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research notes ♯01頁 ブラック企業の定義①

2023-10-27 21:00:00 | 自由研究

 「もし自分がブラック企業で働くことになってしまったら…」①

 これまで社会人として働いてきた方637人を対象にアンケートを実施し「ブラック企業の特徴や見分け方」に関する調査結果を発表します。

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 <調査概要>

 対象者:社会人経験のある18歳以上の方
 回答者数:637名
 調査期間:2023年4月24日~5月19日  調査方法:Webアンケートによる回答

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 ◆そもそもブラック企業の定義とは

 ブラック企業とは、労働者の労働条件や権利を無視し、過度な労働時間や過酷な労働環境を強いる企業のことを指します。
 従業員の健康や福祉を軽視しがちで、適切な労働条件や休息を提供せずに利益追求を最優先とする姿勢を持っている傾向があります。
 違法な労働実態や労働者の搾取が顕著であり、労働基準法や労働契約法に違反する行為が頻繁に行われるのが特徴です。
 また、上下関係が強く、パワーハラスメントやいじめも横行することが多く、また、労働者の権利や人権が軽視され、健全な労働環境が欠如している企業のことを言います。

 ◆あなたが思うブラック企業の特徴
  第1位は「長時間労働」

 637人の男女に対して
 「Q. あなたが思うブラック企業の特徴を教えてください。」をテーマとした
 アンケートを実施したところ、参加者からは「過度な労働時間」や「過重労働」が第一位に挙げられました
 (アンケートは複数回答可)。

 1位 長時間労働・拘束時間が長い・過重労働がある。

 ・人手が足りていないから、うまく仕事がまわらず長時間の残業などを上司から強いられる。
(女性 35才~39才 製造業・生産管理)

 ・常に多忙で、昼休みも取れずにデスクで食事をすることがほとんどであり、十分な休息を取る時間もなく…。
 もちろん毎日残業で帰るのは早くて23時過ぎ、終電というのもザラ。
 気が休まらずにしんどかったです。
(男性 45才~49才 情報通信業 エンジニア)

 ・週末や休日にも残業を強制され、家族や友人との予定をキャンセルせざるを得ない時がままあった。
 仕事とプライベートのバランスなんてあったものではない。
(男性 30才~34才 小売業 営業)

 ・毎日残業が4時間以上ある。
 周りもそれが当たり前だと思っている人が多い。
(男性 25才~29才 広告業 営業)

 ブラック企業では、従業員は通常の労働時間を超えて残業を強いられ、休憩時間が不十分であったり、深夜労働や休日出勤が頻繁に要求されることがあります。
 長時間の拘束や過重労働が起こる理由はさまざまですが、理由としては概ね次のようなものが挙げられます。

 ・生産性や利益最大化の追求

 ・業務量の増加・業務効率の低下

 ・慢性的な人員不足やリソースの不適切な配分

 ・上司や管理職の不適切なマネジメント

 ・遅くまで仕事している人ほど評価される社風

 これにより、従業員は仕事に追われ、プライベートや休息の時間を犠牲にしなければならない状況になります。

 2位 残業代が出ない・割増賃金がない

 ・繁忙期に仕方なくみんな残って残業しているにもかかわらず、残業代は誰一人支給されません。
(女性 30才~34才 小売業 経理)

 ・固定給に残業代が含まれていましたが、割増賃金分の1.25倍を残業時間に掛けて計算したら少なかったことがあります。
(男性 25才~29才 広告業 企画)

 ・終業時間になったら総務の人がタイムカードを勝手に切る。
 そのあとに残業した分は支払われることはない。
(男性 25才~29才 製造業 営業事務)

 一部のブラック企業では、労働者に対して残業代や割増賃金が適切に支払われないことがあります。
 従業員が法定の労働時間を超えて働いた場合でも、それらが支払われない“違法行為”が見られます。
 ブラック企業は法律や労働基準を遵守せず、労働者の権利を無視することがあるので注意しなければなりません。
 入社する前に労働契約書を細かく確認し、残業代や割増賃金に関する明確な記載があるのかをチェックすることがご自分の身を守ることに繋がります。

 3位 給料が低すぎる

 ・経営状況が悪化がすると、ここぞとばかりに給与をカットしてくる。
(男性 35才~39才 生活関連サービス業 マーケティング)

 ・役職や責任に比べて給料が極端に低い。
(男性 45才~49才 福祉 マネージャー)

 ・慢性的な人材不足で常時一人分以上の業務量をこなしているのに、給料は一向に増えません。
 常々割りに合わなさを感じていてしんどいです。
(女性 25才~29才 娯楽業 経営企画)

 ・自身の努力や働いた時間に対して給料が低すぎると感じている人が多いです。
 仕事量に対して給料が低すぎる状況では、働く意欲も低下し、生活費や将来への備えに十分な資金を確保することが難しくなります。

 4位 休日が少ない・有給が取れない・休みにくい

 ・繁忙期に有給を取ろうとするとあからさまに上司が困った態度を取ってきて…。
 もちろん暗黙の了解で有給は取れなくなります。
(男性 25才~29才 生活関連サービス業 マーケティング)

 ・うちで働く人は休むことに罪悪感や不安を感じるようになっていきます。
(男性 45才~49才 福祉 マネージャー)

 ・休日出勤を強いられるのは日常茶飯事。休日でも上司から電話がかかってきたりしてゆっくり休むことができない。(女性 25才~29才 娯楽業 経営企画)

 カレンダー上の休日であっても出勤を求められたり、有給休暇も取りにくい状況がよく起こります。

 従業員は十分な休息やプライベートの時間を確保することができず、肉体的・精神的な負担が増えて心身の健康を害してしまいかねません。

 あらかじめ休日出勤の有無や有給消化率を確認しておきましょう。

 5位 ハラスメントが横行している

 ・上司が事あるごとに部下をきつく叱責し、侮辱的な言葉を言ったり、怒りに任せて度が過ぎる発言を繰り返すような環境でした。
 私もよく上司から嫌味な言葉を投げかけられ不当に扱われたことがあります。
(女性 30才~34才 不動産業 営業)

 ・特定の人が上層部から非難されたり、日常的に嫌がらせの対象にされていた。
(男性 25才~29才 製造業 企画開発)

 ・無茶なノルマを要求をされ、常に不安やプレッシャーとの戦いでした。
(男性 25才~29才 金融業 営業)

 セクハラやパワハラ、いじめなどがブラック企業では横行している状況があります。

 このような会社は、上司や経営陣が適切な監督・管理体制を構築せず、ハラスメント行為に対して厳正な対応を取らない傾向にあります。

 身体的・精神的な苦痛やストレスを受けないためにも、実際の社員や元社員によるネット上の口コミやレビューを調査してみましょう。

 6位 雇用契約が違法・不透明

 ・この会社で働くことになった際に雇用契約書のような書面は一切なく、口頭での合意のみでした。
(女性 25才~29才 小売業 店舗スタッフ)

 ・フルタイムの正社員で入社したのに雇用保険や社会保障が適用されていなくてびっくりした。
(男性 20才~24才 飲食サービス業 ホール・キッチン)

 ・面接の時「たまに残業が発生する」とだけ聞いていたが、実際は給与に月30時間の残業代が含まれた契約になっていた。
(男性 25才~29才 情報通信業 デザイナー)

 ブラック企業においては「雇用契約書がない」「労働条件通知書が交付されなかった」というように労働時間や休日、賃金などの労働条件が明確に示されないことも。

 「事業責任者だから残業代は支払わない」「 1日の所定労働時間は10時間とする」「残業代は給料に含まれている」といった労働基準法に違反していたり、曖昧で不当な労働条件を定めている可能性があります。

 7位 離職率が高い・常に求人募集している・採用人数が多い

 ・新しく入ってきた人は半年後には半分以上いなくなっている。
(女性 30才~34才 製造業 営業)

 ・離職率が高いので常に人材不足。
 それを補うためにいつも大量に求人募集している。
(男性 25才~29才 飲食サービス業 接客業)

 ・過酷な労働環境についていけなくて、みんな辞めてしまう。
(男性 35才~39才 小売業 マネージャー)

 労働条件が悪く、働く社員が不満を抱えがちなため、ブラック企業は従業員の入れ替わりが激しいです。

 離職者の穴を埋めるために採用を繰り返して、その都度大量の人員を募集し、多数の社員を採用しようとすることがあります。

 また、労働力を安く確保するため、または過酷な労働条件に耐えられるとされる若者をターゲットにする可能性もあります。

 8位 勤怠管理がいい加減

 ・会社独自の勤務記録票に自分で入力して月に一度総務にメール送信するだけ。
 長めの残業をすると理由を逐一ヒアリングされるし、仕事への意欲が削がれる。
(男性 30才~34才 情報通信業 エンジニア)

 ・残業は15分単位で計算されるはずなのに、抜けているときが結構ある。
(女性 30才~34才 卸売業 営業事務)

 ・朝も夜も好きな時間に出社して、好きなときに帰っていく人もいましたが、上司はまったく注意せずでした。
(男性 25才~29才 情報通信業 営業)

 労働時間や休日の管理といった勤怠データを適切に管理していないことがあります。

 ・勤怠管理システムやタイムカードを導入していない

 ・手入力でシフト管理している

 といったことが当たり前に行われていて、これが残業代未払いや長時間労働につながる原因になっています。

 9位 募集要項に精神論が多い

 ・求人内容に「忍耐力」や「犠牲精神」という言葉が踊っていた。
(男性 25才~29才 製造業 経営企画)

 「気合い、根性」というフレーズを多用した募集要項には寒気がしました。
 体育会系の人にはぴったりだと思います。
(男性 25才~29才 金融業 営業)

 ・仕事を何よりも最優先、情熱を持って働け!という社風のワンマン会社。
(男性 25才~29才 小売業 販売・サービス)

 ブラック企業では、募集要項に精神論が多く盛り込まれることがあります。
  
 「情熱を持とう」
「結局根性が大事 「飽くなき挑戦」
 「スピード成長できる」
 「フレッシュな職場」

 というように仕事への情熱やチャレンジ精神、自己成長などの表現が頻繁に使われます。

 10位 コンプライアンス意識を著しく欠いている

 ・会社の雰囲気が昭和的でコンプライアンス問題が見逃されやすい組織体制でした。
(男性 30才~35才 卸売業 情報システム)

 ・コンプライアンス意識が全く無く、精神論が根付いていてサービス残業も多く、労働基準法に違反している。
(男性 35才~39才 医療・医薬業 営業)

 ・コンプライアンスを守ろうという考えは存在しない会社。パワハラ上等のことを口走る上司がいて、従業員のモチベーションは地を這うくらい低く、ネガティブな雰囲気が蔓延している。
(男性 35才~39才 情報通信業 社内SE)

 ・従業員の安全や健康がないがしろにされている。
(男性 40才~44才 運輸業 ドライバー)

 労働基準法や労働安全衛生法などの労働法令を軽視し、自社で定めた就業規則をも守らないというケースも見られます。
 「実労働時間と実支給額を計算したら、最低時給を割っていた。」
 「法定休日を不正に剥奪されている」 といった辛辣な意見もありました。
 まずは法律や倫理を順守し、社会的責任を果たせる企業を選ぶことが重要ですね。

 11位 採用条件が緩い・採用倍率が低すぎる

 ・やる気さえあれば誰でも採用される会社
(男性 25才~29才 不動産業 営業)

 ・採用基準はまったくない会社です。
 学歴は当然不要で、金髪にピアス、中卒ヤンキーあがりなど色んな人が入ってきます。
(女性 40才~44才 製造業 総務)

 ・面接さえ行けば即採用、普通にコミュニケーション取れる人なら誰でも採用されます。
(男性 30才~34才 生活関連サービス業 経理)

 採用条件が緩く、採用倍率が低いこともブラック企業の特徴の一つ。

 応募者の経験や能力を適切に評価せず、人的リソースの不足を補うことを第一に考えて大量の採用を行います。

 採用条件は二の次なため、職場に適切な人材採用が行われず、結果として労働環境や労働条件が悪化しやすくなるのです。

 応募者は採用倍率の低さに惑わされず、企業の実態や評判をよく調査し、自身のキャリアや働く環境を考慮した選択を行うことが重要です。

 12位 トップダウンで社長や上司が絶対の社風

 ・完全なトップダウン経営なので、現場の意見はまったく取り入れられません。
(男性 25才~29才 小売業 業務管理)

 ・社長の一方的な意思決定によってそれまでの仕事がひっくり返ることもしばしば。
 ついていけない社員は日々疲弊して辞めていく。
(男性 40才~44才 情報通信業 営業企画)

 ・社員の意見や改善案が受け入れられることは稀で、多かれ少なかれ全員が不満やストレスを抱えています。
(女性 40才~44才 生活関連サービス業 営業事務)

