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世界の女傑たち Vol.005−①

2023-10-14 21:00:00 | 自由研究

 ■ココ・シャネル Ⅰ

 ココ・シャネル(Coco Chanel)
 出生名:ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chasnel)またはガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)、1883年8月19日 - 1971年1月10日)

 フランスのファッションデザイナー、企業家。
 彼女が創設したシャネルブランドは世界有数のファッションブランドとして現在も営業している。


 20世紀初頭からファッションデザイナーとして活躍し、一時的な活動停止を経て、その死に至るまで世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた。
 戦間期における彼女のデザインは女性の社会進出が進んでいた当時の世相と適合し、世界のファッションスタイルに大きな影響を与えた。
 婦人服へのジャージー生地の導入、日常生活における利便性とファッション性を両立したスーツ、リトル・ブラック・ドレス(LBD)の概念の普及など、彼女がファッションに残した遺産は現代のファッションにも多大な影響を残しており、これらを通じてスポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされている。
 さらに高級婦人服の枠組みを超えて影響力を広げ、ジュエリー、ハンドバッグのデザイン、香水の制作も行った。
 香水のシャネルNo.5は彼女を象徴する製品となった。
 また彼女自身がデザインした有名な「C」を2文字組み合わせたモノグラムは1920年代から使用されており、現在でもシャネル社のシンボルとなっている。
 その影響の大きさから、彼女は『タイム』誌の20世紀の最も重要な100人にファッションデザイナーとして唯一リストされている。

 シャネルは第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるフランス占領の間、ドイツの外交官かつ諜報員であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ(Hans Günther von Dincklage)男爵(英語版)(Freiherr)と不倫し、ドイツ当局に協力的な姿勢を取っていた。
 ドイツの敗北後、「裏切者」たちが枢軸国に対する協力者(英語版)として訴追される中、シャネルは愛人のフォン・ディンクラーゲとともにスイスに亡命し処罰を免れたが、この対独協力行為(コラボラシオン)と亡命は彼女の評価に影響を与えているだけでなく、しばしば批判の対象となっている。
 戦時中のシャネルはファッションの第一線から身を引いていたが、スイスにでの亡命生活の後、パリに戻り業務を再開した。
 戦後もファッションデザイナーとして成功し、その商品は世界的に普及した。
 1971年1月、パリのホテル・リッツで死去した。

 《来歴》

 ▼幼少期

 ガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年、洗濯婦ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル(Eugénie Jeanne Devolle、以下、ジャンヌ)の子として、フランスのメーヌ=エ=ロワール県ソーミュールの、修道女会(Sœurs de la Providence)が運営する慈善病院(救貧院)で生まれた。
 ガブリエルはジャンヌとアルベール・シャネル(Albert Chanel)の第二子であり、姉のジュリアが1年ほど前に生まれている。
 アルベール・シャネルは各地を回って作業着や下着を売り歩く行商人で、定住所を持たず市場のある町から町へ移動する生活を送っていた。
 アルベールがジャンヌ・ドゥヴォルと結婚したのは1884年のことである。
 これはジャンヌの家族に説得されてのことであった。
 一家は「協力して、事実上」、すでにアルベールに結婚のための「費用を支払っていた」のである。
 ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。
 この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった。両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの「一部屋だけの住居にすし詰めで」暮らしていた。

 ガブリエル・シャネルの出生届には「Chasnel」と記録された。
 この時ジャンヌは体調不良で届出に立ち会うことができず、アルベールは「不在」であった。
 両親不在のもと、代理人の手で行われた出生届で姓の綴りが間違って登録されたのはおそらく事務的な手違いである。
 アルベールとジャンヌの間には二男三女があり、一家はブリーヴ=ラ=ガイヤルドの「一部屋だけの住居にすし詰めで」暮らしていた。
 ガブリエルが12歳の時、母ジャンヌが死去した。
 ガブリエルことココ・シャネルは母が32歳で結核により死亡したと後に主張しているが、「これは必ずしも死因の正確な診断とは言えず、むしろ貧困、妊娠、そして肺炎が原因であった可能性が高い」。  
 父アルベールは息子2人を農場労働者として送り出し、娘3人はオーバジーヌ(英語版)の聖母マリア聖心会(religieuses du Saint Cœur de Marie)が運営する孤児院に預けた。
 聖母マリア聖心会は「捨てられて孤児になった少女たちのために家庭を与えるなど、貧しく排除された人々を保護するために設立された」修道会であった。
 孤児院での生活は、厳格な規律が課せられる厳しく質素なものであったが、ここで裁縫を学んだことは、彼女の後の仕事につながる経験であった可能性がある。
 しかし、彼女にとって孤児院送りとなったことは耐え難い惨めな経験であり、後に伝記作家やジャーナリストたちが彼女にインタビューを行った時もそこでの生活について一切語ることはなかった。 
 フランスの作家エドモンド・シャルル=ルー(英語版)は、ヴィシーに住んでいた頃のシャネルが大切な男性を亡くした際、友人に漏らした「私がどんなふうに感じているか、わざわざ説明しなくても結構よ。
 こんな思いは、とても小さなころから知ってたわ。
 私はすべてをはぎとられて死んだのよ……。
 こんなことは十二のときに経験済み。人間はね、一生のうちで何度でも死ぬものなのよ……」という言葉を記録している。
 18歳になるとオーバジーヌの孤児院を出なければならなかったため、彼女は次にムーランの町のカトリック女子寄宿舎に預けられた。
 シャネルが晩年に語った子ども時代の話、特に母の死後のそれには多くの矛盾があり、様々な魅力的な物語が付け加えられているが、このような話は概ね事実ではない。
 このような「作り話」には、母親が死んだ後、父が運命を切り開くべくアメリカに向かい、自分は二人のおば(この叔母たちは架空の人物であり実在しない)に預けられたとか、生年は1883年ではなく1893年であるといったものがある。
 また、ミドルネームであるボヌール(「幸福」の意)は洗礼式の際に彼女を洗礼盤の上に運んだ修道女が将来の幸福を祈って名付けたものだとも語っているが、洗礼証書にはガブリエルの名前しかなく、これも創作であると見られる。

 ▼舞台への挑戦

 オーバジーヌ(英語版)で6年間裁縫を学んだ後、シャネルはある仕立て屋で職を見つけた。
 そして副業として騎兵将校の溜まり場となっていたキャバレーで歌を歌ってもいた。
 シャネルはムーランのパビリオンのカフェ・コンセール(当時人気の娯楽の場)「ラ・ロトンド(La Rotonde)」で舞台デビューとなる歌を歌った。
 彼女の仕事はposeuse(ポーズ嬢、スターたちが舞台で入れ替わる幕間の場を繋ぐパフォーマー)であった。
 給料は出なかったため、その収入源はテーブルを周ってチップを集めることであった。
 彼女が「ココ(Coco)」という名前を得たのはこの頃である。
 彼女が夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu'a vu Coco ?)」であった。
 彼女はココというニックネームを父親から与えられたものだと言うのを好んだが、「ココ(Coco)」は彼女のレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」(「コケコッコー」の意)及び「Qui qu'a vu Coco ?」、または囲い者を暗喩するフランス語の単語「cocotte」から来ていると考えられている。
 poseuseとしてのココは売れっ子であったが、田舎の舞台での脇役は彼女を満足させるものではなく、都会のより本格的な舞台の上で活躍することを目指すようになっていた。

 1906年、シャネルは温泉リゾート地ヴィシーに向かった。
 ヴィシーは林立するコンサートホール、劇場、カフェを誇っており、彼女はそこで芸能人として成功することを夢見た。
 しかし、競争の激しいヴィシーで実績のない人間には機会はほとんどなかった。
 半ば素人の娘をposeuseとして舞台に置くという演出も、もはや時代遅れの田舎の習慣であり、ヴィシーでposeuseとしてデビューの糸口を掴む道はなかった。
 シャネルは幾度かのオーディションを受けたが、その容姿こそ評価されたものの歌声に対する評価は低く、舞台の仕事を得ることはできなかった。
 貸衣装やレッスン代がかさみ、何としても職を見つけなければならなかったシャネルはグランド・グリーユ(Grande Grille)でdonneuse d'eauとして勤務した。
 この仕事は、治癒効能があるとして有名なヴィシーのミネラルウォーターをグラスに注いで分けるというものであった。
 ヴィシーの行楽シーズンが終わると、シャネルはムーランの古巣「ラ・ロトンド」に戻った。
 この時には彼女は自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識していた。

 ▼バルサンとカペル

 ヴィシーに出る前、ムーランでシャネルはフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子であるエティエンヌ・バルサン(英語版)と出会った。
 バルサンは兵役後に両親の遺産を受け継ぎ多大な資産を抱え、またプレイボーイで鳴らしていた人物であった。
 シャネルが23歳の頃、彼は遺産を使ってコンピエーニュ近郊ロワイヤリュー(Royallieu)のシャトーを購入し、そこで競走馬の育成を始めた。
 この地域は樹木が並ぶ乗馬道と狩猟場で知られていた。
 この計画を聞いたシャネルは同行を望み、バルサンの愛人となってロワイヤリューで生活を始めた。
 そこでの生活は自堕落なものであった。
 バルサンの富によってシャネルは言外にあらゆる退廃を伴うパーティーでの歓楽、美食に溺れることが可能となった。
 バルサンはシャネルに卑小な「豊かな生活」―ダイヤモンド、ドレス、そして真珠―を浴びせかけた。
 バルサンはシャネルを社交界の場に立たせようとはしなかったが、競馬狂いであった彼の下でシャネルは乗馬を学び、馬に熱中した。
 この経験は後のシャネルのデザインに影響を与えている。当時のフランスでは、富裕な女性の服装はルイ16世(在位:1774年〜1792年)時代のような装飾豊かでボリュームのあるものが流行しており、ロングスカートやつば広帽子のために彼女たちは移動の際に男性の補助が必要であった。
 着飾った姿は富と地位を証明するものであり、女性たちが敢えてこれを拒否することもなかった。
 新しく登場していた自動車と異なり、乗馬は上流階級の婦人たちも行うものであったが、乗馬時の服装もロングスカートが普通であったため横座りで騎乗しなければならず、またスカートがはためいた時に足首を露出させないように乗馬用のブーツも必要であった。
 しかし、こうした作法に無頓着、あるいは無知であったシャネルは現地の仕立て屋に自分の体形に合わせて乗馬用のズボンを作るように求めた。
 これはズボンが明確に男性用のものであった当時としては突拍子もない話であり、エドモンド・シャルル・ルーはシャネルが仕立て屋に出した注文について「彼女は自分がいかに過激なことを言っているのか気づいていなかったに違いない」とコメントしている。
 当時のシャネルを知る人々によれば、彼女は才能ある馬の乗り手であり技術は確かなものであったという。

 1909年、シャネルはバルサンの友人の一人、ボーイ・カペルと関係を持ち始めた。
 シャネルは晩年に当時を「二人の紳士が私の熱く小さな体を巡って競り合っていた」と回想している。
 カペルは富裕なイギリスの上流階級で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせ、彼女の最初の店舗の出店費用も提供した。
 カペルの服装のスタイルがシャネルのデザインセンスに影響を与えたと言われている。
 シャネルNo.5の容器デザインの原型となったデザインには2つの説があるが、その両方がシャネルとカペルの関係に関わるものである。
 一つはシャネルはカペルが革製の旅行鞄に忍ばせていたシャルベ(英語版)のトイレタリー・ボトルの直交する斜線を採用したというものであり、もう一つはカペルが使用していたウイスキー・デカンタのデザインを採用したというものである。
 シャネルとカペルは共にドーヴィルのようなファッショナブルなリゾート地で時を過ごした。
 しかし、シャネルは彼と身を落ち着けることを望んでいたものの、カペルが彼女に対して誠実であったことはなかった。
 二人の関係は9年間続いた。カペルがイギリスの貴族であるダイアナ・ウィンダム夫人(Lady Diana Wyndham)と1918年に結婚した後でさえ、カペルはシャネルとの関係を完全に絶つことはなかった。
 カペルは1919年12月22日、交通事故で死亡した。
 事故現場の道路脇に設置されたカペルの事故の記念碑はシャネルが依頼したものであると言われている。
 後にシャネルは友人のポール・モランに「彼こそ私が愛したただ一人の男」と語り、その死について「彼の死はわたしにとって恐るべき打撃だった。
 わたしはカペルを失うことですべてを失った。」と述懐している。

