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言の葉辞典 『星/★』①

2023-09-12 21:00:00 | 日記

 ■『星/★』①

 《意味》

 夜空に点々と小さく光って見える天体。

 《語源・由来》

 星の語源には、「ほそひ(細火)」や「ほし(火気)」、「ほしろ(火白・日白)」など諸説ある。
 この中では「ほいし(火石)」の意味とする説が妥当であろう。

 《星という言葉》

 普通、太陽、月のように円板状に見えず、点状に輝く天体を「星」という。
 したがって星ということばには、広くは恒星、惑星、衛星、彗星(すいせい)、流星などを含む場合もあるが、狭義には星座をつくる恒星をさす。
 英語のスターstarの場合は恒星のみをさす。
 惑星はプラネットplanet、衛星はサテライトsatelliteということばで区別する。
 広義の星に含まれるそれぞれの天体が天文学の対象であることはいうまでもないが、自然科学的な記述はそれぞれの項目に譲り、この項では、星の民俗、文化、信仰などについて展開する。

 《星と占い》

 古代の諸民族には死者の魂が天上に昇り、星になると信じていたものが多い。  
 強者が死ぬと明るい星に、弱者が死ぬと暗い星になると考えた民族もある。
 天体の運動が人間社会に大きな影響力を与えるということは、紀元前数千年にオリエントのバビロニア王国で信じられており、日月五星(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)の動き、およびそれに従うさまざまな判断が、出土した粘土板の楔形(くさびがた)文書から明らかである。
 バビロニアではとくに金星が観測され、その配置から兵乱、地震、洪水、暴風などの災害を予言した。
 また天体の動きを詳細に調べるために、とくに太陽その他の天体の通り道である黄道(こうどう)帯の天域が観察され、1年12か月の太陽の位置に対応して黄道を12の星座に分割することが行われていた。
 そしてこれが誕生時の天象から人の運命を占断するホロスコープ天文学の淵源(えんげん)となった。

 バビロニアの星の知識はギリシアに移植され、ギリシア神話に登場するさまざまな人物、動物、器物の名を冠した星座が48個も制定された。
 黄道十二宮も、おひつじ、おうし、ふたご、かに、しし、おとめ、てんびん、さそり、いて、やぎ、みずがめ、うお、と今日の形に確定された。
 誕生日に太陽がどの星座に位置しているかによって人の一生の運命が決まるが、さらに複雑、詳細な判断をするために、月、5惑星と12の星座との親疎関係を定め、また誕生時刻に東の地平線に昇ってくる星座を重要視するなどした。

 中国では、月の運動を重要視し、周期27日余りの動きに対応して全天を28の不等な部分に分割し、二十八宿(にじゅうはっしゅく)とよんだ。
 昴(ぼう)宿(プレヤデス)、畢(ひっ)宿(ヒヤデス)、参宿(オリオン座三つ星)、柳(りゅう)宿(うみへび座δ(デルタ))、心宿(さそり座アンタレス)などがこれである。
 二十八宿に付属して、全天1166星が宮廷内の制度に対応した名前でよばれる。
 天皇大帝のいる帝座、王宮である北極紫微垣(しびえん)、十二諸侯の府である太微垣(たいびえん)、行政立法府である天市垣(てんしえん)がある。細目では、天厩(てんきゅう)(うまや)、天溷(てんこん)・天廁(てんそく)(いずれも便所)、外屏(がいへい)(外の塀)、天屎(てんし)・外厨(がいちゅう)(台所)、玉井(ぎょくせい)(井戸)、酒旗(しゅき)(宴会場)などまで用意されている。
 これは地上界と同じ行政機構が天上界にも存在し、地上に起こることはまず天象によって示されると信じたことによる。
 そのため、日食・月食や客星(見慣れない星の出現)、彗星や大流星、赤気(オーロラ)などの天変は天帝の戒めとしてもれなく記録した。
 日食・月食の推測計算を専門に行うことは天文博士(はかせ)の重要な仕事であった。
 これは西洋のホロスコープ占星術に対し、東洋の天変占星術ということができる。

 以上のような天文学に関する中国の知識はそのまま日本に取り入れられた。
 そのため日本の多くの歴史書には天変現象の記録(とくに日食、月食、惑星の合(ごう))が多い。

