。ただ、そこがどうも青臭くなる要因でもありそうで、結局、現実というのは自分も含めて、どうなっても仕方がないものだと思うのだが。
  もちろん「いじめ」の善悪を考えると、無い方が良いとは思う。それに人間の脳なら、分かり合えることもできるかもしれない。その可能性はあるだろう。でも、僕らが「いじめ」をする理由は、多分その思想の問題ではなくて、外見とか癖とか、その集団の中でも醜い存在に違いないわけで、やっぱり「いじめ」というのは無くなるものとは思えない。教師側もさぞ大変なことだろう。親との折り合いもあるわけで、ただでさえ多忙なのに、無駄な仕事を増やさないでくれ、そんな感覚かもしれない。学校の経営として考えると、「いじめ」のある事実は「ない」ものとして考えた方が気楽に違いないが、いざ自殺されるとなると厄介な話なんだろうな。ともかく「いじめ」は仕方ない。そして被害者に特別な救済もない。解決しようのない問題な気もする。もちろん、I上君やT本さんのように、その現状を描くことが被害者にとっての救済となる可能性もあるが、それは被害者によって苦痛となるかもしれない。被害者の自己慰安の方法は、やっぱり被害者自身が選んでいるわけで。

  そういえばS藤君に色々余計なことを伝えてしまった。それは話の成り行き上仕方ないことだと思っているが、どうも自分の話というのは苦手だ。隠すつもりはないが、変に根暗が強調されて仕方ない。その癖、中々S藤という男は自分のことを語らないのだ。してやられたなぁと思う。