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2023-10-17 21:00:00 | 自由研究

 ■アルカイダ、タリバン複雑な関係
     悲劇のアフガニスタン(10)

 ❖ ア フ ガ ニ ス タ ン 
             紛争 ❖

 アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、第二次世界大戦以降のクーデター及び、1989年のソビエト連邦軍の撤退から、2001年のアメリカ合衆国と有志連合諸国によるターリバーン政府への攻撃が発生するまで。

 《 概 要 と 歴 史 的
           流 れ 》

 ◤ 第二次世界大戦 ◢

 1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソビエト連邦両国はナチス・ドイツとイタリアなど枢軸国の外交官や民間人の国外退去を要求した。
 これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中の全ての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。

 このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。

 ◤ 冷 戦 ◢
  〔パシュトゥーニスタン独立運動〕

 1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。
 イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合として独立させた。

 しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争)に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。
 その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

 パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動」を起こし牽制した。

 ◤王政廃止と
     社会主義政権の樹立◢

 1973年のクーデターでアフガニスタンは共和制となり、1978年、2度目のクーデターにより初めて社会主義国家となった。
 1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年〜1989年)が勃発した。

 1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。
 ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。
 このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

 1978年4月、アフガニスタン人民民主党(PDPA)主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。
 人民民主党による社会主義政権が樹立され、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任し世俗化を推し進めた。
 これに対し、全土でイスラム主義のムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年〜1989年)が始まる。
 アメリカ合衆国は反共を名目としたサイクロン作戦によりムジャーヒディーンを資金援助して後押しした。
 政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発した。

 1979年2月14日、カーブルで、ダブス米大使が誘拐・殺害される事件が発生した。
 3月には西部のヘラートで、イスラム主義ゲリラ・地域住民・政府軍からの脱走兵と、政府軍・ソ連軍顧問、との間で激しい戦闘が起きた。
 カーブルのアフガニスタン政府に対する、イスラム勢力や地方住民の反発は激化していった。

 広範な勢力を取り込んだ「連合政府」を樹立させアフガニスタン政府の基盤を強化することが急務であると考えたソ連指導部は、9月9日、タラキーに対して、軍事援助の増額と引き換えに、個人的野心で行動するハフィーズッラー・アミーンの排除を要求したが、アミーンが対抗手段を準備している事を知るタラキーは逡巡した。
 9月13日夜、プザノフ大使などカーブルのソ連側現地責任者たちは、タラキーとアミーンとの会談を要求した。
 この会談でソ連側はアミーンの政治姿勢を強く非難したが、タラキーはアミーンを解任しなかった。
 そこで、翌日タラキーの公邸で、ソ連側立ち合いの下、両者は再度会談を行うことになった。
 アミーンが解任されなかったことを知ったタラキー派のPDPA上級幹部数名はソ連大使館に逃亡した。
 タラキー自身もソ連側に助けを求めた。
 9月14日午後、会談のためタラキーの公邸に入ろうとしたアミーンに、大統領の護衛が発砲した。
 アミーンの補佐官は射殺されたが、アミーンは無傷で難を逃れ暗殺は失敗した。
 アミーンは、自分に忠実な軍の部隊を動員し、PDPAのリーダーに就任しタラキーを追放した。
 10月9日、タラキーは獄中で処刑された。

 ◤ソ連軍による
      アフガニスタン侵攻◢

 1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。
 介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。
 10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた。
 12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された。

 ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。
 また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。
 ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた。

 1979年12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。
 12月27日夕刻、KGB特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した。
 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。

 1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。

 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。
 国名をアフガニスタン共和国に戻す。

 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。
 ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。

 1989年、ソ連軍撤退完了。
 各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。
 しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。

 ◤ソ連軍の撤退後、
    ターリバーン政権の統治◢

 1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義勢力のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。
 1989年、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年〜2001年)が始まる。
 2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。

 1992年、ナジーブッラー政権崩壊。
 ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。

 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。

 1994年、内戦が全土に広がる。
 ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。

 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。
 アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟(マスード派とドスタム派)となる。
 同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。

 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北。

 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利。
 ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。
 イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。
 また、ケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に伴うアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。

 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。

 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。

 2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。
 9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。
 9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。
 ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビアがターリバーンとの断交を決定。
 9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

 ◤アフガニスタン紛争◢

 多国籍軍による攻撃と
         暫定政権の樹立

 2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。
 政府とターリバーンとの間で続いた戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させ、一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われた。

 2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けて北大西洋条約機構(NATO)がアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。
 10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。
 北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が開始される。
 11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。
 年末にターリバーン政権崩壊。
 11月22日、パキスタン政府がターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。
 11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。
 会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した。
 11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。
 12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。
 アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。
 国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。
 また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。
 アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

