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ダカーポ ♯009

2023-09-05 21:00:00 | 日記

  神出鬼没如く現れ出る
         モンスターたち

 ■モンスターペアレント
(Monster parent)
 またはモンスターペアレンツ。

 学校などに対して自己中心的かつ理不尽とされる要求をする親を意味する。
 元小学校教諭の向山洋一が命名した造語(和製英語)。
 略してモンペア、モンペともいう。

 基本的には直接教員にクレームを行うが、校長、教育委員会、地方公共団体より権限の強い部署にクレームを持ち込んで、間接的に現場の教員や学校に圧力をかけるという形式も増えている。
 日本では、2008年には同名のテレビドラマが制作され話題となった。
 さらにはモンスターペアレントの子供がモンスターチルドレンやモンスター大学生となり新たな問題を起こしている。
 なお、要求を繰り返すことがあっても、当該の要求が常識の範囲内にあり、かつしかるべき理由を明示してくる場合は「モンスターペアレント」とは言わない。
 とはいえ、保護者が正当な要求をしても、学校や教員が保護者を「モンスターペアレント」として敵対視することがある。
 アメリカ合衆国で使われている類似の用語にヘリコプターペアレント(Helicopter parent)というものがある。
 これは、子供の就職の面接についてくるような過保護・過干渉な親を指しており、常時子供を監視している様子を上空でホバリングするヘリコプターに例えている。

 《原因》

 モンスターペアレントという語が登場する以前から、こうした問題を「親のいちゃもん」として研究してきた大阪大学大学院の小野田正利教授によると、この種の保護者が目立って増え始めたのは1990年代後半からであるとされる。
 また、小野田によると保護者を「モンスター」にしているのは、「モンスター」という言葉を使っているマスコミや教育現場であるという。
 『モンスター=人間でない』ことで、保護者との関わりを拒否していると言う。
 教育社会学を専門とする門脇厚司の指摘によると、この時期に子供が学齢期を迎えた多くの親は、概ね1960年代生まれで、1970年代後半〜1980年代の校内暴力時代に、強面するヤンキー生徒に全く注意出来ないばかりか、その不甲斐なさを一般生徒に威圧的な態度で接する教師の姿を見てきて、全く教師への敬意を持っておらず、さらにバブル景気の時期に社会に出たために、教師を愚弄している。
 また、バブル崩壊後のリストラなどで社会的な地位を失った人々の(公務員ゆえ倒産や失業の心配がなく、終身雇用の保証された立場である)、教師に対する嫉みもあるという。前述の小野田は、「言ったもん勝ち」がまかり通る風潮が強まっている点も、モンスターペアレント出現の原因の一つではないかと指摘している。

 他方、現役の東京都立高等学校教諭である喜入克や元中学校教諭の河上亮一は、こうした保護者が増加した原因を、「保護者の消費者意識の暴走」とする見解を述べている。喜入によれば、保護者は自分の子供が学校で他の子供より“損”な待遇を受けることが我慢できず、「同じ値段を払えば同じ商品が手に入る」という意識で教育サービスを捉えているためとされる。
 例えばある学年の学級担任が新卒、中堅、評判のいいベテランというような構成になったとする。
 モンスターペアレントは、自分の子供が“評判の良いベテラン教師”以外に担任されることを不当待遇であると考える。
 また、喜入は、これらモンスターペアレントやその子供に学校が手こずる理由として、彼らが“学校と対等な消費者”としての立場と“まだ半人前である子供”としての立場を使い分けるという現象も指摘している。
 すなわちモンスターペアレントやその子供たちは、学校に対してクレームをつける際には“消費者”として振るまい、そうしたクレームが学校に“ルール違反”と認定されて退学や停学などの処分を出されそうになると、“半人前である子供への情状酌量”を要求する。
 こうした保護者については、門脇によっても世代の問題が指摘されている。山下・岡田らは小学校2年生の保護者を対象としたアンケート調査のクラスター分析をもとにターゲット・プロファイリングを行った。
 それによって、「既に子育てを経験している、経済的な余裕はないが教育ママ度はそれなりに高い、パート勤務の母親」が、学校への信頼度の低さを示す6つの指標においていずれも突出した数値を示すことを明らかにしている。
 山下・岡田らはそういった母親を『生活切迫型パートママ』と命名している。

 その他、地域の人間関係が希薄になった結果、かつては地域社会が緩衝材となっていた個々の親の不満が直接学校に持ち込まれるようになった状況も背景にあるのではないかという意見も多い。
 なお、こうした保護者は初等教育や中等教育に限られた問題ではない。
 星野・横山・横山・水野・徳田らは幼稚園の保護者でも、

 ・特定の園児は自分の子供と遊ばないでほしいと要求する。

 ・クラス分けで特定の園児と同じクラスにするよう(しないよう)要求する。

 ・テレビや本で紹介された教育方法を導入するよう要求する。

 ・時間かまわず保育者の自宅に毎日電話をかける。

 など、自己中心的な保護者が問題化していることをアンケート調査によって示している。この調査によると、保育者の4人に1人が問題のある保護者としてこうした保護者を挙げている。

 《問題点》

 こうした保護者が一人でも出現すると、教職員や学校はその対応に膨大な時間を奪われてしまう。
 その結果、他の児童・生徒のために使う教材研究、授業準備、生徒指導、部活指導、補習などの時間がなくなり、場合によっては学校全体に悪影響が広まる。 2006年に金子元久が1万校の小中学校の校長を対象にして行ったアンケート調査によると、中学校では29.8%の校長が「保護者の利己的な要求」が深刻な教育の障害になっていると答えており、「やや深刻」と答えた48.9%と合わせると78.7%の校長が保護者の利己的な行動を問題視しているという結果が出た。なお、小学校では「深刻」が25.7%、「やや深刻」が52.1%で合計は77.8%となっている。
 適切な対応がなされればその影響は最小限にとどまるが、対応が一人の担任教職員に押しつけられた場合などでは逆に被害が拡大したり、担当教職員自身が体もしくは精神を病んでしまう事例も珍しくない。
 特に、経験が浅い新任教師は適切な対応ができず問題を抱え込んでしまうと言われている。
 2006年には西東京市の市立小学校に着任した教員が、一部の保護者から深夜に携帯電話に苦情電話をかけられる、連絡帳で人格攻撃されるなどした結果、自殺している。
 また、2008年1月にうつ病として労災が認定された例として、子供同士のケンカで軽いけがをした子供の両親が、当時子供を預けていた埼玉県狭山市立保育所の所長に対して4か月に渡り苦情を言い続け、最終的に保育所の対応を批判する内容証明郵便を送りつけ、所長がこれらを苦に焼身自殺したというものがある。

 ■モンスターペイシェント

 モンスターペイシェントとは、医療従事者や医療機関に対して自己中心的で理不尽な要求、暴力や暴言など非常識な言動を繰り返す患者(あるいはその親族や友人・知人等)を意味する和製英語。
 他の言い方としては難渋患者、モンスター患者、怪物患者などともいう。
 彼等による、医師や看護師など医療従事者への人格否定の言動・暴力・セクハラ等、その尊厳を傷つけるも行為は、「ペイシェント・ハラスメント」(ペイハラ)と呼ばれ、各地で深刻化している。

 《問題の事例》

 モンスターペイシェントの問題事例には、執拗な説明の要求、救急車の私用での利用、医療機関での居座りなどがある。

 ・医師から兄への治療法の説明の場に同席し執拗な質問を繰り返し、医師に無料で長時間の時間外労働を強要する。

 ・緊急性のない蓄膿症で夜間に救急外来を受診し、緊急CT検査と同日の結果説明を強要する。

 深刻な問題事例には医療費の不払い、暴言・暴力などに及ぶものもある。

 《背景》

 医学・医療技術の進歩に伴い様々な病気の治療法が見つかり、治療されている。
 しかしながらまだ全ての病気を治癒させることができるわけではない。
 また結核のように、治療法が発見されている病気でも死に至ることがある。 しかし、医療知識が乏しい一般人は「病院に行けばすぐに治る」「薬を飲めば(つければ)すぐに治る」という希望ないし過度の期待を抱きがちである。
 また医師法第19条には医療機関に患者の診療義務を課すいわゆる「応召義務」が規定されているが、その結果病院は度を越した行動をとる患者に対しての毅然とした対応をとりにくく、病院に診療拒否権がないことを盾にとる患者が増加していることもモンスターペイシェントの増加の背景になっているとの指摘がある。
 医療機関が一般のサービス業の業態を模倣したことが、患者に誤った権利意識をもたらしたとする指摘もある。
 小説家・医師の久坂部羊は「病院がまちがったことをしたら許されないが、患者はまちがったことをしても許される、という風潮が蔓延しているのではないか。
 一部の不心得な自称社会的弱者がこれを悪用し、理不尽な要求を押し通そうとする」と論評している。

 《歴史》

 ▼前史

 1995年、世界医師会総会は患者の権利宣言を改定し、医師による患者の自己決定権と正義の擁護を規定した(日本医師会は棄権)。
 1997年4月、総合研究開発機構の「薬害等再発防止システムに関する研究会」は中間報告書にインフォームド・コンセント(説明と同意)などを含む「患者の権利法」の制定を盛り込み、同年には医療法が改正され「説明と同意」の努力義務が規定された。

 ▼始まり

 産経新聞の報道によるとモンスターペイシェントは2000年頃より増え始めたとされ、これはマスコミで医療事故が大きく扱われ患者の権利が声高に叫ばれ、病院で患者が「患者様」と呼ばれるようになった時期と重なっているという。
 なお「患者様」呼びが一般化したのは2001年の厚生労働省医療サービス向上委員会による「国立病院・療養所における医療サービスの質の向上に関する指針」によるものとされている。
 2007年には大学病院における医療関係者の暴力被害が430件以上に上り、クレームも2年前に比べて倍に増えたとされる。
 同年、『日経メディカル Cadetto』は最近怒ってる先生を多く見かけるとしてモンスターペイシェントに苛つかされた医者の話を募集する。