 バルサンと暮らしている間、シャネルは主にバルサンの家に出入りする女性たちのために帽子をデザインしていた。当初これは暇つぶしのようなものであり、また当時の標準と比較して極めてシンプルなシャネルのデザインは一種のアート表現であるように捉えられた。
 そのため、帽子はむしろ話の種として女友達を不思議がらせたりするために作られたものであった。
 しかし、シャネルが生活を変えて再び芸能人としての道を目指したいと言い出した時、その道での成功はないと考えたバルサンが代わりに帽子作りをすることを提案し、カペルの説得も受けた彼女はこれに同意した。
 1910年に婦人用帽子職人(英語版)のライセンスを取得し、ヴァンドーム広場に近いパリで最もファッショナブルな地区のカンボン通り21番地にブティック「シャネル・モード(Chanel Modes)」を開店した。
 この場所は既に被服業界の拠点が確立されていたため、シャネルはこの店では彼女が作った帽子のみを販売した。
 シャネルの製帽業者としてのキャリアは舞台女優ガブリエル・ドルジア(英語版)が1912年に演出家フェルナン・ノジエール(フランス語版)の作品『ベラミ(Bel Ami)』(ギ・ド・モーパッサンの小説『ベラミ』の戯曲化)でシャネルの帽子をかぶったことを通じて花開いた。
 その後、ドルジアは『レ・モード(Les Modes)』誌に掲載された写真において再びシャネルの帽子のモデルとなった。

 ▼クチュリエールとして

 1913年、シャネルはアーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出した。
 シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー(英語版)やトリコットのような安手の生地で作られていた。
 ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあった。
 ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(marinière)を販売した。
 シャネルは妹のアントアネット(Antoinette)と同い年の父方の叔母アドリエンヌ(Adrienne)という2人の家族から献身的な支援を受けた。
 アドリエンヌとアントアネットはシャネルの作品のモデルを務め、毎日のように街と遊歩道を練り歩きシャネル製品を宣伝した。
 シャネルはドーヴィルでの成功を再現することを決意し、1915年にビアリッツに本格的な店舗を出した。
 スペインの富裕層の顧客に近いコスタ・バスカのビアリッツは金持ちグループや第一次世界大戦で自国から亡命してきた人々の遊び場であった。
 ビアリッツの店舗はフロントがなくカジノの正面の別荘内にあった。
 1年間の営業で、この地でのビジネスが極めて有利なものであることが証明され、1916年にはシャネルはカペルが提供した原資を返済することができるようになった。
 ビアリッツでシャネルは追放されたロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公と出会った。シャネルと大公はロマンティックなひと時を過ごし、その後何年もの間密接な関係を維持した。

 1918年、シャネルは事業を拡大し、同じカンボン通りの31番地に新店舗を開店した。
 1919年までに職業を「クチュリエール」として、この店舗をメゾン・ド・クチュール(maison de couture)として登記。
 現代的なブティックを目指す彼女は、1921年から、香水のほか、衣服や帽子に合ったアクセサリーを、次いでジュエリーや化粧品なども販売するようになった。
 敷地もさらに拡大し、1927年までに、カンボン通り23番地から31番地までの一画に相当する5件の不動産を保有した。
 1920年の春(恐らくは5月)、シャネルはバレエ・リュスの団長セルゲイ・ディアギレフによってロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーに引き合わされた。
 夏の間に、シャネルは戦後、ストラヴィンスキーの一家がソヴィエト連邦から逃れ住処を探していることを知った。
 彼女はストラヴィンスキー一家をパリの郊外のギャルシュにある自分の新居ベルレスピロ(Bel Respiro)に招待し、彼らが適当な住居を見つけることができるまでの間住まわせた。
 彼らは1920年9月の第2週にベルレスピロに到着し、1921年の5月まで滞在した。
 シャネルはまた、バレエ・リュスの新たなストラヴィンスキーの新作(1920年)、『春の祭典(Le Sacre du Printemps)』の金銭的損失をディアギレフへの匿名の贈与で補填した。
 その金額は300,000フランと言われている。
 クチュール・コレクションの発表に加えて、シャネルはバレエ・リュスのためのダンス衣装のデザインに没頭した。
 1923年から1937年にかけて、彼女はディアギレフとダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーが振付た作品群、特に『青列車(Le Train bleu)』、ダンス・オペラの『オルフェ(Orphée)』と『オイディプス王(Œdipe roi)』に協力した。

 1922年、テオフィル・バデール(英語版)は彼が創設したギャラリー・ラファイエットでシャネルNo.5を販売したいと思い、パリロンシャン競馬場で、シャネルを実業家のピエール・ヴェルテメールに紹介した。
 1924年、シャネルはピエール・ヴェルテメールとポール・ヴェルテメールの兄弟と契約を結んだ。
 この兄弟は1917年以来、高名な香水・化粧品ブランドのブルジョワ(英語版)の経営陣であった。
 彼らは企業法人パルファム・シャネル(Parfums Chanel)を創設し、ヴェルテメール兄弟がシャネルNo.5の生産、マーケティング、流通の費用全額を出資することに合意した。
 利益の70パーセントをヴェルテメール兄弟が受け取り、20パーセントがバデールの取り分であった。
 株式の10パーセントを保有するシャネルは名前を「パルファム・シャネル」にライセンス供与し、事業経営からは退いた。
 シャネルNo.5が爆発的なヒット製品となるにつれ、この契約に不満を強めたシャネルは20年以上の歳月をかけてパルファム・シャネルの完全な経営権を取得するための努力を続けることになる。
 彼女は、ピエール・ヴェルテメールは「私をハメた盗賊だ(the bandit who screwed me)」と発言している。

 ▼友人と恋人たち

 シャネルは戦間期の間、政治的・文化的に大きな影響を残す人々と様々にかかわった。
 この頃に彼女と関係をもった恋人や友人の中には彼らの死まで交友が続き彼女に影響を与え続けた人物もいる。
 彼女がパリに購入した自宅には友人たちが出入りし、その中にはディアギレフの他、当時パリにいたパブロ・ピカソやジャン・コクトー、シャネルの最も親しい友人となるミシア・セール、シャネルの恋人となり行動・精神面で大きな影響を残す詩人ピエール・ルヴェルディ、そして同じく深い恋愛関係を築いたイラストレーターのポール・イリーブ(英語版)らがいた。
 また、彼女はイギリスの貴族との関係を通じてイギリスの上流階級と交友を持つようになった。
 ミシア・セールは長くシャネルの友人であり続けた人物の1人である。
 彼女はパリのボヘミアン・ブルジョワで、スペインの画家ホセ・マリア・セール(英語版)の妻であった。
 シャネルとセールは似た者同士で惹かれ合ったと言われる。当時のミシアの目にシャネルがどのように映っていたのかについて、伝記作家らは「シャネルの天才、気前の良さ、破壊的なウィットを伴う激情、痛烈な毒舌、熱狂的な破壊性は誰をも惹きつけると同時に愕然とさせた」と評している。
 シャネルとミシアは2人とも修道院で学んでいた経験があり、共通の興味と信頼を保ち続けた。彼女たちはまた、薬物の使用も共有していた。
 1935年までにシャネルは薬物を利用する習慣を持つようになっており、人生の終わりに至るまで日常的にモルヒネを注射していた。
 チャンドラー・バール(英語版)の『匂いの帝王(The Emperor of Scent)』によれば、ルカ・トゥリン(英語版)は著作の中で、シャネルは「パリで最も素晴らしいコカインパーティーを催したのでココと呼ばれた」という根拠のない噂を広めた。

 作家のコレットはシャネルと同じ社会的なサークルに加っており、随筆集『牢獄と天国(Prisons et Paradis)』(1932年)の中でアトリエで働いているシャネルについて次のような奇態な説明を残している。
 「全ての人間の顔がある動物に似るとするならば、マドモアゼル・シャネルの顔は小さな黒い雄牛である。
 彼女のカーリーな黒髪は仔牛のそれであり、彼女の額から眉の上を通って落ち、彼女の頭の上をあらゆる動きで踊っている」 シャネルはミシアを通じて知り合った詩人ピエール・ルヴェルディと、1919年から交際を始めた。
 ルヴェルディとの交際はシャネルにとって思い出深いものであったらしく、作家エドモンド・シャルル・ルーは晩年に虚言癖が強くでるようになった頃のシャネルでも素直にその名前を出すことのできた人物として、アーサー・カペルとならんでルヴェルディを挙げている。
 定期刊行物に掲載された、シャネルのものとされる伝説的な名言はルヴェルディの助言の下で、共同で作られたものとされている。

 シャネルの書簡を検討すると、彼女が書いた手紙の不器用さと、シャネルのものとされる名言の作者の才能の間に完全な矛盾があることが明らかになる...ルヴェルディは彼女が自分の「職業(メティエ)」について書いたわずか数篇のアフォリズムを修正し、さらにこの「シャネリズム(Chanelisms)」(シャネル名言集)に、人生や美的感覚、または魅力や愛などについて、より一般的な考察を加えたのである。

 しかし、ルヴェルディはカトリックに帰依し信仰の道に傾斜するに従いシャネルとの関係も断ち始めた。
 ルヴェルディが1926年に北西部サルト県のソレムに隠棲した後も両者は連絡を維持したが、重要な関係は終わった。
 後述するイギリス貴族との交際が終わった1930年代には、シャネルはイラストレーター・デザイナーのポール・イリーブ(英語版)と交際するようになった。
 二人の関係は深く、1935年にイリーブが急死するまで続いた。
 イリーブは強烈な国粋主義・反共和主義者であり、風刺週刊新聞の『ル・テモワン(フランス語版)(証人)』を発行していた。
 シャネルはイリーブに惚れ込み、イリーブの活動に資金提供を行った。友人のミシア・セールは当時のシャネルについて「ココが生まれて初めて人を愛している」と発言している。

 ▼英国貴族との関係

 1923年、ケンブリッジ侯爵の隠し子と言われているヴェラ・ベイト・ロンバルディ(英語版)は、シャネルに最上級の英国貴族社交界に加わることを認めた。
 これは政治家ウィンストン・チャーチルやウェストミンスター公のような貴族、およびエドワード8世のような王族ら、重要人物を中心に運営されているエリートのグループであった。
 1923年にモンテ・カルロにおいて、当時40歳のシャネルはロンバルディによって大富豪であるウェストミンスター公ヒュー・リチャード・アーサー・グローヴナー(英語版)に紹介された。
 彼は親しい人々から「ベンドア(Bendor)」と呼ばれていた。
 ウェストミンスター公はシャネルに豪華な宝石、高価な美術品、ロンドンの有名なメイフェア地区にある邸宅を気前よく与えた。彼とシャネルの関係は10年続いた。
 公爵に紹介されたのと同じように、再びロンバルディを通じて、ロンバルディの従兄弟であった王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)のエドワード8世に紹介された。エドワード8世はシャネルに惚れ込み、シャネルとウェストミンスター公の関係を知りつつ彼女を追いかけた。
 エドワード8世がシャネルのアパルトマンを訪れ、自分を彼に親しい人々と同じように「デーヴィッド(David)」と呼ぶように求めたというゴシップがあった。
 数年後、『ヴォーグ』誌の編集者ダイアナ・ヴリーランドは「情熱的でひたむきで、猛烈に独立心旺盛な、その存在そのものが偉業であるシャネル」はエドワード8世と「すばらしいロマンティックなひとときをともにしたことがあった」と書いた。

