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世界の女傑たち Vol.005−③

2023-10-16 21:00:00 | 自由研究

 ■ココ・シャネル Ⅲ

 《デザイナーとしての遺産》

 早くも1915年には『ハーパーズ バザー』が「たった1つもシャネルを持っていない女性は絶望的に時代遅れです...今シーズン、シャネルは全てバイヤーの口からその名前が紡ぎだされています」とシャネルのデザインを絶賛していた。
 シャネルが名声を得たということは、即ちビクトリア時代から続く過酷なコルセットから女性が解放されたということであった。
 前世代の女性たちが耐え忍んできた不要な装飾、細かい決まり事や制約は今や時代遅れとなった。
 彼女の影響で「羽根飾り(aigrettes)、ロングヘア、ホブルスカート」の時代は過ぎ去った。
 シャネルのデザインに対する美学によって第一次世界大戦後には女性のファッションのあり方が大きく変わった。
 シャネルのトレードマークのファッションは、若者の気楽さ、身体の解放、かさばらないスポーティーな感覚や自信を表わしていた。
 エリート階級、特にイギリスのエリートたちが熱心に追及していた乗馬文化と狩猟趣味はシャネルの想像力を掻き立てた。
 シャネルが熱心にスポーツに打ち込んで得た知識が彼女の服飾デザインを生み出していった。
 ヨットの世界で体験した水上の旅の経験から、彼女は航海のためのデザインをファッションに適用した。
 横縞のシャツ、ベルボトムのパンツ、クルーネックセーター、そして「エスパドリーユ」。これらは全てもともと船乗りや漁師が着ていたものである。

 ▼ジャージー生地

 シャネルの最初の成功は機械編みの素材であるジャージー生地を婦人服の素材とするという革新的なアイデアによってもたらされた。
 れまでジャージーは主として靴下やスポーツウェア(テニス、ゴルフ、ビーチ用の服)に使用される傾向があった。
 クチュールで使用するにはあまりにも「日常的(ordinary)」な生地だと考えられていた上、ニット構造は織物に比べて取り扱いが難しかったためデザイナーにも敬遠されていた。
 シャネルが大量のジャージー生地を発注したのはロディエ社(Rodier)であった。
 ロディエは、男性用としてさえ美的とは考えられていなかったジャージー生地を婦人服に使用するというシャネルのアイデアに躊躇し当初この注文を断ったが、シャネルはジャージー生地の可能性を強硬に主張した。
 最終的にシャネルがこの生地を用いて自分用にデザインした服を見たロディエはシャネルの判断を是とした。
 シャネルの初期のウール ジャージーの旅行スーツはカーディガンジャケットとプリーツスカートから成り、ロー・ベルトのプルオーバートップと組み合わせられていた。
 これにローヒールの靴を組み合わせたアンサンブルは高級な婦人服におけるカジュアルルックとなった。
 シャネルによる高級ファッションへのジャージー導入は2つの理由で成功した。
 1つは第一次世界大戦のために他の素材が不足したこと。
 もう1つは女性たちがよりシンプルかつ実用性のある服を求め始めたことである。
 シャネルの動きやすいジャージーのスーツとドレスは実用性を備えるように作成され、体を自由に動かすことができた。
 これは当時女性が戦争に協力するために看護師として、公務員として、そして工場で働いていたことから極めて高く評価されていた。
 彼女たちの仕事は体を動かす必要があり、また通勤のために電車やバス、自転車に乗る必要もあった。
 彼女たちは破れにくく、使用人の手を借りずに着ることができる服装を求めていた。

 ▼スラヴの影響

 ポール・ポワレやマリアノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ(スペイン語版)のようなデザイナーたちは1900年代から1910年代初頭にオートクチュールに民族的デザインを導入した。
 シャネルはこの傾向を引き継ぎ、1920年代初頭にスラヴ風のデザインを取り入れた。
 この時のシャネルの服のビーズ取付と刺繍はロシアのマリア・パヴロヴナ公爵夫人(英語版)(シャネルのかつての愛人ドミトリー・パヴロヴィチ大公の姉)が設立した縫製会社キトミール(Kitmir)によって独占的に行われた。
 シャネルの初期のコレクションでは、キトミールによる東洋的なステッチと洋式化された民族モチーフの融合が強調された。
 1922年のイブニングドレスには刺繍のあるヘッドスカーフ(バブーシュカ:babushka)が付属していた。
 このヘッドスカーフの他にも、この時代のシャネルの服はルバシカ(roubachka)として知られるロシアのムジーク(muzhiks:農民)の服装を仄めかす長いベルトで止めるスクエアネックのブラウスを特徴としていた。
 イブニングドレスはしばしばきらめくクリスタルとblack jetの刺繍が施されていた。