 《影響》

 モンスターペイシェントの対処に追われ医師・看護師などの医療従事者や対応した事務員などが精神的に疲れ果て、病院から去ってしまうなどして医療崩壊の一因となっている。

 ■モンスター消費者

 モンスター消費者、またはモンスタークレーマー。
 企業・店舗などに対して自己中心的かつ理不尽な要求をする消費者・利用者を意味する。

 モンスター消費者の特徴は

 ・社会に対する鬱憤(ストレス)をぶつけている。

 ・正義感が異常に強く自分は正義で相手は悪 と決めつけている。

 ・自分は社会的に良いことをしていると完全に思いこんでいる。

 ・強い消費者(被害者)意識を持っている。

 ・言っていることがコロコロ変わり、結局何を聞きたいのか、質問内容が分からない。

 ・相手(批判対象)への人格否定。

 社会保険労務士の野崎大輔は、モンスター消費者は、(店の)従業員は会社や家庭での不満を晴らす捌け口と見做しており、気に食わないことがあれば、即座に“ブラック認定”すると述べている。
 今野晴貴は、モンスター消費者は低価格の商品やサービスにも過剰なサービスを求めるとし、企業側も競争を勝ち抜くためにモンスター消費者らの要求に応えようと労働者の酷使を「お客様の立場になって考えよ」と正当化し、企業に十分な人員や予算がなくても、社員に際限のない労働をさせているとして、モンスター消費者がブラック企業を増殖させる一因となっているのではないかと主張している。

 ■カスタマーハラスメント

 カスタマーハラスメントとは、暴行・脅迫・暴言・不当な要求といった、顧客による著しい迷惑行為のことである。
 略してカスハラともいう。
 顧客(カスタマー)+嫌がらせ(ハラスメント)を組み合わせた用語であるが、英語には
「customer harassment」という用語は存在せず、和製英語の一種である。日本では2010年代前半頃から、悪質なクレーマーに対して「カスタマーハラスメント」の名称を用いる動きが見られるようになった。

 《概要》

 ▼定義

 厚生労働省は2022年にカスハラ対策マニュアルを作成しており、企業が従業員(コールセンターや接客業など)を守るために対応するべき課題の1つとしている。
 そのマニュアルの中で、厚生労働省はカスタマーハラスメントを以下のように定義している。その解釈や判断基準、具体例などの詳細もマニュアルに記載されている。

 顧客等からのクレーム・言動のうち、当該クレーム・要求の内容の妥当性に照らして、当該要求を実現するための手段・様態が社会通念上不相当なものであって、当該手段・様態により、労働者の就業関係が害されるもの

  —厚生労働省、『カスタマーハラスメント対策企業マニュアル』

 ▼法律

 店で大声をあげたり、業務を妨げたり、無理に居座ったりする行為は、威力業務妨害罪や不退去罪に問われる可能性がある。
 そのほかに関連する条文としては、傷害罪、暴行罪、脅迫罪、恐喝罪、強要罪、侮辱罪、名誉棄損罪、暴力団対策法が挙げられるが、内容によっては民事不介入を理由に刑事事件での立件が困難な場合もある。

 《事例》

 ・商品としての機能に問題ない程度の不具合をことさらに指摘する。

 ・介護施設において、介護者に暴言を吐いたり、暴力を振るったりする。

 ・タクシーにおいて、運転中の様子をスマートフォンで撮影し、中傷の言葉をそえてインターネット上で公開する。

 関連項目 ー 協調性 ー
(モンスターペアレントには
  協調性の著しい欠如が
         多くみられる)

 協調性(英: Agreeableness)

 親切、同情的、協力的、暖かい、思いやりがあると人に認識される個人の行動特性に現れる性格特性のことである。
 現代の性格心理学では、協調性は性格特性の5つの次元の1つで、協力や社会の調和における個人差を反映しているとされている。
 協調性のスコアが高い人は共感的で利他的であり、一方、協調性のスコアが低い人は利己的な行動(しばしば吝嗇として現れる)と共感の欠如に関係する。
 また、協調性のスコアが非常に低い人は、操作や協力よりも他者と競争するなどダークトライアドに見られる行動の兆候を示す。
 協調性は上位特性であると考えられており、統計的にまとまった性格における下位特性をグループ化したものであることを意味している。
 協調性の下にグループ化された下位レベルの特性、つまりファセット(側面因子)は、利他主義、協力性、謙虚さ、道徳性、共感性、信用性である。

 《歴史》

 ▼キャッテルの16因子性格

 すべてのビッグファイブ性格特性と同様に、現代の「協調性」の概念の起源は、ゴードン・オールポートとヘンリー・S・オドバートの1936年の研究にまで遡れる。
 その7年後、レイモンド・キャッテルは、オールポートとオドバートが特定した何千もの性格関連語のクラスター分析を発表した。
 この研究で特定されたクラスターは、キャッテルが人間の基本的、そして普遍的な性格要因を特定しようとさらに試みるための基盤となった。
 彼は最終的に、因子分析を使って16因子性格(16PF)を決定した。
 さらなる因子分析により、これらの16の因子を包含する5つの高次の因子、また「普遍的」な因子が明らかになった。
 これはキャッテルによって「独立性」と名付けられたが、16因子性格検査(英語版)のE、H、L、Q1因子の高得点によって定義される普遍的因子は、現代の「協調性」の概念の初期の先駆けであった。

 ▼ビッグファイブ

 性格の五因子モデルにおける協調性の度合いは、最も一般的には自己報告式の測定によって評価されるが、同僚からの報告や第三者による観察も利用されることがある。
 自己報告式の測定は、語彙尺度や記述尺度に基づいて行われる。
 どちらのタイプの測定を利用するかは、心理測定特性の評価と、実施する研究の時間と空間の制約によって決定される。
 語彙測定では、共感的、協力的、暖かい、思いやりがある、厳しい、不親切、無礼など、協調・非協調の特性を反映する個々の形容詞を使用して測定する。なお、非協調性を表す単語は協調性を表す単語を逆符号化することで対応する。
 ゴールドバーグ(1992)は100語のビッグファイブマーカーの一部として20語の尺度を開発し、ソーシエ(1994)は40語のミニマーカーの一部としてより簡潔な8語の尺度を開発している。
 トンプソン(2008)はこれらのマーカーを体系的に修正・改良し、アメリカ人と非アメリカ人の両方においてより優れた心理測定特性を有する40単語の尺度の国際英語ミニマーカーを開発した。
 この簡潔な尺度は、協調性をはじめとする五因子性格次元を評価する際にアメリカ人集団内と、特にアメリカ人以外の集団において、良好な内部一貫性信頼性と妥当性を有している。
 実際に英語を母国語とする人々に対する協調性の測定の内部一貫性の信頼性は.86であり、英語を母国語としない人々に対するそれは.80であると報告されている。

 記述測定は、語彙測定よりも多くの単語で構成される傾向があり、そのため、より多くの研究機器のスペースを利用することになる。
 この測定法では例えば、「私はほとんどすべての人と仲が良い」「私は他人の問題に関心がない」「他人の感情に共感する」といったことの程度を回答者は尋ねられる。
 キャッテルの因子分析的アプローチは、普遍的な人格構造を特定するために用いられ、16PFの導入以降、数十年にわたって無数の研究を触発した。
 キャッテルの元々のクラスターである16個のパーソナリティ要因と元々のデータを用いて、複数の研究者がこの期間中に独自にパーソナリティの五因子モデルを開発した。
 1960年代初頭から、これらの探求には「協調性」や「社交性」と呼ばれる因子が含まれることが多かった。
 キャッテルの先駆的な研究に続いて5つの安定した人格因子が何度も再現されたにもかかわらず、この枠組みがパーソナリティ研究を支配し始めたのは1980年代初頭、ルイス・ゴールドバーグ(英語版)の業績からであった。
 オールポートやオドバートと同様の語彙的研究を用いて、ゴールドバーグは各々が包含する人格関連用語の数が非常に多いことを反映して、「ビッグファイブ」という用語を選んだ。
 そのうち一つである協調性は、「友好的」「気立てが良い」「協力的」「信頼できる」「育成的」「社交的」「思いやりがある」といったパーソナリティ関連用語で定義された。これらは以前や最近現れた概念と似ている。

 ▼NEO-PI

 1970年代から、ポール・コスタ(英語版)とロバート・マクレイは、因子モデルに基づくパーソナリティ評価の開発を研究し始めた。
 キャッテルの16個のパーソナリティ要因のクラスター分析から始めて、コスタとマクレイは当初、パーソナリティの三因子モデルに落ち着いた。
 これら三つの因子は、神経症傾向(⇔感情安定性)、外向性(⇔内向性)、経験への開放性(⇔閉鎖性)であり、「NEO」という頭文字が生まれた。
 コスタとマクレイの三因子NEOパーソナリティ目録とゴールドバーグのビッグファイブとの類似性から、コスタとマクレイは1980年代初頭に協調性と誠実性を評価する尺度を開発し始めた。
 この作業は1985年に完全な五因子モデルに基づく最初のNEO-PIマニュアル(英語版)が出版されることで結実した。
 これはNEO-PIに協調性が導入されたことを示しているが、コスタとマクレイはこの要因を構成する面を特定し、改訂版NEOパーソナリティ目録で詳述するためにさらに7年間働いた。

 ▼NEO-PIのファセット

 NEO-PIでは、コスタとマクレイによって特定された5つの因子は、6つの下位レベルのファセット(側面因子)で識別される。
 協調性に含まれる下位レベルのファセットは、NEO-PIの改訂版が1992年に出版されたときに初めて紹介された。
 現代のNEO-PI-Rに基づいて、協調性の6つの側面は次のとおりである:信頼、率直、利他主義、追従(英語版)、慎み深さ、優しさである。