 1927年、ウェストミンスター公はアルプ=マリティーム県(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)にあるロクブリュヌ=カップ=マルタンに購入した土地をシャネルに贈り、シャネルはそこに別荘(villa)を建設した。
 これは建築家のロベール・ストレイツ(Robert Streitz)によって建てられ、彼女はこれをラ・パウザ(英語版)(La Pausa、休息所)と呼んだ。
 ストレイツは階段とパティオのコンセプトにシャネルが若き日を過ごしたオーバジーヌ(英語版)修道院から影響を受けたデザイン要素が取り入れた。
 ウェストミンスター公とシャネルの関係はゴシップ誌に結婚を噂されるほどのものになり、ウェストミンスター公自身もシャネルに仕事を辞めてパートナーになることを求めていた。
 しかし、シャネルが結婚することはなかった。
 なぜウェストミンスター公と結婚しなかったのか、と問われた時、シャネルは「ウェストミンスター公は何人もいました。
 シャネルは1人しかいません」と答えたと言われる。

     〔ウィキペディアより引用〕

世界の女傑たち Vol.004−②

2023-10-13 21:00:00 | 自由研究

 ■マリア・テレジア Ⅱ

 ★政治家として

 1764年3月、かつて帝位をカール7世に奪われた経緯から、長男のヨーゼフをローマ王(ローマ皇帝の後継者)へ推挙し、可決される。1765年8月18日、夫フランツが崩御する。マリア・テレジアは以後、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。
 翌1766年3月には、愛娘のマリア・クリスティーネ(愛称:ミミ)にのみ恋愛結婚を許可した上、多額の資金を与え、さらに比較的近距離のプレスブルクに居住させた。
 このことでマリア・テレジアは少し気が晴れたという。
 七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められた。
 しかし、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになる。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などが代表的であるが、彼女自身は次第に保守化した。
 また、イエズス会禁止により職がなくなった下位聖職者たちを中心に教員として採用し、他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立させた。
 全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。
 一方、オランダ出身の侍医であるファン・スウィーテン男爵によるウィーン大学医学部改革の後ろ盾となり、死体解剖を行うことを許容した。
 カトリック教徒であるマリア・テレジア自身も、旧来の信仰がオーストリア近代化の障壁となっていると認識していた。
 息子ヨーゼフ2世は混乱もなく帝位に就いた。1765年から崩御までの間、ヨーゼフとの共同統治となる。
 しかし、その急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残している。
 特にヨーゼフが1772年、マリア・テレジアの反対を受け入れず、第1回ポーランド分割に加わったことは彼女を深く悲しませ、その晩節を汚すものとされる。    
 さらに1777年末以降、バイエルン継承戦争をめぐってもヨーゼフと対立する。

 1780年11月中旬、マリア・テレジアは散歩の後に高熱を発し、約2週間後の11月29日、ヨーゼフ2世、ミミ夫妻、独身の娘たちに囲まれながら崩御した。
 病の床では、フランツの遺品であるガウンをまとっていたという。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。

 《子女》

 父カール6世が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていた。
 マリア・アントーニア出産時以外は安産であったという。

 ・マリア・エリーザベト(1737〜1740年)

 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Maria Elisabeth von Österreich, 1737年2月5日〜1740年6月7日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第1子、長女。両親が帝位、王位に就く以前に夭折した。

 ・マリア・アンナ・ヨーゼファ・アントニア(1738年〜1789年)
  ※エリーザベト修道院に入る。

 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Maria Anna von Österreich, 1738年10月6日〜1789年11月19日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと皇后マリア・テレジアの次女。
 成人した兄弟の中では一番の年長。
 終生独身のままウィーンで過ごし、母帝の没後クラーゲンフルトに隠棲してエリーザベト修道院への奉仕に身を捧げた。

 ・マリア・カロリーナ(1740年〜1741年)

 マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ(Maria Karolina von Österreich, 1740年1月12日〜1741年1月25日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第3子、三女。
 父が帝位に就く前に夭折した。

 ・ヨーゼフ2世(1741年〜1790年) − ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王

 ヨーゼフ2世(ドイツ語: Joseph II., 1741年3月13日〜1790年2月20日)はハプスブルク帝国(オーストリア)君主で、正式にはハプスブルク=ロートリンゲン朝第2代神聖ローマ帝国皇帝(在位:1765年〜1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。実質的な女帝マリア・テレジアとその夫で正式な皇帝フランツ1世の長男。
 マリー・アントワネットの兄にあたる。

 ・マリア・クリスティーナ(1742〜1798年)

 ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンの弟アルベルト・カジミールの妃、テシェン女公、ネーデルラント総督。
 マリア・クリスティーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Christina von Habsburg-Lothringen, 1742年5月13日〜1798年6月24日)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の四女。
 名前はマリー・クリスティーネ(Marie Christine)とも記される。
 ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールと結婚し、夫婦でテシェン(チェシン)公国の公および女公となった。
 愛称は「ミミ」(Mimi)。

 ・マリア・エリーザベト(1743〜1808年)

 インスブルック修道院長
 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Maria Elisabeth von Österreich, 1743年8月13日〜1808年9月22日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第6子、五女。
 全名はマリア・エリーザベト・ヨーゼファ・ヨハンナ・アントニア

 ・カール・ヨーゼフ(1745年〜1761年)

 カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ(Karl Joseph von Österreich, 1745年2月1日〜1761年1月18日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第7子、次男。全名はカール・ヨーゼフ・エマヌエル・ヨハン・ネポムク・アントン・プロコプ(Karl Joseph Emanuel Johann Nepomuck Anton Prokop)。

 ・マリア・アマーリア(1746年〜1804年) - パルマ公フェルディナンド妃

 マリア・アマーリア・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Amalia von Habsburg-Lothringen, 1746年2月26日〜1804年6月18日)は、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の第6皇女。
 第8子、成人した子女の中では5人目である。
 パルマ公フェルディナンドの妃になった。
 イタリア語名ではマリーア・アマーリア・ダズブルゴ(Maria Amalia d'Asburgo)またはマリーア・アマーリア・ダウストリア(Maria Amalia d'Austria)となる。

 ・レオポルト2世(1747年〜1792年) - トスカーナ大公、のちローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王

 レオポルト2世(ドイツ語:Leopold II., 1747年5月5日〜1792年3月1日)はハプスブルク帝国(オーストリア)君主で、正式にはハプスブルク=ロートリンゲン朝第3代神聖ローマ帝国皇帝(在位:1790年〜1792年)。
 それまではトスカーナ大公(レオポルド1世 Leopoldo I., 在位:1765年〜1790年)。
 全名はペーター・レオポルト・ヨーゼフ・アントン・ヨアヒム・ピウス・ゴットハルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Peter Leopold Joseph Anton Joachim Pius Gotthard von Habsburg-Lothringen)。実質的な女帝マリア・テレジアとその夫で正式な皇帝フランツ1世の子で、皇帝ヨーゼフ2世の弟。
 短い統治にもかかわらず、外交史家ポール・シュローダーは彼を「王冠を着用した最も機敏で賢明な君主の一人」と絶賛した。

 ・マリア・カロリーナ(1748年)

 ・マリア・ヨハンナ・ガブリエーラ(1750年〜1762年)

 ヨハンナ・ガブリエーラ・フォン・エスターライヒ(Johanna Gabriela von Österreich, 1750年2月4日〜1762年12月23日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの間の第11子、八女。
 全名はマリア・ヨハンナ・ガブリエーラ・ヨーゼファ・アントニア(Maria Johanna Gabriela Josepha Antonia)。

 ・マリア・ヨーゼファ(1751年〜1767年)

 ナポリ王フェルディナント4世との結婚直前に死去。
 マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(Maria Josepha von Österreich, 1751年3月19日〜1767年10月15日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后・オーストリア大公マリア・テレジアの九女。
 全名はマリア・ヨーゼファ・ガブリエラ・ヨハンナ・アントーニア・アンナ(Maria Josepha Gabriella Johanna Antonia Anna)。

 ・マリア・カロリーナ(1752年〜1814年)

 マリーア・カロリーナ・ダスブルゴ(イタリア語: Maria Carolina d'Asburgo, 1752年8月13日〜1814年9月8日)は、「女帝」マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の十女で、ナポリとシチリアの王フェルディナンド4世および3世の王妃。
 マリーア・カロリーナ・ダウストリア(Maria Carolina d'Austria)とも。
 ドイツ語名はマリア・カロリーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Karolina von Habsburg-Lothringen)。

 ・フェルディナント・カール・アントン(1754年〜1806年)

 オーストリア=エステ大公。
 フェルディナント・フォン・エスターライヒ(Ferdinand von Österreich, 1754年6月1日〜1806年12月24日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの四男。
 オーストリア大公(後にオーストリア=エステ大公)。
 全名はフェルディナント・カール・アントン・ヨーゼフ・ヨハン・シュタニスラウス(Ferdinand Karl Anton Joseph Johann Stanislaus)。
 モデナ公エルコレ3世の相続人に指名されたが、ナポレオン・ボナパルトのイタリア侵攻のため即位できなかった。
 フェルディナントの子孫の家系はオーストリア=エステ家と呼ばれる。

 ・マリア・アントーニア(1755〜1793年)

 フランス王ルイ16世妃 (マリー・アントワネット)
 マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日〜1793年10月16日)またはマリー=アントワネット・ドートリッシュ(フランス語: Marie-Antoinette d'Autriche)は、フランス国王ルイ16世の王妃(王后・王太后)。
 オーストリアとフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ、フランス革命で処刑された。

 ・マクシミリアン・フランツ(1756〜1801年) - ケルン大司教(選帝侯)

 マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(またはハプスブルク=ロートリンゲン)(Maximilian Franz von Österreich(Habsburg-Lothringen), 1756年12月8日〜1801年7月26日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア大公マリア・テレジアの五男。
 ケルン大司教選帝侯(在位:1784年 - 1801年)。
 全名はマクシミリアン・フランツ・クサーヴァ・ヨーゼフ・ヨハン・アントン・デ・パウラ・ヴェンツェル(Maximilian Franz Xaver Joseph Johann Anton de Paula Wenzel)。

 関連項目 ー マリーアントワネット ー

 概要 編集 フランツ1世とマリア・テレジアの第15子(第11女)として1755年11月2日にウィーンで生まれた。
 フランスとオーストリアの同盟に伴う外交政策の一環により、当時フランス王太子だったルイ16世と1770年に結婚し、彼の即位に伴って1774年にフランス王妃となった。
 オーストリアに対する同調姿勢や、ヴェルサイユでの宮廷生活について王太子妃時代から批判された。
 宮廷での束縛を嫌い、離宮のプチトリアノンで少数の貴族と過ごすことが多く、中でもハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの交流は知られている。
 しかし、王妃自らベルサイユの宮廷の模範とならなければいけない立場の中でそれを逸脱した行為や言動により、保守的な貴族を中心に大きな抵抗勢力が宮廷内に形成されることになった。
 1789年にフランス革命が始まり、アントワネットを含めた国王一家はテュイルリー宮殿に軟禁された。
 アントワネットは宮廷内で反革命勢力を形成し、君主制維持を目的として諸外国との交渉を行った。
 特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待したが、逃亡に失敗する。
 1792年にフランス革命戦争が勃発したことにより、アントワネットのイメージはさらに悪化した。
 同年8月10日に王政が廃止され、国王一家はタンプル塔に収監された。
 その後、ルイ16世の裁判が国民公会で行われ、死刑判決を経て1793年1月21日に処刑された。
 一方、アントワネットの裁判は革命裁判所で行われ、死刑判決を経て同年10月16日に処刑された。

 《生涯》

 ▼幼少期・結婚まで

 1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。
 ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。
 代父母のポルトガル国王ジョゼ1世とその王妃マリアナ・ビクトリアが名付け親となった。
 洗礼式はウィーン大司教が行い、兄のヨーゼフ大公と姉のマリア・アンナが代父母の代理を務めた。
 しかし前日にリスボン地震が起こったことが伝わると、一部では生まれた女の子の不幸な未来を予告しているのではとささやき合った。
 アントーニアは幼少期にマリア・カロリーナ、フェルディナント、マクシミリアンといった年の近い兄弟と共に育てられた。
 イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。
 オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。
 また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。
 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。
 当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。
 そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