 第12位は「12位 トップダウンで社長や上司が絶対の社風」です。

 経営陣や上司がトップダウンの組織文化を最優先し、絶対的な権限を持つ職場です。

 社長や上司の指示や意見が絶対であり、従業員の意見や提案が無視されることが多いというネガティブポイントがあります。

 従業員の声が届かず、意欲や創造性が抑制されるので、ストレスや不満が溜まりやすくなります。

 13位 働く意欲やヤル気がない従業員が多い

 ・社員の士気は総じて低く、やる気の無い人が多いです。
(男性 35才~39才 生活関連サービス業 営業)

 ・毎日黙々と仕事をするだけ。やりがいや働く意欲を持ち続けるのは難しい。(男性 40才~44才 製造業 ライン作業)

 ・上司や先輩にやる気のない人が多く、モチベーションが上がらない。
(男性 20才~24才 情報通信業 プランナー)

 組織内のストレスや不満の蓄積により、従業員のモチベーションが低下し、働く意欲やヤル気が低い従業員が多いことです。
 「過重な業務負荷が常態化している」 「給料が低く、適切な評価や昇進の機会が与えられない」
 「長く働いてもスキルは身につかないし将来への希望を持ちにくい」 といった声が散見されました。

 14位 業務内容が不自然で曖昧

 ・他の人に任せたほうが良さそうな仕事を振ってくる。
(男性 30才~34才 情報通信業 ディレクター)

 ・基本どんな仕事でも担当者任せ。業務内容の細分化ができていない。
(男性 30才~34才 製造業 商品開発) 

 ・方向性のわからない仕事が多いです。
 その都度仕事のやり方を考えながらこなしていくので業務負荷がかかり、結果的に仕事の質やスピードが低下してしまいます。
(女性 25才~29才 宿泊業 広報宣伝、オペレーター)

 業務内容が不自然で明確でなく、具体的な指示や目標が不明瞭な場合があります。 従業員は自分の役割や責任を正確に把握することが難しくなるため、業務の優先順位が曖昧になり、働き方が非効率になりがちです。

 15位 社員旅行を強制される・社員旅行の代金が自己負担

 ・年一回ある社員旅行は半額自腹…。半分でも自己負担したくないのに。
(女性 25才~29才 総合商社 総務・事務)

 ・毎年必ずある社員旅行はほぼ強制参加。仕事とプライベートを分けたい人は苦労します。
(男性 35才~39才 人材サービス業 営業)

 ・社員旅行はみんな気を遣っていて終始どんよりしたムードが漂っています。しかも強制参加で自腹…。なんのためにやっているのか理解できません。
(女性 50才~54才 建設業 経理)

 第15位は「社員旅行が強制され、かつその費用が自己負担とされること」です。

 従業員は給与から「旅行積立金」として一定額を天引きされる会社もあるほど。

 業務外の活動なのに給与が減って負担が増えるのは不公平ですよね。 従業員は社員旅行に参加するかどうかを自由に選択できるべきです。

 16位 会社のWebサイトがない・内容が薄すぎる

 ・公式ウェブサイトが存在しない。
(男性 20才~25才 建設業 営業)

 ・会社の公式サイトに掲載されている事業内容や福利厚生についての情報に矛盾がある。
(女性 45才~49才 製造業 経理)

 ・Webサイトの内容が非常に薄く、会社概要や事業内容についての情報がほとんど載っていない。
(男性 30才~35才 医療、福祉 介護職)

 Webサイトは企業の重要な情報発信やブランディングの手段となっていますが、ブラック企業ではそれが顕著に欠如している傾向があります。

 従業員や求職者は、会社の情報や価値観を知るためにWebサイトを訪れることが多いですが、情報の乏しいWebサイトでは会社の透明性や信頼性に欠ける印象を与えます。

 過剰なキャッチコピーばかりでサイトの掲載内容が薄い場合も注意しましょう。

 〔出典元 : 株式会社シフィット



世界の女傑たち Vol.06

2023-10-26 21:00:00 | 自由研究

 ■アメリア・イアハート

 アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart)
[əˈmiːliə ˈɛərhɑrt]
 (1897年7月24日〜1937年7月2日)
 アメリカの飛行士。


 《概要》

 1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことから、ミス・リンディの愛称がある。
 知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていた。
 これらは出版人であった夫のジョージ・パットナムの協力と手腕であったとされる。
 最後のフライトも、7月4日の国民的祝日のアメリカ独立記念日にアメリカ本土到着を計画したもの、との見方がある。 1937年(昭和12年)には赤道上世界一周飛行に挑戦するが、同年7月上旬に、南太平洋において行方不明となった。
 遭難の経緯や捜索状況は、日本国内でも新聞で報道された。
 その後アメリカ海軍と大日本帝国海軍により大規模な捜索が行われたが、機体の残骸や遺体が発見されなかったことから、イアハートの失踪が「ミステリー」として取り上げられることとなった。
 アメリカでは今も代表的国民ヒロインの一人(スミソニアン博物館所蔵品の3Dデータ公開ではライト兄弟機と同時に彼女のフライトスーツが公開された)であり、さらに謎めいた最期のために、未だにSF・フィクションの世界では彼女の登場するものが少なくない。
 また、イアハートは自身の体験を通じ、女性の地位向上のために熱心な活動を行い、ゾンタクラブ(英語版)の主要メンバーとして活躍していた。
 今もイアハートの名前を冠した奨学金制度(大学院課程で航空関連の科学や技術を学ぶ女性対象)が運営されている(2012年現在も活動が続いている)。
 これらのことから、昨今、ナンバー1でなくても切り口を変えればナンバー1になりうる、としてマーケティング分析分野では「アメリア・イアハート効果」という語も生まれている。

 《経歴》

 ▼生い立ち

 アメリカのカンザス州アッチソン (Atchison) でドイツ系の裕福な家庭に生まれる。
 高校卒業後は医学を学ぶためコロンビア大学に入学したが、1年で中退した。
 第一次世界大戦中はカナダのアメリカ陸軍病院で看護助手として働いた。
 1921年にカリフォルニア州ロサンゼルスで、ネタ・スヌークから飛行訓練を受け、最初の飛行機を買った (Kinner Airstar)。
 家族内の問題により1924年に飛行機を売り、東部に戻りソーシャルワーカーとして働いた。

 ▼女性飛行

 1928年4月のある午後、イアハートは仕事中に一本の電話を受けた。
 電話の主、ジョージ・パットナムは通話の終わりにイアハートに尋ねた。
 「大西洋を飛びたいと思いますか」。
 イアハートは政治評論家で出版者であったパットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズと副操縦士兼エンジニアのルイス・ゴードンのチームに共同パイロットとして加わるように依頼された。
 この時点で、大西洋横断を試みた女性は存在していたが、いずれも墜落して失敗。
 3人以上が死亡していた。
 1928年6月17日、3人が乗ったフレンド・シップ号(フォッカー F.VII)は、ニューファンドランド島(現カナダ領)のトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。
 彼らはサウサンプトンから客船でアメリカへ戻った時、ニューヨーク州のマンハッタンで紙吹雪の舞うパレードと、カルビン・クーリッジ大統領によって開催されたホワイトハウスのレセプションで歓迎を受けた。
 その時以来、飛行機で飛ぶことはイアハートの生活の一部となった。
 彼女はクリーブランドでの、ウィル・ロジャースによって「パウダー・パフ・ダービー」と呼ばれた女性の航空レースで3位になった他、1931年にはオートジャイロでの最高到達高度記録も樹立した。
 イアハートとパットナムは大西洋横断飛行の準備の間に愛情を深め、1931年2月7日に結婚した。
 イアハートは結婚を「二重のコントロールとの協力」と呼んだ。

 ▼記録樹立

 1932年5月20日にイアハートはチャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と同じルートを、ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード ベガで出発した。 しかし強い北風と氷および機械的な問題で、アイルランドのロンドンデリー近くの牧場に着陸せざるを得なかった。
 イアハートは大西洋単独横断飛行の成功で、議会からの空軍殊勲十字章、フランス政府からのレジオン・ド・ヌール勲章およびハーバート・フーヴァー大統領からのアメリカ地理学協会のゴールドメダルを受け取った。
 同年8月24日、女性では初のアメリカ大陸単独横断無着陸飛行のため、東海岸のニュージャージー州ニューアークを離陸。
 19時間後の翌25日、ロスアンゼルスに着陸し成功。
 1935年1月11日には、アメリカ領のハワイからカリフォルニア州オークランドまでの単独飛行にも成功した。

 ▼遭難

 1937年(昭和12年)5月21日に赤道上世界一周飛行(赤道に沿って東西方向へ飛ぶ)に向かって、ナビゲータのフレッド・ヌーナン(英語版)とロッキード・エレクトラ10Eでカリフォルニア州のオークランドを飛び立ち、東回りに飛行し、6月30日にニューギニアのラエまで到着した。
 エレクトラは旅客機であり、通常は操縦士2名の他に旅客12名を載せて航行可能な機体であるが、イアハート機は長距離飛行のために客室内に増設タンクを設置した改造機であった。
 7月2日に、日本の委任統治領(南洋諸島)に隣接したアメリカ領の無人島であるハウランド島を目指して離陸したが、目的地に着陸することはなかった。
 1,100米ガロン (4,200 L)のオクタン価87の通常燃料の他、ブースト用のオクタン価100の燃料50米ガロン (190 L)を追加積載して離陸した。
 これらは航続距離にして2,460海里 (4,560 km)(約20–21時間相当)を飛べる量とされている。
 ヌーナンはこの航程について18.5時間の飛行と計算を行っていた。
 出発時の天候は時折雨が降る曇天で雲が厚く、天測航法のための天体観測は困難な状況であった。
 また出発に際して推測航法に必要なヌーナンのクロノメーターを合わせるラジオ時報が受信できず、足止めを余儀なくされてヌーナンは飲酒で時間を過ごしたという記録がある。
 飛行支援のためにハウランド島周辺で待機していたアメリカ沿岸警備隊の巡視船「イタスカ(英語版)」に対し、19:30GMT(現地時間07:42)に乗機のコールサイン「KHAQQ」を用い、3105kHzにて通信を行う。信号強度は強く音声はクリアであったとされるが、この周波数帯ではそれらが端的に近距離を示すものにはならない。

 「イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません。
 燃料は不足しています。あなたたちからの無線通信も聞こえません。
 高度1,000フィート (300 m)を飛行中」

 その1時間後(現地時間08:43)

 私達は今、157° - 337°線上にいます。  
 6210キロサイクルでこのメッセージを繰り返します。聞き続けてください」

 との連絡を行ったが、しばらくして3105kHzのままで「疑問を感じる」「南北線上を飛行中」という発信があったことが記録されている。
 他の傍受者による情報では同時刻に「残燃料ではあと30分程度の飛行しか出来ない」との発信があったともされる。
 同周波数で内容不明とされる微弱な電波が傍受局に観測されている記録もあるが、これらがイアハートのものであるかについて明確な答えはない。
 イアハート機は、これらの通信を最後に消息を絶った。
 搭載無線機は出力50Wで軽量化のためにロングワイア型アンテナは使わず、短縮V形アンテナを使用していた。
 微弱な信号でも通信が可能なモールス信号をイアハート機は利用せず、無線通信についての理解が浅かったのではないか、との見解を述べる者も多い。
 また救命胴衣は搭載していたが、救難信号銃や救命イカダは搭載されていなかった。
 これらは軽量化のための選択とされている。
 この時点でイアハートとヌーナンは目的地点到達を考えていたが、島が発見できないために10海里ほどの誤差を発生させてしまったことを想定し、南北方向への修正を行っていたものと思われる。
 イタスカでは位置確認のために油煙式装置も焚いて発煙信号(通常は10海里程度の距離でも視認可能とされる)を上げていたが、当日の島周辺は雲が多く役には立たなかった。
 また、それらの雲影は洋上での島影発見を困難にもさせていた。
 当時の天候は曇天であった。

 特別に搭載を許可された当時未公開の無線航法探知器と誘導電波発信器は、電波レベルが弱すぎるなどの理由により使用できなかったとされている。
 この装置については、第二次世界大戦直前のごく短い期間だけ使用されたベンディクス(Bendix)社製MR-1B無線誘導装置のプロトタイプ説がある。当時のイアハート機のコクピット内写真には、通常のエレクトラには無い装置がパイロット席左上にあり、機首上にあるループアンテナは同社製のMN-5形である。
 それは移動体無線通信には不適切な特徴(指向性が強い)のものである。さらにイタスカとの交信で示した、使われなかった高い周波数は、この装置のシグナル用であった、とされる説がある。
 極秘の先進的装置であったため、機密保持のために傍受を考慮し、当事者にだけわかる会話をしたとの推測である。
 1967年、同形機による同日程の世界一周がアン・ペルグリノ(英語版)によって行われたが、この際のナビゲーターを務めたウィリアム・L・ポルハメスのイアハート機のフライトプラン考察(1995年に専門誌にて発表)によれば、目的地に向かう経路のひとつについて誤計算を行ってしまった可能性を指摘している。
 なお、イアハートは飛行の途中の航空日誌などを寄航するごとに故郷に送っており、後に夫のジョージ・パットナムがまとめて『最後の飛行』として出版した。