 ◆信頼

 信頼は、心理社会的発達、パーソナリティ理論、そしてパーソナリティに関する民俗心理学(英語版)的概念の特徴である。
 このファセットで高得点を得る個人は、一般に他者の意図を善意によるものであると考える。
 このファセットで低得点を得る個人は懐疑的であり、他者を不審、不正直、そして危険なものと見なす傾向がある。

 ◆率直

 率直は、他者とのコミュニケーションにおいて直接的で正直な態度を示す性質である。
 道徳哲学において長い歴史を持つにもかかわらず、率直さは協調性の他のファセットほどパーソナリティ理論においては重要ではない。
 率直で高得点を得た人は、他者と直接的で正直な方法でやり取りする傾向がある。
 低得点者はあまり直接的ではなく、自己監視の傾向があり一般的に不正直であり、また操作的である。
 両者は同一ではないが、このファセットで低得点を得た人はマキャベリズムが高い傾向がある。
 率直さは、対人円形図(英語版)における「純真⇔計算」という次元に似ている。
 マイケル・C・アシュトンとキボム・リーによれば、率直さはHEXACOモデルの正直さ-謙虚さの正直さの側面に似ている。

 ◆利他主義

 動物に対する利他主義や倫理的利他主義と同様に、このファセットは自己犠牲、無私、寛大さ、思いやり、礼儀正しさ、他者への配慮などを測る尺度によって定義される。
 利他主義はアルフレッド・アドラーの社会的関心という概念に似ている。
 社会的関心とは、自分の行動を社会の向上に向ける傾向である。
 利他主義で低得点を得た人は、無礼で自己中心的または貪欲である傾向があり、これはアドラー心理学では「自己利益」と呼ばれる行動パターンである。

 ◆追従

 協調性のファセットとして、追従は典型的な対立に対する個人の反応として定義される。
 追従で高得点を得た人は、おとなしくて温和であり、対立を解決する手段として協力や服従を好む傾向がある。
 低得点者は、攻撃的で敵対的であり、口論好きで恨みっぽい傾向がある。

 ◆慎み深さ

 信頼、率直、利他主義、追従はすべて対人・社会的な行動を指すのに対し、慎み深さは個人の自己概念を指す。
 慎み深さのスコアが高い人は謙虚で他者志向的であり、低い人は傲慢で自己顕示的である。
 慎み深さが低いことは自惚れやナルシシズムとも呼ばれ、極端な場合には自己愛性パーソナリティ障害として現れることがある。
 ネオ人格目録改正版(英語版)では「謙遜」とも呼ばれる慎み深さは、HEXACOモデルの正直-謙虚の謙虚側面に似ている。

 ◆優しさ

 優しさとは、個人の判断や態度が感情によってどの程度決定されるかということによって定義される。
 この用語はウィリアム・ジェームズによって生み出され、16PF(英語版)の初期版でも目立っていた。
 優しさは主に共感によって定義され、国際パーソナリティ項目プールの「共感」スケールに対応する。
 対照的に、「タフマインド」とは、アイゼンク性格検査の精神病質と関連した特性である。

 《幼少期から成人期まで》

 協調性は、精神的健康、ポジティブな感情、他者との良好な関係を予測し、心理的幸福にとって基本的に重要である。
 幼少期と青年期の両方において、協調性は外在化の問題と結びついている。
 また、葛藤管理能力、学校適応、仲間・社会的地位、自尊心などの結果にも関与している。
 また、幼少期を通じた協調性の水準が成人期の適応や協調性に影響を及ぼすかどうかを調べる研究も行われている。
 若年成人では、外向性障害と内向性障害のいずれかと診断された人は、そのような障害のない若年成人と比較して、協調性とコミュニケーション性が低く、否定的感情性が高いことが示されている。
 また、若年成人の怒りとうつ病の関連を媒介するのは、「協調性」であると報告されている。
 大学生において、協調性は感情的な刺激に対する心理生理学的反応とともに、感情的な経験やコントロールの自己申告としばしば関連している。
 成人期には、低い協調性が健康上のリスクとなることが判明している。
 高い協調性、特に信用性と道徳性は、長寿と関連している。
 カスピ、エルダー、ベム (1987)の研究によると、爆発的で機嫌の悪い子供は、機嫌の良い同世代の子供と比較すると、大人になってからの離婚率が高いことが判明した。
 さらに、短気な男性は学歴、職業、仕事の安定性が低く、短気な女性は同じように低い学歴を持つ男性と結婚していた。
 シャイナー(2000)による2つ目の、より新しい研究では、中年期の協調性と友好的遵守を表す複合変数が、10年後の思春期の学業成績、行動様式、社会的能力を予測することがわかった。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『粧』 ①

2023-09-04 21:00:00 | 日記

 ■『粧』 ①

 《意味》

 ①「よそおう(身なりや外観を整える。 また、美しく飾る。)」(例:化粧)
 ②「よそおい(よそおう事)」

 《成り立ち》

 形声文字です(米+庄)。

 「横線が 穀物の穂、六点がその実を表す」 象形(「米」の意味だが、ここでは、 「おしろい(白粉)」の意味)と「屋根の 象形と土地の神を祭る為に柱状に 固めた土の象形」(「村里」の意味 だが、ここでは、「装(ソウ)」に通じ (同じ読みを持つ「装」と同じ意味を 持つようになって)、「よそおう」の 意味)から、おしろいで飾る事を意味 し、そこから、「よそおう」を意味する。

 《読み》
  音読み: 「ショウ」
 常用漢字表外: 「ソウ」
 訓読み: 常用漢字表内はなし

 常用漢字表外: 「めか(す)」、「よそお(う)」

 《例題 : 化粧》

 最古の実例が含まれている文献は『竹取物語』(9世紀末か10世紀初頭)で、表記は「けさう」となっていました。
 現代仮名づかいでは「けそう」となりますが、「けしょう」と読まれていた可能性もあります。
 「けさう(けそう)」にせよ「けしゃう(けしょう)」にせよ、平安時代の女流文芸作品では、ひらがな表記になっておりますので、漢語というよりはむしろ、和語(大和詞)のような感覚で認識されていたことが推察できます。
 「化粧」自体は、中国起源の漢語です。
 この場合の「化」は「変える」「変わる」という意味で、「粧」の方は「よそおう」「飾る」「かたちづくる」という意味になります。
 なお、「仮粧(けしょう)」という表記もございますが(※意味は同じ)、こちらの方も中国起源の漢語です。

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 化粧(けしょう、×仮粧)
 (英: makeup、仏: maquillage)
 広辞苑によると、主として顔に、白粉(おしろい)や紅(べに)をつけて装い飾ること。

 概説

 『ブリタニカ百科事典』によると、化粧というのは、人間の顔を中心として首手足などの表面に化粧料を施し、美化することである。
 広義には、人だけでなく、ものの外見を美しく飾ることである。

 見る人の印象を操作するという機能本質部分では、化粧と「装飾的な衣服」は同一であり、元来は一体的なもので、化粧のほうが洗い流すものであるのに対し、衣服は着脱可能で、はずしても原型をとどめる、という違いがある。
 古代から一部の人が化粧をしていた。
 古代エジプトでは王族などがすでに化粧をしていたらしい。
 王族などが人前に現れるとき、化粧を用いた。祭礼などでも化粧が行われた。
 だが古代ギリシアでは日頃の鍛錬こそが本当の美を生むとされ、化粧のような上辺だけのものは評価されず、さらに中世ヨーロッパでは「七つの大罪」のひとつの「傲慢」にあたるとして行われなくなった。
 だが、16世紀の宗教改革の後に化粧はふたたび行われるようになった。

 化粧に用いる品々を(おもにからだに塗る粉、液、ペーストの類を)「化粧品」と言う。
 道具類は「化粧道具」と言う。化粧を行うための部屋は「化粧部屋」「化粧室」という。
 化粧の心理的な効果の内容は、その化粧の内容にもよるが、一般的な化粧によって得られる当人への心理的効果としては、自尊心の向上と、社会的な幸福感がある。
 化粧の作業は鏡に向かうので自己意識や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある。

 《化粧の歴史》

 ▼古代

 紀元前1200年代頃の古代エジプトの人々が目や唇に化粧をしている絵画が見つかっている。
 ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインをしていることが見てとれる。
 当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。
 これには病気を媒介する蚊や蝿を近づけない虫除けの意味もあった。
 また、黄色の顔料を肌に塗って日焼け止めにしたり、香油で乾燥した皮膚をやわらかくするなど、砂漠地帯ならではの化粧も行われていた。
 これらの化粧は時代が下るにつれて神官などの特権階級のシンボルとなっていった。
 現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。
 特権階級となった王族や神官たちは「白い肌は肉体労働をしていない証拠」と鉛白を使って肌を白く塗りはじめた。
 この風習は鉛(Pb)の有毒性を知られてもなお続き、18世紀まで続いた。

 ▼古代ギリシャ

 古代ギリシャでは、日ごろの鍛錬こそが美しさにつながるとし、本物の肉体的な美しさを求めたため、化粧はあまりなされなかった。

 ▼古代ローマ

 古代ローマでは、一般には行われていなかった。
 だが、上流階級は生活が乱れており、不摂生(特に食生活の乱れと運動の不足)を隠すためと、アレクサンドロス3世(大王)の東征によりオリエントの文化が流入したため、鉛白などを使った化粧が行われた。
 また、紀元2世紀のローマ帝国時代のギリシアの医師 ガレノスは現在のコールドクリームの原型を作ったとされる。