 1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
 1765年にルイ・フェルディナンが死去した。
 1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったため、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。
 1770年4月19日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂にて挙行された。
 アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。
 このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
 ルイ15世は婚姻によってオーストリアとの同盟を維持しようと考えたが、七年戦争においてオーストリアと同盟を結んだフランスはプロイセンに敗北していた。
 フランスの感情として反オーストリアの機運が高まり、アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになる。
 七年戦争の敗北や、フランスの同盟国であるポーランドが1772年にオーストリア、ロシア、プロイセンに分割されたことなど、オーストリアとの同盟後に起こったこれらの事柄は、フランスがヨーロッパでの影響力を失ったとの見方が強くフランス国内に残り、フランス革命時は軍隊が国王を見限る事態に陥ることに繋がった。
 なお、マリア・テレジアはポーランド分割に反対の立場をとり、フランスがオーストリアに敵意を抱くことを恐れていた。

 ▼宮廷生活

 デュ・バリー夫人との対立

 結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。
 もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。
 当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。
 宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられているルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。
 しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
 2人の対決は1772年1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。
 その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

 ▼結婚生活

 しかし、結婚当初二人ともまだ幼かったせいか、アントワネットとルイ16世との間にはなかなか子供が生まれなかった。
 これはアントワネットの地位を危うくするものだった。
 当時フランスの王位継承を規定していたサリカ法は男子の王位継承しか認めず、アントワネットには男子を産むことが要求されていたからである。
 オーストリアにいるアントワネットの母、マリア・テレジアはオーストリアとフランスの同盟関係の維持に不安を抱き、性生活を疑った。1777年4月、アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がお忍びでラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも生活をともにしていた夫妻のもとを訪問し、夫妻それぞれの相談に応じた。
 翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。
 アントワネットとルイ16世との夫婦仲はあまり良くなかったと語られることが多いが、アントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリーアントワネットに対して好意はあったとされている。
 互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離をとりがちであった。
 またアントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかった。

 母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。
 時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。
 賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。
 アントワネットは自身の手で子供たちを養育することを望み、熱心に教育した。
 また、子供たちのそばにいるために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った。
 プチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、王妃の村里と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。

 ▼フランス王妃として

 1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。
 しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。
 こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。
 地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。
 ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。
 一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
 彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。
 ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。
 多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
 1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。
 このように彼女に関する騒動は絶えなかった。

 ▼フランス革命

 1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。
 ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでアントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまう。
 彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
 1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。
 アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。
 また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。
 このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。
 結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。
 このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
 1792年、フランス革命戦争が勃発すると、アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。
 8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。

 タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。
 10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

 ▼革命裁判

 1793年1月19日、国民公会はルイ16世に死刑判決を下した。
 国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った。
 1793年1月21日午前10時にルイ16世の死刑が執行されるとアントワネットはルイ・シャルルの前にひざまずき「国王崩御、国王万歳!」と言い、新王として接したという。
 ルイ16世の死後に王后アントワネットは王太后カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった。 
 王党派によりアントワネットの脱出計画が立てられたが、実行に移されることは無かった。
 1793年7月3日、ルイ17世はアントワネットと引き離され、ジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンの手にゆだねられた。
 1793年8月2日午前1時頃、アントワネットはコンシェルジュリーへ移送された。
 フェルセンの提案により、身代金を支払う事でアントワネットの解放を模索する動きもあったが、実現されることは無かった。
 しかし王党派が立てた計画のうち、元士官のルージュヴィルが立てた脱出計画は、1793年8月28日に実行されるも失敗。
 ルージュヴィルはオーストリアへ逃亡し、警察管理官であったミショニが逮捕されるという「カーネーション事件」が起きた。
 事件以後、アントワネットの独房には検査が入るようになり、窓の下には歩哨が立つようになるなど、監視が強化された。
 アントワネットは1793年10月12日に裁判の事前尋問を受け、10月14日午前8時から午後11時、16日午前8時から午前4時の2日半間に渡り革命裁判所で裁判が行われた(裁判官は合議審で何人も交代し泣いたと伝う。
 また、マクシミリアン・ロベスピエールとジャコバン派の推薦した証人は数十人以上にもなったと云う)。
 アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪により死刑が求刑された。
 アントワネットは罪状の全てについて否定し、聡明で教養がありノブレス・オブリージュであるアントワネットは自らを弁論し、裁判官の読み上げる罪状の一言一句の全てにディベート『古フランス語・中世フランス語-debatre-ドゥバート(「戦う」こと)』し、彼女らしい芸術的ユーモアのあるフランス語の授業を展開した。
 彼女を弁論するもの彼女の弁論やディベートに異議を唱えるものはおらず彼女は無実-無罪であった。
 はじめ“このオーストリア女め、フランス語を話せない、この我儘女め”と蔑んでいた傍聴人や革命の群衆は皆が涙を流した。
 そこに革命の群衆が作り出した悪女たる“パンがなければブリオッシュ(ケーキ)を食べればいいじゃない”(後述)と言ったとされる女性はいなかった。
 ヴァレンヌ逃亡については、夫であるルイ16世に従ったためと答えた。
 ジャック・ルネ・エベールはルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦があったと報告したが、傍聴人や革命の群衆の女性達は皆が涙を流した。
 このような荒唐無稽な証言は傍聴人からの反感を買うことになり、マクシミリアン・ロベスピエールを激怒させる結果となった。

 しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、1793年10月16日午前4時頃にアントワネットは死刑判決を受けた。
 処刑の直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。
 内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。
 この遺書は牢獄の管理人であったボーに渡され、検察官のタンヴィルから数人の手に渡ったのち、王政復古の時代にルイ18世にゆだねられた。
 そのため、革命下を唯一生き延びたマリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。

 ▼ギロチン処刑

 遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。
 すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。
 革命広場に向かうため、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。
 コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。
 19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.) 」だとされている。
 10月16日の12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。
 それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
 その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。
 数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。

 ▼死後

 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。
 のちに王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。
 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。
 発見されたアントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世とともに改葬された。

     〔ウィキペディアより引用〕

世界の女傑たち Vol.004−①

2023-10-12 21:00:00 | 自由研究

 ■マリア・テレジア Ⅰ

 マリア・テレジア
 (独: Maria Theresia, )
 (1717年5月13日〜1780年11月29日)

 ハプスブルク帝国、いわゆるオーストリアの君主で実質的な「女帝」。
 実際の称号は神聖ローマ帝国皇帝の皇后、オーストリア大公(在位:1740〜1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ボヘミア女王(在位:1740年〜1741年、1743年〜1780年)。
 神聖ローマ帝国皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者。

 オーストリア系ハプスブルク家男系最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。
 なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「Königin(女王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。

 《生涯》

 ▼生い立ち

 ★大公女時代

 1717年、ハプスブルク家のローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。
 カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。
 「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
 それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。
 しかし、彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナ(マリアンネ)のみであったことから後継者問題が表面化してくる。

 ★ハプスブルク家の相続問題

 マリア・テレジアの結婚について、オイゲン公はバイエルンとの縁組を勧め、また在ベルリンのオーストリア大使ゼッケンドルフやカール6世の侍従長バルテンシュタインらはプロイセン王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世(大王))との縁組を推薦した。
 なお、オイゲン公もフリードリヒを推薦したとの説もある。
 しかし、ロートリンゲン(ロレーヌ)家は第二次ウィーン包囲においてオスマン帝国を敗走せしめた英雄カール5世(シャルル5世)の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。
 ロートリンゲン(ロレーヌ)公レオポルトの3人の息子は1723年からウィーン宮廷へ留学し、長男クレメンスが婚約者候補となったが、同年に病没する。そこで次男フランツ・シュテファン(愛称:フランツル)が婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官たちに彼のことを話している」とイギリス大使が記している。
 1736年2月12日、アウグスティーナ教会で2人は婚礼を挙げた。この時、マリア・テレジアのドレスの裾を持ったのは、慣例に反して教育係であったシャルロッテ・フックス伯爵夫人(フルネームはカロリーネ・フォン・フックス=モラールト)であった。
 当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地ロートリンゲン(ロレーヌ)公国[注釈 2]をフランスへ割譲しなければならず、代わりにトスカーナ大公の地位を得た。

 カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」という進言を尻目に、『プラグマーティシェ・ザンクチオン』(国事詔書、Pragmatische Sanktion)を出して国内および各国に、彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。
 また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このため、マリア・テレジアの幼少期の公式記録は、ほとんど残されていない。
 このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であるが、結婚後4年のうちに連続して3人の大公女が誕生したため、反オーストリア側諸国の煽動もありフランツが批判を受ける。
 1737年、フランツはトスカーナ大公となり、1739年1月に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後オーストリアの財政基盤となった。

 ★オーストリア継承戦争

 相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後、すぐに露呈する。1740年10月20日、カール6世が突如崩御すると、国本勅諚の「ハプスブルク家の領地は分割してはならない」を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、ブランデンブルク=プロイセン、バイエルン、ザクセンなども叛旗を翻した。
 マリア・テレジアは当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。
 各国の大使は本国に彼女が無知だと報告したが、英国のみが「毅然とした態度や落ち着きに非凡の才あり」と注意を促した。
 1740年12月16日、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、自領の南にあるハプスブルク家領のシュレージエンに侵攻した。
 プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護(有事における支持と軍資金の提供)するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めたが、使者の到着より侵攻が先であった。
 これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし、第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。
 さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。

 1741年3月13日に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。これをうけてフランスもプロイセンに加勢し、西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーはドイツ人から見れば異民族であり、心情的には長年対立していた。
 マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルク(ブラチスラヴァ)へ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。
 ここでハンガリー議会(等族議会)と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。
 数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。
 ハンガリーの兵力は小規模なものであったが、瓦解寸前のオーストリアに忠誠を誓った事実は、敵側に大きな動揺を与えた。
 なおハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。

 1742年5月、コトゥジッツの戦いにはフランツの弟カール・アレクサンダーを指揮官に抜擢した。
 このことも遠因で敗北し、7月に英国の仲介でプロイセンと一時的に休戦する。シュレージエンの割譲も容認せざるを得なかったが、これをもって占拠していたフランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退してボヘミア(ベーメン)王位を奪還し、1743年5月12日、マリア・テレジアは同地でボヘミア女王として戴冠する。
 この時、何度も態度を豹変させるボヘミアの人々に対し彼女の怒りはただならぬものがあったが、カール・アルブレヒトに協力した貴族の一部と資金を工面したユダヤ人を追放したのみに留めた。
 カトリックの守護者としてユダヤ人には容赦がなかったが、後に経済面への打撃から撤回している。
 こうした国家の緊急事態に際し、うら若いマリア・テレジアが諸国の侵攻に屈しなかったことは、彼女の評価を大いに高らしめ、後年になってフリードリヒ2世は「今のハプスブルク家では、稀に見る男性が統治している。ところがこの男性と言うのが女性なのだ」と評した。
 また長男ヨーゼフの誕生が、もしカール6世在世中であれば、マリア・テレジアは後見人の地位にとどまり、その政治的才能を発揮できなかっただろうという指摘もある。

 一時は帝位もボヘミア王位も、フランス王に担がれたカール・アルブレヒト(皇帝カール7世)に奪われていた。1744年、皇帝の守護を名目としてプロイセンが再侵攻した。しかし、プロイセンの軍事力と野望が表面化したため、休戦前とは逆にプロイセンが孤立する。
 翌1745年1月20日、カールはあっけなく病没し、皇帝選挙で1745年9月13日には9票中7票を獲得して夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功する。
 マリア・テレジアは帝位の奪還をことのほか喜び、懐妊中であったもののフランクフルトへ同行し、夫の晴れ姿を見ている。
 マリア・テレジアはドイツ各地で奉迎を受け、特に、フリードリヒ2世の最愛の実姉バイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネも謁見を申し出ている。
 オーストリア側が優勢な戦闘もあったが、プロイセンには軍隊の質(多民族から構成、有力貴族のみを登用し有能なブロウネ将軍を冷遇するなど、構造そのものに問題があった)などから全般に劣勢であり、戦争は膠着した。
 プロイセンの隣国ハノーファー選帝侯領と同君連合であった英国の仲介により、1745年のドレスデンの和においてプロイセンによるシュレージエン領有を承認した。