 《星の名前》

 ヨーロッパではギリシア神話などに由来する名前が星につけられている。
 また中国でも前述のような占星術も関係して星に名前がつけられている。
 これに対し、日本には古来星の和名がない、と信じられていた。
 これは日本は農業国であり、農民は激しい昼間の仕事の疲れのため、夜はあまり星を見なかった、という説による。
 この説に反発した学者の新村出(しんむらいずる)の論説に感じた野尻抱影(のじりほうえい)は、その九十有余歳の生涯をかけて700種の星の和名を採集した。
 日本古来の星を表す神の名としては、天津赤星(あまつあかぼし)と天津甕星(みかぼし)があり、二つともに金星を示す。

 平安時代の中期、源順(みなもとのしたごう)が著した『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』のなかには「日、陽烏(やたがらす)、月、弦(ゆみはり)月、満月、暈(かさ)、星、明星(あかほし)、長庚(ゆうつづ)、牽牛(ひこぼし)、織女(たなばたつめ)、流星(よばいぼし)、彗星(ははきぼし)、昴星(すばるぼし)、天河(あまのかわ)」の15項目がある。
 陽烏は太陽、明星は木星、長庚は金星である。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』には「星はすばる、ひこぼし、夕づつ。
 よばい星少しおかし、尾だになからましかば、まいて」とある。
 すばる(おうし座のプレヤデス)はよく目につく星である。
 とくに農事に関係して、「すばるまんどき粉八合」のたとえがある。
 「まんどき」は午(うま)の刻、
 すなわち南中のことで、明け方にすばるが天頂高くあるときにソバの種を播(ま)くとよくとれることを教えている。
 すばるはその形から、六連星(むつらぼし)、羽子板星、一升(いっしょう)星、苞(つと)星などの名がある。
 これに対し、おうし座のヒヤデスはその形から、釣鐘(つりがね)星、あるいはすばるに続いて出てくるところから、後(あと)星の名がある。

 北斗七星(ほくとしちせい)もよく目につく星列である。
 位置が北に寄っているため見える時間が長く、仏教の密教では、北斗、北辰(ほくしん)を祀(まつ)る行事が盛んであった。『倭名類聚抄』には北斗の名は出てこないが、『和漢朗詠(ろうえい)集』には「北斗星前横旅雁」(劉元叔)の詩句が出てくる。
 北斗、七桝(ななます)星、七つの星は平安時代の和歌に現れる。
 四三(しそう)の星は、北斗七星をさいころの四の目と三の目とを並べた形に見立てたもので、双六(すごろく)遊びのさいころの目の特殊なよび方である三一(さんいち)、三六(さぶろく)、四一(しっち)、四三(しそう)、五一(ぐいち)、五四(ぐし)のなかからとった名であり、江戸時代の『物類称呼』や『和漢三才図会』にもこの名が出てくる。七曜の星と書いて、ヒチヨウノホシ、ナナヨノホシとよぶ地方もある。
 またその形から柄杓(ひしゃく)星、鍵(かぎ)星、瀬戸内地方では舵(かじ)星ともよぶ。

 北斗の柄(え)の先の星は破軍(はぐん)星とよばれ、中世の武人に好まれた。今日では芝居の舞台で、武人が手にする軍扇の模様にみられる。
 この星は剣先(けんさき)星ともよばれる。
 日周運動により一昼夜の間に十二支の各方位を一周するが、陰陽道(おんみょうどう)では、この剣先に金神(こんじん)が宿るとし、この剣先が示す方向に向かって戦えばかならず敗れ、公事(くじ)(裁判)、勝負事には不利であるという。北斗の柄の先から2番目の星は、中国では開陽とよばれているが、そのすぐそばに小さな星があり、これは輔(ほ)、あるいは輔(そえ)星とよばれる。

 七夕(たなばた)の牽牛(けんぎゅう)、織女は乞巧奠(きっこうでん)(陰暦7月7日の行事)に飾り祀られ、織女星は織女、七夕とよばれ、牽牛星は彦(ひこ)星、犬飼(いぬかい)星の名がある。
 『倭名類聚抄』にも以奴加比保之(いぬかいほし)と訓じている。

 北極星は、北辰、妙見(みょうけん)とよばれた。陰陽道で北極星を尊王(そんのう)に見立て、妙見菩薩(ぼさつ)としたためである。
 平安時代に北辰に法燈(ほうとう)を捧(ささ)げ、真言(しんごん)宗では七曜(北斗)の星祭(ほしまつり)が行われ、北辰・北斗は同時に祀られるようになり、以後、北辰と北斗とが混同されることが多い。
 北極星は一つ星、子(ね)の星の名もある。これは子(ね)の方角、つまり真北に見えるからである。