 ▼中世ヨーロッパ

 その後、(中世の)ヨーロッパでは化粧文化はキリスト教の「神がお作りになったものに手を加えてはならない」という教えと、虚飾は罪である、という考え方により、一時廃れることになる。七つの大罪 の中でも最も重い罪が「superbia 傲慢」であり、「虚飾」は、この最も重い罪「傲慢」に含まれている。
 とはいえ、キリスト教の影響で公然と化粧をすることができなくなってもなお、特権階級の人々は肌を白く見せるための努力をした。
 ビールで顔を洗ったり、眉を剃って細くし額の髪の生え際を剃って髪を結い上げることで顔の白さを強調したり、極端な場合は瀉血して人為的に貧血になることで肌を白く見せようとした。
 時代は下り、16世紀の宗教改革の影響でカトリック教会の権力が弱くなったヨーロッパでは(上記のキリスト教的な教えによる化粧の禁忌が弱まり)、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。
 この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われ、また、貴族達もそれに倣うようになった。
 この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。
 当時の白粉は鉛白などが含まれていたために鉛中毒により皮膚にシミ(肝斑)ができやすかったとされる。
 これをごまかすために「つけぼくろ」が一時期貴族の間で流行した。
 16世紀には水銀を使った白粉が登場し、肌の皮膚がはがれて吹き出物が取れることから持てはやされたが、水銀中毒により歯茎が黒ずんで歯が抜ける副作用があり、口元を隠すために扇子が流行した。
 再び化粧が流行した背景にはヨーロッパとイスラーム社会の争いがある。
 当時のイスラームは科学技術が発達していた上に裕福で、十字軍は遠征先から香水や香油をヨーロッパに持ち帰ってきた。
 また、イスラームから天然痘を持ち込み、その後遺症である「あばた顔」を隠すために白粉を厚く塗ることがはやりはじめた。

 ▼近代ヨーロッパ

 18世紀は再び自然志向が強まり、薄い化粧が流行した。
 19世紀には上流階級の女性の間で病弱で痩せた体が持てはやされ、食事を抜き夜更かしをした上で静脈を強調する青い化粧や、黄疸に見せかける黄色い化粧が流行した時期が有った。
 また、科学者や医薬品メーカーが化粧品開発に関わるようになり、化粧が安価にできるようになった。
 ただし、フランス革命(1789年)など一連の市民革命の結果により特権階級が衰退したのに伴い男性の化粧の風習は廃れ、第二次世界大戦(1939年〜1945年)の後にはほぼ完全に姿を消した。
 1899年には人体に無毒な酸化亜鉛を使った白粉が開発された。

 ▼日本

 古代〜江戸時代

 「魏志倭人伝」には、3世紀頃の倭人(日本人)が、硫化水銀や酸化鉄などの赤い顔料(朱丹)を身体に塗る風俗が紹介されている。
 この頃の日本では3世紀後半の古墳から、赤い顔料で顔や身体に化粧を施した埴輪が出土している。
 古墳時代の化粧は呪術的な意味合いのものである。
 また生きている人間のみならず、死者の体に塗る施朱が国内でも行われていた。
 奈良時代頃までは、唇や頬につける紅は濃く強調される傾向にあったが、「源氏物語」が書かれた平安時代の頃には、薄く紅をつける美意識へと変わった。
 しかし同じ平安時代の間でも、紅の濃淡には流行り廃りがあり、「源氏物語」が執筆された1008年から140年後の1148年に書かれた「久安四年記」には、再度、濃い頬紅が良い事とされている。
 飛鳥時代、遣隋使によって大陸との交流が始まり、紅や白粉などが輸入され、日本でも鉛を使った白粉が作られた。奈良県の元興寺の僧侶だった観城が献上した鉛粉(白粉)を持統天皇が大変喜び、褒美を与えたという最古の記述が「日本書紀」にある。
 また「古事記」には応神天皇の頃、若い女性が眉を描く化粧していた記述が存在する。
 日本では古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る慣習があった。平安時代中期に編纂された「倭名類聚抄」には、「波久呂」と記名されたお歯黒の記述がある。
 平安時代には男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。
 黒い歯は「ほかの人の色に染まらない」という貞女の証しだが、この風習が長く続いたのは、タンニンの効果で歯槽膿漏の予防にもなったからだろう。

 口紅は紅花が原料のものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。
 日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に水銀や鉛を含んでいた。
 長期的な使用者には鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたという。
 口紅に関する記述は、平安時代後期に書かれた有職故実書の「江家次第」に口を化粧する道具の箱を表す「口脂筥(こうしばこ)」が掲載されており、少なくとも平安後期には口紅に相当する化粧道具が存在していたと思われる。
 男性も、公家が平安後期より白粉などで化粧をする習慣が広まり、幕末まで続いた。
 公家の化粧習慣の起源は、有職故実書の「貞丈雑記」によると、鳥羽上皇院政期(1129年~1156年)の頃に、公卿だった源有仁が、風流のために女性の化粧術を真似て、眉抜きや白粉、お歯黒、紅化粧をしたのが最初とされ、同時期に盛んとなった男色文化と合わせて、若い公家に化粧が広まったとされる。
 その後、公家の化粧は室町時代には一般化し、天皇や公家の男子は元服前にお歯黒をつけ、眉抜きをして眉墨を施す眉化粧が階級表示の意味合いとして定着した。
 武家も公家に倣って化粧を導入し、公の席では白粉を塗るようになった。
 お歯黒については、本格的に習慣づけた平氏に対し、次に政権を握った源氏は習慣づけないなど、対応が分かれた。
 しかしその後は、家同様、権威の象徴として定着し、室町時代には将軍家の男子が元服前にお歯黒をつけるようになった。
 また薩摩の島津忠良は、お歯黒をしない者に罰則を設ける法整備を行うなど、化粧の中でもお歯黒の文化が武士の身嗜みとして全国的に浸透するようになった。
 戦国時代以降も男性の化粧は行われた。豊臣秀吉は小田原征伐の際にお歯黒をつけ、吉野の花見の際はお歯黒に加えて眉描きをしていたとされる。
 江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。
 ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。
 位の高い武者は合戦前に首実検に備え薄化粧をする習慣があった。

 室町時代において、武家や公家などの上流階級は、お歯黒や眉化粧を、婚礼や成人などの祝い事や身分に応じての格式を表す礼法として定着させた。
 特に武家は婿取り婚から嫁入り婚に婚礼形態が変わったことで「嫁入記」といった礼法書が作られ、それらを参考に婚礼調度として化粧道具を嫁入り道具として持参させることが多くなった。
 江戸時代に入り、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになり、世界で初めて庶民向けの化粧品店が開かれた。
 当時の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。
 水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。
 口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。
 結納の済んだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行われる風習があった。
 和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された。

 ▼明治〜大正

 1870年3月6日(明治3年2月5日)、政府は皇族華族に対しお歯黒引眉禁止令を出した。
 当初はなかなか徹底されず、3年後1873年3月3日に皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。
 これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。
 しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。
 高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。
 一方、男性の化粧は富国強兵のスローガンの下で「化粧をする男性は軟弱だ」と言われ、廃れていった。
 明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売された。
 しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、有害であることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。 大正時代には、従来の化粧方法をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行った。
 白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。

 本格的に西洋風の化粧が行われたのは関東大震災後のことだった。
 モダンガールと言われた一部の女性たちの間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出るスカートといったいでたちとともに、保守的な人々の非難の的となった。

 ▼20世紀後半以降

 1950年代には、明るく血色が良く見える肌色が重視され、ピンク系のファンデーション、真っ赤な口紅などが流行した。
 アイシャドーやマスカラなどのアイメイクが導入されたのもこのころである。 1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。
 細く眉尻の上がった眉が流行した。
 明るい色のチーク、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧が大いに流行した。
 1970年代後半から1980年代には「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていく。
 天候やTPOに合わせた化粧の使い分けが定着したのもこのころである。
 日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が流行した。
 また日焼けが健康的とされた時代であり、焼いた肌が一時流行した。
 1990年前後のバブル期には、紫外線の害が広く知られるようになったことから、美白化粧品が売り出された。
 濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。
 1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。
 従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになった。一方で、1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。

 1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進み、ギャル文化のブームにより一時は「ガングロ」と言われる黒い肌のメイクや派手なつけまつげも現れたものの、前述の美白指向の定着により、ナチュラルメイク、白肌メイクが多数派になった。
 濃い色のチークやファンデーションも好んで使われている。
 なお現代社会では公の場において、成人女性は化粧をすることがマナーとして定着しており、女性らしい華やかさが求められている。
 自然かつ上品な肌、眉、目元、唇、頬の化粧いわゆるナチュラルメイクが主である。
 しかし、2010年代後半から、ジェンダーレス等の観点から女性らしさを象徴するとされてきた化粧をしない女性が増えており、一方で化粧をする男性も増えている。

 《化粧の分類》

 ▼ナチュラルメイク

 日常の自然な化粧。

 ▼撮影

 屋外やスタジオに合わせた化粧。

 ▼テレビ

 テレビ、特にCMやテレビドラマなどでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧。

 ▼映画

 映画の撮影にて。俳優にメイクを施すメイクアップアーティスト。



 インドの伝統的な演劇の俳優の化粧。

 ▼舞台

 舞台の役柄に合わせた化粧。俳優は、舞台に立つとき、目・鼻・口などの顔のパーツ、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいような「舞台化粧」をする。
 各国の伝統的演劇の多くが独特の化粧を用いている。
 例えば京劇では、役柄に応じた特定の模様の化粧をする。
 日本の歌舞伎でも、役柄ごとに決まった化粧があり「隈取」と呼ばれる独特の化粧をする。
 表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ(二枚目・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たす。


サーカスの団員のメイク。

 ▼男性の化粧

 一般男性の化粧は、スキンケアや日焼け止め、身だしなみを整えたり、シミやニキビ跡をカバーするために行われる。

 ▼その他

 ご遺体

 化粧をほどこすことを死化粧(しにげしょう)という。

     〔ウィキペディアより引用〕



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  『化粧』 作詞 中島みゆき

 化粧なんて どうでもいいと 思ってきたけれど
 せめて 今夜だけでも きれいになりたい

 今夜 あたしは あんたに 逢いにゆくから 最後の最後に 逢いにゆくから


 あたしが出した 手紙の束を返してよ
 誰かと 二人で 読むのは やめてよ
 放り出された昔を 胸に抱えたら
 見慣れた夜道を 走って帰る

 流れるな 涙 心でとまれ
 流れるな 涙 バスが出るまで

 バカだね バカだね バカだね あたし
 愛してほしいと 思ってたなんて
 バカだね バカだね バカのくせに
 愛してもらえるつもりでいたなんて


 化粧なんて どうでもいいと 思ってきたけれど
 今夜,死んでも いいから きれいになりたい
 こんなことなら あいつを捨てなきゃよかったと
 最後の最後に あんたに 思われたい

