
あの悲しい出来事から今年で31年もの歳月が流れ、私は古希を迎える年齢になりました。ただ、セナの肖像は30代のまま。齢を重ねると色々と大変なことも増えますが、齢を重ねられないことに比べれば幸せなことだとつくづく思います。

セナの命を奪ったあの事故は1994年5月1日でしたが、TV観戦では1日の深夜で、彼の死が報じられたのはレース中だったので、私の中の命日は1日ではなく2日になっているようです。セナのクラッシュは、フジテレビでF1グランプリ中継の前番組である「スポーツWAVE」で報じられ、続いてF1グランプリ中継がイモラサーキットからの生中継で開始されていました。

つまり、あの事故をTV画面を通して生で見てしまったのですから、ショックは本当に大きなものでした。1994年5月2日は月曜日でしたがゴールデンウィークで休みでした。ショックで眠れぬ夜を過ごしたまま、ふらふらと街へ出ていました。昼間からススキノであおるように酒を飲んだ記憶が苦々しい想いとともに残っています。

スポーツとは縁遠かった私がF1にのめり込んで行ったのは、HONDAのF1参戦とセナの走りに魅せられたからでした。当時のF1はフジテレビで生中継されていて、テーマ曲がT-SQUAREのTRUTHで、これは今でもローラートレーニング中に良く聴いています。流石にセナのロータスデビュー時のレースは見ていませんでしたが、1987年にセナの要望を受けたピーター・ウォーがホンダエンジンの獲得に成功し、チームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキーの中嶋悟が加入した頃からTV中継を観るようになったのです。

自動車レースの最高峰F1に日本のエンジンと日本人ドライバーが参戦するというのですから、エポックメイキングな時代の幕開けを感じていたのです。当時のライバルはアクティブサスペンションで有名なウィリアムズ・ホンダで、HONDAのエンジンがTOP4を独占することも珍しくなかった時代でした。ただ、ウイリアムズは最強でセナといえどもなかなか勝てない時代だったのです。

翌1988年シーズンからHONDAがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、セナがマクラーレンに移籍しアラン・プロストとコンビを組む事が発表されます。コンストラクターズチャンピオンを獲得していたウイリアムズからマクラーレンにエンジン供給先を変えたHONDA。そのHONDAの技術に魅せられていたセナの移籍で幕を開けたシーズンは、セナが悲願としたドライバーズチャンピオンを当時すでに2度のワールド・チャンピオンを獲得していたアラン・プロストと同じチーム内で争うことになったのです。

マルボロカラーにペイントされ、「ホンダ・RA168E」を搭載したマクラーレンのMP4/4は最強で、この年の16戦中チームは15勝を上げ、10度の1-2フィニッシュをというとてつもない記録を残しています。その結果コンストラクターズのタイトルは早々と決まったものの、ドライバーのタイトルはもつれにもつれ、決着を見たのは日本GPでした。この年のセナは16戦中8勝し13PPという成績で、いずれも当時のF1史上最多記録を更新するものでした。

この時のセナの姿を観て魅了されない人はいなかったでしょう。特にドライバーズタイトルを決めた日本GPではスタートの失敗により14番手に順位を落としたあと挽回しての優勝でしたから、凄いものを観たという印象でした。特にコーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビング「セナ足」は今でも耳の奥に残っているのです。

音速の貴公子アイルトン・セナはプロストとの確執や当時FIAの会長だったバレストルとの確執等など様々な問題とも戦いながらも魅せる走りを続けるも、1994年5月1日に帰らぬ人になってしまいました。享年34歳。ドライバーズタイトルこそ3度でしたが、彼の走りは魅力的で、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位の記録なのです。

F1がエンジンのパワーだけで勝てる時代は終わり、シャーシやサスペンション、電気系統といった総合的な技術が求められる時代に入り、来年からは新たなPU(パワーユニット)のレギュレーションが施行され、HONDAが2021年以来5年振りにF1に復帰します。セナの死後F1とは距離を置いて来ました。レース結果等はWEB等で確認していますが、レースの観戦はしていません。否、出来ないといった方が正確でしょう。あの事故が蘇って来るような気がするからです。先日、香港でリバティアイランドが安楽死処分を受けました。サラブレッドの死でさえ衝撃があるのですから、人の死なら尚更でしょう。