 ◤新共和国成立◢

 2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。
 約3,000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。
 カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。
 暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。

 2002年1月21日、日本の東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。
 約60か国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。
 日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9,600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2,000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5,000万ドル、イギリスは5年で3億7,200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。
 また周辺各国は、イランが1年で1億2,000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。
 各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。
 2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。
 6月10日〜6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され、1,500人以上の代表が参加した。
 6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した。
 6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。
 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。
 副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。
 ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガは閉会した。
 7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。
 市民48人死亡、117人が負傷する。

 2004年1月、新憲法が発布された。
 10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した。
 同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。

 2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した。
 12月、国会が開会した。

 2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した。
 7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した。

 2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した。

 2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた。
 8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。

 2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。
 カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。
 2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した。
 一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した。
 同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人、4000人、1万3000人)。
 アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された。

 ◤第二回大統領選挙後◢

 2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した。
 同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した。
 国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した。
 6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された。
 7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった。
 9月18日、第二回の下院議会選挙が実施された。
 同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた。
 2010年の経済成長率は22.5%に達した。

 2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。
 同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した。

 2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。
 12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた。
 一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった。

 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した。

 2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日にアシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。
 これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった。
 ただし、この選挙には不正疑惑があり、最終的に解明されることはなく、米国の仲介により、候補両者が「挙国一致政府」に合意してガニー政権が発足した。
 大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。
 12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した。
 多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった。

 アメリカ支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「夜襲作戦」と呼ばれる"ターリバーン狩り"が行われた。
 深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。
 氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという。
 当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。
 作戦はターリバーン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した。
 あまりの不評にカルザイ大統領は「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領が復活を決めた。

 ◤第三回大統領選挙後◢

 2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた。
 7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した。
 国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた。
 2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。
 衝撃を受けたアメリカ合衆国大統領バラク・オバマはアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した。
 また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した。

 2016年1月11日、アフガニスタンとパキスタン、中国、アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが、ターリバーンは和平交渉を拒否した。
 国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。
 9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した。

 2017年5月、カーブルのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した。
 8月、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプは『対アフガニスタン・南アジア戦略』を発表し、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した。
 10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。
 政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。
 ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。
 ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた。
 11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した。

 2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した。
 8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。
 10月、第三回の下院議員選挙が実施された。

 2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている。
 ターリバーンの勢力が拡大しつつあるという見解も示された。
 8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。
 9月、第四回の大統領選挙が実施された。
 12月4日にはナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。

 2020年2月28日、トランプ米大統領は、駐留米軍を撤退させることでターリバーンと合意した(ドーハ合意)。
 合意の内容は、米国は14カ月以内にアフガニスタンからすべての連合軍を撤退させ、アフガニスタン治安部隊に対するすべての軍事・請負支援を終了し、アフガニスタンの内政干渉をやめること。また、アフガニスタン政府は5000人のターリバーン戦闘員の解放と経済制裁を緩和すること。
 一方、その条件としてターリバーンは、米軍や連合軍への攻撃をやめ、アルカーイダやその他のテロ組織がアフガニスタンの領土を使って米国の安全を脅かすことを許さず、アフガニスタン政府との交渉を行うというものであった。

 2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラとアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名。

 2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。

 2021年7月にはターリバーンの代表団が訪中し、中華人民共和国外交部長(外相)の王毅と会談し、アブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた。

 2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われていた。

 ◤ターリバーンの再掌握◢

 アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは5月から本格的に主要都市を次々と制圧していった。
 もっとも、以前から公的機関の周辺以外は既にターリバーンが支配しており、戦いの趨勢は決まっていたという見方もある。
 虐殺を指摘される夜襲作戦で連合軍は市民から反感を買っており、アフガニスタン政府は腐敗で機能せず、迅速に統治するターリバーンは受け入れられていたという。

 2021年8月15日には首都カーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。
 約20年間続いた民主政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が権力の移行を進めると表明した。
 同日、アシュラフ・ガニー大統領がタジキスタンに向けて出国したと報じられたが、タジキスタンは「ガニ氏を乗せた飛行機はタジキスタン領空に入っておらず、領土内に着陸もしていない」とし、ガニーの入国を否定した。