 流れるな 涙 心でとまれ
 流れるな 涙 バスが出るまで
 流れるな 涙 心でとまれ
 流れるな 涙 バスが出るまで

 バカだね バカだね バカだね あたし
 愛してほしいと 思ってたなんて
 バカだね バカだね バカのくせに
 愛してもらえるつもりでいたなんて

 〔情報元 : Uta-net〕



今日此頃 令和5年9月上旬

2023-09-03 21:00:00 | 日記

 夏の暑さも和らぎ、残暑が厳しいものの過ごし易くなった。
 夏の暑さから解放された様な...。

 最近は、のんびりとゲームアプリを楽しんだり、“言葉”の意味を調べたりしていますが。

 さて、この“解放”という言葉は日本において馴染み薄く、あまり重要視されてないのかも知れません。
 精々、受験生活から受験先への入学までの期間、または都会の陰鬱な生活からの田舎暮らし等、様々なシーンでの、ほぼほぼ、苦痛からの脱却のイメージが強いように思われ、歴史的な観点から見ても日本の場合、部落解放同盟、女性解放運動、革マル派などあったものの、社会問題の項目に過ぎず、日本を揺るがす事は遠い事だったと思われます。

 「解放」とは何でしょうか。

 解き放つこと。
 束縛を解いて自由にすること。
 特に差別や抑圧、重圧から解き放つことを言いますが。
 革命勢力の手によって共産主義化・社会主義化することも「解放」です。

 では、「革命」とは?

 革命(英: revolution)は、権力体制や組織構造の抜本的な社会変革、あるいは技術革新などが比較的に短期間で行われることである。

 「レボリューション」の語源は「回転する」の意味を持つラテン語の「revolutio」である。
 古くは天体の回転運動を示す言葉として使用され、そこから周期が元に戻ることを示すのにも使われるようになり、後には政治的変革を表わすようになった。 
 また漢語の「革命」の語源は「天命が改まる」の意味で、王朝交代に使用された。
 革命は人類の歴史上、さまざまな方法や期間、動機となった思想によって発生した。
 その分野には文化・経済・技術・社会体制・政治体制などがあり、著名な例には社会・経済変革では農業革命や産業革命、政治・体制変革ではフランス革命やロシア革命などがある。
 また、革命という言葉は様々な分野概念に派生しており、何が革命で何が革命でないかの定義は学者の間で議論が続いている。

 一般に、日本は革命が起きたことがない国であるとみなされている。
 これは日本の皇室が古代から現代まで断絶なく存続し続けていること(万世一系)、それによって各時代の「日本」に強い連続性が認められることを根拠としている。

 日本において「革命」に相当するとされる議論のある歴史的事例として。

 ・大化の改新
 ・承久の乱
 ・明治維新

 市民革命またはブルジョア革命、資本主義革命、民主主義革命とは、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代社会(市民社会・資本主義社会)をめざす革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想に基づく人権(政治参加権あるいは経済的自由権)を主張した「市民(ブルジョア・資本家・商工業者)」が主体となって推し進めた革命と定義される。
 代表例はイギリス革命(清教徒革命および名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命など。

 日本において「解放」は、宗教色の強い言葉かも知れませんね。
 例えば、“解夏”もそうだし、ストイック的な生活要素が含んだ行動としての脱出がメインだと私個人的に思うんです。

 そして“現実逃避”です。

 人は、その場から立ち去りたい時ってありますよね?(状況に依りますが)

 現実逃避(英語: escapism)は、現実に求められたり、何かしなくてはならない物事から意図的に注意や意識をそらすための行為や心理状態。
 困難な状況から目をそむけ、不安から逃れようとする機制。

 精神分析では防衛機制の事を指す。

 一般には、やらなければならない業務、課題といった社会生活を送る上で義務的な仕事がストレッサー化し、それによる対処行動が本人の逃避に至る状態が平均である。
 重度の逃避衝動に陥った場合、他者に対する攻撃や、自傷による行動が見られる場合もある為、専門的治療が必要なケースもある。

 虐め(ハラスメント)についても、会社内、特に学校でのいじめは間接的、隠れた虐め、学友迫害もまた、被害者にとってかなりのダメージを負います。
 最悪、将来に対する希望が持てないと命の危険性は高くなります。
 これは思春期、多感な時期に起こりがちです。
 このケースの場合、現実逃避より以上に「解放させる」意味で命の代償を選択せざるを得なかったのでしょう。

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 これからのBlogは、一歩一歩という感じで綴らせて貰います。
 アプリ・ゲームや言の葉辞典等も地道に紹介できればと思います。

 では。

ダカーポ ♯008

2023-08-31 21:00:00 | 日記

 ■フェミニズム

 フェミニズム(英語: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称である。
 政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差、性差別に影響されず男女が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動である。
 男女同権主義に基づく、女権拡張主義、女性尊重主義ともいう。

 本来は女性学(英: women's studies; 仏: études féminines)という学問を指す言葉であり、フェミニストとは、女性学者という女性学の学問の学者や研究者を指す言葉である。
 本来はある特定の思想や社会運動を指す言葉ではない。
 第二波以降のフェミニズムは大きく分類すると、最長歴史かつ「フェミニズム」の原型ともなったリベラル・フェミニズム(自由主義フェミニズム)、それを批判して女性差別の原因を資本主義社会だとするマルクス主義フェミニズム(社会主義フェミニズム、ソーシャル・フェミニズム)、原因を資本主義や諸制度ではなく、身体性差で男性自体が抑圧者と批判したラディカル・フェミニズム(急進的フェミニズム)の3大潮流に分類される。
 これら3大潮流以外にも多様なフェミニズムが展開しており、社会学者の上野千鶴子は「フェミニストが一枚岩でいるよりも、多様性があるほうがずっといい」と述べている。
 フェミニズムの対置概念はマスキュリズム(男性解放運動、メンズリブ)。フェミニズムの推進者や同調者は「フェミニスト」という。

 《概略》

 著作家のクリスティーヌ・ド・ピザンのように、個人としての活動は中世から存在したが、思想体系・社会運動としてのフェミニズムは、18世紀の欧州において封建的・絶対主義的国家体制の解体と近代社会の実現を目指す市民革命の一環として起こった。
 1789年のフランス革命が広く女性の権利運動の始まりとしてみなされた。

 ▼フェミニズムの登場(リベラルフェミニズム)

 まず第一波フェミニズム(他のフェミニズムの登場以降にリベラルフェミニズムと呼ばれる)として、19世紀から20世紀前半までの中産階級の女性の精神的自立と経済的自立、教育・職業の機会均等、女性参政権運動を中心とする法的男女平等を求めるから始まったされる。
 19世紀の運動や文化に大きく影響を与え、19世紀後半から20世紀、特に第一次世界大戦の間に、多くの国で女性参政権が認められた。
 ニュージーランドでは、婦人参政権論者ケイト・シェパードの助けによって、1893年に最も早く女性参政権が認められている(なお、アメリカで認められたのは1920年、また日本では1945年である)。

 ▼リベラルフェミニズムへの批判と第二波以降

 その後、1960年代から第二波フェミニズムとして、「文化・社会に深く根を張る意識や習慣による性差別と闘い、主に性別役割分業の廃絶、性と生殖における自己決定権など」を主張した運動が展開された。
 1970年時点の欧米では、妻は就業に夫の許可が必要と法的に定められており、離婚を困難にしている現行の離婚法、中絶の合法化などを含めた社会習慣・意識に根ざす性差別との闘いを中心としていた。
 その中で歴史的・文化的構築物であるジェンダーの概念を中心に様々な潮流を生み、さらに、異なる文化的・社会的立場から批判、再解釈、再構築されている。
 より詳細には様々な思想的立場があり、従来の法的平等を求めるリベラル・フェミニズムがある。
 それを甘いと批判し、女性差別の背景を資本主義社会だとするマルクス主義フェミニズム(社会主義フェミニズム)が登場した。
 二大潮流であったが、更には3つ目として、女性の抑圧の根源を女性の「身体」と「性」を男性支配が支配していること、男性という存在自体に起因するものとみなすラディカル・フェミニズムがある。これら3つがフェミニズムの主流な潮流となっている。
 3大潮流以外にもエコロジーにも目を置いたエコロジカル・フェミニズムなど多様な少数の潮流がある。
 また、「フェミニズム」が人種的多数派の女性中心主義・中産階級・エリート主義で一部のエリート女性が男性と対等になっていたことを反省点として踏まえる者は、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの文化的・社会的要素を考慮する。

 ▼ソ連崩壊・冷戦終結以降

 冷戦終結により、女性差別の原因を「資本主義」とするマルクス主義フェミニズムは急激に衰退したため、フェミニスト間同士の対立の中ではラディカルフェミニストとリベラル・フェミニストによるモノが主流となっている。
 ラディカルフェミニストの小倉千加子は、近代の枠組みを認める「保守」とリベラル・フェミニズムを例え、近代の枠組みを認めない「破壊」とラディカル・フェミニズムを例えており、2002年の著書でリベラルフェミニズムは衰退し、ラディカルフェミニズムが勝ったと述べている。
 一方で、リベラル・フェミニストは、男性を敵視するラディカルフェミニストの過激な言動が、女性の多数派を占めるノンポリ女性が「フェミニズム」への忌避を起こす原因となっていると批判している。
 2000年代に入ってからは、インターネットやSNS上でのフェミニズム運動も普及し始めている。
 その具体例として、#MeTooやTime's Up、#KuTooなどの運動が展開されてきた。
 一方で、フェミニストになりすまして炎上を誘発する行為横行していると指摘されている。
 なりすましの具体例としては青識亜論によるものが知られている。
 ロシアの反戦フェミニストたちの間では、政府の監視の目から逃れるためにテレグラムが活用されている。