 ▼遭難直後の捜索

 アメリカ政府は、消息を絶ったイアハートとヌーナンの捜索に400万ドル(当時)を費やした。
 捜索隊はアメリカ海軍および沿岸警備隊、さらに隣接した地域を委任統治している日本の大日本帝国海軍の協力によって組織され、当時として考え得る全ての手段を講じた集中的な航空および海上探索を行った。
 アメリカ海軍は空母「レキシントン」および艦上機多数、
 戦艦「コロラド」、沿岸警備隊「イタスカ」等を派遣した。
 当時、日本海軍は第十二戦隊(機雷敷設艦沖島、水上機母艦神威、第28駆逐隊〈朝凪、夕凪〉)により、南洋諸島の長期調査航海を実施した。
 7月2日当時の第十二戦隊は、サイパン島に停泊中だった。神威艦載機、特務艦「膠州」等が捜索に参加(膠州はパラオ諸島を出発し、7月6日にポナペ島着、7月9日同地発、7月13日にヤルート着)。それぞれ1週間程度をかけて総面積390,000平方キロを捜索したが何も見つからなかった。
 第十二戦隊の4隻は7月10日に伊勢湾へ帰投した。
 7月19日に日米とも捜索を打ち切った。
 同日、「膠州」はヤルートを出発[18]、ポナペを経てサイパンに向かった。
 その後もイアハート機の残骸や遺留品が日本委任統治領内の島に流れ着く可能性があったため、山本五十六海軍次官は出来るかぎり捜索に協力するよう指導した。
 しかし日米双方の航空基地として南洋群島をめぐる緊張は高まりつつあり、さらに1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発し、両軍による調査や捜索は行われることが無かった。

 ▼その後の捜索と調査

 研究者の大多数は、イアハートとヌーナンの飛行機は燃料を使い果たし不時着水した、もしくは墜落したと考えている。
 代表的見解としては、トーマス・クロウチ航空宇宙博物館主任キュレーターの談話がある。
 その見解では、「機体は18,000フィート(約5,500メートル、周辺海域の平均水深)の海底に沈んでいるのではないか」と推測している。
 さらに、「その深度は発見に、沈没後70年経って偶然発見されたタイタニック号のような困難を生むだろう」とも語っている。
 捜索当時、キリバス領のニクマロロ島(事故当時の名称はガードナー島、公式には1827年以降無人)では、捜索にあたった艦載機からキャンプの跡らしきものが観測されたが、報告したパイロットは無人島である状況は知らなかった(1940年に西洋人女性と見られる遺骨が同島から発見され、フィジーに送られ、イギリス人医師の鑑定を受けるが、その後紛失)。
 近年になって航空機の捜索や保存を行っている研究グループ「タイガー (TIGHAR)」は、化粧用コンパクトの一部とみられるガラス片などを同島から2007年に発見し、イアハート自身が同島に漂着し死亡するまで島で生活していたという説を唱えている。
 ただし、前述の遺骨は行方不明となっていて確証はない。
 同グループは加えて数度の現地調査を行い、同島でロッキード・エレクトラの残骸ともとれる軽金属片およびプレクシグラス(コクピット風防用のアクリル樹脂)片、1930年代の女性用靴とも見ることが可能な靴の部分品を発見し、さらに前述の身元不明の漂流者の遺骨の医学的所見の記録(骨そのものではない)を再鑑定し、長身の北ヨーロッパ系の白人女性である可能性が高いとの結果を発表した。

 これらを踏まえて、同グループからは水没状態では作動しないはずの救難信号が同機が行方不明となってから3昼夜聞かれたこと(パンアメリカン航空の地上無線局などのレポートが現存する)などを合わせ、ニクマロロ島周辺に不時着したとする説を提唱している。
 同時に、同グループの計算によると、旅客機エレクトラを長距離用に改造し、キャビン内に6槽の増設燃料タンクを設置したイアハート機は燃料を使い果たした状態では充分な水面浮力を持ち、暫くは水面に浮き続けるはずである、との主張も同時にしており、それらを統合した推測が彼らから発表されている。
 ただし、アメリカ人海洋探検家のデビッド・ジョーダン(アメリカ海軍を退役後は自身でサルベージ会社を経営)は、2002年と2006年の2回にわたり、総費用450万ドルを費やして目的地周辺1200平方マイルの海底ソナー探査を行ったが、結果的に機体らしきものは発見されず、この結果からニクマロロ島周辺遭難説を否定している。
 ほかにも、イアハートの遭難地をマーシャル諸島とする説が、1960年代にフレッド・ゲルナー著の『The Search for Amelia Earhart(アメリア・イアハートを探して)』で唱えられた。2015年にディック・スピンクが報告したところによると、「イアハートがミリという小さな環礁に不時着したという目撃談がマーシャル諸島で今も広く伝えられている」という。
  2009年に、前述の「タイガー」が、ニクマロロ島で人工物をかき集め、付着しているDNAをイアハートの親族のDNAと比較するという計画を公表。
 2010年12月14日、「タイガー」はニクマロロ島のキャンプサイト付近で人間の指の部分と見られる骨を発見、その後オクラホマ大学でDNA型鑑定が行われたが、現代の鑑定技術では人骨なのか、或いはウミガメの骨なのかは判定が難しいとする調査結果が出された。
 2012年にさらに調査を進めた結果、同年7月の調査で撮影されたニクマロロ島沖の海底の映像の中に、機体の一部らしきがれきが映っていたと発表された。
 2014年になって、この時海底から引き揚げられた機体の一部がロッキード L-10 エレクトラの部品であることが判明した。
 これを受けて、「タイガー」はニクマロロ島付近の海底の、ソナーに反応があった領域を詳細に捜索することを発表した。

 テネシー大学のリチャード・ジャンツ名誉教授が1940年発見の遺骨の測定値を再検討した結果、ニクマロロ島で発見された遺骨はイアハートのものであることを強く支持するという結論にたどり着き、2018年になって研究成果を法医学誌にて公表している。

 ▼日本軍関与説

 イアハートの遭難から5日後の1937年(昭和12年)7月7日、中国大陸では盧溝橋事件が発生、日中間は全面戦争に発展した。
 さらに以前より日本とアメリカの間で対立が深まっていたこともあり、「アメリカ海軍はイアハート機捜索の名目で、日本の委任統治領をはじめとする南洋諸島の空中調査を行った」という噂が流れた。
 逆に、イアハートが諜報行為をしたことで日本軍の捕虜になったという噂も立った。
 「イアハートがアメリカ軍の要請を受けて、カロリン諸島やマーシャル諸島などの、日本の委任統治領における日本軍の活動を探るべく飛行した後、カロリン諸島に駐留する日本軍によって撃墜され捕らえられた」という話が、地元住民の目撃談として唱えられていた。
 マリアナ諸島を偵察しようと試みて対空砲火か空母赤城の戦闘機によってサイパン島に強制着陸を余儀なくされ、スパイとして処刑されたという噂もあった。   
 「日本軍に捕らわれた」説としては更に、(同じく目撃者の証言と共に唱えられた)「サイパン島を経由して東京に移送され、第二次世界大戦中に皇居内で拘留され続け、終戦直前に処刑された」という説や、「『東京ローズ』の1人として活動していた」という説も当時は存在した。
 その他、1970年に出版された書籍の中では「終戦後解放された後にひそかに帰国し、偽名でニュージャージー州で暮らしていた」との説まで唱えられた。
 しかし、このような話は、失踪前のイアハートからの通信では(日本軍を含めた何者かから)攻撃を受けたとの報告がない上に、日本側には撃墜や拘留、処刑の記録が無いばかりか、上記のように日本海軍の艦艇はアメリカ海軍艦艇とともに多額の費用を投じた捜索活動も行っている。
 また日本関係者によるイアハート目撃の報告もないため、信憑性が無いいわゆる「陰謀説」と言えるレベルのものであった。

 さらに2017年7月に、アメリカの歴史娯楽専門チャンネル「ヒストリーチャンネル」は、特別番組「アメリア・イアハート:失われた証拠(Amelia Earhart: The Lost Evidence)」において、「イアハートとヌーナンが日本軍に拘束されたとする従来の説が有力である」旨を公表した。根拠として同番組がアメリカ国立公文書館から入手した、日本委任統治時代のマーシャル諸島ジャルート環礁の港にて撮影された写真を挙げた。
 この中にイアハートとヌーナンにそれぞれ特徴が似ている白人の男女、そして破損した乗機とされる物体が貨物船に曳航されるとされる姿が写されており、これを「2人がミリ環礁に不時着した後に撮影されたもの」だと主張している。
 同番組は2人のその後の行方として、「サイパン島に移送され同地で拘置中に死亡した」とする仮説を立てている。
 しかし、マーシャル諸島での戦史を研究している軍事専門家によれば、写る船舶の形式などから、写真はイアハートが遭難する以前の1920年代後半から1930年代前半のものとしており、またマーシャル諸島を含めた日本の委任統治領は、1937年1月以降外国船の入港が禁じられたにもかかわらず、あきらかに日本籍でないと思われる商船が写っていること、写されている人影の中に日本人らしき姿が見られない事、さらにこの写真は1935年(昭和10年)10月に出版された日本語写真集の中に収録されていることなどから、ヒストリーチャンネルの説は完全に否定された。

     〔ウィキペディアより引用〕

CTNRX的見・読・調 Note ♯010

2023-10-17 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(10)

 ❖ ア フ ガ ニ ス タ ン 
             紛争 ❖

 アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、第二次世界大戦以降のクーデター及び、1989年のソビエト連邦軍の撤退から、2001年のアメリカ合衆国と有志連合諸国によるターリバーン政府への攻撃が発生するまで。

 《 概 要 と 歴 史 的
           流 れ 》

 ◤ 第二次世界大戦 ◢

 1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソビエト連邦両国はナチス・ドイツとイタリアなど枢軸国の外交官や民間人の国外退去を要求した。
 これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中の全ての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。

 このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。

 ◤ 冷 戦 ◢
  〔パシュトゥーニスタン独立運動〕

 1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。
 イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合として独立させた。

 しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。
 その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

 パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。

 ◤王政廃止と
     社会主義政権の樹立◢

 1973年のクーデターでアフガニスタンは共和制となり、1978年、2度目のクーデターにより初めて社会主義国家となった。
 1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年〜1989年)が勃発した。

 1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。
 ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。
 このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

 1978年4月、アフガニスタン人民民主党(PDPA)主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。
 人民民主党による社会主義政権が樹立され、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任し世俗化を推し進めた。
 これに対し、全土でイスラム主義のムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年〜1989年)が始まる。
 アメリカ合衆国は反共を名目としたサイクロン作戦によりムジャーヒディーンを資金援助して後押しした。
 政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発した。

 1979年2月14日、カーブルで、ダブス米大使が誘拐・殺害される事件が発生した。
 3月には西部のヘラートで、イスラム主義ゲリラ・地域住民・政府軍からの脱走兵と、政府軍・ソ連軍顧問、との間で激しい戦闘が起きた。
 カーブルのアフガニスタン政府に対する、イスラム勢力や地方住民の反発は激化していった。

 広範な勢力を取り込んだ「連合政府」を樹立させアフガニスタン政府の基盤を強化することが急務であると考えたソ連指導部は、9月9日、タラキーに対して、軍事援助の増額と引き換えに、個人的野心で行動するハフィーズッラー・アミーンの排除を要求したが、アミーンが対抗手段を準備している事を知るタラキーは逡巡した。
 9月13日夜、プザノフ大使などカーブルのソ連側現地責任者たちは、タラキーとアミーンとの会談を要求した。
 この会談でソ連側はアミーンの政治姿勢を強く非難したが、タラキーはアミーンを解任しなかった。
 そこで、翌日タラキーの公邸で、ソ連側立ち合いの下、両者は再度会談を行うことになった。
 アミーンが解任されなかったことを知ったタラキー派のPDPA上級幹部数名はソ連大使館に逃亡した。
 タラキー自身もソ連側に助けを求めた。
 9月14日午後、会談のためタラキーの公邸に入ろうとしたアミーンに、大統領の護衛が発砲した。
 アミーンの補佐官は射殺されたが、アミーンは無傷で難を逃れ暗殺は失敗した。
 アミーンは、自分に忠実な軍の部隊を動員し、PDPAのリーダーに就任しタラキーを追放した。
 10月9日、タラキーは獄中で処刑された。

 ◤ソ連軍による
      アフガニスタン侵攻◢

 1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。
 介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。
 10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた。
 12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された。

 ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。
 また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。
 ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた。

 1979年12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。
 12月27日夕刻、KGB特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した。
 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。

 1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。

 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。
 国名をアフガニスタン共和国に戻す。

 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。
 ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。

 1989年、ソ連軍撤退完了。
 各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。
 しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。

 ◤ソ連軍の撤退後、
    ターリバーン政権の統治◢

 1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義勢力のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。
 1989年、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年〜2001年)が始まる。
 2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。

 1992年、ナジーブッラー政権崩壊。
 ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。

 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。

 1994年、内戦が全土に広がる。
 ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。

 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。
 アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟(マスード派とドスタム派)となる。
 同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。

 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北。

 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利。
 ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。
 イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。
 また、ケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に伴うアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。

 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。

 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。

 2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。
 9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。
 9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。
 ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビアがターリバーンとの断交を決定。
 9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

 ◤アフガニスタン紛争◢

 多国籍軍による攻撃と
         暫定政権の樹立

 2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。
 政府とターリバーンとの間で続いた戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させ、一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われた。

 2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けて北大西洋条約機構(NATO)がアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。
 10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。
 北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が開始される。
 11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。
 年末にターリバーン政権崩壊。
 11月22日、パキスタン政府がターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。
 11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。
 会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した。
 11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。
 12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。
 アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。
 国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。
 また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。
 アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

 ◤新共和国成立◢

 2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。
 約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。
 カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。
 暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。

 2002年1月21日、日本の東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。
 約60か国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。
 日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。
 また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。
 各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。
 2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。
 6月10日〜6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され、1,500人以上の代表が参加した。
 6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した。
 6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。
 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。
 副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。
 ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガは閉会した。
 7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。
 市民48人死亡、117人が負傷する。

 2004年1月、新憲法が発布された。
 10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した。
 同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。

 2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した。
 12月、国会が開会した。

 2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した。
 7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した。

 2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した。

 2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた。
 8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。

 2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。
 カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。
 2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した。
 一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した。
 同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人、4000人、1万3000人)。
 アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された。

 ◤第二回大統領選挙後◢

 2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した。
 同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した。
 国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した。
 6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された。
 7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった。
 9月18日、第二回の下院議会選挙が実施された。
 同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた。
 2010年の経済成長率は22.5%に達した。

 2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。
 同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した。

 2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。
 12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた。
 一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった。

 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した。

 2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日にアシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。
 これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった。
 ただし、この選挙には不正疑惑があり、最終的に解明されることはなく、米国の仲介により、候補両者が「挙国一致政府」に合意してガニー政権が発足した。
 大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。
 12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した。
 多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった。

 アメリカ支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「夜襲作戦」と呼ばれる"ターリバーン狩り"が行われた。
 深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。
 氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという。
 当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。
 作戦はターリバーン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した。
 あまりの不評にカルザイ大統領は「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領が復活を決めた。

 ◤第三回大統領選挙後◢

 2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた。
 7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した。
 国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた。
 2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。
 衝撃を受けたアメリカ合衆国大統領バラク・オバマはアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した。
 また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した。

 2016年1月11日、アフガニスタンとパキスタン、中国、アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが、ターリバーンは和平交渉を拒否した。
 国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。
 9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した。

 2017年5月、カーブルのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した。
 8月、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプは『対アフガニスタン・南アジア戦略』を発表し、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した。
 10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。
 政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。
 ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。
 ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた。
 11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した。

 2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した。
 8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。
 10月、第三回の下院議員選挙が実施された。

 2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている。
 ターリバーンの勢力が拡大しつつあるという見解も示された。
 8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。
 9月、第四回の大統領選挙が実施された。
 12月4日にはナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。

 2020年2月28日、トランプ米大統領は、駐留米軍を撤退させることでターリバーンと合意した(ドーハ合意)。
 合意の内容は、米国は14カ月以内にアフガニスタンからすべての連合軍を撤退させ、アフガニスタン治安部隊に対するすべての軍事・請負支援を終了し、アフガニスタンの内政干渉をやめること。また、アフガニスタン政府は5000人のターリバーン戦闘員の解放と経済制裁を緩和すること。
 一方、その条件としてターリバーンは、米軍や連合軍への攻撃をやめ、アルカーイダやその他のテロ組織がアフガニスタンの領土を使って米国の安全を脅かすことを許さず、アフガニスタン政府との交渉を行うというものであった。

 2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラとアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名。

 2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。

 2021年7月にはターリバーンの代表団が訪中し、中華人民共和国外交部長(外相)の王毅と会談し、アブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた。

 2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われていた。

 ◤ターリバーンの再掌握◢

 アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは5月から本格的に主要都市を次々と制圧していった。
 もっとも、以前から公的機関の周辺以外は既にターリバーンが支配しており、戦いの趨勢は決まっていたという見方もある。
 虐殺を指摘される夜襲作戦で連合軍は市民から反感を買っており、アフガニスタン政府は腐敗で機能せず、迅速に統治するターリバーンは受け入れられていたという。

 2021年8月15日には首都カーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。
 約20年間続いた民主政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が権力の移行を進めると表明した。
 同日、アシュラフ・ガニー大統領がタジキスタンに向けて出国したと報じられたが、タジキスタンは「ガニ氏を乗せた飛行機はタジキスタン領空に入っておらず、領土内に着陸もしていない」とし、ガニーの入国を否定した。

 8月17日にターリバーンはアフガニスタン政府に「平和的降伏」を求め、政権移譲に向けた交渉を始めており、ビデオ声明を通じて勝利宣言した。
 また同日、対ターリバーン戦を呼び掛けていたヘラートの軍閥の指導者イスマーイール・ハーンが一時的に拘束された。
 一方で、第一副大統領のアムルッラー・サーレハが憲法上の規定により、暫定大統領に就任すると発表した。
 サーレハはターリバーンの勢力が及ばないパンジシール州に滞在しているとされ、同州のパンジシール渓谷を拠点としていたマスード将軍の息子アフマド・マスードと共に抵抗運動を呼び掛けていると報道があったが、9月7日、ターリバーンは反勢力の最後の拠点を制圧したと宣言した。
 なお反ターリバーン組織は「まだ戦いは続いている」との声明を発表している。

 アフガニスタン中央銀行の保有資産の多くは欧米の銀行で資産凍結されており、8月時点の現金残高は「ほぼゼロ」の状態で、国家予算の8割が米国など海外からの支援であった。
 こうしたターリバーンへの経済制裁は、極端なイスラム治政を敷くターリバーンに対し、国際社会との親和を促すという名目がある。
 トランプ政権で高官だった研究員は、米国は友好国と協調しながら資産凍結しなければならないとし、加えて、打撃を受けている同国の一般市民に対しては継続した人道支援が必要とした。
 8月31日、アメリカ軍はアフガニスタンから完全に撤退した。

 ◤ターリバーン復権下の統治◢

 2021年9月7日、ターリバーンは暫定政権の主要閣僚を発表。
 政権トップにはハッサン・アフンド、副首相にはアブドゥル・ガニ・バラダル、内相にはスィーラジュッディーン・ハッカーニ、国防相にはヤクーブが就任。
 あわせて勧善懲悪省の復活というターリバーン色の強い政治姿勢も明らかにした。
 閣僚の多くはパシュトゥーン人であり、女性の起用は無かった。
 翌9月8日には大臣らが各省庁で就任演説を行う予定であったが、情報・文化省の例では職員約850人のうち20人ほどしか出勤せず、ターリバーンが政府として機能するには、なお時間を要することが示唆された。
 また、2021年9月21日に始まった国際連合の総会には、ガニ政権が任命したグラム・イサクザイ国連大使が代表として職務を続けた。

 前述の米国やIMF、国連による経済制裁により、国民の生活は困窮し、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした。
 薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国が人道支援を例外とし、国連も同様の決議を採択した。
 2022年6月には、1000人以上の死者を出したアフガニスタン東部地震が発生した。

 ❖ アフガニスタン紛争 要約 ❖

 アフガニスタン紛争とは、近代以降のアフガニスタンを舞台に起こった様々な戦闘の総称。
 1978年以降、断続的に起こっている戦い。

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 アフガニスタンは1978年以来断続的に戦闘が続いている。
 この戦闘を時期によって大別すると、以下の3時期に分けられて語られることが多い。

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 ◆ 1978〜1989年 ◆

 1978年に発生したアフガニスタン人民民主党政府に対する武装蜂起、さらに1979年に発生したソビエト連邦のアフガニスタン侵攻、政府軍・ソビエト連邦軍とそれに対するムジャーヒディーンの戦闘を指す。

 ◆ 1989〜2001年 ◆

 1989年のソ連軍撤退後のムジャーヒディーンや軍閥による内戦を指す。人民民主党が壊滅した1992年、ターリバーンが首都カブールを占領しアフガニスタン・イスラム首長国を樹立した1996年9月で大別される。

 ◆ 2001年〜2021年 ◆

 2001年に発生したアメリカ合衆国および有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政府打倒のための攻撃、そして北部同盟が樹立したアフガニスタン・イスラム共和国政府およびISAF(国際治安支援部隊)および有志連合諸国とターリバーンおよびヘクマティヤール派などの武装組織の抗争を指す。

 ターリバーン勢力はパキスタン連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン国内でも戦闘を行っている(ワジリスタン紛争)。
 2014年12月末に有志連合および北大西洋条約機構(NATO)主導の対テロ戦争の不朽の自由作戦が終了し、自由の番人作戦へ移行した。
 2020年に「ターリバーンと認知されているアフガニスタン・イスラム首長国」とアメリカ合衆国の間で和平合意が成立した。
 和平合意に基づいて2021年5月よりアメリカ合衆国駐留軍が撤退を開始すると、他の外国軍もアメリカ軍と同じく撤退を開始した。
 ターリバーンは合意内容に従ってアフガニスタン・イスラム共和国政府と和平交渉を行いつつも、共和国政府の支配下にある都市を次々と奪還し、8月15日に首都カブールを占領した。
 これによりアフガニスタン・イスラム共和国は事実上崩壊し、ターリバーン政権が再度樹立された
 (2021年ターリバーン攻勢)。

 ◆ 2021年〜現在 ◆

 アフガニスタン・イスラム首長国 (通称ターリバーン政権)の再建と戦闘終結に伴い、民族レジスタンス戦線(略称NRF)等の反ターリバーン武装勢力は、かつてソビエト軍の侵攻に対して難攻不落を誇ったパンジシール渓谷に集結した。
 しかし、攻撃を再開したターリバーン政権は僅か1週間ほどでパンジシールの主要村落を攻略、NRFの高官らが国外逃亡して戦線は崩壊した。
 しかし12月現在に至るまでNRFの残党は山岳地帯に拠点を構え、時折、ターリバーン政権の治安部隊に対して一撃離脱戦等のゲリラ攻撃を加えているとされている。
 また、自らをイスラム的に正統であると主張し、ターリバーンを背教集団とみなすイスラム国ホラサン州(略称ISKP)は、ターリバーン政権に対して自爆攻撃や標的殺人を用いて活発に武力攻撃を加えている。
 ISKPはターリバーンが政権を握る前から治安部隊や民間人、ターリバーンに対し頻繁に自爆攻撃や標的殺人を繰り返しており、NRFが弱体化した現在ではターリバーンの統治に一番損害を与えている武装勢力となっている。

 ◆ 備考 ◆

 しかし、これらの戦闘ははっきりと分類できるほど無関係ではない。
 1989年のソ連軍撤退以降も、人民民主党政府とムジャーヒディーンの戦いは継続しており、2001年前にも北部同盟とターリバーンの戦いは行われている。
 また2001年以降の紛争についても、対テロ掃討作戦であった不朽の自由作戦からアフガニスタン政府への支援と移行した2014年を区切りとする場合がある。

 〔ウィキペディアより引用〕



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 ❖ 40年来続く
    アフガニスタンの悲劇
      戦禍に生きる人々 ❖

 ▼旧ソ連軍の侵攻・撤退と内戦

  2022年2月8日

 地雷・不発弾対策 賑わいを見せていたカブール市街の市場=2020年 旧ソ連軍の侵攻・撤退と内戦 アフガニスタンでは2021年8月、米軍を主体とする駐留外国軍の撤退に伴ってガニ政権が崩壊し、イスラム主義勢力タリバンが復権しました。
 政情不安にある同国では新たに数十万人規模の国内避難民が発生するなど、深刻な人道危機が続いています。

 旧ソ連軍は1979年12月、当時のアフガニスタンを支配していた共産主義政権の要請を受けて同国に侵攻しました。
 これに対して、反ソ連・反政府を標榜するムジャヒディンと呼ばれる複数のイスラム武装勢力が激しく抵抗し、米国もこれを支援しました。
 「ソ連のベトナム戦争」と言われる泥沼の戦争は、1985年に登場したゴルバチョフ書記長による外交政策の転換で流れが変わり、1988年5月に米国と旧ソ連、アフガニスタン、パキスタンの間で結ばれたジュネーブ協定に基づいて、旧ソ連軍は1989年2月までに完全撤退しました。