 8月17日にターリバーンはアフガニスタン政府に「平和的降伏」を求め、政権移譲に向けた交渉を始めており、ビデオ声明を通じて勝利宣言した。
 また同日、対ターリバーン戦を呼び掛けていたヘラートの軍閥の指導者イスマーイール・ハーンが一時的に拘束された。
 一方で、第一副大統領のアムルッラー・サーレハが憲法上の規定により、暫定大統領に就任すると発表した。
 サーレハはターリバーンの勢力が及ばないパンジシール州に滞在しているとされ、同州のパンジシール渓谷を拠点としていたマスード将軍の息子アフマド・マスードと共に抵抗運動を呼び掛けていると報道があったが、9月7日、ターリバーンは反勢力の最後の拠点を制圧したと宣言した。
 なお反ターリバーン組織は「まだ戦いは続いている」との声明を発表している。

 アフガニスタン中央銀行の保有資産の多くは欧米の銀行で資産凍結されており、8月時点の現金残高は「ほぼゼロ」の状態で、国家予算の8割が米国など海外からの支援であった。
 こうしたターリバーンへの経済制裁は、極端なイスラム治政を敷くターリバーンに対し、国際社会との親和を促すという名目がある。
 トランプ政権で高官だった研究員は、米国は友好国と協調しながら資産凍結しなければならないとし、加えて、打撃を受けている同国の一般市民に対しては継続した人道支援が必要とした。
 8月31日、アメリカ軍はアフガニスタンから完全に撤退した。

 ◤ターリバーン復権下の統治◢

 2021年9月7日、ターリバーンは暫定政権の主要閣僚を発表。
 政権トップにはハッサン・アフンド、副首相にはアブドゥル・ガニ・バラダル、内相にはスィーラジュッディーン・ハッカーニ、国防相にはヤクーブが就任。
 あわせて勧善懲悪省の復活というターリバーン色の強い政治姿勢も明らかにした。
 閣僚の多くはパシュトゥーン人であり、女性の起用は無かった。
 翌9月8日には大臣らが各省庁で就任演説を行う予定であったが、情報・文化省の例では職員約850人のうち20人ほどしか出勤せず、ターリバーンが政府として機能するには、なお時間を要することが示唆された。
 また、2021年9月21日に始まった国際連合の総会には、ガニ政権が任命したグラム・イサクザイ国連大使が代表として職務を続けた。

 前述の米国やIMF、国連による経済制裁により、国民の生活は困窮し、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした。
 薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国が人道支援を例外とし、国連も同様の決議を採択した。
 2022年6月には、1000人以上の死者を出したアフガニスタン東部地震が発生した。

 ❖ アフガニスタン紛争 要約 ❖

 アフガニスタン紛争とは、近代以降のアフガニスタンを舞台に起こった様々な戦闘の総称。
 1978年以降、断続的に起こっている戦い。

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 アフガニスタンは1978年以来断続的に戦闘が続いている。
 この戦闘を時期によって大別すると、以下の3時期に分けられて語られることが多い。

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 ◆ 1978〜1989年 ◆

 1978年に発生したアフガニスタン人民民主党政府に対する武装蜂起、さらに1979年に発生したソビエト連邦のアフガニスタン侵攻、政府軍・ソビエト連邦軍とそれに対するムジャーヒディーンの戦闘を指す。

 ◆ 1989〜2001年 ◆

 1989年のソ連軍撤退後のムジャーヒディーンや軍閥による内戦を指す。人民民主党が壊滅した1992年、ターリバーンが首都カブールを占領しアフガニスタン・イスラム首長国を樹立した1996年9月で大別される。

 ◆ 2001年〜2021年 ◆

 2001年に発生したアメリカ合衆国および有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政府打倒のための攻撃、そして北部同盟が樹立したアフガニスタン・イスラム共和国政府およびISAF(国際治安支援部隊)および有志連合諸国とターリバーンおよびヘクマティヤール派などの武装組織の抗争を指す。

 ターリバーン勢力はパキスタン連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン国内でも戦闘を行っている(ワジリスタン紛争)。
 2014年12月末に有志連合および北大西洋条約機構(NATO)主導の対テロ戦争の不朽の自由作戦が終了し、自由の番人作戦へ移行した。
 2020年に「ターリバーンと認知されているアフガニスタン・イスラム首長国」とアメリカ合衆国の間で和平合意が成立した。
 和平合意に基づいて2021年5月よりアメリカ合衆国駐留軍が撤退を開始すると、他の外国軍もアメリカ軍と同じく撤退を開始した。
 ターリバーンは合意内容に従ってアフガニスタン・イスラム共和国政府と和平交渉を行いつつも、共和国政府の支配下にある都市を次々と奪還し、8月15日に首都カブールを占領した。
 これによりアフガニスタン・イスラム共和国は事実上崩壊し、ターリバーン政権が再度樹立された
 (2021年ターリバーン攻勢)。

