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言の葉辞典 『轍』①

2023-11-03 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『轍』①

 【読み方】

 音読み : てつ
 訓読み : わだち

 【意味】

 1 通りすぎた車輪の跡。わだち。
 「軌轍・車轍・転轍機」

 2 筋道。行き方。先例。

 ❐「轍を踏む」とは、

 先人のしたことをくり返す。
 また、前の人がおちいった失敗をくり返す。
 二の舞いを演ずる。前車の轍を踏む。

 逆に先例の意味もあり、“先例の通りのやり方”も含まれる為、「手本」という意味合いもあるそうです。

 さて、「先人」とは誰の事なのか。

 1.昔の人。前人。古人。
 例文「―の英知に学ぶ」

 2 亡父。または、祖先。

 という意味だそうです。

 さて、そういう“意味”踏まえて何を連想されるでしょうか?

 「師事」とは、また違った、定め(宿命)的の様な感覚でしょうか。

 “師事”の言葉の場合、リスペクトというイメージがありますが。

 師事とは

 師匠として尊敬し、直接教えを受けること。
 「師事する」のように、動詞として使うことが一般的です。

 「師事」の「師」には、「手本になる人」や「教えを導く人」という意味があります。
 そして「事」には、「ことがら」という意味の他に、実は、「仕える」という意味があるのです。この二つが組み合わさることで、「手本になる人の弟子となって、教えを受ける」という意味です。
 相手を「師」にしているため、「〜に師事する」は自分が尊敬している人やその道に秀でた人に教えてもらうときだけに使う言葉だそうです。 

 やはり「轍を踏む」の連想した言葉は跡取、二世タレント、世襲でしょうか。

 ここでひとつ、歌舞伎についてー。

 先ず、一般に歌舞伎界では“梨園”と言いますが、さて梨園とはどういう意味なのでしょう。

 梨園(りえん)とは中国・唐の宮廷音楽家養成所である。
 日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。

 語の由来は、唐の玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達を梨が植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。
 音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊の妓女、宮女の一部とが属した。
 玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。

 さて、歌舞伎。

 日本の演劇で、伝統芸能の一つ。
 1603年(慶長8年)に京都で出雲阿国が始めたややこ踊り、かぶき踊り(踊念仏)「チンドン屋と起源は同じ」が始まりで江戸時代に発展し、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と風俗紊乱を理由とした規制により変化していった。

 ❖ 語 源 ❖

 歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われている。
 戦国時代の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。

 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。

 「かぶき踊り」は主に女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。
 現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代に使われないことはなかったが、一般化したのは近代になってからである。

 なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。
 また能もその一つである。

 因みに、「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標は松竹が取得している。

 ❖ 歴 史 ❖

 草創期

 歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。
 「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。
 阿国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている。
 『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。
 ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のことで、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである。
 後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。

 『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている。
 しかし内容面では両者は質的に異なったものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びという性的な場面を含んだものである。

 なお、この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。

 「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。
 そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった。

 その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった。
 今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。
 当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという。

 ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていたことからも分かるように好色性を持ったものであった。
 全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていた。
 しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった。
 遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年)であるとされていたが、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。
 それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった。

 なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているものがあるが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録がある。
 また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する。

 元禄

 次の画期が元禄年間(1688~1704)にあたるとするのが定説である。
 歌舞伎研究では寛文・延宝の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。
 この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた。
 江戸四座のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である。

 元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。
 この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。
 藤十郎の演技は、後に和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた。
 芳沢あやめ (初代)も京随一の若女形として評判を博した。

 なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない。
 当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない。
 また荒事の成立過程はよくわかっておらず、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない。

 狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。
 後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。
 なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。

 作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った。 
 すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である。

 また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。
 正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられたのである。
 これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。
 江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰された。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。

 享保から寛政

 歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである。
 享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。
 これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。
 また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。
 宝暦年間の大坂では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた。
 これらの工夫は江戸でも取り入れられた。
 こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展した。

 作品面では18世紀から趣向取り・狂言取りの手法が本格化した。
 これらは17世紀の時点で既に行われていたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になった。
 これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる。

 また、この頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった。

 延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。
 これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(1746年)、4年(1747年)、5年(1748年)である。

 またそれから少し遡る享保16年(1731年)には初代瀬川菊之丞が能の道成寺に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を収め、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた。
 その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年(1753年)には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。
 なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった。

 宝暦9年(1759年)、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立した。
 これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。
 その後、男が女を殺す場面につながることが多い。

 文化から幕末

 これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言)を確立して評判を得た。

 天保3年(1832年)には五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。

 その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられた。
 移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。

 しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。

 幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。

 江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別されたとされる。

 明治から昭和初期

 明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。
 これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。
 しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求したのである。
 江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった。

 1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストらが参加した。
 翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった。
 時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。
 芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した。
 それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」[33]で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めた。

 こうした團十郎の芸は高く評価されながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみで、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けたが、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった。
 しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。
 それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった。
 こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていったことが活歴の歴史的意義である。

 劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。
 歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。
 その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。

 歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった。
 他にも歌舞伎の中央集権化、改良演劇の確立、歌舞伎演出の様式美化の促進といった影響があったことが指摘されている。

 一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。
 また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。
 しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。
 江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えた。

 19世紀末になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場した。
 これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演、「新しい観客の掘り起こし」によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」である。
 松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。
 それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。
 これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。
 ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。
 その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された。

 第二次大戦後

 第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。
 戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
 終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。
 1945年(昭和20年)11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止となった。
 松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした。
 しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
 1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。
 1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。
 同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった。
 一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。
 そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。

 そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復した。
 役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。
 日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
 戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こった。
 特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。
 1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され[注釈、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。
 国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。
 その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。
 さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。
 猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」を創り出した。
 また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになった。
 また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。
 その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。
 このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

 歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。

 〔ウィキペディアより引用〕




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