 この間、1744年1月にただ一人の実妹マリア・アンナと、フランツの弟カール・アレクサンダーが結婚したが、同年末にマリア・アンナは死産の後、死去している。
 主に英仏間で戦争は続行され、最終的に1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。
 これにより、マリア・テレジアのハプスブルク家相続は承認されたものの、シュレージエンの割譲が決定的になった。
 継承戦争の間、1743年から1748年にかけて夏の離宮シェーンブルン宮殿の造営に着手した。
 ホーフブルク宮殿とは異なり開放的で家庭的な居城となり、他国には見られないハプスブルク家を象徴するものとなった。

 ★改革と外交革命

 シュレージエンを奪還する目的で、ハウクヴィッツを登用しての内政改革や、ダウン将軍による軍改革を行う。
 そして、外交面においてはカウニッツを登用してフランスに接近する。マクシミリアン1世以来長らく、ハプスブルク家とフランスとの間で抗争が続いていた。
 しかし、先の戦争で敵はフランスではなくプロイセンであることは明白で、英国との利害関係も一致していなかった。
 1749年3月7日の御前会議で、カウニッツはこうした現状分析の後、同盟国を英国からフランスへ変更することを奏上する。
 皇帝フランツや重臣たちは驚愕を隠せなかったが、マリア・テレジアはこれを支持する。
 会議以前に、カウニッツと討議しており、彼女が提唱した案がより洗練されていた。
 1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツはフランスへ向かう。マリア・テレジアは個人的にフランスの閨閥政治を嫌悪していたが、多額の資金を使ってフランスに侮られぬよう装い、ポンパドゥール夫人を通じ国王ルイ15世を懐柔した。
 また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも、難なく交渉はまとまった。
 しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知した。
 先手を打ったのはプロイセンで、1756年1月16日、英国と第4次ウェストミンスター条約を結ぶ。
 5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に同盟を結ぶ。こうして作られたプロイセン包囲網を、マリア・テレジア、エリザヴェータ女帝、ポンパドゥール夫人にちなみ「3枚のペチコート作戦」と呼ぶこともある。
 マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をしたが、矜持から感謝状は書かなかった。
 またこれに伴い、生後間もないマリア・アントニア(マリー・アントワネット)の婚約も内定した。

 ★七年戦争

 1756年8月29日、プロイセンがザクセンに侵攻して戦端を開く。
 後に七年戦争と呼ばれるこの戦争は、前回と違ってフランスやロシアの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争を進め、特に1759年8月12日、クネルスドルフの戦いではフリードリヒ自らも被弾するほどの打撃を与えた。
 しかし、オーストリア、ロシア側が受けた被害と政治的事情から、ダウン将軍はグーベン協定によりベルリン攻撃を避けた(ブランデンブルクの奇跡)。その後も、圧倒的な勢力差からプロイセンは窮乏し徐々に追い詰められていくが、オーストリアもまた資金難に陥っていった。
 一方、新大陸での戦線で英仏はそれぞれ打撃を受け、英国は1761年10月プロイセンへの援助を打ち切る。 持久戦によるプロイセンの全面降伏を目前にして戦況が大変化を遂げた[43]のは、1762年1月5日、エリザヴェータ女帝崩御によるピョートル3世の即位である。
 ピョートル3世はフリードリヒ崇拝者であり、ロシアが最終的に戦争そのものから離脱した。その後オーストリアが敗戦したことで、マリア・テレジアはシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなる。      
 マリア・テレジアも自身の私物を売却していたほどに、国力は限界を迎えていた。
 こうして1763年2月15日のフベルトゥスブルク条約で、シュレージエンのプロイセンによる領有が固定化した。
 オーストリア継承戦争と七年戦争を経て、オーストリア、プロイセン両国は近代国家としての制度を整備し、その後の発展の礎を築いた。
 大きなものには小学校の新設(後述)や、徴兵制度の改新が挙げられる。軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。
 1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。
 また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士たちが安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。

     〔ウィキペディアより引用〕

世界の女傑たち Vol.003−②

2023-10-11 21:00:00 | 自由研究

 ■エリザベス一世(イングランド女王)

 ▼メアリーと陰謀事件

 すぐにメアリーは反乱の焦点となった。
 1569年、北部諸侯の反乱(英語版)の首謀者たちは彼女の解放とノーフォーク公トマス・ハワードとの婚姻を策動した。
 反乱は鎮圧され、エリザベスはノーフォーク公を断頭台へ送った。
 1570年、教皇ピウス5世は「レグナンス・イン・エクスケルシス」と呼ばれる教皇勅書を発し、「イングランド女王を僭称し、犯罪の僕であるエリザベス」は異端であり、全ての彼女の臣下を忠誠の義務から解放すると宣言した。
 これによって、イングランドのカトリックはメアリーをイングランドの真の統治者と期待するさらなる動機を持つようになった。
 メアリー本人のイングランド王位を狙う陰謀への加担の真偽は諸説あるが、1571年のリドルフィ陰謀事件(英語版)から1586年のバビントン陰謀事件(英語版)までに、エリザベスのスパイ組織のリーダー・フランシス・ウォルシンガムと枢密院は彼女の事件について激しく論議している。
 当初、エリザベスは彼女の死を求める意見に反対していたが、1586年後半にはバビントン陰謀事件でのメアリーの自筆の手紙の証拠を以って彼女の裁判と処刑に同意させられた。
 同年11月のエリザベスの判決は「同国王位を僭称するメアリーは同国の共犯者とともに我が国王を傷つけ、殺し、破壊しようと企てた」と宣告した。
 エリザベスはメアリーの死刑執行を躊躇い続け、執行状に署名した翌日でさえ国務次官ウィリアム・デヴィソン(英語版)を「急ぎすぎる」と叱責している。
 1587年2月8日、メアリーはノーサンプトンシャーのフォザリング城(英語版)で斬首された。

 処刑が執行されるとエリザベスは廷臣たちを罵倒し、怒りの矛先を向けられたデヴィソンはロンドン塔へ送られてしまう。

 ー処刑はスコットランド、フランスそしてスペインなど諸外国からの強い非難を引き起こすことになり、アルマダ海戦の原因ともなった。

 ▼戦争と外交

 エリザベスは1559年から1560年にかけてスコットランドへ出兵した。
 またユグノー戦争でユグノー貴族を支援したが、見返りに受け取るはずだったル・アーヴルの占領に失敗した(1562年10月〜1563年6月)。
 エリザベスはル・アーヴルとカレー(1558年にフランスに奪回されている)との交換を考えていた。
 ユグノーとの絆は近代の大英帝国を約束した。
 1585年に彼女はカトリック勢力を打倒するためにオランダのユグノーとノンサッチ条約(英語版)を締結している。
 ユグノーと艦隊を動かしエリザベスは攻勢的な政策を追求した。
 これは対スペイン戦争で成果を挙げ、戦闘の80%が海上で行われた。
 彼女は1577年から1580年にかけて世界を一周し、スペインの港湾や艦隊を襲撃して名声を勝ち得たフランシス・ドレークをナイトに叙爵している。
 女王は彼らをほとんど統制できなかったが、海賊行為と富の追求がエリザベス朝の船乗りたちを駆り立てていた。

 ▼ネーデルラント派兵

 ル・アーヴル占領の失敗の後、エリザベスはフェリペ2世に敵対するネーデルラントのプロテスタント反乱軍(英語版)を支援するために英軍を派遣するまで、大陸への派兵は避けて来た。
 これは1584年のオラニエ公ウィレム1世(オランダ人勢力の指導者)とアンジュー公フランソワ(反乱軍を支援していた)の死去とスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼによるネーデルラント諸都市占領を受けてのことであった。
 1584年12月に成立したフェリペ2世とフランスのカトリック同盟との連合によって、フランス王アンリ3世のネーデルラントにおけるスペイン帝国の支配に対抗する力は大きく減退していた。
 これによってスペインの勢力が、カトリック同盟の勢力が強いフランスの英仏海峡沿岸地域にまで伸ばされ、イングランドは侵略の脅威にさらされることになった。
 1585年のパルマ公によるアントウェルペン包囲はイングランドとオランダ人に何らかの対応を必要とさせた。
 その結果、同年8月にエリザベスがオランダ人への軍事援助を約束するノンサッチ条約(英語版)が締結された。
 この条約が1604年のロンドン条約(英語版)まで続くことになる英西戦争の開戦となる。

 ▼アルマダの海戦

 エリザベスは財政難を補うため私掠船に私拿捕特許状を与え、植民地から帰還途上のスペイン船を掠奪させており、私掠船長のフランシス・ドレークは1585年から1586年に西インド諸島のスペイン諸港と船を襲撃する航海を敢行し、1587年にはカディスを襲撃してイングランド経営計画 (Enterprise of England) を企図するスペイン艦隊の船舶の破壊に成功していた。
 このため、フェリペ2世は遂にイングランドとの本格的な戦争を決意する。
 1588年4月29日、スペイン無敵艦隊がパルマ公率いるスペイン陸軍をネーデルラントからイングランド南東部へ輸送すべく英仏海峡へ向けて出港した。
 無敵艦隊には幾つもの誤算と不運が重なり、イングランド軍による火船攻撃によって混乱した無敵艦隊は7月29日のグラヴリーヌ沖で敗北し、艦隊は北東へ潰走した。
 帰路、アイルランド沿岸で嵐に巻き込まれて大損害を出したスペイン艦隊残余は散りぢりになって本国へ帰還した。
 無敵艦隊の運命を知らないイングランド民兵がレスター伯の指揮の元での国土防衛のために召集されていた。
 8月8日、彼はエリザベスを閲兵のためにエセックス州ティルベリー(英語版)へ招いた。ビロードのドレスの上に銀色の胸当てを着た彼女はここで最も有名な演説 (en) を行った。

 我が愛する民よ、私は私の身を案じる者たちから忠告を受けて来た。
 謀反の恐れがあるから武器を持った群衆の前に出るのは気をつけよと。
 しかし、私は貴方たちに自信を持って言う。
 私は我が忠実かつ愛すべき人々を疑って生きたくはない。(中略)
 私はか弱く脆い肉体の女性だ。
 だが、私は国王の心臓と胃を持っている。
 それはイングランド王のものだ。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えよう。

 侵略軍は襲来せず、国民は歓喜した。
 セント・ポール大聖堂でのエリザベスの感謝の祈りを捧げる行列は彼女の戴冠式に匹敵する壮観なものであった。
 無敵艦隊の撃退はエリザベスとプロテスタント・イングランドにとって強力な宣伝となる勝利であった。
 イングランドは彼らの救済を神の恩寵そして処女王の下の国家の不可侵と受け取った。
 しかしながら、この勝利は戦争の転換点とはならず、戦いは続き、しばしばスペインが優勢ともなった。
 スペインは依然としてネーデルラントを支配しており、侵略の脅威は依然残っていた。
 イングランド艦隊は反撃に出て翌1589年にポルトガルを攻撃するが、目的のスペイン艦隊を捕捉できなかった上に多くの損害を出しエリザベスを激怒させる結果に終わった(イングランドの無敵艦隊(英語版))。
 1590年以降、イングランドは西インド諸島を度々攻撃し、1596年にはチャールズ・ハワード卿および寵臣ウォルター・ローリー、エセックス伯ロバート・デヴァルー率いる艦隊がスペインの要衝カディス港襲撃に成功している。

 1600年にモロッコのスルターンであったアフマド・マンスール・ザハビーは、エリザベス1世と協力してスペインに対抗するため、アブドゥルワーヒド・ブン・マスウード・ブン・ムハンマド・アンヌーリーなどからなる使節団をイングランドの宮廷に派遣し、協議を行っている。