 ▼シャネルのスーツ

 1923年に初めて導入されたシャネルのツイードスーツは快適さと実用性を追求してデザインされ、柔軟で軽いウールかモヘヤのツイード、およびジャージーかシルクの裏地のブラウスとジャケットで構成されていた。
 シャネルは当時のファッションで一般的だったように素材を固くしたり肩パッドを使用したりはしなかった。
 バストダーツを加えずに、ジャケットを地の目に沿ってカットした。
 こうすると、身体を素早く自由に動かすことができた。
 首元に適度なゆとりをもたせてネックラインをデザインし、機能的なポケットを加えた。より一層楽にするために、スカートはベルトではなく腰の周りにグログラン(英語版)ステイが付けられた。
 さらに重要なことは、仮縫いをするときに細部に至るまで細心の注意が払われたことである。
 採寸は顧客が立った状態で肩の高さで腕を組んだ姿勢で行われた。
 シャネルはモデルに歩き回らせ、バスの階段を登ることを想定したプラットフォームを上がらせ、車高の低いスポーツカーに乗ることを想定して体を曲げさせるテストを行った。
 彼女が目指したのは、シャネルのスーツを着たまま、不意に体の一部を露出することなく、女性がこれら全てをこなせるようにすることであった。
 顧客それぞれがスーツが快適な状態になり、日々の活動を快適かつ容易に行えるようになるまで繰り返し調整を行った。

 ▼カメリア

 カメリア(ツバキ)というと、誰もが思い浮かべるのがアレクサンドル・デュマ・フィスの文学作品『椿姫(La Dame aux Camélias)』であった。
 シャネルは若い頃から「椿姫」の物語に大きな影響を受けていた。
 椿はクルチザンヌ(高級娼婦)である椿姫を連想させる花であり、彼女は白い椿を身に付けることで「仕事」ができることを示していた。
 カメリアはラ・メゾン・シャネルと同一視されるようになった。シャネルは1933年に白をトリミングした黒スーツで初めて装飾要素としてカメリアを使用した。

 ▼リトル・ブラック・ドレス

 今日でも着用されているリトル・ブラック・ドレス(LBD)のコンセプトはジャージーのスーツに続くシャネルのファッション用語への貢献としてしばしば語られる。
 1912年から1913年にかけて、女優シュザンヌ・オルランディ(Suzanne Orlandi)が、シャネルが制作した「白いペタルカラーが付いた黒一色のベルベットのガウン」を着た。
 彼女はシャネルのリトル・ブラック・ドレスを着た最初の女性の一人であった。
 1920年、シャネルはオペラの観客を観察し、全ての女性に黒いドレスを着させることを自身に誓った。
 1926年、『ヴォーグ』誌のアメリカ版はシャネルのロングスリーブのリトル・ブラック・ドレスの画像を掲載し、これをガルソンヌ(garçonne、'little boy' look)と名付けた。
 『ヴォーグ』誌は、このようなシンプルながらもシックなデザインは、センスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想し、このドレスのベーシックな輪郭を、広く普及していてやはり巷に溢れていたフォード社の自動車に例えた有名な批評を残した。
 他方、この質素なデザインは男性のジャーナリストたちからの広範な批判を巻き起こした。
 彼らは「もはや胸はなく、もはやお腹もなく、もはやお尻もない...20世紀のこの瞬間の女性ファッションは全てを削り落とした」と文句を付けた。
 このリトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。
 1930年代は世界恐慌の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。
 シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した。
 シャネルは昼用にウールかシェニールのリトル・ブラック・ドレス、そして夜用にサテン、クレープまたはベルベットのリトル・ブラック・ドレスを作るようになった。
 ある時、シャネルは「私はあえて黒を使いました。
 この色はいまだに衰えていません。
 なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです」と宣言した。