 《歴史》

 ▼4つの波

 現代の西洋のフェミニスト運動は、4つの波(wave)に分けられる。
 第1の波は、19世紀から20世紀初頭の女性参政権運動であり、女性の投票権を促進した。
 第2の波である女性解放運動(ウーマン・リブ運動)は、1960年代に始まり、女性の法的な平等と社会的な平等を求めるキャンペーンが行われた。
 1992年頃には、個性と多様性に焦点を当てることを特徴とする第3の波が見られた。
 さらに、2012年頃から第4の波が始まったと考える人もいる。
 第四波フェミニズムは、ソーシャルメディアを利用してセクシャルハラスメント、女性に対する暴力、レイプ文化(英語版)などと戦うもので、最も有名なのがMe Too運動である。

 ▼第一波フェミニズム

 フェミニズムの起源は市民革命、とりわけ、18世紀末のフランスに遡る[27]。1789年にフランス革命により「人間と市民の権利の宣言」(フランス人権宣言)が採決されたが、この「人間」とは「男性」のことであり、男性にのみ権利を与えることに対して女性が抗議し、女性の権利を求める運動が欧州各地に広がった。これがフェミニズムの誕生とされる。ただし、ジロンド派の指導者ニコラ・ド・コンドルセがすでに1787年に執筆した論文「ニューヘイヴンのあるブルジョワからヴァージニアの一市民への手紙」および1790年の「女性の市民権の承認について」において女性に参政権を与えるべきであると主張しており、ロベスピエールのようにフェミニズムに敵対的な態度をとった者が多いなかで、コンドルセは唯一、フランスのフェミニズム史上、重要な地位を与えられている。
 同じくジロンド派を支持した女性作家オランプ・ド・グージュは、1791年憲法で女性の権利が無視されたことに対して、同年、『女性および女性市民の権利宣言』を発表した。
 イギリスの代表的なフェミニズム作家メアリ・ウルストンクラフトがフェミニズム運動の先駆ともいえる『女性の権利の擁護』を執筆したのは翌1792年である。
 こうした運動は反対に遭いながらも、徐々に欧州全体に浸透していった。
 19世紀半ばになると、女性参政権を求める運動がヨーロッパやアメリカにおいて盛んになっていった。
 この女性参政権運動の起源となったのは1848年にアメリカ・ニューヨーク州の西部にあるセネカフォールズにおいて、エリザベス・キャディ・スタントンとルクレシア・モットによってセネカフォールズ会議が開催され、その要求の一つに女性参政権が盛り込まれたことである。

 1848年はまた、フランスにおいても、プロレタリアート主体の二月革命によって成立した臨時政府のもとで、社会主義(サン=シモン主義、フーリエ主義)のフェミニストを中心とする「1848年の女性たち」の運動が起こった年であり、この運動を牽引したのがウジェニー・ニボワイエと彼女が創刊した機関誌『女性の声(フランス語版)』である。
 18世紀以前は一部の上流階級を除いて、女性は男性と等しく農作業・商・手工業などの労働に就いていたが(戦後の高度経済成長期の日本の地方では、都会で専業主婦が広まってからも女性が農業や漁業などの労働に従事していたように)、産業革命の影響で労働に就いていた中流階級の女性は専業主婦となる事が多かった。
 20世紀には「結婚して子供を持つ郊外住宅の主婦」が女性の憧れの的とされた。この背景には戦中に若い男性がいない為に工場で労働に従事していた女性を家庭に入れようとするアメリカ政府のプロパガンダがあった。
 日本も例外ではなく、戦中は男性不足のため若い女性は工場で軍需産業などの労働に就いていたが、戦後はアメリカ型の専業主婦となることが幸福と思う者が、特に日本女性には多かった。
 しかし、家庭に戻った女性の中には結婚し子供を育てるだけの人生に不満を持つ者もいた。
 米国における第二波フェミニズム(ウーマンリブ運動)の引き金となった『新しい女の創造』の著者ベティ・フリーダンは同書で当時の女性の心境を語っている。

 郊外住宅の主婦、これは若いアメリカの女性が夢に見る姿であり、また、世界中の女性がうらやんでいる姿だといわれている。 しかし、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた。

 ▼第二波フェミニズム

 こうした状況にあって、20世紀西欧の女性解放思想の草分けとなったのが、1949年に出版されたシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』である。
 ボーヴォワールは本書で実存主義の立場から、本質的な「主体」としての男性に対する女性の「他者性」という概念を提示し、女性の「他者」としてのアイデンティティや根源的疎外が、一方において女性の身体、とりわけその生殖能力から生じ、他方において出産・育児といった歴史的な分業から生じると論じた。
 『第二の性』の冒頭に掲げられた「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉は、こうした歴史的・社会的・文化的構築物としての「女」を表わす。
 本書は1950年代から60年代にかけて、主に中産階級の若い女性に強い影響を与え、自立を促すことになった。
 とりわけ米国では、『第二の性』に影響を受けたケイト・ミレットやベティ・フリーダンらの活動から、第二波フェミニズムが生まれることになった。
 1960年代後半から1970年代前半にかけて女性解放運動(米国のウーマン・リブ運動、フランスの女性解放運動 (MLF) など)が世界中に広まり、ニューヨーク、パリなど各地で数十万規模のデモが発生した。
 この運動により後に多くの国で女性の労働の自由が認められるようになった。 
 これを境にフェミニズムはほとんどの国で政治、文化、宗教、医療といったあらゆる分野で取り入れられるようになる。

 女性解放運動は女性を拘束しているとする家族や男女の性別役割分担、つくられた「女らしさ」、更にはこの上に位置する政治・経済・社会・文化の総体を批判の対象にしていた。
 日本でも1970年代に各地でウーマン・リブの集会が開かれ運動の拠点も作られた。
 またこの頃、ピル解禁を要求する、榎美沙子が代表の「中ピ連」が結成された。
 ウーマン・リブ運動の高揚を受けた国際連合は、1972年の第27回国連総会で1975年を国際婦人年と決議し、メキシコで世界女性会議(1975年)を開催して「世界行動計画」を発表した。
 続いてコペンハーゲン会議(1980年)、ナイロビ会議(1985年)、北京会議(1995年)などが開催された。
 一方、理論面においても、以下のように、その思想的立場から様々な潮流を生み、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの異なる文化的・社会的立場から次々と批判的な読み解きが行われている。

 ▼1970年代以降

 当初は主に欧米で運動が進められ、男女の法的権利の同等(女性が男性と同様に参政権を持つことなど)を求めていたが、それが実現された後、20世紀後半の運動において、文化における性差別の克服が取り込まれ、伝統的な女性概念による束縛からの「女性による人間解放主義」と定義された。
 70年代のイギリスでは、左派系の女性たちがLWLW(ロンドン・ウィメンズ・リベレーション・ワークショップ)を結成した。
 1970年代以降の第二波フェミニズムでは、同性愛者であったミシェル・フーコーらによる、男性同性愛者や性的指向についての研究の成果を取り込み、ジェンダーへの関心や、LGBTなどセクシュアル・マイノリティの扱いにまで視点を広げた。
 一方でフェミニストとセクシュアル・マイノリティにはそれぞれに立場に違いがあるため、例えばトランス排除的ラディカルフェミニストとトランス女性の間で対立や論争も発生した。
 フェミニズムは過去、現在の社会関係においての社会理論と政治的慣習の組み合わせであり、主に女性の被抑圧的な体験によって動機付けされた束縛からの解放を目指すものである。
 一般的には、フェミニズムは性別的不平等論を含み、より具体的には、女性権利の新たな獲得と利益の向上を含む。 フェミニストが論じるのは、ジェンダー、そして性でさえもが、社会的、政治的、経済的な理由によって不平等に構築されているのではないか、という問題である。
 政治的に活動するフェミニストが主張するのは、女性参政権、賃金格差の是正、選択的婚姻男女別姓、出産の自己決定権などの問題である。

 多くのフェミニストは、女性に関する様々な社会問題が、男性優位の社会構造から生じ、または家父長制が無意識に前提視されていることから生じていると主張している。
 また、女性間の差異を考慮に入れれば、たとえば「黒人」「女性」というように、二重、三重に抑圧されていると捉えることができるため、フェミニズムを複合的な抑圧の集成理論として、また相互に影響する多くの解放運動の流れの一つとして捉えることもできる、と主張している。
 フェミニズムの議論は妊娠中絶、避妊、出産前のケア、育児休暇、セクハラ、ドメスティックバイオレンス、強姦、近親相姦、女子割礼問題なども対象とする。

 ▼リベラル・フェミニズム

 一般に個人主義的でリベラル・左派的な傾向を持つ。男女平等は法的手段を通して実現可能で、集団としての男性と闘う必要はないと主張する。
 ジェンダー・ステレオタイプ、女性蔑視のほか、女性の仕事に対する低賃金、妊娠中絶に関する制限などを男女不平等の原因と考える。
 ナオミ・ウルフらが代表格である。

 ・1791年、『女性および女性市民の権利宣言』(オランプ・ド・グージュ)

 ・1792年、『女性の権利の擁護』(メアリ・ウルストンクラフト)

 ・1869年、『女性の隷従』(ジョン・スチュアート・ミル)

 ・2007年、『ポルノグラフィ防衛論』(ナディーン・ストロッセン)

 ▼マルクス主義フェミニズム

 マルクス主義フェミニズムは、資本主義が女性を抑圧する原因だと考える。
 資本制的生産様式では男女不平等は決定しているとみなし、女性を解放する方法として資本主義の解体に焦点を合わせる。