 ◆ 2021年〜現在 ◆

 アフガニスタン・イスラム首長国 (通称ターリバーン政権)の再建と戦闘終結に伴い、民族レジスタンス戦線(略称NRF)等の反ターリバーン武装勢力は、かつてソビエト軍の侵攻に対して難攻不落を誇ったパンジシール渓谷に集結した。
 しかし、攻撃を再開したターリバーン政権は僅か1週間ほどでパンジシールの主要村落を攻略、NRFの高官らが国外逃亡して戦線は崩壊した。
 しかし12月現在に至るまでNRFの残党は山岳地帯に拠点を構え、時折、ターリバーン政権の治安部隊に対して一撃離脱戦等のゲリラ攻撃を加えているとされている。
 また、自らをイスラム的に正統であると主張し、ターリバーンを背教集団とみなすイスラム国ホラサン州(略称ISKP)は、ターリバーン政権に対して自爆攻撃や標的殺人を用いて活発に武力攻撃を加えている。
 ISKPはターリバーンが政権を握る前から治安部隊や民間人、ターリバーンに対し頻繁に自爆攻撃や標的殺人を繰り返しており、NRFが弱体化した現在ではターリバーンの統治に一番損害を与えている武装勢力となっている。

 ◆ 備考 ◆

 しかし、これらの戦闘ははっきりと分類できるほど無関係ではない。
 1989年のソ連軍撤退以降も、人民民主党政府とムジャーヒディーンの戦いは継続しており、2001年前にも北部同盟とターリバーンの戦いは行われている。
 また2001年以降の紛争についても、対テロ掃討作戦であった不朽の自由作戦からアフガニスタン政府への支援と移行した2014年を区切りとする場合がある。

 〔ウィキペディアより引用〕



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 ❖ 40年来続く
    アフガニスタンの悲劇
      戦禍に生きる人々 ❖

 ▼旧ソ連軍の侵攻・撤退と内戦

  2022年2月8日

 地雷・不発弾対策 賑わいを見せていたカブール市街の市場=2020年 旧ソ連軍の侵攻・撤退と内戦 アフガニスタンでは2021年8月、米軍を主体とする駐留外国軍の撤退に伴ってガニ政権が崩壊し、イスラム主義勢力タリバンが復権しました。
 政情不安にある同国では新たに数十万人規模の国内避難民が発生するなど、深刻な人道危機が続いています。

 旧ソ連軍は1979年12月、当時のアフガニスタンを支配していた共産主義政権の要請を受けて同国に侵攻しました。
 これに対して、反ソ連・反政府を標榜するムジャヒディンと呼ばれる複数のイスラム武装勢力が激しく抵抗し、米国もこれを支援しました。
 「ソ連のベトナム戦争」と言われる泥沼の戦争は、1985年に登場したゴルバチョフ書記長による外交政策の転換で流れが変わり、1988年5月に米国と旧ソ連、アフガニスタン、パキスタンの間で結ばれたジュネーブ協定に基づいて、旧ソ連軍は1989年2月までに完全撤退しました。

 しかし、旧ソ連軍の撤退は和平をもたらさず、アフガニスタンは人民民主党政権とムジャヒディンの内戦状態に陥ります。1992年に同政権が崩壊すると、もともと一枚岩ではなかったムジャヒディンの各軍閥が権力闘争を繰り広げて、多数の一般市民が戦闘に巻き込まれて死傷し、首都カブールをはじめ全土が極度に荒廃しました。

 ▼タリバンの登場から「9.11」へ

 こうした状況下、「イスラムの教えに基づく世直し」を訴えて立ち上がったのがタリバンです。
 「神学生」を意味するタリバンは、マドラサ(イスラム神学校)で学んだ若者たちのグループでした。
 長引く戦乱に疲弊した人々は、イスラム教の規律をもって治安回復と祖国復興を目指すタリバンを受け入れ、タリバンは1996年にムジャヒディンを駆逐して国土の大部分を制圧しました。

 しかし、実権を握ったタリバンは次第に保守化し、イスラムの戒律を厳しく人々に押し付けるようになります。
 女子の就学や音楽・娯楽を禁止したり、公開処刑を執行したり、抑圧的な統治を行って国際社会の信頼を失い、市民生活はますます苦しくなりました。
 少数民族ハザラ人の殺害、世界遺産バーミヤン大仏の爆破は国際的に非難されました。

 タリバン政権時代のアフガニスタンに入り込んだのが、オサマ・ビン・ラディンが率いる国際テロ組織アルカイダです。
 政情不安定な国・地域を拠点とするアルカイダにとって、アフガニスタンは格好の標的でした。
 アルカイダは2001年9月、「9・11」米国同時多発テロ事件を起こします。