 しかし、旧ソ連軍の撤退は和平をもたらさず、アフガニスタンは人民民主党政権とムジャヒディンの内戦状態に陥ります。1992年に同政権が崩壊すると、もともと一枚岩ではなかったムジャヒディンの各軍閥が権力闘争を繰り広げて、多数の一般市民が戦闘に巻き込まれて死傷し、首都カブールをはじめ全土が極度に荒廃しました。

 ▼タリバンの登場から「9.11」へ

 こうした状況下、「イスラムの教えに基づく世直し」を訴えて立ち上がったのがタリバンです。
 「神学生」を意味するタリバンは、マドラサ(イスラム神学校)で学んだ若者たちのグループでした。
 長引く戦乱に疲弊した人々は、イスラム教の規律をもって治安回復と祖国復興を目指すタリバンを受け入れ、タリバンは1996年にムジャヒディンを駆逐して国土の大部分を制圧しました。

 しかし、実権を握ったタリバンは次第に保守化し、イスラムの戒律を厳しく人々に押し付けるようになります。
 女子の就学や音楽・娯楽を禁止したり、公開処刑を執行したり、抑圧的な統治を行って国際社会の信頼を失い、市民生活はますます苦しくなりました。
 少数民族ハザラ人の殺害、世界遺産バーミヤン大仏の爆破は国際的に非難されました。

 タリバン政権時代のアフガニスタンに入り込んだのが、オサマ・ビン・ラディンが率いる国際テロ組織アルカイダです。
 政情不安定な国・地域を拠点とするアルカイダにとって、アフガニスタンは格好の標的でした。
 アルカイダは2001年9月、「9・11」米国同時多発テロ事件を起こします。

 アルカイダの犯行と断定した米国は、タリバン政権に対してビン・ラディンの身柄引き渡しを要求しましたが、タリバンは「客人を命懸けで守る」というパシュトゥーン人の伝統によって拒否しました。
 同年10月に米英軍がアフガニスタン空爆を開始するとともに、反タリバンの北部同盟軍の地上戦を後押しし、11月にカブールが陥落してタリバンは地方に撤退しました。
 ビン・ラディンは10年後の2011年5月、潜伏中のパキスタンで米軍特殊部隊によって殺害されます。

 2002年以降、米軍やNATO(北大西洋条約機構)軍など外国部隊がアフガニスタンに駐留するとともに、国際社会は巨額の資金を投じてアフガニスタン復興を支援してきました。
 それは道路や通信網のインフラ整備などハード面の支援から、行政人材の育成、保健医療、教育、農業支援などソフト面まで国家再建の各分野での取り組みです。
 タリバン政権下で学校に通えなかった女の子たちも教育を受けられるようになり、女性の就労も進みました。他方で海外から資金が流入したことで、政権の腐敗・汚職が深刻化したとも指摘されます。

 敗走後のタリバンは、同国東部・南部のパシュトゥ-ン人居住地域、隣接するパキスタンの旧部族地域(現ハイバル・パクトゥンクワ州)に潜伏し、2000年代半ば以降は反政府活動を再開して、米軍との戦闘が続きました。
 加えて、2015年頃からアフガニスタンで活動を開始したテロ組織「イスラム国ホラサン州」(IS-KP)による爆弾事件が今日、大きな不安定要因になっています。

 ▼米軍撤退とタリバンの復権

 アフガニスタンに駐留する米軍兵士の犠牲は2001年以降、死者約2,500人・負傷者2万人超に上り、米国では早期撤退を求める世論が高まっていました。
 トランプ前政権(共和党)は2020年2月、カタールのドーハでタリバン側と和平合意を締結し、翌2021年の米軍撤退が決まりました。

 タリバンとアフガニスタン政府の実効支配地域は、2019年11月時点ではタリバン69郡/政府135郡(勢力拮抗196郡)。
 2021年4月時点でもタリバン77郡/政府129郡(拮抗194郡)でしたが、7月下旬になるとタリバン220郡/政府73郡(拮抗114郡)とタリバンが一気に攻勢を強め、8月にはその勢いを増します。
 最終的にガニ前大統領が国外逃亡して政権が崩壊し、タリバンは8月15日にカブールを制圧して実権を掌握しました。

 タリバンは条件付きで女性の教育や就労を認めると表明したほか、ドーハに外交拠点を置いて各国政府と折衝するなど、20年前のタリバンとは異なる姿勢をアピールしていますが、タリバン政権を承認した国はありません。

        (2022年2月現在)

 タリバン復権と相前後して、駐留外国軍に協力していたアフガニスタン人、外国政府の大使館・機関や援助団体のアフガニスタン人職員が、抑圧を恐れて次々に国外退避しました。
 2021年8月後半には、出国を求めてカブール空港に人々が殺到する様子が世界中に報道され、同国の混乱ぶりをまざまざと見せつけました。

 タリバンの復権が進むにつれて、戦闘から逃れた国内避難民が急増しました。2021年の1年間に国内避難民となったのは66万9,053人、それまでの避難民と合わせた合計は350万人を超えます。また、2021年8月末時点で周辺国に逃れた難民は222万1,828人。厳しい生活を余儀なくされている人々を含めて、同国で何らかの支援を必要としているのは、総人口の約6割に相当する2,440万人に達します。

        (2022年国連推計)

 〔情報元 : AAR JAPAN 認定NPO法人
難民を助ける会〙

 ❖タリバンとアルカイダの
   複雑な関係
 両グループを結びつける“忠誠菜の誓い”とは.....

 アフガニスタンで武装勢力タリバンが復権し、1つの重要な疑問が浮上した。
 それは、タリバンと長年同盟関係にあるイスラム原理主義の過激派組織アルカイダとの関係。

 タリバンの「勝利」にアルカイダが沈黙している理由。

 アフガニスタン情勢が急展開した。
 アフガニスタンに駐留する米軍・NATO(北大西洋条約機構)軍が同国から撤退を開始すると、イスラム主義組織ターリバーン(以下、タリバン)が攻勢をしかけ、あっという間に首都カーブル(以下、カブール)を包囲。
 アシュラフ・ガニー(以下、ガニ)大統領は国外に脱出し、政権は瓦解した。

世界の女傑たち Vol.005−③

2023-10-16 21:00:00 | 自由研究

 ■ココ・シャネル Ⅲ

 《デザイナーとしての遺産》

 早くも1915年には『ハーパーズ バザー』が「たった1つもシャネルを持っていない女性は絶望的に時代遅れです...今シーズン、シャネルは全てバイヤーの口からその名前が紡ぎだされています」とシャネルのデザインを絶賛していた。
 シャネルが名声を得たということは、即ちビクトリア時代から続く過酷なコルセットから女性が解放されたということであった。
 前世代の女性たちが耐え忍んできた不要な装飾、細かい決まり事や制約は今や時代遅れとなった。
 彼女の影響で「羽根飾り(aigrettes)、ロングヘア、ホブルスカート」の時代は過ぎ去った。
 シャネルのデザインに対する美学によって第一次世界大戦後には女性のファッションのあり方が大きく変わった。
 シャネルのトレードマークのファッションは、若者の気楽さ、身体の解放、かさばらないスポーティーな感覚や自信を表わしていた。
 エリート階級、特にイギリスのエリートたちが熱心に追及していた乗馬文化と狩猟趣味はシャネルの想像力を掻き立てた。
 シャネルが熱心にスポーツに打ち込んで得た知識が彼女の服飾デザインを生み出していった。
 ヨットの世界で体験した水上の旅の経験から、彼女は航海のためのデザインをファッションに適用した。
 横縞のシャツ、ベルボトムのパンツ、クルーネックセーター、そして「エスパドリーユ」。これらは全てもともと船乗りや漁師が着ていたものである。

 ▼ジャージー生地

 シャネルの最初の成功は機械編みの素材であるジャージー生地を婦人服の素材とするという革新的なアイデアによってもたらされた。
 れまでジャージーは主として靴下やスポーツウェア(テニス、ゴルフ、ビーチ用の服)に使用される傾向があった。
 クチュールで使用するにはあまりにも「日常的(ordinary)」な生地だと考えられていた上、ニット構造は織物に比べて取り扱いが難しかったためデザイナーにも敬遠されていた。
 シャネルが大量のジャージー生地を発注したのはロディエ社(Rodier)であった。
 ロディエは、男性用としてさえ美的とは考えられていなかったジャージー生地を婦人服に使用するというシャネルのアイデアに躊躇し当初この注文を断ったが、シャネルはジャージー生地の可能性を強硬に主張した。
 最終的にシャネルがこの生地を用いて自分用にデザインした服を見たロディエはシャネルの判断を是とした。
 シャネルの初期のウール ジャージーの旅行スーツはカーディガンジャケットとプリーツスカートから成り、ロー・ベルトのプルオーバートップと組み合わせられていた。
 これにローヒールの靴を組み合わせたアンサンブルは高級な婦人服におけるカジュアルルックとなった。
 シャネルによる高級ファッションへのジャージー導入は2つの理由で成功した。
 1つは第一次世界大戦のために他の素材が不足したこと。
 もう1つは女性たちがよりシンプルかつ実用性のある服を求め始めたことである。
 シャネルの動きやすいジャージーのスーツとドレスは実用性を備えるように作成され、体を自由に動かすことができた。
 これは当時女性が戦争に協力するために看護師として、公務員として、そして工場で働いていたことから極めて高く評価されていた。
 彼女たちの仕事は体を動かす必要があり、また通勤のために電車やバス、自転車に乗る必要もあった。
 彼女たちは破れにくく、使用人の手を借りずに着ることができる服装を求めていた。

 ▼スラヴの影響

 ポール・ポワレやマリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ(スペイン語版)のようなデザイナーたちは1900年代から1910年代初頭にオートクチュールに民族的デザインを導入した。
 シャネルはこの傾向を引き継ぎ、1920年代初頭にスラヴ風のデザインを取り入れた。
 この時のシャネルの服のビーズ取付と刺繍はロシアのマリア・パヴロヴナ公爵夫人(英語版)(シャネルのかつての愛人ドミトリー・パヴロヴィチ大公の姉)が設立した縫製会社キトミール(Kitmir)によって独占的に行われた。
 シャネルの初期のコレクションでは、キトミールによる東洋的なステッチと洋式化された民族モチーフの融合が強調された。
 1922年のイブニングドレスには刺繍のあるヘッドスカーフ(バブーシュカ:babushka)が付属していた。
 このヘッドスカーフの他にも、この時代のシャネルの服はルバシカ(roubachka)として知られるロシアのムジーク(muzhiks:農民)の服装を仄めかす長いベルトで止めるスクエアネックのブラウスを特徴としていた。
 イブニングドレスはしばしばきらめくクリスタルとblack jetの刺繍が施されていた。

 ▼シャネルのスーツ

 1923年に初めて導入されたシャネルのツイードスーツは快適さと実用性を追求してデザインされ、柔軟で軽いウールかモヘヤのツイード、およびジャージーかシルクの裏地のブラウスとジャケットで構成されていた。
 シャネルは当時のファッションで一般的だったように素材を固くしたり肩パッドを使用したりはしなかった。
 バストダーツを加えずに、ジャケットを地の目に沿ってカットした。
 こうすると、身体を素早く自由に動かすことができた。
 首元に適度なゆとりをもたせてネックラインをデザインし、機能的なポケットを加えた。より一層楽にするために、スカートはベルトではなく腰の周りにグログラン(英語版)ステイが付けられた。
 さらに重要なことは、仮縫いをするときに細部に至るまで細心の注意が払われたことである。
 採寸は顧客が立った状態で肩の高さで腕を組んだ姿勢で行われた。
 シャネルはモデルに歩き回らせ、バスの階段を登ることを想定したプラットフォームを上がらせ、車高の低いスポーツカーに乗ることを想定して体を曲げさせるテストを行った。
 彼女が目指したのは、シャネルのスーツを着たまま、不意に体の一部を露出することなく、女性がこれら全てをこなせるようにすることであった。
 顧客それぞれがスーツが快適な状態になり、日々の活動を快適かつ容易に行えるようになるまで繰り返し調整を行った。

 ▼カメリア

 カメリア(ツバキ)というと、誰もが思い浮かべるのがアレクサンドル・デュマ・フィスの文学作品『椿姫(La Dame aux Camélias)』であった。
 シャネルは若い頃から「椿姫」の物語に大きな影響を受けていた。
 椿はクルチザンヌ(高級娼婦)である椿姫を連想させる花であり、彼女は白い椿を身に付けることで「仕事」ができることを示していた。
 カメリアはラ・メゾン・シャネルと同一視されるようになった。シャネルは1933年に白をトリミングした黒スーツで初めて装飾要素としてカメリアを使用した。