 ・1972年、『家事労働に賃金を』(マリアローザ・ダラ・コスタ)

 ・1978年、『沈黙』(ティリー・オルセン)

 ・1984年、『家事労働と資本主義』(クラウディア・フォン・ヴェールホーフ(ドイツ語版))

 ・1984年、『なにが女性の主要な敵なのか ― ラディカル・唯物論的分析』(クリスティーヌ・デルフィ)

 ▼セックス・ポジティブ・フェミニズム
 性の解放は女性の自由の不可欠な要素であるという思想を中心とした、1980年代初頭に始まった運動。一部のフェミニストは、ポルノグラフィに反対するフェミニストに対抗して、セックス・ポジティブ・フェミニズム運動に関与するようになった。
 1980年代初頭のセックス・ポジティブ・フェミニストと反ポルノグラフィ・フェミニストの間の激しい論争は、しばしばフェミニスト・セックス戦争と呼ばれている。
 セックス・ポジティブ・フェミニズムは、セックス・ポジティブ運動と関連している。
 セックス・ポジティブ・フェミニズムは特に、反検閲活動家、LGBT活動家、フェミニスト学者、ポルノグラフィやエロティカの製作者を結集させている。
 セックス・ポジティブ・フェミニストは一般的に、売春婦そのものが犯罪者とされたり、刑罰を受けたりするべきではないという考えで一致している。

 ▼ラディカル・フェミニズム

 1970年代に米国で誕生。公的領域のみならず家庭や男女の関係までも含む私的領域まで急進的な姿勢で問い直すことを主とする。
 右派と左派が存在する。ラデイカルと呼ぶよりも、保守・右派的な傾向もあり、ポルノグラフィーに対する法的規制運動に熱心である。
 ポルノグラフィ撲滅運動は、純潔思想からポルノグラフィを糾弾している保守系議員やキリスト教原理主義団体といった反フェミニズム・アンチジェンダーフリー勢力と考え方が一致しており、批判の対象となっている。
 過激なポルノ規制派のアンドレア・ドウォーキンは、ポルノ弾圧の目的のため、保守派の男女や右派フェミニストとも交流し、リベラルのナオミ・ウルフから批判された。

 ・1970年、『性の政治学』(ケイト・ミレット)

 ・1970年、『性の弁証法』(シュラミス・ファイアストーン)

 ・1970年、『シスターフッド(女性同士の連帯)は力強い』(ロビン・モーガン編)

 ・1976年、『ポルノグラフィー ― 女を所有する男たち』(アンドレア・ドウォーキン)

 ・1978年、『ガイン/エコロジー』(メアリ・デイリー)

 ・1980年、「強制的異性愛とレズビアン存在」(アドリエンヌ・リッチ)

 ・2003年、『ポルノグラフィと売買春』(キャサリン・マッキノン)

 ▼エコロジカル・フェミニズム

 エコフェミニズムとも。男性による自然支配と女性支配を同根と定め、自然保護の立場から戦争、女性への暴力、女性支配、先住民への差別、環境破壊に反対する。
 「エコフェミニズム」という言葉の生みの親とされるフランソワーズ・ドボンヌは、1978年にエコロジー・フェミニズム協会を設立。
 この運動は、当時、フランスではほとんど反響を呼ばず、オーストラリアや米国において引き継がれ、大きな広がりを見せることになった。

 ・1974年、『フェミニズムか、死か (Le Féminisme ou la mort)』(フランソワーズ・ドボンヌ)- 本書でエコフェミニズムを提唱。

 ・1978年、『女性と自然』(スーザン・グリフィン)

 ・1980年、『自然の死』(キャロリン・マーチャント;団まりな他訳
 1985 工作舎 ISBN 4-87502-109-7)

 ・1994年、『フェミニズムとエコロジー』(青木やよひ)

 ▼第三波フェミニズム

 ★ポスト・フェミニズム(バックラッシュ)

 ポスト・フェミニズムとは第三波のフェミニズムに対する批判として生まれた複数の見解を指す。
 明確にはアンチ・フェミニズムではないが一波と二波の確立した女性の権利を肯定するとともに三波の立場を総じて批判する集団で構成された。
 1980年に現れバックラッシュと表現された集団が使い出した言葉である。
 上野千鶴子の書籍を、図書館から排除させようとする動きなどが存在した。

 ★バイオ・フェミニズム/サイボーグ・フェミニズム

 ▼第四波フェミニズム

 ★ツイッター・フェミニズム

 ツイフェミとは、Twitter上でフェミニズム的な言動を展開する人々またはその現象を指す俗語・インターネットスラングである。ツイッター・フェミニズムおよびツイッター・フェミニスの略語である。
 ツイフェミとされる言動や人物に対する否定的な文脈で使われることが多い。
 ツイフェミになりすまして炎上を誘発する行為や、ストローマン論法によってフェミニストの発言を捏造する行為が横行していると指摘されている。
 なりすましの具体例としては、青識亜論によるものがある。

 《日本》

 ▼明治維新からの女性解放政策

 明治維新からは女性解放政策が打ち出されたが、反発も起こり十年ほどで急速にしぼんでしまう。

 ★推進政策

 ・1869年、関所を女性が自由に通行できるようになる。また、津田真一郎(津田真道)という刑法官が女子売買の禁止の建白書を政府に提出。

 ・1871年、津田梅子(当時、満六歳:最年少)ら、五人の少女が、岩倉使節団で、米国へ留学する。

 ・1872年、芸妓と娼妓の無条件解放が布告される(公娼制度は残された)。女学校が設立される。

 ・1873年、妻からも離婚訴訟ができるようになる。女子伝習所(女子のための職業訓練所)が開設される。

 ・1874年、東京女子師範学校が設立される。

 ★反発政策

 ・1874年以降スイスで女性参政権の要求(ドイツ語版)が高まりつつあったが、これを検討した1976年のスイスの法律書は、武者小路実世らにより女性参政権を否定する内容に誤訳され『国会議員選挙論』(1879年)として伝えられた。

 ・1885年、第一次伊藤博文内閣の文部大臣森有礼が「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。
 翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

 ・1885年、第一次伊藤博文内閣の文部大臣森有礼が「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。
 翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

 ・大日本帝国憲法において女性参政権が成立しなかった。

 ・1890年7月公布の「集会及政治結社法」にて女性の政治活動を禁止。
 女子は政談演説を聴きに行くことも禁じられ、戸外で三人以上集まる時は警察に届けなければならなくなった。

 ▼日本初の女性参政権

 1878年(明治11年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議した。
 しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。
 そして1880年(明治13年)9月20日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められた。
 その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現した。
 この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカ合衆国のワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となった。
 しかし4年後の1884年(明治14年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された。

 ★女性解放運動家の登場

 政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできる。
 女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになる。
 完全な女性参政権の獲得という大目標の達成には至らなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。

 ・『青鞜』運動

 ・母性保護論争(平塚雷鳥、
       与謝野晶子、山川菊栄)

 ★戦後の女性解放運動

 戦前から選挙権獲得運動を推進していた市川房枝などの女性運動家によって、終戦から10日後の1945年8月25日に「戦後対策婦人委員会」が組織され、日本政府とGHQに対して婦人参政権と政治的権利を要求した。
 その後も「主婦連合会(主婦連)」など、女性が担い手となった政治結社がいくつも作られたが、この時期の組織は食糧獲得や物価高騰への抵抗など、生活を再建させる上での主婦や母という性別役割を完全に果たすたことが動機である「婦人」たちの組織だった。
 こうした性別役割に基づく婦人運動は第二波フェミニズム(ウーマンリブ運動)以降の女性運動家からは、「男に認められたい女」の組織として全面否定された。
 しかし、「女・子ども」の言い分と切り捨てられる文化風土に対して、女性が自律的な活動をする上で「母」の観念は強力なエートスとなりえた。
 1960年代の安保闘争以降、女性が政治運動に参加する中で、主婦や母といった性別役割分業への疑問や葛藤が表面化し始めた。
 それは1970年代のリブ運動の到来とともに一挙に明らかとなった。
 なかでも、1975年の国際婦人年は大きな契機となり、女性であるがゆえに免れない不利な状況を克服するための諸問題を打破するために、公的な場への女性の登用を目的として41の女性団体が共同行動を起こした。

     〔ウィキペディアより引用〕

銭の花《商魂》 ♯012

2023-08-30 21:00:00 | 日記

 ■カールおじさん

 カルビー株式会社
 (英: Calbee, Inc.)
 日本のスナック菓子メーカー。
 シリアル食品(グラノーラ)なども製造・販売している。

 《会社概要》

 ▼ 沿革

 ・1949年(昭和24年)広島県広島市(現在の南区宇品)にて、松尾糧食工業株式会社として設立。
 1955年(昭和30年)現在の会社名のカルビーに変更。
 カルビーは、当時の日本人に不足しているとされたカルシウムの「カル」と、ビタミンB1の「ビー」を組み合わせた造語である。

 ・1964年(昭和39年)に発売された、瀬戸内海の小海老を使った「かっぱえびせん」がヒット商品となり、カルビーの名が知られるようになる。
 仮面ライダーのカード付きスナック菓子や、藤谷美和子を起用した「カルビーポテトチップス」のCMでも話題になった。
 1973年(昭和48年)に本社を広島から東京に移転。

 ・2005年(平成17年)には3代続いた同族経営をやめて、創業家外の社長兼CEO・CIOとして、中田康雄が就任。
 バランスト・スコアカード(BSC)を経営に積極活用し、BSCを用いて立てた仮説を検証するために、“経営の見える化”を図った。
 2009年(平成21年)6月には米ペプシコの全額出資子会社であるジャパンフリトレーの買収を発表。
 「ドリトス」などトウモロコシを材料とする商品で強みを持つジャパンフリトレーを傘下に加えることで、ポテト関連商品の割合が70%を超える同社が新たに成長軌道を描くための基盤を整えた。
 同時にペプシコが、子会社のフリトレー・グローバル・インベストメンツ社(オランダ法人)を通じて、カルビーの株式を20%取得し大株主となった。