 ▼香水

 シャネルが制作に関わった香水シャネルNo.5は現在もなお最も人気のある香水の1つであり、シャネルブランドを象徴する商品となっている。
 一般にこの香水は1920年の夏頃、ココ・シャネルと調香師エルネスト・ボーの共同制作によって作られたと言われている(実際にはシャネルの依頼を受けてエルネスト・ボーが作った試作品の中からシャネルが選択したものであったとも言われる)。
 シャネルNo.5の命名について、シャネルは数字の5を自分の幸運の数値であると考えており、最も素晴らしいサンプルのビーカーの番号も5番だった、という逸話が残されている。
 シャネルNo.5は複数の意味で香水の世界を変革した商品として取り扱われた。
 香水の販売元はいずれの会社も花模様など凝った豪華な装飾を香水瓶に施し、それが重要なセールスポイントであると考えられていたが、シャネルが自分の名前を付した香水のために用意した香水瓶は極めてシンプルなクリスタルの角瓶であった。
 また素材に当時新たに香料として使用されるようになりつつあったアルデヒドを大胆に使用したことがシャネルNo.5の大成功に大きく寄与している。
 アルデヒドは様々な種類があるが、その香りは一般に人間に清潔感を感じさせるものであり、今日では洗剤や芳香剤、制汗剤などにごく一般的に使用されている。
 この頃までの香水は普通、花の香りを混ぜ合わせて作られていた。
 これは変質しやすい素材であり、香りの持続時間が短く、パーティーなどで長時間香りを維持したければ多量に使用する必要があった。
 また、数種類の花から作られた香水よりもはるかに多い、80種類もの成分がシャネルNo.5には含まれ、より豊かな香りを実現していた。
 実際のところ、アルデヒドを使用した香水は既に1900年代にジョルジュ・ダルゼンやロベール・ビアンエメらによって作られていたが、商業的な成功という意味においてはシャネルNo.5には遠く及ばなかった。
 今日ではアルデヒドの香水への使用という功績をシャネルNo.5に帰する伝説は広く定着している。
 そして事実としてシャネルNo.5はその後何年にもわたり、様々な香水に模倣され、香水の歴史に大きな影響を与えた。

 ▼ジュエリー

 シャネルはジュエリーの概念を革新する一連のシリーズを導入した。
 この革新とは彼女のデザインと素材にコスチューム・ジュエリーとファイン・ジュエリーの両方が組み込まれていたことである。
 これはジュエリーが両者いずれかに厳密にカテゴライズされていた当時において革命的なものであった。
 彼女の感性には世界各地のデザインが影響を及ぼしており、しばしば東洋やエジプトのデザインに触発されていた。
 富裕層は高価なジュエリーの代わりにシャネルの作品を着ることで周囲に富を印象付けることができた。

 1920年代、シャネルはジュエリーデザインスタジオを開き、コスチューム・ジュエリーを制作し始めた。
 彼女はフェイク(コスチューム・ジュエリー)と本物(ファイン・ジュエリー)を組み合わせて作品を作るのを好み、コスチューム・ジュエリーはそれ以降シャネルブランドにおいて欠かせない要素となった。
 フェイク・パールのネックレスは初期のヒット作品である。
 シャネルのモデルたちはネックレスを複数付け、ブレスレッドを重ね、いくつもブローチを付けるなど、シャネルのスタイルに倣って複数のコスチューム・ジュエリーを身に着けた。
 シャネルはコスチューム・ジュエリーを(特にシャネル自身が堂々と身に着けて見せたように)憧れのアクセサリへと変えた。
 1927年にはデューク・フルコ・ディ・ヴェルドゥーラ(英語版)の協力でシャネルブランドのジュエリーシリーズを立ち上げた。
 彼の白いエナメルの袖口に宝石で飾られたマルタ十字を加えたモチーフはシャネルの代名詞の1つとなり、ヴェルドゥーラとシャネルの共同制作のアイコンとなっている。
 お洒落で富裕な人々はこのシャネルのコレクションを大いに気に入り、シリーズは大成功した。

 シャネルはその後ファイン・ジュエリーの制作も行っている。
 the International Guild of Diamond Merchants(国際ダイアモンド商業組合)の依頼を受け、1933年にデザイナーのポール・イリーブ(英語版)と共同で高級ジュエリーのデザインを行った。
 これが彼女による最初のファイン・ジュエリーのデザインとなる。
 プラチナにダイヤモンドをあしらった作品には一か月の間に30,000人の観覧者が訪れた。

 ▼シャネルのバッグ

 1929年、シャネルは軍用バッグに触発されたハンドバッグを作成した。
 これは細いショルダーストラップによって肩から下げ、手を空けることができるものであった。
 シャネルはファッション業界に復帰した後、1955年2月にハンドバッグのデザインを一新した。
 これがシャネル 2.55である(名称は制作された日付から来ている)。
 このバッグのデザインには修道院や乗馬の思い出が込められている。
 ストラップに使用されたチェーンはシャネルが成長した孤児院(修道院)の管理人たち(caretakers)が着用したチャタレイン(英語版)に影響されたものであり、バーガンディの裏地の色は修道女の制服の色を表わすものであった。
 キルト風の外観は乗馬用ジャケットの影響を受けており、しかも全体にボリューム感のある大きめのバッグに仕上げている。
 このクラシックなバッグは、以後、留め金の部分にシャネルのロゴを入れ、レザーやショルダーチェーンを追加するなど細部に変更が加えられたが、シャネルの没後12年目の1983年にシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任したカール・ラガーフェルドが、2005年にシャネル社創業50周年を記念して再販したシャネル 2.55は、1955年にシャネルがデザインしたオリジナル版であった。