 ▼リトル・ブラック・ドレス

 今日でも着用されているリトル・ブラック・ドレス(LBD)のコンセプトはジャージーのスーツに続くシャネルのファッション用語への貢献としてしばしば語られる。
 1912年から1913年にかけて、女優シュザンヌ・オルランディ(Suzanne Orlandi)が、シャネルが制作した「白いペタルカラーが付いた黒一色のベルベットのガウン」を着た。
 彼女はシャネルのリトル・ブラック・ドレスを着た最初の女性の一人であった。
 1920年、シャネルはオペラの観客を観察し、全ての女性に黒いドレスを着させることを自身に誓った。
 1926年、『ヴォーグ』誌のアメリカ版はシャネルのロングスリーブのリトル・ブラック・ドレスの画像を掲載し、これをガルソンヌ(garçonne、'little boy' look)と名付けた。
 『ヴォーグ』誌は、このようなシンプルながらもシックなデザインは、センスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想し、このドレスのベーシックな輪郭を、広く普及していてやはり巷に溢れていたフォード社の自動車に例えた有名な批評を残した。
 他方、この質素なデザインは男性のジャーナリストたちからの広範な批判を巻き起こした。
 彼らは「もはや胸はなく、もはやお腹もなく、もはやお尻もない...20世紀のこの瞬間の女性ファッションは全てを削り落とした」と文句を付けた。
 このリトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。
 1930年代は世界恐慌の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。
 シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した。
 シャネルは昼用にウールかシェニールのリトル・ブラック・ドレス、そして夜用にサテン、クレープまたはベルベットのリトル・ブラック・ドレスを作るようになった。
 ある時、シャネルは「私はあえて黒を使いました。
 この色はいまだに衰えていません。
 なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」と宣言した。

 ▼香水

 シャネルが制作に関わった香水シャネルNo.5は現在もなお最も人気のある香水の1つであり、シャネルブランドを象徴する商品となっている。
 一般にこの香水は1920年の夏頃、ココ・シャネルと調香師エルネスト・ボーの共同制作によって作られたと言われている(実際にはシャネルの依頼を受けてエルネスト・ボーが作った試作品の中からシャネルが選択したものであったとも言われる)。
 シャネルNo.5の命名について、シャネルは数字の5を自分の幸運の数値であると考えており、最も素晴らしいサンプルのビーカーの番号も5番だった、という逸話が残されている。
 シャネルNo.5は複数の意味で香水の世界を変革した商品として取り扱われた。
 香水の販売元はいずれの会社も花模様など凝った豪華な装飾を香水瓶に施し、それが重要なセールスポイントであると考えられていたが、シャネルが自分の名前を付した香水のために用意した香水瓶は極めてシンプルなクリスタルの角瓶であった。
 また素材に当時新たに香料として使用されるようになりつつあったアルデヒドを大胆に使用したことがシャネルNo.5の大成功に大きく寄与している。
 アルデヒドは様々な種類があるが、その香りは一般に人間に清潔感を感じさせるものであり、今日では洗剤や芳香剤、制汗剤などにごく一般的に使用されている。
 この頃までの香水は普通、花の香りを混ぜ合わせて作られていた。
 これは変質しやすい素材であり、香りの持続時間が短く、パーティーなどで長時間香りを維持したければ多量に使用する必要があった。
 また、数種類の花から作られた香水よりもはるかに多い、80種類もの成分がシャネルNo.5には含まれ、より豊かな香りを実現していた。
 実際のところ、アルデヒドを使用した香水は既に1900年代にジョルジュ・ダルゼンやロベール・ビアンエメらによって作られていたが、商業的な成功という意味においてはシャネルNo.5には遠く及ばなかった。
 今日ではアルデヒドの香水への使用という功績をシャネルNo.5に帰する伝説は広く定着している。
 そして事実としてシャネルNo.5はその後何年にもわたり、様々な香水に模倣され、香水の歴史に大きな影響を与えた。

 ▼ジュエリー

 シャネルはジュエリーの概念を革新する一連のシリーズを導入した。
 この革新とは彼女のデザインと素材にコスチューム・ジュエリーとファイン・ジュエリーの両方が組み込まれていたことである。
 これはジュエリーが両者いずれかに厳密にカテゴライズされていた当時において革命的なものであった。
 彼女の感性には世界各地のデザインが影響を及ぼしており、しばしば東洋やエジプトのデザインに触発されていた。
 富裕層は高価なジュエリーの代わりにシャネルの作品を着ることで周囲に富を印象付けることができた。

 1920年代、シャネルはジュエリーデザインスタジオを開き、コスチューム・ジュエリーを制作し始めた。
 彼女はフェイク(コスチューム・ジュエリー)と本物(ファイン・ジュエリー)を組み合わせて作品を作るのを好み、コスチューム・ジュエリーはそれ以降シャネルブランドにおいて欠かせない要素となった。
 フェイク・パールのネックレスは初期のヒット作品である。
 シャネルのモデルたちはネックレスを複数付け、ブレスレッドを重ね、いくつもブローチを付けるなど、シャネルのスタイルに倣って複数のコスチューム・ジュエリーを身に着けた。
 シャネルはコスチューム・ジュエリーを(特にシャネル自身が堂々と身に着けて見せたように)憧れのアクセサリへと変えた。
 1927年にはデューク・フルコ・ディ・ヴェルドゥーラ(英語版)の協力でシャネルブランドのジュエリーシリーズを立ち上げた。
 彼の白いエナメルの袖口に宝石で飾られたマルタ十字を加えたモチーフはシャネルの代名詞の1つとなり、ヴェルドゥーラとシャネルの共同制作のアイコンとなっている。
 お洒落で富裕な人々はこのシャネルのコレクションを大いに気に入り、シリーズは大成功した。

 シャネルはその後ファイン・ジュエリーの制作も行っている。
 the International Guild of Diamond Merchants(国際ダイアモンド商業組合)の依頼を受け、1933年にデザイナーのポール・イリーブ(英語版)と共同で高級ジュエリーのデザインを行った。
 これが彼女による最初のファイン・ジュエリーのデザインとなる。
 プラチナにダイヤモンドをあしらった作品には一か月の間に30,000人の観覧者が訪れた。

 ▼シャネルのバッグ

 1929年、シャネルは軍用バッグに触発されたハンドバッグを作成した。
 これは細いショルダーストラップによって肩から下げ、手を空けることができるものであった。
 シャネルはファッション業界に復帰した後、1955年2月にハンドバッグのデザインを一新した。
 これがシャネル 2.55である(名称は制作された日付から来ている)。
 このバッグのデザインには修道院や乗馬の思い出が込められている。
 ストラップに使用されたチェーンはシャネルが成長した孤児院(修道院)の管理人たち(caretakers)が着用したチャタレイン(英語版)に影響されたものであり、バーガンディの裏地の色は修道女の制服の色を表わすものであった。
 キルト風の外観は乗馬用ジャケットの影響を受けており、しかも全体にボリューム感のある大きめのバッグに仕上げている。
 このクラシックなバッグは、以後、留め金の部分にシャネルのロゴを入れ、レザーやショルダーチェーンを追加するなど細部に変更が加えられたが、シャネルの没後12年目の1983年にシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任したカール・ラガーフェルドが、2005年にシャネル社創業50周年を記念して再販したシャネル 2.55は、1955年にシャネルがデザインしたオリジナル版であった。

 ▼日焼け

 歴史的に、日焼けした肌は絶え間ない労苦から逃れる術のない人生を運命づけられていた労働者階級の証であり、「純白の肌は貴族階級の確かな証であった」。
 しかし、シャネルは日焼けを許容するだけでなく、特権とゆとりのある生活を表わすシンボルに変え、日光浴を流行させた。
 1920年代半ばまでに、女性たちは日光から身を守るための帽子を被らずにビーチでくつろぐようになった。

 ▼女性を解放したデザイナー

 ココ・シャネルは女性解放を主張したり、フェミニストを自称したりすることなく、早くも1910年代にパンタロン(ズボン)をはじめとし、快適で実用的なツイードやジャージーのスーツ、船乗りや漁師の作業着であったマリニエールなど従来男性のファッションとされていたものを「男装」としてではなく、女性のファッションとして確立したことで、結果的に女性を解放した。
 女性を物理的にコルセットから解放しただけでなく、コルセットによって強調される胸や臀部の大きさと腰の細さという従来の女らしい「シルエット」、女らしさの概念そのものから解放したのである。
 1960年代に女性のパンツスタイルを確立したイヴ・サン=ローランのパートナー、ピエール・ベルジェ(フランス語版)は、「シャネルは女性に自由を与え、サン=ローランは権力を与えた」と表現する。
 これは、非機能的な大きな帽子や顔を隠すために帽子に取り付けるヴェールを廃したこと、透き通るような白い肌がもてはやされた時代に日焼け(日光浴)を流行らせたこと、丈が短く軽いリトル・ブラック・ドレスを制作したこと(しかも喪服の色であった黒をあえて使うことでドレスコードに挑戦したこと)、シャネル自身がいつも短髪であったことなどについても同様である。

 また、労働者階級出身で十分な教育を受けなかったにもかかわらず、自力で道を切り開いたセルフ・メイド・ウーマンとして、女性の自立を促す存在でもあった。
 特にしばしばシャネルの「アリュール(allure、態度・姿勢、身振り)」として言及される、自信に満ちた態度、堂々とした姿は自立したパリジェンヌを象徴し、パリのエレガンスを体現することになった(「アリュール」はシャネル社の香水の商標名にもなっている)。
 シャネルの伝記作家フランソワ・ボードー(フランス語版)は、シャネルのアリュールとは、要するに「何を着るか」より、「どのように着るか」の方がはるかに重要だというコンセプトの問題だという。
 つまり、美しく見せようとすることではなく、自然体で堂々としていることが基本であり、この意味で、シャネルは女性のファッションだけでなく、アリュール(心的態度)をも変えたのである。
 なお、2011年に女性の経済的・社会的地位向上のための活動を支援することを目的とする「シャネル財団」が設立された。
 この一環として、これまで過小評価されていた女性アーティストを再評価・紹介する活動も支援している。

 関連項目 ー シャネルNo.5 ー

 シャネル N°5(Chanel N°5)は、パリのオートクチュールデザイナーだったガブリエル・ココ・シャネルが初めて送り出した香水である。
 読み方は、フランス語では"シャネル・ニューメロ・サンク"、英語では"シャネル・ナンバー・ファイブ"となる。

 その香りを生み出す化学式を組成したのは、ロシア系フランス人科学者で調香師のエルネスト・ボーである。

 ▼N°5 という名前

 シャネルは12歳の時に修道院に併設の孤児院に預けられ、その後6年間に渡り、厳しい戒律の下で生活した。
 この修道院は、12世紀にシトー修道会によりオーバジーヌ(英語版)に設立された。
 オーバジーヌでの生活の初期の段階から、5という数字はシャネルに関わりが多かった。
 5という数字にシャネルは、純粋で神秘的なものを感じていた。
 シャネルが毎日祈りに通った聖堂の通路には、5の数字を繰り返すパターンが描かれていた。
 修道院の庭は、五弁の花弁をもつゴジアオイがたくさん咲く青々とした山腹に囲まれていた。
 主席調香師のエルネスト・ボーに、現代的で革新的な香りの開発を依頼した。1920年、香水の試作品のガラスの小瓶が、1から5、20から24の番号を振られてシャネルの前に並べられると、彼女は5番めの小瓶に納められた資料組成を選び出した。
 シャネルは、ボーに次のように語っている。「ドレスコレクションを、5番目の月である5月の5日に発表する。
 この5番めのサンプルの名前は、運がいい名前だからそのまま使う。」

 ▼新しい香りという発想

 伝統的に、女性が身に着ける香りは、大きく二つに分類されていた。
 『まともな』女性は、単一の園芸花のエッセンスを支持した。
 動物系のムスクやジャスミンを多用した、セクシャルで挑発的な香りは、売春婦やクルチザンヌ(高級娼婦)等のいかがわしい女を連想するとされた。
 シャネルは、1920年代の自由な精神を有する現代女性の心に訴えかける香りが求められているのを感じていた。

 ▼瓶のデザイン

 ラリックやバカラの登場により、香水瓶のデザインは華美で精緻、凝ったものが一般化していたが、シャネルの思い描くデザインは、その流れに逆らうものだった。
 彼女は「非常に透明な、見えない瓶」でなければならないと考えていた。
 通常この香水瓶の、角を落とした長方形のデザインは、シャルベ (en) の洗面用化粧品の瓶に影響されたと考えられている。
 シャネルの恋人だったアーサー・カペルが愛用した革製の旅行鞄に、このシャルベの瓶が装備されていたという。
 また、カペルの持っていたウイスキーデキャンタを気に入って、その「高価な、極上の、風情のあるグラス」を再現したのだという説もある。
 1919年当時のシャネルN°5の香水瓶は、現在のものとは違うデザインだった。
 最初の容器は、小さくてほっそりした、丸い肩を持つもので、顧客を選ぶためシャネルのブティックでのみ販売された。
 1924年に「パルファム・シャネル」が設立された際、ガラスの強度が運搬や配達には不足していることがわかった。
 そのため角を落とした四角いデザインの瓶に変更されたが、大きなデザインの変更はこれが唯一である。
 1924年に刊行された「パルファム・シャネル」の販売パンフレットでは、香水容器について次のように説明している。