 ▼フランス王アンリ4世への支援

 1589年にプロテスタントのアンリ4世がフランス王位を継承すると、エリザベスは彼に援軍を送った。
 これは1563年に失敗に終わったル・アーブル占領以来のフランスへの軍事的冒険だった。
 アンリ4世の継承はカトリック同盟とフェリペ2世から強く異議を唱えられており、エリザベスは海峡諸港をスペインに奪われることを恐れていた。
 しかしながら、この後のフランスにおけるイングランド軍の軍事行動は秩序を欠き、効果のないものだった。
 兵4,000を率いるウィラビー卿(英語版)は、エリザベスの命令を無視して行動し、ほとんど戦果もなく北フランスを徘徊しただけだった。
 彼は半数の兵を失い、1589年12月に無秩序に撤退した。
 1591年に兵3,000を率いてブルターニュで戦った ジョン・ノリス(英語版)はより悲惨な結果に終わっている。
 これらの遠征において、エリザベスは司令官たちの補給や増援の要請を出し渋っていた。
 ノリスは自らロンドンへ赴き支援を嘆願している。彼の不在中の同年5月にカトリック同盟はクランの戦いで英軍の残余を撃滅した。
 7月、エリザベスはアンリ4世のルーアン包囲を援助すべくエセックス伯率いる軍隊を派遣した。
 結果は惨憺たるものだった。
 エセックス伯は何らなすことなく1592年1月に帰国し、アンリ4世は4月に解囲を余儀なくされた。
 この時もエリザベスは海外へ赴いた司令官を統制することができなかった。
 「彼は何処にいて、何をしているのか、何をするのか」「私たちは全く知らない」と彼女はエセックス伯に書き送っている。

 ▼アイルランド

 アイルランドはエリザベスの支配する2つの王国の一つであったが、彼女はカトリック住民の敵意に直面し、彼らは女王の敵たちと陰謀を企てた。エリザベスの政策は叛徒たちがスペインにイングランドを攻める基地を与えることを防ぐべく、自らの廷臣たちに土地を与えることであった。
 一連の反乱に対して、英軍は焦土作戦を採り、土地を焼き払い、男も女も子供たちも虐殺した。
 1582年のジェラルド・フィッツジェラルド(英語版)率いるマンスターでの反乱の際には、約3万人のアイルランド人が餓死に追い込まれている。
 詩人エドマンド・スペンサーは犠牲者たちは「如何なる石の心でも後悔したであろう、このような惨めさをもたらされた」と書き記している。
 エリザベスは「残忍で野蛮な民族」であるアイルランド人を丁重に扱うよう司令官たちに忠告したが、暴力と流血が必要であると思われた時には彼女は何らの良心の呵責も示さなかった。

 1594年から1603年にかけて、エリザベスはティロンの乱(またはアイルランド九年戦争(英語版))の名で知られるアイルランドにおける最も厳しい試練に直面した。
 指導者ティロン伯ヒュー・オニールはスペインの援助を受けていた。
 1599年春、エリザベスは反乱の鎮圧のためにエセックス伯を派遣した。
 だが、エセックス伯はほとんど戦果を挙げることもなく、そして許可を受けずに帰国してしまい、彼女を苛立たせた。 
 エセックス伯はマウントジョイ男爵チャールズ・ブラント(英語版)と交代させられ、ブラントは反乱軍の撃破になお3年を要した。
 1603年、オニールはエリザベスの死の数日後に降伏した。

 ▼晩年

 1588年のアルマダの戦いでの勝利の後、エリザベスには新たな困難がもたらされ、それは彼女の治世の終わりまで15年間続いた。
 「囲い込み」によって発生した大量の難民に対処しきれず、発布した「エリザベス救貧法」も効果がなかった。
 またスペインやアイルランドとの戦争はだらだらと長引き、税はより重くなり、経済は凶作と戦費によって打撃を受けた。物価が高騰し、生活水準は低下した。
 この時期、カトリックへの弾圧が激しくなり、1591年にはカトリック世帯への訊問と監視権限が与えられた委員会が設置されている。
 平和と繁栄の幻影を維持するために、エリザベスは次第にスパイとプロパガンダに依存するようになった。
 治世の最後の数年間の批判の増大は民衆の彼女への好意の衰えを反映している。
 この時期がしばしば、エリザベスの「第二期治世」と呼ばれる由縁は1590年代のエリザベスの統治体制である枢密院の性格の違いによる。
 新たな世代が台頭していた。
 バーリー卿を別として、ほとんどの有力な政治家が1590年前後に世を去り、レスター伯は1588年、フランシス・ウォルシンガム卿は1590年、クリストファー・ハットン(英語版)卿は1591年に死去していた。
 1590年代以前には目立っては存在しなかった政府内の派閥闘争が際立った特徴となっている。
 国家における最有力の地位をめぐるエセックス伯とロバート・セシル(バーリー卿の子息)そして各々の支持者間の激しい闘争が政治を損なった。
 エリザベスが信頼する医師ロペス博士の事件でも明らかなように、女王個人の権威は軽んじられていた。
 エセックス伯の個人的な悪意によってロペス博士が反逆罪で告発された時、彼女はこの逮捕を怒り、無実であると信じていたにもかかわらず、処刑を止めることができなかった。

 エリザベスが老い、結婚もありえそうになくなると、彼女のイメージは次第に変わっていった。
 彼女はエドマンド・スペンサーの詩集『妖精の女王』ではベルフィービ(英語版)またはアストライアーそしてアルマダの海戦以後は永遠に老いることのない女王グロリアーナ(英語版)として描写されている。
 彼女の肖像画は次第に写実的ではなくなり、実際の彼女よりも若く見えるより謎めいたイコンとして描かれるようになっていった。
 実際の彼女の肌は1562年に罹患した天然痘の痕が残り、髪は半ば禿げあがり、カツラと化粧に頼っていた。
 ウォルター・ローリー卿は彼女を「時間が驚かされた貴婦人」と呼んだ[190]。しかしながら、彼女の美貌がより失せるとともに、廷臣たちはより一層、褒め称えるようになった。
 エリザベスはこの役を演じることを楽しんだが、彼女の人生の最後の10年間に彼女は自らの演技を信じ込むようになり始めた可能性がある。
 彼女は魅力的な、だが無作法な若者であるエセックス伯ロバート・デヴァルーを溺愛して甘やかすようになり、彼は(女王が許す限り)傍若無人に振る舞った。
 エセックス伯が戦場で無能ぶりを晒し続けるにもかかわらず、彼女は彼を幾度も軍事的な地位につけている。
 1599年にエセックス伯がアイルランドの戦場から逃亡すると、エリザベスは彼を自宅軟禁に置き、翌年には彼の独占特許状を奪い取った。
 1601年2月にエセックス伯はロンドンで反乱を起こして女王の拘束を企てたが、彼を支持する者は僅かしかいなく反乱は失敗に終わり、彼は2月25日に斬首された。
 エリザベスは自らの判断の誤りが、この事態を招く一端になったと感じた。「彼女の喜びは闇に閉ざされ、しばしばエセックスのために嘆き悲しみ涙を流した」と1602年のある観察者は記録している。

 エリザベスの治世の最後の数年間、彼女は議会により一層の特別補助金を要請するよりも、元手のかからない利益供与である独占特許状の授与に頼るようになった。
 このやり方はすぐに価格操作をもたらし、民衆の犠牲によって廷臣たちが潤うようになり、怨嗟が広まった。
 これは1601年議会での庶民院のアジテーションで頂点に達する。
 1601年11月30日の有名な「黄金演説(英語版)」で、エリザベスは権利濫用を知らなかったと告白し、不法な独占特許状の撤廃の約束と彼女のいつもの情緒的なアピールで議員たちを味方に引き込んでいる。

 私ほど臣下を愛する国王はいないでしょう、何者も私の愛と比べるべくもありません。
 私の前にある宝石ほど価値のある宝石はありません。
 それは貴方達の愛です。(中略)
 神が私を高い地位に上げて下さいましたが、私は貴方達の愛とともに統治をしてきたことこそ、我が王冠の名誉だと思うのです。

 この経済的、政治的に不安定な時代、イングランドにおいてこの上ない文学が開花した。
 新しい文学運動の最初の印はエリザベスの治世の30年目ごろの1578年に発表された、ジョン・リリーの『ユーフュイズム』 (Euphues) とエドマンド・スペンサーの『羊飼いの暦(英語版)』である。
 1590年代、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・マーロウといったイギリス文学の巨匠たちが円熟期に入っている。
 この時期と続くジャコビアン時代(ジェームズ1世治世)、英国演劇は最高潮に達した。
 エリザベス時代の概念は主にエリザベスの治世下で活躍した建築家、劇作家、詩人そして音楽家に依っている。
 女王は芸術家の主たるパトロンにはならなかったので、彼らが直接女王に恩を負うことはほとんどなかった。

 ▼崩御

 1598年8月4日にエリザベスの首席顧問官バーリー卿が死去した。
 彼の政治的責務は彼の息子ロバート・セシルに引き継がれ、彼はすぐに政府首班となった。
 彼に課せられた任務の一つが円滑な王位継承の準備であった。
 エリザベスが後継者の指名をしなかったため、セシルは秘密裏に進めざるをえなかった。
 それ故に彼は有力だが公認されていない王位継承権を持つスコットランド王ジェームズ6世との暗号を使った秘密交渉に入った。
 1602年秋まで女王の健康状態は良好だったが、友人たちの死が続き、彼女は深刻な鬱病に陥った。
 1603年2月のノッティンガム伯爵夫人キャサリン・ハワード(英語版)の死去はとりわけ衝撃となった。
 3月に彼女の健康状態が悪化し「座り込み、そして拭いがたい憂鬱」のままとなる。
 4日間座り続け、1603年3月24日午前2時か3時、エリザベスはリッチモンド宮殿(英語版)で崩御した。69歳没。

 数時間後、セシルと枢密院は彼らの計画を実行に移し、ジェームス6世をイングランド王であると宣言した。
 エリザベスの棺は夜間に松明を灯した艀に乗せられて川を下りホワイトホール宮殿へ運ばれた。
 4月28日の葬儀では棺は4頭の馬に曳かれた霊柩車に乗せられてウェストミンスター寺院へ移された。
 ジェームズ6世の他にも幾人かの王位継承権者がいたが、権力の移管は円滑に進められた。
 ジェームズ6世の王位継承はヘンリー8世の定めた第三継承法と彼の妹メアリー・テューダーの系統が優先されるという遺言を無視していた。
 これを調整するために議会は「1603年王位継承法(英語版)」を可決した。
 議会が法令によって王位継承を統制できるか否かは17世紀を通じての議論となっている。

 関連項目 ー エリザベス朝 ー

 エリザベス朝
(エリザベスちょう)
 (Elizabethan era)

 イングランド王国のテューダー朝のうち、特にエリザベス1世の治世期間(1558年 - 1603年)を指す時代区分である。
 しばしばイングランドの黄金期と呼ばれる。

 対外的にはスペインの無敵艦隊を破るなど国威を示し、内政的にはプロテスタントとカトリックの対立を終息させ、国力を充実させた。
 これにより、芸術、文芸も栄え、イギリス・ルネサンスの最盛期となった。また、イギリス・ルネサンス演劇も賑わいを見せ、とりわけウィリアム・シェイクスピアによる従来の様式を打ち破った演劇は話題となった。
 文学の分野で「エリザベス朝」という言葉が使用される場合、その後のジェームズ1世(1603年 - 1625年)およびチャールズ1世(1625年 - 1649年)の在位期間を含めることが多い。
 エリザベス1世の頃にはウィリアム・シェイクスピアが現れ、現在に残る戯曲の多くを残した。
 シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。
 クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている。
 なお、テューダー朝の頃の建造物などは「テューダー様式」と呼ばれる。