 アルカイダの犯行と断定した米国は、タリバン政権に対してビン・ラディンの身柄引き渡しを要求しましたが、タリバンは「客人を命懸けで守る」というパシュトゥーン人の伝統によって拒否しました。
 同年10月に米英軍がアフガニスタン空爆を開始するとともに、反タリバンの北部同盟軍の地上戦を後押しし、11月にカブールが陥落してタリバンは地方に撤退しました。
 ビン・ラディンは10年後の2011年5月、潜伏中のパキスタンで米軍特殊部隊によって殺害されます。

 2002年以降、米軍やNATO(北大西洋条約機構)軍など外国部隊がアフガニスタンに駐留するとともに、国際社会は巨額の資金を投じてアフガニスタン復興を支援してきました。
 それは道路や通信網のインフラ整備などハード面の支援から、行政人材の育成、保健医療、教育、農業支援などソフト面まで国家再建の各分野での取り組みです。
 タリバン政権下で学校に通えなかった女の子たちも教育を受けられるようになり、女性の就労も進みました。他方で海外から資金が流入したことで、政権の腐敗・汚職が深刻化したとも指摘されます。

 敗走後のタリバンは、同国東部・南部のパシュトゥ-ン人居住地域、隣接するパキスタンの旧部族地域(現ハイバル・パクトゥンクワ州)に潜伏し、2000年代半ば以降は反政府活動を再開して、米軍との戦闘が続きました。
 加えて、2015年頃からアフガニスタンで活動を開始したテロ組織「イスラム国ホラサン州」(IS-KP)による爆弾事件が今日、大きな不安定要因になっています。

 ▼米軍撤退とタリバンの復権

 アフガニスタンに駐留する米軍兵士の犠牲は2001年以降、死者約2,500人・負傷者2万人超に上り、米国では早期撤退を求める世論が高まっていました。
 トランプ前政権(共和党)は2020年2月、カタールのドーハでタリバン側と和平合意を締結し、翌2021年の米軍撤退が決まりました。

 タリバンとアフガニスタン政府の実効支配地域は、2019年11月時点ではタリバン69郡/政府135郡(勢力拮抗196郡)。
 2021年4月時点でもタリバン77郡/政府129郡(拮抗194郡)でしたが、7月下旬になるとタリバン220郡/政府73郡(拮抗114郡)とタリバンが一気に攻勢を強め、8月にはその勢いを増します。
 最終的にガニ前大統領が国外逃亡して政権が崩壊し、タリバンは8月15日にカブールを制圧して実権を掌握しました。

 タリバンは条件付きで女性の教育や就労を認めると表明したほか、ドーハに外交拠点を置いて各国政府と折衝するなど、20年前のタリバンとは異なる姿勢をアピールしていますが、タリバン政権を承認した国はありません。

        (2022年2月現在)

 タリバン復権と相前後して、駐留外国軍に協力していたアフガニスタン人、外国政府の大使館・機関や援助団体のアフガニスタン人職員が、抑圧を恐れて次々に国外退避しました。
 2021年8月後半には、出国を求めてカブール空港に人々が殺到する様子が世界中に報道され、同国の混乱ぶりをまざまざと見せつけました。

 タリバンの復権が進むにつれて、戦闘から逃れた国内避難民が急増しました。2021年の1年間に国内避難民となったのは66万9,053人、それまでの避難民と合わせた合計は350万人を超えます。また、2021年8月末時点で周辺国に逃れた難民は222万1,828人。厳しい生活を余儀なくされている人々を含めて、同国で何らかの支援を必要としているのは、総人口の約6割に相当する2,440万人に達します。

        (2022年国連推計)

 〔情報元 : AAR JAPAN 認定NPO法人
難民を助ける会〙

 ❖タリバンとアルカイダの
   複雑な関係
 両グループを結びつける“忠誠菜の誓い”とは.....

 アフガニスタンで武装勢力タリバンが復権し、1つの重要な疑問が浮上した。
 それは、タリバンと長年同盟関係にあるイスラム原理主義の過激派組織アルカイダとの関係。

 タリバンの「勝利」にアルカイダが沈黙している理由。

 アフガニスタン情勢が急展開した。
 アフガニスタンに駐留する米軍・NATO(北大西洋条約機構)軍が同国から撤退を開始すると、イスラム主義組織ターリバーン(以下、タリバン)が攻勢をしかけ、あっという間に首都カーブル(以下、カブール)を包囲。
 アシュラフ・ガニー(以下、ガニ)大統領は国外に脱出し、政権は瓦解した。


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