 「製品が完璧だからこそ、ガラス工の技術に慣習的に頼ることを潔しとしない。
 並ぶもののない品質、ユニークな構成、クリエイターの芸術的個性を表現した、香水の貴重な一滴によってのみ装飾されたシンプルな瓶は、マドモアゼルのお気に入りとなるだろう。」
 1924年以来、瓶のデザインは同じものが引き継がれているが、栓のデザインは何度も変更がなされている。
 オリジナルの栓は、小さなガラスのものだった。
 シャネルブランドを象徴する八角形の栓は、1924年に瓶の形状が変更された時から使用されている。
 1950年代には、より厚く大きなシルエットの栓になり、斜角のカットが施された。
 1970年代に栓はさらに目立つものとなったが、1986年にバランスを訂正し、栓のサイズは瓶の大きさに釣り合うようになった。
 バッグに入れて持ち運べるサイズの小瓶は、1934年に導入された。
 統一小売価格と容器サイズは、より幅広い顧客にアプローチするために開発された。
 これにより、大瓶の価格では高価すぎると感じていた顧客を取り込み、販売促進することに成功した。
 香水瓶は、数十年を経てそれ自体が文化的意味合いを持つ人工産物となり、1980年代半ばにアンディ・ウォーホルは「広告:シャネル」と題したシルクスクリーンのポップアート作品で、香水瓶を偶像として取り扱っている。
 2014年クルーズコレクションではこのボトルと同型の筐体を持つバッグが展開された。

 関連項目 ー エルネスト・ポー ー

 エルネスト・ボー(Ernest Beaux 1881年12月8日〜1961年6月9日)は、フランスの調香師である。
 1921年にシャネルから発売され、現在まで発売され続ける香水「シャネルNo.5」の調香師としてその名を知られている。

 ▼名調香師として

 翌1922年には「CHANEL N°22」も発売され、更なる評判を呼ぶことになる。その後も1925年には、同じくシャネルから発売された「Gardénia」や、1929年にはシャネルと前出のウェルテメール兄弟により設立されたシャネル・ブルジョワから発売された「Soir Paris」などのフレグランスを開発し、評判を呼んだ。
 1961年6月9日、パリのアパートメントで死去。

     〔ウィキペディアより引用〕

世界の女傑たち Vol.005−②

2023-10-15 21:00:00 | 自由研究

 ■ココ・シャネル Ⅱ

 ▼映画用のデザイン

 1931年、モンテ・カルロにいる間にシャネルは共通の友人であったドミトリー・パヴロヴィチ大公を通じて映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンと知り合った。
 ドミトリー・パヴロヴィチ大公は最後のロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世の従兄弟である。
 ゴールドウィンはシャネルに興味深い提案を行った。
 それは総計100万ドル(今日のおよそ7500万ドルに相当)の報酬でMGMのスターたちのための衣装デザインを依頼し、そのためにシャネルをハリウッドに2年間招聘するというものであった。
 シャネルはこの依頼を受け、友人のミシア・セールと共にハリウッドに渡った。
 彼女は「映画が私に何を与え、私が映画に何を与えられるかを確かめるために」ハリウッド行きに同意したと語った。
 シャネルのハリウッド訪問は大きな話題を呼び、当代一流の映画関係者(美術監督のミッチェル・ライゼンや映画監督のセシル・B・デミルなど)がシャネルとともに仕事をした。
 また、彼女はマーヴィン・ルロイ監督の映画『今宵ひととき(英語版)』(1931年)でグロリア・スワンソンが身に着けた衣装と、ローウェル・シャーマン監督の映画『黄金に踊る(英語版)』(1932年)でアイナ・クレアが身に着けた衣装をデザインした。
 また、グレタ・ガルボとマレーネ・ディートリヒの二人が個人的な顧客となった。
 しかし、ハリウッドにおけるシャネルのデザインは成功したとは言えなかった。
 たとえシャネルのデザインであっても、ハリウッドのスターたちは必ずしも喜びはしなかったし、毎回シャネルの衣装を身に着けることに抵抗もした。
 『ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)』誌はシャネルとハリウッドがうまく連携できなかった理由を「シャネルは、一人の女性をまさしく一人の女性として表現しようとした。ところがハリウッドの人間は、一人の女性を演出する際、何よりもまず、まるで女性が二人いるかのように表現しようとする。
 シャネルは、そんなハリウッド式のスタイルがあるとは思ってもみなかったのだ。」と書き、シャネルのデザインは映画界の大物たちにとっては派手さが足りなかったのだろうと推測している。
 シャネルはハリウッドでの経験について多くを語っていない。
 シャネルの伝記を書いたジャーナリスト・作家のマルセル・ヘードリッヒ(フランス語版)はハリウッドでのシャネルにほとんど触れておらず、エドモンド・シャルル・ルーはシャネルから苦労してハリウッドについての話を聞き出したことを語っているが、その話の内容は次のようなものであった。

 ●ハリウッドはどうでした?」「おしりとおっぱいの殿堂ってとこね。」...「キャバレーの<フォリー=ベルジェール>の夜会みたいなものよ。女の子はみんな綺麗で、羽根飾りをつけてた。それだけ」「でも……」「でもなんてないの。だいたい"超"がつくものなんて、どれもこれも同じよ。超性(性染色体の比率が乱れた中性の有機体)にしろ、超大型プロダクションにしろ……ああいうものはみんな、いつかかならずだめになる...」「ではハリウッドの雰囲気はどうでしたか?」「幼稚ね……ミジアなんか、私よりもっとうんざりしてたわ。私は笑ってただけ。いつだったか、ある有名な俳優さんのお宅に二人で招待されたことがあったんだけど、その俳優さん、私たちに敬意を表するためだとかいって、庭の木を青く塗っちゃってたの。気をつかってくれたんでしょうけど、ちょっと幼稚ね……」[34]:125

 しかし、シャネルがハリウッドで仕事をしたこと自体は大きな宣伝効果を発揮しており、また彼女はハリウッドの映画産業から「写真映り(photogeny)」の概念を学び取り、以降の仕事において「写真映り」に配慮するようになる。
 シャネルのデザインがうまくハリウッドに適合しなかったことから、予定されていた二度目のハリウッド訪問は中止になり、ハリウッドとの関わりは終わった。
 しかし、シャネルはいくつかのフランス映画の衣装デザインは続けた。
 その中にはジャン・ルノワール監督の1939年の映画『ゲームの規則』があり、彼女は「ラ・メゾン・シャネル(La Maison Chanel)」としてクレジットされている。
 彼女はルノワールをルキノ・ヴィスコンティに紹介した。
 彼女はヴィスコンティというイタリア人が映画業界で働きたがっていることに気付いていた。
 ルノワールはヴィスコンティに好感を持ち、次の映画プロジェクトに彼を連れて行った。

 ▼スキャパレッリとの競争

 シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する営利企業になっており大きな利益をあげていた。
 しかし1930年代の間に、オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになった。
 1920年代のフラッパーのボーイッシュな装いと短いスカートは瞬く間に姿を消した。
 ハリウッドの映画スター用のシャネルのデザインは成功せず、期待されたほどには彼女の名声を高めなかった。
 さらに深刻だったのは、最大のライバルであったエルザ・スキャパレッリがシャネルを上回る評判を呼んだことである。
 シュルレアリスムへの遊び心ある援用で満ちていたスキャパレッリの革新的デザインはファッション界において圧倒的な賞賛を集め、熱狂を生み出した。
 さらに、1936年にフランス全土で発生した大規模なゼネストが苦境にあったシャネルをいらだたせた。
 シャネルのクチュールで働く従業員・お針子たちもまた、有給休暇や週給制の実施、労働時間の短縮などを求めてストライキに突入し、シャネルは自分の店から追い出された。
 シャネルは従業員側のあらゆる要求を拒否しようとし、後にこのストライキに参加した人々を「病気」だと罵っている。
 しかし、スキャパレッリとの競争のために強硬姿勢を貫くことができず、次シーズンのコレクションの発表が不可能になる段まで話が進むと、譲歩を余儀なくされた。
 彼女はストライキに参加した従業員を恨み、この経緯を長く引きずることになる。

 強力なライバルの出現、従業員の反乱に加え、この時期のシャネルはスランプにも悩まされていた。
 彼女はジャン・コクトーの依頼を受け、彼が台本のオペラ『エディプス王』でコラボレーションした。
 この時に彼女がデザインした衣装は俳優の背格好や肌の色ごとに長布を巻くというものであったが、評論家からも観客からも惨憺たる評価で迎えられた。
 エドモンド・シャルル・ルーはこれについて「あまりに醜悪で、負傷者かおむつをあてた赤ん坊にしか見えなかった」と言う評を紹介している。
 彼女はまたバレエ・リュス・ド・モンテカルロの作品、『バッカス祭(Bacchanale)』の衣装にも関与した。
 衣装デザインはサルバドール・ダリによって行われた。
 しかしながら、1939年9月3日にイギリスが対独宣戦布告を行ったことで、バレエ・リュスはロンドンへ去ることを余儀なくされた。
 彼らがヨーロッパに残した衣装は、ダリの最初のデザインに従ってカリンスカ(Karinska)によって作り直された。

 ▼第二次世界大戦

 1939年、第二次世界大戦が始まると、シャネルは突如、ブティックだけを残してカンボン通り31番地の作業場(アトリエ)を閉め、お針子全員を解雇した。
 シャネルが作業場を閉鎖した理由は良くわかっていないが、1936年にストライキを行った従業員に対する報復であると見られる場合が多い。
 彼女自身は「戦争のせいで仕事をやめた」と語っており、この判断は戦時中に服を買うような人々の存在が想像もできなかったからだとしている。
 この行動は強い批判を浴び、経営者組合は考え直すように説得を行ったが、シャネルは断固として再開を拒否した。
 ドイツが1940年にフランスを占領すると、シャネルはドイツ軍人たちが好んで居住先に選んだホテル・リッツに住んだ。
 この頃にシャネルはパリ駐在のドイツ外交官・諜報員のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(ドイツ語版)男爵(フライヘア(英語版))と交際していたことが知られており、彼女のアパルトマンを徴発しないという保証をドイツ側から得ていた。
 ディンクラーゲとシャネルがいつどこで知り合い、いかなる関係を築いていたのかはよくわかっていない。彼女自身の言によれば両者は「長年の」友人であった。

 長期にわたって続いていたパルファム・シャネル社を巡るシャネルとヴェルテメール兄弟の争いにもこのドイツによる占領は大きな影響を及ぼした。
 ナチスの方針ではユダヤ人の資産は「アーリア人」の所有に移されなければならなかった。
 ヴェルテメール兄弟はドイツによる占領の前にフランスを離れアメリカに亡命したが、反ユダヤ主義を前面に出すドイツの下でパルファム・シャネルに対する自分たちの財産権が安全でないことを予想し、1940年5月にフランス人カトリック教徒(即ち「アーリア人」)の実業家・事業家フェリクス・アミオ(英語版)にパルファム・シャネルの株を売却した。
 アミオは以前からヴェルテメール兄弟の知己がある人物であり、ドイツ当局とフランスの行政組織はこれがユダヤ人であるヴェルテメールの資産を守るための目くらましに過ぎないものと判断し、突撃隊(SA)が彼を連行して尋問した。
 この時、パルファム・シャネル社の「アーリア化」が実際に行われているかどうかを調査するべくヴィシー政権によって任命された臨時行政官ジョルジュ・マドゥーは、1931年までパルファム・シャネルの取締役を務めていた人物で、ココ・シャネルと密接な関わりを持っていた。
 シャネルはこの状況を利用できると考えた。
 マドゥーが「アミオ氏の主張はまったくの虚偽だと思わざるを得ない。
 パルファム・シャネルはまだユダヤ人の企業だ」という結論を出した後の1941年5月5日、シャネルはマドゥーへ「私は、パルファム・シャネルの全株式の買い手となります。
 …これはいまだにユダヤ人の所有となっていますが、あなたはアーリア人にこれを譲渡するまたは譲渡させる任務を担っています」と連絡し、(アーリア人である)自分が同社を所有することで「アーリア化」は実現できると主張した。
 さらに「私は明白な優先権を持っています。
 ......この事業の創設以来、私が自分の作品から受け取っていた利益は不当なものです。
 ......過去十七年間に私が苦しめられてきた偏見をある程度修正していただけるものと考えています」とも書いている。
 第三帝国の法に照らせば、パルファム・シャネルに対する所有権は「今だユダヤ人の財産」になっているが、所有者であったヴェルテメールらはすでにこれを法的に「放棄している」状態であると解釈可能であった。