 ・2009年6月24日より伊藤秀二に代表取締役社長をバトンタッチするとともに、松尾雅彦の指名により、会長兼CEOとして、ジョンソン・エンド・ジョンソンの代表を務めた松本晃を迎えた。
 同時に社外取締役制度の強化を図り、カゴメ相談役喜岡浩二やキッコーマン取締役会議長茂木友三郎、一橋大学教授一條和生を招聘した。

 《年表》

 ・1949年(昭和24年)
  広島に松尾糧食工業株式会社を設立。
 ・1955年(昭和30年)
  商号をカルビー製菓株式会社に変更。 「かっぱあられ」(日本初の小麦粉によるあられ)を発売。

 ・1964年(昭和39年)
  「かっぱえびせん」を発売。

 ・1968年(昭和43年)
  宇都宮工場を操業。

 ・1969年(昭和44年)
  千歳工場(現在の北海道工場)を操業。

 ・1971年(昭和46年)
  「仮面ライダースナック」を発売。

 ・1972年(昭和47年)
  カルビー食品株式会社を設立。
  じゃがいもを原料にしたスナック菓子「サッポロポテト」を発売。

 ・1973年(昭和48年)
  ◇6月20日に本店を広島市宇品御幸一丁目12番23号から東京都北区東十条六丁目1番15号に移転。
 広島の旧本店は支店に変更。
  ◇12月27日 商号をカルビー株式会社に変更。
 「仮面ライダーV3スナック」を発売。 「プロ野球スナック」を発売。

 ・1975年(昭和50年) 鹿児島工場、下妻工場を操業。
  「カルビーポテトチップス」を発売。(当初は内容量90グラムで定価100円)

 ・1976年(昭和51年)
   宇都宮第2工場、滋賀工場(現在の湖南工場)を操業。
 原料部門が独立し、カルビーポテト株式会社を設立。

 ・1982年(昭和57年)
  2月22日 本店を東京都北区赤羽南一丁目20番1号に移転。

 ・1983年(昭和58年)
  各務原工場を操業。

 ・1986年(昭和61年)
  広島西工場(現在の広島工場西棟)を操業。

 ・1988年(昭和63年)
  シリアル食品市場に参入。

 ・1989年(平成元年)
  シリアル製造の清原工場を操業。

 ・1990年(平成2年)
  スナックフード・サービス株式会社を設立。

 ・1991年(平成3年)
  東京研究開発センターを開設。

 ・1992年(平成4年)
  「ピザポテト」発売。

 ・1993年(平成5年)
  「堅あげポテト」発売。

 ・1994年(平成6年)
  旧本社ビルが完成。

 ・1995年(平成7年)
  4月1日-創立20周年ロゴ制定として「Calbee」へ変更。
  新宇都宮工場を操業。
 「じゃがりこ」を発売。

 ・1996年(平成8年)
  ガーデンベーカリー株式会社を設立。

 ・1999年(平成11年)
  綾部工場(現在の京都工場)を操業。
 じゃがいも不作により「ポテトチップス」を価格据え置きで100グラム→90グラムに減量。
 2世代目のカルビーポテト丸の竣工。

 ・2000年(平成12年)
  株式会社カルナックを設立。

 ・2004年(平成16年)
  シリアル製造部門が独立し、オイシア株式会社を設立。
 研究開発の拠点となるR&DDEセンター(現在の研究開発本部)を設立。

 ・2005年(平成17年)
  滋賀工場が独立し、カルビー湖南株式会社(現在のカルビー・イートーク株式会社)を設立。

 ・2006年(平成18年)
  「じゃがビー」(Jagabee)を発売。
 旧広島工場(宇品)を閉鎖し、現広島工場(現在の広島工場東棟、廿日市市)創業。

 ・2007年(平成19年)
  「ポテトチップス」のベーシックラインのレギュラーサイズを従来の90グラムから85グラムに減量。
 参考価格は税込み145円で据え置き。

 ・2009年(平成21年)
  ペプシコと業務・資本提携を締結、ペプシコがカルビーの発行済み株式を20%取得し、カルビーがジャパンフリトレーを完全子会社化する。

 ・2010年(平成22年)
  本社を現在地(丸の内トラストタワー本館)に移転。
 旧本社屋はその後、吉野家ホールディングスの本社として2016年1月まで使用されたのち、同年11月よりPALTAC東京支社となっている。
 また、2008年11月より「ポテトチップス」のレギュラーサイズが158円(85グラム、税込参考価格)となっていたが、値下げされ148円となった。

 ・2011年(平成23年)
  ◇3月11日 東京証券取引所1部上場。

 ・2012年(平成24年)
  世界最大のポテトチップス(501キログラム)を作成し、ギネス世界記録に認定。

 ・2013年(平成25年)
  2004年に独立させたオイシア株式会社を吸収合併。

 ・2015年(平成27年)
  秋 - 同社初となる筒入り型「ポテトチップス クリスプ」を発売。

 ・2019年(令和元年)
  ◇5月6日  「ポテトチップスコンソメパンチ」40周年を記念して、「ポテトチップスコンソメ肉パンチ」と「ポテトチップスコンソメ野菜パンチ」が発売。

 ・2020年(令和2年)
  カルビー(中国)管理有限公司(中国上海市)を設立。
 株式会社ポテトかいつかを100%子会社化。

 関連項目 ー カルビーポテトチップス ー

 カルビーポテトチップスは、カルビーが製造するポテトチップスのブランド。

 カルビーのトップブランドで、1975年うすしお味・1976年のりしお・1978年コンソメパンチと発売、以降様々なフレーバー・サブブランドを立ち上げており、2019年時点で日本のポテトチップス市場の7割を占める。
 商標登録は、うすしお味第4464004号、のりしお第4464005号、コンソメパンチ第4464006号、他。

 日本のスナック菓子の代表的存在。 
 1964年発売のかっぱえびせん、前身が1988年発売のフルグラ、1995年発売のじゃがりこ、2006年発売のJagabeeとともに、カルビーのメガヒット商品の一つ。
 なお日本初のポテトチップスは濱田音四郎の「フラ印」とされ、日本で初めて量産化したのが湖池屋であり、カルビーは日本のポテトチップス市場では後発になる。

 《商品一覧》

 ★かっぱえびせん

 ★こんがりトースト焼き焼き

 ★カルビーポテトチップス
 地域限定商品を含めると年間で約200種類が販売されている。
  ◆ピザポテト
  ◆チーズポテト
  ◆ルイジアナ 1983年発売。
   カルビー初の厚切りウェーブカット。
  ◆エスニカン 1986年〜1993年に発売。
  当時の激辛ブームに乗せて発売。
  2018年3月12日から復刻版を発売。
  ◆グリルビーフ 1987年〜1993年に発売。2018年3月12日から復刻版を発売。
  ◆お好み焼きチップス 1989年〜1993年に発売。
  前身は「OKONOMI CHIPS」。
  2018年3月12日から復刻版を発売。     
  ◆ポテリッチ こだわりの黒こしょう味 お酒のつまみに合うポテトチップスをローソンで2012年3月20日に限定で発売。 ポテトチップス 贅沢バニラ 冷やして食べるとうまいポテトチップスがコンビニで2012年4月16日に、コンビニ以外では4月30日に期間限定で発売。
  ◆堅あげポテト 昔ながらの釜揚げ製法で製造された厚切りにして堅めの食感を持ったオールドスタイルのポテトチップス。
  ◆極ぎゃが(きわじゃが) 3.5ミリメートルと厚めにカット。2017年発売。
 ポテトチップス47都道府県の味(地元チップス)。
 各都道府県の地元の味を再現したポテトチップスを数量限定・期間限定で発売。

 ★サッポロポテト
 ★じゃがりこ miino(ミーノ)
 ★じゃがポックル(地域限定)
 ★野菜スナック(サッポロポテトつぶつぶベジタブル、さやえんどう、ベジたべる、ベジップスなど)
 ★チーズビット(春夏限定)
 ★おさつスナック(秋冬限定)
 ★フルグラ(フルーツグラノーラ)
 ★フルグラ くるみ&メープルシロップ味(2015年10月12日発売、2015年度秋・冬限定販売)
  機能性表示食品としても展開。
 ★ Oh! おつまみ カード付きスナック・ポテトチップス

 ★仮面ライダースナック 1999年に復刻版として「仮面ライダーチップス」が発売される。
 第2弾カードにレアカードが続出、オークションで高値売買される。
 ★仮面ライダーV3スナック 『仮面ライダー』放送終了後に後継商品として発売された、後に発売されるおさつクッキーと同じ物を採用。
 ★プロ野球チップス
 ★Jリーグチップス サッカー日本代表チームチップス
 ※この3つの商品は、トレーディングカードがおまけに必ず付いてくることで人気のロングセラー商品。
 当たり(=ラッキーカード)が出ると、当たり1枚でカードを収納するアルバム、2枚で全選手サイン入りカードが貰える。
 ★ドラえもんチップス

 ★忍者ハットリくんチップス

 ★パーマンチップス

 ★ドラハッパーチップス

 ★5きげんチップス(ドラえもん、忍者ハットリくん、パーマン、オバケのQ太郎、プロゴルファー猿の5作品)
  ※この5つの商品もカード付きで当たりが出るとカードアルバムが貰える。
 1980年代前半の藤子不二雄劇場の放送に合わせて発売された。
 なお、ドラえもんチップスは2014年に再発売された。

 ★カルビーポテトチップス 新世紀エヴァンゲリオン

 コラボ商品

 ★ポテトチップス 特選丸大豆しょうゆ味(キッコーマンとの提携商品)
  しおとごま油風味(かどや製油との提携商品)

 〔ウィキペディアより引用〕