 概要 編集 エリザベス朝の素晴らしさは、その前後の時期と比べると際立って見える。
 17世紀はイギリス革命(清教徒革命など)やプロテスタントとカトリックとの争い、議会と国王の争いに明け暮れていたが、その中でエリザベス朝はつかの間の平和な期間だった。
 この時期は、プロテスタント・カトリックの分裂は収まり(エリザベスの宗教的解決)、議会には未だ絶対王政を揺るがす程の力がなかった。
 イングランドは、他のヨーロッパ諸国に比べても順調だった。
 イタリア・ルネサンスは、外国に半島を支配されて終わった。
 フランスではユグノー戦争が起こった(この戦争は1598年にナントの勅令によって終わる)。
 何世紀も続いてきたフランス対イギリスの闘争は、エリザベス1世の治世の間は収まっていた。
 これは、フランスが宗教戦争に巻き込まれたことの他に、イングランドがヨーロッパ大陸の領土のほとんどを失っていたことも一因となっている。
 この時期に大きなライバルとなったのはスペインだった。
 スペインとイングランドはヨーロッパとアメリカ大陸で小競り合いを繰り返してきたが、1585年についに戦争となった(1604年まで続く)。
 スペイン王フェリペ2世が1588年に無敵艦隊を送ったが、イングランドは有名なアルマダの海戦で無敵艦隊に大勝した。
 しかし、この後にイングランド艦隊がスペインに侵攻した海戦では大敗し、争いの風向きはイングランドに不利に変わった。
 その後、スペインはアイルランドのカトリック教徒のイングランドに対するゲリラ活動を支援した。
 また、イングランド軍はスペインの陸海軍に続けて敗北し、イングランドの国庫と経済がかなり悪化した。
 エリザベス1世は、財政を緊縮して慎重に立て直しを図った。
 イングランドの植民地政策や貿易が復興するのは、エリザベス1世が死去した翌1604年、ロンドン条約に批准した後である。
 この期間のイングランドは、過去のヘンリー7世とヘンリー8世の改革の結果、うまく中央集権化され、政府が効率的に機能していた。経済的には、大西洋貿易によって儲ける新時代の幕開けを迎えていた。

     〔ウィキペディアより引用〕

世界の女傑たち Vol.003−①

2023-10-10 21:00:00 | 自由研究

 ■エリザベス一世(イングランド女王)

 エリザベス1世
 (英: Elizabeth I)
 (ユリウス暦1533年9月7日〜グレゴリオ暦1603年4月3日、ユリウス暦1602/3年3月24日)
 イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年〜1603年)。
 テューダー朝第5代にして最後の君主。
 彼女の統治した時代は、とくにエリザベス朝と呼ばれ、イングランドの黄金期と言われている。

 国王ヘンリー8世の次女。
 メアリー1世は異母姉。
 エドワード6世は異母弟。
 通称にザ・ヴァージン・クイーン(The Virgin Queen / 処女女王)、グロリアーナ(Gloriana / 栄光ある女人)、グッド・クイーン・ベス(Good Queen Bess / 善き女王ベス)。

 《概要》

 ヘンリー8世の王女として生まれたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。
 弟のエドワード6世はジェーン・グレイへの王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続くカトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が崩御すると王位を継承した。
 エリザベスはウィリアム・セシルをはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始し、最初の仕事として、父の政策を踏襲し「国王至上法」を発令し、「礼拝統一法(英語版)」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけた。
 エリザベスは結婚することを期待され、議会や廷臣たちに懇願されたが、結婚しなかった。
 この理由は多くの議論の的になっている。年を経るとともにエリザベスは処女であることで有名になり、当時の肖像画・演劇・文学によって称えられ崇拝された。
 統治においてエリザベスは父や弟、姉よりも穏健であった。
 彼女のモットーの一つは「私は見る、そして語らない」("video et taceo" )であった。
 この方策は顧問団からは苛立ちをもって受けとめられたが、しばしば政略結婚から彼女を救っている。
 1588年のスペイン無敵艦隊に対する勝利と彼女の名は永遠に結びつけられ、英国史における最も偉大な勝利者として知られることになった。
 エリザベスの没後20年ほどすると彼女は黄金時代の統治者として称えられるようになった。

 エリザベスの治世は、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・マーロウといった劇作家によるイギリス・ルネサンス演劇や、フランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなど優れた航海士の冒険者たちが活躍したエリザベス時代として知られる。
 一部の歴史家たちはエリザベスを運に恵まれた短気な、そしてしばしば優柔不断な統治者と捉えている。
 治世の終わりには一連の経済的・軍事的問題によって彼女の人気は衰え、臣下たちは彼女の死に安堵している。
 エリザベスは政府が弱体で、王権が限定された時代、また近隣諸国の王家ではその王座を脅かす国内問題に直面していた時代におけるカリスマ的な実行者、そして粘り強いサバイバーとして知られる。
 弟と姉の短期間の治世を経た彼女の44年間の在位は、王国に好ましい安定をもたらし、国民意識を作り出すことになった。

 《生涯》

 ▼生い立ちから少女期

 イングランド国王ヘンリー8世はテューダー家王位継承を安泰ならしめる嫡出男子の誕生を熱望していた。
 王妃キャサリン・オブ・アラゴンは6人の子を産んだが5人が死産または夭逝し、成長したのは女子のメアリーだけだった。
 王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8世は愛人アン・ブーリンと結婚するため、王妃との離婚を教皇クレメンス7世に要請したが、教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可を下ろさなかった。
 ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「主権をもつ国家(エンパイア)」であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。
 そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。
 アンは王妃の通例と異なり、妊娠中に聖エドワード王冠を戴冠している。
 アンは1533年9月7日午後3時から4時ごろにグリニッジ宮殿で女子を出産し、祖母に当たるエリザベス・オブ・ヨークおよびエリザベス・ハワードにちなんで名づけられた。
 期待する男子ではなかったが、エリザベスはヘンリー8世にとっての存命する2人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位推定相続人となった。
 一方、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘である姉メアリーの嫡出子としての地位は失われていた。

 エリザベスの洗礼式は9月10日にグリニッジ宮殿で挙行された。
 大主教トマス・クランマーが名親にノーフォーク公爵未亡人(英語版)そしてドーセット侯爵夫人(英語版)、エクセター侯爵夫人(英語版)が代母となった。
 エリザベスの誕生後、アンは男子を産むことができなかった。
 彼女は1534年と1536年に少なくとも2度の流産に見舞われた後に逮捕されロンドン塔に送られた。
 アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、1536年5月19日に斬首刑に処されている。
 この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された。
 アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが、彼女は王子エドワードを生んだ12日後に死去している。
 エリザベスはエドワードの邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣 (chrisom) または洗礼衣を捧持している。
 その後、ヘンリー8世は2度の離婚を経て1543年にキャサリン・パーを王妃に迎えた。
 同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三継承法が発令され、メアリーとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された。
 キャサリン・パーとエリザベスは親密になり、1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』 (The Miroir or Glasse of the Synneful Soul) を英訳してキャサリン・パーへ贈呈したが、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身が作製したという。
 エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン(英語版)夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りの(どの子供よりも)すこやかに成長されている」と書き記している。
 1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人(英語版)に養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めている。
 キャサリン・シャンパーノン(英語版)(結婚後のケイト・アシュリーの名でより知られている)は1537年にエリザベスの女家庭教師に任命され、彼女が死去してブランチ・パーリー(英語版)が女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けた。
 彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語、ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。
 優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語とギリシャ語を学んでいる。
 グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカム(英語版)から教育を受けた。
 1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていた。

 ▼エドワード6世の治世と
       トマス・シーモア事件

 1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼い異母弟のエドワード6世が即位した。
 母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアはサマセット公爵に叙され保護卿(摂政)となって実権を握り、その弟のトマス・シーモアはスードリーのシーモア男爵に叙され海軍卿になった。
 プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる。
 ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。
 夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。
 シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたりといった性的な悪戯に興じていた。
 キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していたが、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり、1548年5月にエリザベスは追い出されチェシャントにあるアンソニー・デニー(英語版)(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った。
 歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる。
 シーモアは王室支配のための企てを続けていた。
 同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱(英語版)で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した。
 彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり、1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。
 トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはケイト・アシュリーとエリザベスの金庫役 (cofferer) ・トマス・パリー(英語版)への訊問で明らかにされている。
 ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。
 彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト(英語版)卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪という心証を得た」と報告している。
 同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。
 1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。
 ノーサンバランド公は第三継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した。
 カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する。

 ▼メアリー1世の治世

 1553年7月6日、エドワード6世は15歳で崩御した。枢密院によってジェーン・グレイの女王即位が宣言されたが彼女への支持はたちまち崩れ、彼女は僅か9日間の在位で廃位され、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは処刑された。
 エリザベスはメアリーとともに意気揚々とロンドンへ乗り込んだ。
 見せかけの姉妹の結束は長くは続かなかった。イングランドで初めて異論のない女王となったメアリー1世はエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。
 これにはエリザベスも含まれており、彼女は表面上はこれに従った。
 メアリー1世が神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の皇子フェリペとの結婚を計画していることが知れ渡ると当初の彼女への人気は衰えた。
 国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目した。
 そして、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生する(ワイアットの乱)。
 反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、3月18日にロンドン塔に収監された。
 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えている。
 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てた可能性は低いが、彼らの一部が彼女に近づいたことは事実である。
 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナールはエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官スティーブン・ガーディナーはエリザベスを裁判にかけるべく動いた。
 ウィリアム・パジェット(英語版)を含む宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。
 5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストック・ベディングフェルド(英語版)へ移され、ヘンリー・ベディングフェルド(英語版)の監視下でおよそ1年間、幽閉状態に置かれた。
 移送される彼女に対して群衆が声援を送っている。
 1554年7月10日、メアリー1世はフェリペと結婚した。メアリー1世は異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行い、彼女は「血まみれのメアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた。

 1555年4月17日、エリザベスはメアリー1世の出産に立ち会うために宮廷に召喚された。
 もしも、メアリー1世と彼女の子が死ねば、エリザベスは女王となる。
 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。
 結局、メアリー1世が妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。
 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、王配のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、このころから彼はエリザベスと積極的に交流をもった。
 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリー(フランスで育ち、王太子フランソワの婚約者)よりもエリザベスが好ましいと考えた。
 メアリーは1556年にスペイン王に即位した夫フェリペ2世の要請により、1557年にフランスとの戦争に参戦するが、大陸に唯一残されていた領土カレーを失う結果を招いてしまう。
 1558年にメアリー1世が病に倒れると、フェリペ2世はエリザベスと協議すべくフェリア伯(英語版)を派遣した。
 10月までにエリザベスは彼女の政府のための計画を作成している。
 11月6日にメアリー1世はエリザベスの王位継承を承認し、その11日後の11月17日に彼女はセント・ジェームズ宮殿で崩御した。
 議会は第三継承法に基づきエリザベスの王位継承を承認した。

 ▼即位

 メアリー1世崩御の証拠として彼女の婚約指輪を携えたロンドンからの使者がハットフィールドに到着した。
 そして、自らが国王に即位したと聞くと、エリザベスは旧約聖書詩編118編第23節を引用してラテン語でこう語った。
 "A Domino factum est istud, et est mirabile in oculis nostris"(「これは神の御業です、私たちの眼には奇跡と写ります。」)。
 ハットフィールドで、エリザベスはウィリアム・セシルを国務卿、ニコラス・ベーコンを国璽尚書になど主要人事を発表した。
 そして、この際に、後にエリザベスとの浮名を流すことになる幼馴染のロバート・ダドリーが主馬頭 (Master of the Horse) に抜擢されている。
 1558年11月20日、忠誠を誓うべくハットフィールドへやって来た枢密院やその他の貴族たちに対して所信を宣言した。
 この演説は彼女がしばしば用いることになる「二つの肉体」(生まれながらの肉体と政治的統一体)のメタファーの最初の記録である。

 我が諸侯よ、
 姉の死を悼み、我が身に課せられた責務に驚愕させられるのが自然の理です。
 しかしながら、私は神の被造物であることを思い致し、神の定められた任命に従いましょう。
 また、私は心の底から神の恩恵の助けを得ていることを望みつつ、私に委ねられた神の素晴らしい御意志の代理人たる地位をお受けします。
 自然に考えれば私の肉体は一つですが、神の赦しにより、統治のための政治的肉体を持ちます、それ故に私は貴方たち全てに私を助けるよう望みます。
 そして、私の統治と貴方がたの奉仕が全能の神によき報告をなし、私たちの子孫に幾らかの慰めを残すことになるでしょう。
 私はよき助言と忠告によって全ての私の行動を律するつもりです。