 北極星のそばにあるこぐま座の二つの星を遣(や)らい星、番(ばん)の星とよぶ。これは北斗七星が日周運動で北極星の周りを回って、北極星をねらっているのを、北斗七星と北極星の中間に位置する二星が、追い払う、番をしているという意味である。

 W字形のカシオペヤ座は錨(いかり)星、山形(やまがた)星、五曜の星などの名がある。オリオン座のδ(デルタ)、ε(イプシロン)、ζ(ゼータ)星は日本各地で三つ星とよばれているほか、三光(さんこう)、三丁の星、三星様(さんじょうさま)、三大星(さんだいしょう)、かせ星、稲架の間(はざのま)といった名もある。
 オリオン座のα(アルファ)星(ベテルギウス)、β(ベータ)星(リゲル)は赤、白の対比の美しい輝星であり、平家星、源氏星の名がある。またオリオン全体を鼓に見立てて、鼓(つづみ)星の名もある。

 ふたご座のα、β星は二つ星、門杭(かどぐい)、または蟹の目(かにのめ)、猫(ねこ)の目とよばれる。
 おおいぬ座α星(シリウス)は全天で第一の輝星で青星(あおぼし)、大星(おおぼし)の名がある。
 りゅうこつ座α星(カノープス)は日本では地平線すれすれにしか出ないため、珍しい星とされた。中国では南極老人星とよばれ、「老人星現れば治安く、見えざる時は兵起こる」といわれた。
 日本では醍醐(だいご)天皇の昌泰(しょうたい)4年(901)、その前年に老人星が見えたことから年号を延喜(えんぎ)と改めた例がある。
 この星は漁師の間では布良(めら)星、和尚(おしょう)星の名でよばれるが、海で遭難した人の霊であるという。
 兵庫県ではこの星の見える方角から、鳴門(なると)星、淡路(あわじ)星の名がある。
 また南の空に出るとすぐに沈んでしまう横着な星ということから横着星の名もあり、岡山県では讃岐(さぬき)の横着星、香川県では土佐の横着星と、星が見える方向の地名をつけてよぶ。
 惑星の名前では金星に関する和名が多い。
 明星(あかぼし)、夕星(ゆうつづ)が広く使われているが、一番星、宵(よい)の明神(みょうじん)、彼(か)は誰(た)れ星(ぼし)、また出入りが早いところから飛び上がり星、盗人(ぬしと)星などもある。
 明け方早く出ることから飯炊(めした)き星、炊夫(かしき)泣かせという名もある。
 流星は流れ星、奔(はし)り星、飛び星、抜け星、星の嫁入りなどがあるが、古くは婚(よば)い星(与八比保之(よばいほし))が普及している。
 以上のように星の和名は、農耕漁労の実生活に密着して、庶民の生活に根ざした名前が多く使われており、民俗学的に興味深い。
 しかし、古来の日本人は太陽や月ほどに星を意識していなかったのではないかと思われる。
 中国から渡来した星名以外には、日本国内に全般的に流布した星名が少なく、ローカル性の強いことが特徴である。
 したがって星に関する神話的説話も少なく、宗教的信仰は、真言密教の星祭を除いてはあまりみられない。