 ▼日焼け

 歴史的に、日焼けした肌は絶え間ない労苦から逃れる術のない人生を運命づけられていた労働者階級の証であり、「純白の肌は貴族階級の確かな証であった」。
 しかし、シャネルは日焼けを許容するだけでなく、特権とゆとりのある生活を表わすシンボルに変え、日光浴を流行させた。
 1920年代半ばまでに、女性たちは日光から身を守るための帽子を被らずにビーチでくつろぐようになった。

 ▼女性を解放したデザイナー

 ココ・シャネルは女性解放を主張したり、フェミニストを自称したりすることなく、早くも1910年代にパンタロン(ズボン)をはじめとし、快適で実用的なツイードやジャージーのスーツ、船乗りや漁師の作業着であったマリニエールなど従来男性のファッションとされていたものを「男装」としてではなく、女性のファッションとして確立したことで、結果的に女性を解放した。
 女性を物理的にコルセットから解放しただけでなく、コルセットによって強調される胸や臀部の大きさと腰の細さという従来の女らしい「シルエット」、女らしさの概念そのものから解放したのである。
 1960年代に女性のパンツスタイルを確立したイヴ・サン=ローランのパートナー、ピエール・ベルジェ(フランス語版)は、「シャネルは女性に自由を与え、サン=ローランは権力を与えた」と表現する。
 これは、非機能的な大きな帽子や顔を隠すために帽子に取り付けるヴェールを廃したこと、透き通るような白い肌がもてはやされた時代に日焼け(日光浴)を流行らせたこと、丈が短く軽いリトル・ブラック・ドレスを制作したこと(しかも喪服の色であった黒をあえて使うことでドレスコードに挑戦したこと)、シャネル自身がいつも短髪であったことなどについても同様である。

 また、労働者階級出身で十分な教育を受けなかったにもかかわらず、自力で道を切り開いたセルフ・メイド・ウーマンとして、女性の自立を促す存在でもあった。
 特にしばしばシャネルの「アリュール(allure、態度・姿勢、身振り)」として言及される、自信に満ちた態度、堂々とした姿は自立したパリジェンヌを象徴し、パリのエレガンスを体現することになった(「アリュール」はシャネル社の香水の商標名にもなっている)。
 シャネルの伝記作家フランソワ・ボードー(フランス語版)は、シャネルのアリュールとは、要するに「何を着るか」より、「どのように着るか」の方がはるかに重要だというコンセプトの問題だという。
 つまり、美しく見せようとすることではなく、自然体で堂々としていることが基本であり、この意味で、シャネルは女性のファッションだけでなく、アリュール(心的態度)をも変えたのである。
 なお、2011年に女性の経済的・社会的地位向上のための活動を支援することを目的とする「シャネル財団」が設立された。
 この一環として、これまで過小評価されていた女性アーティストを再評価・紹介する活動も支援している。

 関連項目 ー シャネルNo.5 ー

 シャネル N°5(Chanel N°5)は、パリのオートクチュールデザイナーだったガブリエル・ココ・シャネルが初めて送り出した香水である。
 読み方は、フランス語では"シャネル・ニューメロ・サンク"、英語では"シャネル・ナンバー・ファイブ"となる。

 その香りを生み出す化学式を組成したのは、ロシア系フランス人科学者で調香師のエルネスト・ボーである。

 ▼N°5 という名前

 シャネルは12歳の時に修道院に併設の孤児院に預けられ、その後6年間に渡り、厳しい戒律の下で生活した。
 この修道院は、12世紀にシトー修道会によりオーバジーヌ(英語版)に設立された。
 オーバジーヌでの生活の初期の段階から、5という数字はシャネルに関わりが多かった。
 5という数字にシャネルは、純粋で神秘的なものを感じていた。
 シャネルが毎日祈りに通った聖堂の通路には、5の数字を繰り返すパターンが描かれていた。
 修道院の庭は、五弁の花弁をもつゴジアオイがたくさん咲く青々とした山腹に囲まれていた。
 主席調香師のエルネスト・ボーに、現代的で革新的な香りの開発を依頼した。1920年、香水の試作品のガラスの小瓶が、1から5、20から24の番号を振られてシャネルの前に並べられると、彼女は5番めの小瓶に納められた資料組成を選び出した。
 シャネルは、ボーに次のように語っている。「ドレスコレクションを、5番目の月である5月の5日に発表する。
 この5番めのサンプルの名前は、運がいい名前だからそのまま使う。」