 アミオは度重なる尋問を受けるなど、その立場は安泰とは程遠かったものの、賄賂などを駆使し第三帝国の支配地においてシャネルNo. 5の販売を維持し続けた。
 こうして、ヴェルテメール兄弟の予防策は成功し、シャネルの試みは阻止された。
 アミオは戦後にパルファム・シャネルをヴェルテメール兄弟の手に返した。

 ▼ナチスの諜報活動との関わり

 戦時中、シャネルはドイツの諜報活動に関与していた。
 彼女が参加した最も有名な任務はモデルフート作戦(Modellhut、'Operation Model Hat')である。
 シャネルは連合国優位に傾く戦局の中で、シャネルの友人であった当時のスペイン駐在イギリス大使を通じてイギリス首相ウィンストン・チャーチルを説得し和平の仲介を行うことを買って出た。
 シャネルの考えは「誇大妄想」と評されるようなものであったが、ディンクラーゲを始めシャネルの考えに同調する人々が存在したことで実行に移された。 
 シャネルとディンクラーゲは国家保安本部でヴァルター・シェレンベルクに報告を行い、その場でシャネルがディンクラーゲに提案した計画も報告されることになっていた。
 1943年末、または1944年初頭、シェレンベルクはシャネルの提案を入れてイギリスに分離講和を考慮させる計画を実行した。シェレンベルクは型破りな手法を用いるという欠点があった。
 戦争終結時にイギリスの諜報機関によって尋問された時でも、シェレンベルクはシャネルが「政治的交渉をチャーチルと行うのに十分なほど彼の知己を得ている」という見解を維持していた。
 結局このミッションは失敗した。
 イギリス情報機関(M16)の尋問調書の記録によって、マドリードに到着した後、騙されてメッセンジャーとして採用されシャネルらに同行していたロンバルディがイギリス大使館にシャネルを含む自分の同行者全員がナチスのスパイだと伝えたことで計画が破綻したことが明らかになっている。

 ▼シャネルに対する告発

 1944年9月のパリ解放の2週間後、シャネルはホテル・リッツで逮捕されフランスの粛清委員会に尋問された。
 逮捕された時、シャネルは強い恐怖を覚えフランス国内兵や対独レジスタンスを激しく罵った。
 しかし数時間でシャネルは解放された。
 これほど早く解放された理由は「極めて有力な人物のコネ」があったからであると考えられる。
 エドモンド・シャルル・ルーはその人物が誰であるのか全く手掛かりがないとしているが、多くの場合これはチャーチルであると考えられている。
 ハル・ヴォーンはシャネルの姪孫であるガブリエル・パラス・ラブリュニー(Gabrielle Palasse Labrunie)に対する電話インタビューで、シャネルは自宅に戻った時、「チャーチルが私を解放してくれた」とメイドに言ったという証言を得ている。
 シャネルに対するチャーチルの介入の度合いは、戦後にゴシップと疑惑の種となった。
 もしシャネルが自身の活動について裁判で証言することを強制された場合、イギリスのトップクラスの官僚や社会的エリート、そして王室の親ナチ的態度と活動が暴露されるだろうと人々が心配したのだと、あるウィンザー公の伝記作家は書いている。
 1944年にフランスが解放された時、シャネルは自身の店のウィンドウに全てのGIにシャネルNo.5を無料で提供すると書いたメモを残した。
 この最中、彼女はナチスの諜報活動に協力したことで犯罪者として告訴されるのを避けるためスイスに亡命した。

 1949年、パリに来て捜査官たちの前に立つように要求されたシャネルは、ゲシュタポの諜報員ルイ・ド・ヴォーフルラン男爵(Baron Louis de Vaufreland)の戦争犯罪裁判で彼女の活動について示された証言に立ち向かうため、亡命先のスイスを離れた。
 シャネルは全ての告発を否定した。彼女は潔白の証として、裁判長(presiding judge)ルクレール(Leclercq)に「前イギリス大使のダフ・クーパーさんに証言をお願いすることもできます。
 イギリス上流社会で私がどれほどの信頼をいただいているか、あの方が証明してくださるでしょう」と発言している。

 ▼戦後の生活とキャリア

 シャネルはスイスへ移った後、そこでディンクラーゲとともに数年を過ごした。
 パルファム・シャネルを巡るヴェルテメール兄弟との経営権争いは戦後も続いた。
 業界はパルファム・シャネルの経営権を巡る法的闘争を興味と若干の懸念を持って見守っていた。
 本係争における利害関係者たちは戦時中のシャネルとナチスの関係がもしも公に知れ渡れば、シャネルブランドの名声と地位に深刻な影響を及ぼすと認識していた。
 『フォーブス』誌はヴェルテメール兄弟が抱えていたジレンマを、(ピエール・ヴェルテメールにとって)「訴訟は、シャネルの戦時中の行動を明るみにし、彼女のイメージと、彼のビジネス双方を窮地に追いこみかねなかった」と要約している。
 シャネルはヴェルテメールに対する訴訟のためにヴィシー政権の首相ピエール・ラヴァルの義理の息子、ルネ・ド・シャンブラン(英語版)を弁護士として雇った。
 結局、ヴェルテメールとシャネルは1924年の元々の契約について再交渉し、互いに和解した。
 1947年5月17日、シャネルは戦時中のシャネルNo.5の販売利益(21世紀の通貨換算でおよそ9億ドルに相当する)を受け取った。
 また、将来の全世界におけるシャネルNo.5の売り上げの2パーセントについて権利を得た。
 彼女が得た経済的利益は莫大なものであった。
 彼女は1年あたり2500万ドルの収入を得ていたと予想されており、当時世界で最も富裕な女性となっていた。
 付け加えて、ピエール・ヴェルテメールはシャネル自身が提案した特殊な条項に同意した。
 即ちヴェルテメールは、シャネルのその後の一生涯にわたり、彼女の生活費を―些末なものから大型出費に至るまで―全て負担することに合意した。

 女性が第一のクチュリエとして君臨した戦前とは異なり、戦後はクリスチャン・ディオールが1947年に彼のニュールックで成功を収めた。
 そしてディオールの他にも、クリストバル・バレンシアガ、ロベール・ピゲ(英語版)、ジャック・ファットら優れた男性デザイナーが認められた。
 シャネルは、ウエストニッパー(waist cinchers)、パッド入りブラジャー(padded bras)、厚手のスカート(heavy skirts)、角張ったジャケット(stiffened jackets)といった男性のクチュリエが好む美学に対して、最終的には女性たちが反抗するであろうと確信していた。
 しかし、戦時中に活動を停止し、さらに対独協力の過去のために表立った行動がとりづらかったシャネルはファッションに影響を与えられる状況になかった。
 1953年、彼女はコート・ダジュールの邸宅ラ・パウザ(La Pausa)を出版業者かつ翻訳家のエメリー・リーブズ(英語版)に売却した。
 ラ・パウザの5部屋がダラス美術館に再現され、リーブズの美術コレクション及びシャネルの家具が収められている。

 70歳を過ぎた時、彼女はファッション界に復帰した。
 シャネルが復帰を決断した1954年には、既に彼女がファッションの表舞台を引いてから15年もの時間がたっていた。
 流行に敏感な人々の中にシャネルの名前を記憶している人は少なく、2月5日に新作の発表とともに新たに店を開いた時、そこに集まったのは年配ばかりで若い女性はほとんどいなかった。
 女性たちにディオールが大流行する中[34]:279、彼女の発表について書いた『オーロール』誌は「それはすっかり過去のものだ。われわれは、十四年の沈黙のあとに、ほとんど当時そのままをよみがえらせたものを見るように招かれたのである...」と評した。
 シャネルのコレクションは「このドレスは一九三八年ですらない、一九三〇年のドレスの亡霊だ」と酷評され、全く相手にされなかった。
 苦境のシャネルを支えたのはパルファム・シャネルを巡って争っていた長年の敵であったピエール・ヴェルテメールであった。
 彼は気落ちするシャネルを励まし、全面的な資金提供を行った。
 実際にはシャネルの復権にそう長い時間は必要とされなかった。
 フランスのメディアが戦時中の彼女のドイツ軍への協力活動及び愛人生活、並びにコレクションについての論争の故に取り扱いに慎重であった一方で、アメリカとイギリスのメディアはをそれをファッションと若者を新しい方法で結びつける「ブレークスルー」だとみなした。
 発表時フランスで酷評されたドレスは1年後にはアメリカで爆発的な人気を得ていた。

 アメリカの『ヴォーグ』誌の影響力ある編集者ベッティーナ・バラード(Bettina Ballard)はシャネルに忠実であり続け、1954年3月に「1950年代のシャネルの顔(the "face of Chanel" in the 1950s)」であるモデル、マリー・エレーヌ・アルノー(英語版)の特集を組んだ、撮影者はヘンリー・クラーク(英語版)で、アルノーは真珠のネックレスを組み合わせた赤いVネックのドレス、層状のシアサッカーのイブニング・ガウン、ネイビージャージのミッドカーフ・スーツの3点の服を身に着けた。
 アルノーが着たこれらの服は、「軽くパッドを入れた、スクエアショルダーのカーディガンジャケット、2つのパッチポケット、ボタンを外して折り返すと、パリッとした白い袖口が際立つスリーブ」、「立ち上がりのある襟と蝶型リボンの付いた白いモスリンのブラウス、ブラウスに付いた小さいタブでウエストのボタンに留めることのできる、ゆったりしたAラインスカート」が特徴であった。
 バラードはこの「若々しい優雅さと無邪気さを強く印象付ける」スーツを自費で購入した。
 そしてアルノーがモデルを担当した衣装にはすぐに全米から注文が殺到した。
 『ライフ』誌は復帰後3回目のコレクションの際には、シャネルの復帰を「...彼女は七十一歳にしてモード以上のものをもたらした。
 それはもはや革命である」と評し、各国語版全てに四ページを割いてシャネルを紹介した。
 以降、シャネルはその死に至るまでファッション界に君臨することになる。

 ▼晩年

 彼女の最後の年月にはしばしばジャック・シャゾ(英語版)及び親友のリルー・マルカンがそばにいた。誠実な友人としてはブラジル人Aimée de Heerenもおり、彼女はパリのホテル・ムーリス(英語版)に年に4ヶ月住んでいた。かつてライバルであった二人はウェストミンスター公(英語版)との幸福な思い出を共有していた。
 彼女たちは頻繁にパリの中心部で散歩をした。
 エドモンド・シャルル・ルーはシャネルの晩年は取り巻きの人間はたくさんいたものの、彼女を利用しようとする人間ばかりで「孤独だった」と評し、晩年の彼女の発言として「私の言葉を記事にしようと話を聞きに来る人たちもいるし、私の話に退屈しているくせに、自分の家よりもこの家で食事をするほうが多いっていう人たちもいる。
 でもいちばん多いのは、頼みごとをしに来る人たちね。こういう人たちがいちばん熱心。お金……いつもお金よ」という言葉を引用している。

 ▼死

 老境に入ったシャネルは衰え、病を患っていた。夜間は夢遊病の症状が見られるようになり、眠ったまま部屋の中で立っている姿が見かけられるようになっていた。
 1971年1月9日(土曜日)、彼女は普段通りに春のカタログを準備し、午後に長めのドライブに出た。そのすぐ後に気分が悪くなりベッドに早めに入った。
 彼女はメイドのジャンヌに最後の言葉として「人はこんなふうに死ぬのよ(C'est comme cela que l'on meurt)」と語った。
 1971年1月10日、30年以上居住していたホテル・リッツで死亡した。
 葬儀はパリのマドレーヌ寺院で執り行われた。
 彼女のファッションモデルたちが最前列の席に陣取り、棺は白い花(ツバキ、クチナシ、ラン、ツツジ)そして少量の赤いバラで飾られた。
 墓はスイス、ローザンヌのボワ=ド=ヴォー(Bois-de-Vaux)墓地にある。
 シャネルは生涯にわたって高級ファッションにおける重要人物とみなされていたが、シャネルが残した影響はその死後にさらに調査された。
 ジョルジュ・ポンピドゥー大統領の夫人クロード・ポンピドゥー(フランス語版)は長年シャネル・コレクションを愛用し、シャネルが死去する7か月前にエリゼ宮殿での晩餐会に招待するほどであった。
 彼女はシャネルの埋葬後にも大規模な追悼式典を計画したが、まもなくフランス諜報機関が戦時中のシャネルの敵国との関わりに関する文書を公開し始めたために、この計画は取り消しとなった。

     〔ウィキペディアより引用〕