 戴冠式の前日に市内を練り歩く勝利の行進(英語版)で、彼女は市民たちから心を込めて歓迎され、(そのほとんどが強いプロテスタントの風味を持つ)式辞や野外劇で迎えられた。
 エリザベスの開放的で思いやりのある応対は「驚くほど心を奪われた」観衆たちから慕われた。
 翌1559年1月15日、エリザベスはウェストミンスター寺院で戴冠し、カトリックのカーライル司教によって聖別された。
 それから彼女は耳を聾するようなオルガンやトランペット、太鼓そして鐘の騒音の中で群衆の前にその姿を現した。

 ▼宗教問題の解決

 彼女はプロテスタントの教育を受けているが、カトリック風に十字架を身に付けることもあった。
 彼女の宗教政策は現実主義であった。 エリザベスと枢密院はカトリックにとっての異端であるイングランドへの十字軍の脅威を認識していた。
 それ故にエリザベスはカトリックを大きく刺激せずにイングランド・プロテスタントの希望を処理する解決法を模索した。
 そのために彼女はより急進的な改革を求めるピューリタン思想には寛容ではなかった。
 その結果、1559年議会はエドワード6世のプロテスタント政策 (en) (国王を教会の首長とするが、聖職者の法衣などに多くのカトリックの要素を残している)に基づく教会法の制定に着手した。
 庶民院は諸提案を強く支持したが、国王至上法は貴族院とりわけ主教たちから抵抗を受けた。
 エリザベスにとって幸運なことにこの時、カンタベリー大主教を含む主教管区の多くが空席であった。
 これによって貴族の支持勢力は主教や保守的な貴族に投票で打ち勝つことができた。それにもかかわらず、イングランド国教会における称号では、エリザベスは多くの人々が女性が有することを受け入れがたいと考え、より議論の起きそうな「首長」 (Supreme Head) の称号ではなく、「最高統治者」 (Supreme Governor) の称号を受け入れざるを得なかった。新たな国王至上法は1559年5月8日に法制化された。
 全ての役人は最高統治者たる国王へ忠誠の誓約が求められ、さもなくば役人の資格を剥奪されることになる[82]。メアリー1世によって行われた反対者への迫害を繰り返さないために異端排斥法が廃止された。同時に礼拝統一法(英語版)が可決され、国教会礼拝への参加と、1552年版聖公会祈祷書の使用を必須のものとしたが、国教忌避または不参加、不使用への罰則は厳しいものではなかった。 
 1563年には39カ条信仰告白がつくられ、イングランド国教会体制が確立した。

 ▼結婚問題

 エリザベスの治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。
 数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その理由は明らかではない。
 歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が不妊体質であると知っていたと推測している。
 エリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリー1世に起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった。
 未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも処刑されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。
 一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった。
 彼女は50歳になるまで、幾人かの求婚者に対して考慮している。
 最後の求婚者は22歳年下のアンジュー公フランソワである。

 ▼ロバート・ダドリー

 1559年春にエリザベスの幼馴染であるロバート・ダドリー(ジェーン・グレイ擁立事件で処刑されたノーサンバランド公の四男)への友情が愛情に変わり、広く知られるようになった。
 彼らの交際は宮廷・国内そして外国でまで話題になった。
 また、彼の妻エイミー・ロブサート(英語版)が「片方の乳房の病」に罹り、女王は彼女が死ねばロバート卿と結婚するだろうとも言われた。
 幾人かの高貴な求婚者たちがエリザベスを得るべく競っており、彼らの使者たちは我慢しきれず、よりスキャンダラスな会話を交わし、寵臣との結婚はイングランドにとって好ましくない事態を生じさせると報告している。

 1560年9月にダドリーの妻が階段から転落死すると、驚くべきことではないが、大きなスキャンダルとなった。
 多くの人々が女王と結婚するためにダドリーが妻の死を企てたと疑った。
 死因審問は事故であると断定し、暫くの間はエリザベスもダドリーとの結婚を真剣に考えている。
 しかしながら、ウィリアム・セシル、ニコラス・スロックモートン(英語版)そして多くの貴族たちが警告し、明確に反対した。
 反対は圧倒的であり、もしも結婚が実行されたら貴族たちは反乱を起こすとの噂まで流れた。
 この後、他に幾つか結婚の話はあったが、ロバート・ダドリーは10年近く候補と見なされ続けている。
 エリザベス自身は彼と結婚する意志が無くなった後でも、彼の恋愛にはひどく嫉妬した。
 1564年にエリザベスはダドリーをレスター伯爵に叙した。結局、彼は1578年に再婚しており、この結婚にエリザベスは幾度も不機嫌を示し、彼の妻であるレティス・ノウルズ(英語版)を生涯憎んだ。
 しかし依然としてダドリーは「(エリザベスの)情緒生活の中心であり続けた」と歴史家スーザン・ドーラン(英語版)は述べている。
 彼はアルマダの海戦のすぐ後に死去し、そしてエリザベスの死後、彼女の私物の中から「彼からの最後の手紙」と自筆されたダドリーからの手紙が発見されている。
 その他の愛人とされる人物にはエセックス伯ロバート・デヴァルー、ウォルター・ローリー卿などがいる。
 ローリーは新大陸(アメリカ)にエリザベスに因みバージニア植民地を建設するなどし好意を得ていたが、エリザベスの侍女と極秘結婚したためロンドン塔に幽閉される。
 レスター伯の義子であるエセックス伯は晩年の寵臣で、女王が老齢に達していたこともあり寛容であったが、反乱を起こし処刑されている。

 ▼政治的側面

 エリザベスは(しばしば外交上の策略にしか過ぎない)結婚問題を公にし続けた。
 ダドリーの求婚は別として、エリザベスは結婚問題を外交政策として扱った。 
 彼女はスペイン王フェリペ2世の求婚は1559年に拒否したものの、数年に亘り彼の従弟のオーストリア大公カール2世との婚姻を交渉している。
 議会は繰り返し結婚を請願したが、彼女は常に言葉を濁して答えていた。
 1563年に彼女は神聖ローマ帝国の使節にこう語っている。
 「もしも私が私本来の意向に従うならば、『結婚した女王よりも、独身の乞食女』ということです」。
 同じ年にエリザベスが天然痘に罹ると後継者問題が激化した。
 議会は彼女の死による内戦を防ぐために女王に結婚か後継者の指名を迫った。
 その4月に彼女は議会を閉会させ、1566年に課税への支持を必要とするまで再開させなかった。
 庶民院は彼女が後継者を示すことに同意するまで特別補助金を差し控えると脅した。
 1566年議会でロバート・ベル(英語版)がエリザベスの制止にもかかわらず、大胆にもこの問題を追及すると、彼は彼女の怒りの標的になり「ベル氏とその共犯者は貴族院で意見を開陳して、彼らを納得させなさい」と言われている。  
 1566年、彼女はスペイン大使に「もしも結婚せずに後継者問題を解決できるならば、そうするだろう」と打ち明けている。
 1570年までに政府の高官たちはエリザベスは結婚せず、後継者を指名もしないであろうことを受け入れた。
 ウィリアム・セシルは既に後継者問題の解決法を模索していた。
 この立場のために、彼女の結婚の失敗により、彼女はしばしば無責任だと非難された。
 エリザベスの沈黙は彼女自身の政治的な安全を強化した。
 彼女はもしも後継者を指名すれば、彼女の王座がクーデターの危機にさらされると知っていた。

 1568年にハプスブルク家との関係が悪化すると、代わりにエリザベスはフランスのヴァロワ家の2人の王子との結婚を考えた。
 最初はアンジュー公アンリ(後のフランス国王アンリ3世)であり、その後(1572年から1581年)は彼の弟のアンジュー公フランソワである。
 この最後の提案は南ネーデルラントを支配していたスペインに対抗するためのフランスとの同盟構想と結びついていた。
 1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、 エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、彼に「蛙 (frog)」の愛称をつけた。
 エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。
 カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局、この縁談は成立しなかった。
 1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した。
 エリザベスの未婚は処女性への崇拝を生じさせた。
 詩や肖像画において、彼女は普通の女性ではなく処女や女神として描写された。
 当初はエリザベスの処女性を美徳とするものであった。
 1559年に彼女は庶民院において「大理石の墓石にこの時代を治めた女王、処女として生き、死んだと刻まれれば満足です」と発言している。
 これ以降、とりわけ1578年以降、詩人や作家たちはこの題材を取り上げ、エリザベスを称揚するイコンに転じた。
 隠喩 (metaphor) や奇想 (conceit) の時代、神の加護の元に彼女は王国そして臣民と結婚した者として描かれた。
 1599年にエリザベスは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。

 ▼スコットランド女王メアリー

 フランス育ちでフランス王フランソワ2世の妃でもあったスコットランド女王メアリーはヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーの孫であり、有力なイングランド王位継承権を持っていた。
 エリザベスはその出生の経緯から嫡出性に疑念を持たれており、少なからぬ人々(特にカトリック)がメアリーを正統なイングランド王位継承権者と考えていた。

 ▼メアリーの退位と亡命

 エリザベスの最初の対スコットランド政策は駐留フランス軍への対抗であった。
 彼女はフランスがイングランドへ侵攻し、スコットランド女王メアリーをイングランド王位に据えようと企てることを恐れていた。
 エリザベスはスコットランド・プロテスタントの反乱を援助するようウィリアム・セシルらから説得され、女王自身は消極的だったが、1559年末に出兵を認めた。
 イングランド軍はリース城を落とせず苦戦したが、1560年に和議が成立し(エディンバラ条約(英語版))フランスの脅威を北方から除くことができた。
 メアリーは条約の批准を拒否している。
 1560年末にフランス王フランソワ2世が崩御し、メアリーは帰国することになった。
 翌1561年に彼女がスコットランドへ帰国した時、国内にはプロテスタントの教会が設立され、エリザベスに支援されたプロテスタント貴族によって国政が運営されていた。
 1563年、エリザベスは彼女自身の愛人ロバート・ダドリーを、本人の意思を確かめることなく、メアリーの夫に提案した。
 この縁談はメアリー、ダドリーともに熱心にはならず、1565年にメアリーは自身と同じくマーガレット・テューダーの孫でイングランド王位継承権を持つ従弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚した。
 この結婚はメアリーの没落をもたらす一連の失策の端緒となった。

 メアリーとダーンリー卿はすぐに不仲になる。
 そして、ダーンリー卿がメアリーの愛人と疑ったイタリア人秘書ダヴィッド・リッツィオ(英語版)が惨殺されると、彼はその関与を疑われ、スコットランド国内において急速に不人気になった。 
 1566年6月19日、メアリーは王子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ6世/イングランド王ジェームズ1世)を出産した。
 1567年2月10日、ダーンリー卿が病気療養していた屋敷が爆破されて彼の絞殺死体が発見され、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンが強く疑われた。
 それからほどない5月15日に、メアリーはボスウェル伯と結婚し、彼女自身が夫殺しに関わっていたとの疑惑を呼び起こした。
 これらの出来事はメアリーの急速な失脚とロッホリーヴン城(英語版)への幽閉という事態を招く。
 スコットランド貴族は彼女に退位とジェームズへの譲位を強いた。
 ジェームズはプロテスタントとして育てるためにスターリング城へ移された。1568年、メアリーはロッホリーヴンから逃亡したが、戦いに敗れ、国境を越えてイングランドへ亡命した。
 当初、エリザベスはメアリーを復位させようと考えたが、結局、彼女と枢密院は安全策を選ぶことにした。
 イングランド軍とともにメアリーをスコットランドへ帰国させる、もしくはフランスやイングランド内のカトリック敵対勢力の手に渡す危険を冒すより、彼らは彼女をイングランドに抑留することにし、メアリーはこの地で19年間幽閉されることになる。

     〔ウィキペディアより引用〕