 ▼新しい香りという発想

 伝統的に、女性が身に着ける香りは、大きく二つに分類されていた。
 『まともな』女性は、単一の園芸花のエッセンスを支持した。
 動物系のムスクやジャスミンを多用した、セクシャルで挑発的な香りは、売春婦やクルチザンヌ(高級娼婦)等のいかがわしい女を連想するとされた。
 シャネルは、1920年代の自由な精神を有する現代女性の心に訴えかける香りが求められているのを感じていた。

 ▼瓶のデザイン

 ラリックやバカラの登場により、香水瓶のデザインは華美で精緻、凝ったものが一般化していたが、シャネルの思い描くデザインは、その流れに逆らうものだった。
 彼女は「非常に透明な、見えない瓶」でなければならないと考えていた。
 通常この香水瓶の、角を落とした長方形のデザインは、シャルベ (en) の洗面用化粧品の瓶に影響されたと考えられている。
 シャネルの恋人だったアーサー・カペルが愛用した革製の旅行鞄に、このシャルベの瓶が装備されていたという。
 また、カペルの持っていたウイスキーデキャンタを気に入って、その「高価な、極上の、風情のあるグラス」を再現したのだという説もある。
 1919年当時のシャネルN°5の香水瓶は、現在のものとは違うデザインだった。
 最初の容器は、小さくてほっそりした、丸い肩を持つもので、顧客を選ぶためシャネルのブティックでのみ販売された。
 1924年に「パルファム・シャネル」が設立された際、ガラスの強度が運搬や配達には不足していることがわかった。
 そのため角を落とした四角いデザインの瓶に変更されたが、大きなデザインの変更はこれが唯一である。
 1924年に刊行された「パルファム・シャネル」の販売パンフレットでは、香水容器について次のように説明している。

 「製品が完璧だからこそ、ガラス工の技術に慣習的に頼ることを潔しとしない。
 並ぶもののない品質、ユニークな構成、クリエイターの芸術的個性を表現した、香水の貴重な一滴によってのみ装飾されたシンプルな瓶は、マドモアゼルのお気に入りとなるだろう。」
 1924年以来、瓶のデザインは同じものが引き継がれているが、栓のデザインは何度も変更がなされている。
 オリジナルの栓は、小さなガラスのものだった。
 シャネルブランドを象徴する八角形の栓は、1924年に瓶の形状が変更された時から使用されている。
 1950年代には、より厚く大きなシルエットの栓になり、斜角のカットが施された。
 1970年代に栓はさらに目立つものとなったが、1986年にバランスを訂正し、栓のサイズは瓶の大きさに釣り合うようになった。
 バッグに入れて持ち運べるサイズの小瓶は、1934年に導入された。
 統一小売価格と容器サイズは、より幅広い顧客にアプローチするために開発された。
 これにより、大瓶の価格では高価すぎると感じていた顧客を取り込み、販売促進することに成功した。
 香水瓶は、数十年を経てそれ自体が文化的意味合いを持つ人工産物となり、1980年代半ばにアンディ・ウォーホルは「広告:シャネル」と題したシルクスクリーンのポップアート作品で、香水瓶を偶像として取り扱っている。
 2014年クルーズコレクションではこのボトルと同型の筐体を持つバッグが展開された。

 関連項目 ー エルネスト・ポー ー

 エルネスト・ボー(Ernest Beaux 1881年12月8日〜1961年6月9日)は、フランスの調香師である。
 1921年にシャネルから発売され、現在まで発売され続ける香水「シャネルNo.5」の調香師としてその名を知られている。

 ▼名調香師として

 翌1922年には「CHANEL N°22」も発売され、更なる評判を呼ぶことになる。その後も1925年には、同じくシャネルから発売された「Gardénia」や、1929年にはシャネルと前出のウェルテメール兄弟により設立されたシャネル・ブルジョワから発売された「Soir Paris」などのフレグランスを開発し、評判を呼んだ。
 1961年6月9日、パリのアパートメントで死去。

     〔ウィキペディアより引用〕


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