 《星に関する伝承と俗信》

 人類は古来、晴夜には天空に星を仰ぎ見てきた。それは、人間を取り巻く諸々の自然現象のなかでもとりわけ神秘に富んだものであり、人々の想像力をかき立てずにはおかなかった。
 今日一般に用いられている星座名の多くはギリシア神話によるものであり、それはさかのぼって古代オリエントの星辰崇拝(せいしんすうはい)につながっている。
 これほど体系的で、しかも多数の星についての神話をもつ文化は世界的にも少ないが、とくに顕著な星・星座については多くの民族が独自に名称をつけ、さまざまな伝承を発達させてきた。
 星座については、主としてその形状から神や動物や器物などに見立てるが、その見立て方は多様である。たとえば北天のとくに顕著な「北斗(ほくと)七星」(おおぐま座)を見ても、ギリシア神話では、カリストという名のニンフがゼウスの子を身ごもって月と狩りの女神の怒りに触れ、大熊(おおぐま)の姿に変えられたのだとしており、また北米先住民の一部にもこれを熊の姿に見立てるところがある。
 中国では「北斗」すなわち北天にかかる柄杓(ひしゃく)の形に見立て、日本の農村でもひしゃくぼし、しゃくしぼしなどという所が多い。また北欧やバビロニアではこれを神や王の乗った車に見立て、アラビアでは柩(ひつぎ)に見立てている。
 北斗七星は北半球の中緯度以北の地域では、1年を通して地平下に没することがないため、天につながれた大熊(ギリシア)、盗賊(キルギス)、親の仇(あだ)をねらって巡り歩いている娘たち(イラン)などに見立てられることも多い。中国では「北斗」は、いて座の「南斗」と対(つい)をなし、人間の死を扱う天の役人とされた。
 南天の顕著な星座の一つに「さそり座」があるが、この名称もさまざまで、ギリシア人がオリエント起源の伝承を受け入れてこれをサソリとしたのに対し、中国人はこれを天の青竜と見なし、日本では尾部を釣り針、頭部の三角形を駕籠(かご)かつぎや天秤(てんびん)に見立てている。
 ポリネシアの広い地域では尾部のS字形を「マウイの釣り針」とよんでやはり釣り針に見立てているし、タヒチでは頭部をカブトムシとしている。
 星に関する伝説としてとくに有名なものに七夕(たなばた)伝説があり、中国を中心に広く分布している。
 これはいうまでもなく織女(しょくじょ)星(ベガ)と牽牛(けんぎゅう)星(アルタイル)にちなむ伝説だが、日本へは奈良時代前後に入った。
 星は方角の手掛りとしても重要であり、ことに大海原や大平原を旅する航海民族や遊牧民族の間ではそうであった。たとえば航海術に長(た)け、小船での大航海移民を成し遂げたポリネシア人たちは、星についての多くの知識をもっていたことで知られる。
 ハワイ―タヒチ間は3000キロメートル以上もあるが、この間を彼らは北極星(ホク・パアア)を頼りとし、ヒョウタンでつくった観測器でその高さを測りながら正確に航海した。
 日本の漁民や船乗りにとっても、北極星はその航海の目安とされ、ねのほし、あてぼし、ひとつぼしなどとよばれた。
 北極星は天の北極付近にあって一晩中ほとんどその位置を変えないから、方角の目安とされているが、天文知識の発達したエジプトでは、ピラミッドをつくる際に、内室と北極星とを結ぶ線上にトンネルを掘り、これを中心線としているものがあるという。
 星は季節を知らせるものとして、農耕とも関係が深い。日本ではとくにすばる(プレヤデス星団)が播種(はしゅ)の時期を知らせる星と考えられている地域が多い。
 ボルネオ島のある部族では、農作業によって1年を8期に分けているが、焼畑の伐採、火入れ、播種などの時期を知らせるのは、やはりすばるの高さであるという。
 また、古代エジプトでは、シリウスの昇る時刻によってナイル川の増水を予知した。
 ナイル川の増水は氾濫(はんらん)を引き起こしたが、沃土(よくど)をももたらし、シリウスは農耕の女神、イシスの化身とも信ぜられていた。
 あるいは、北海道のアイヌたちは織女星を「客人姿の星」とよび、その出現で春の訪れを知り、すばるを「アルワン・ノチウ」とよんで、それが東方に昇るのを見てサケの漁期を知った。
 さらに星は吉凶の前兆ともされた。とくに古代バビロニアでは、星の位置、運行から人間の運命を予知しようとする占星術が発達し、それはヘレニズム期にギリシアへ入るとともに、インドや中国にも伝播して梵暦(ぼんれき)や易経のなかに体系化されたという。
 もち中国ではさそり座のアンタレスがその赤色の光ゆえに不吉な星とされ、国に大乱の訪れる前兆として恐れられた。
 また、ヨーロッパではシリウスがその強烈な光ゆえに干魃(かんばつ)、熱病をもたらすものとして忌まれた。
 日本では、南天に低くかかるアルゴ座(りゅうこつ座)のカノープスは、めらぼし、だいなんぼしなどとよばれ、漁民から大時化(しけ)の前兆とされた。
 また日本では、この星やシリウスを怨霊(おんりょう)の星とみなす伝承も少なくない。一方、中国ではカノープスを南極老人星と称し、これが見える年は天下太平であるとした。
 日本ではこのほか、農耕との関連で、さそり座のアンタレスなどをてんびんぼしとよび、これが高く昇る年は豊作であるとした。
 このように、世界各地の星に関する伝承は無数にあるが、一般的にいうと、採集狩猟民のような単純な文化をもつ人々においては、星についてあまり体系的な神話や知識は知られていない。天体や星座の名称も、ごく顕著なもののみに限られる傾向がある。
 これに対し、星についての信仰や知識が体系的な発達を遂げたのは、主として高文明地域においてである。
 古代バビロニアの星辰崇拝と占星術はまさにその例であり、その影響を受けたギリシアでも星に関する大掛りな神話が生まれた。
 エジプトでは太陽暦がつくりだされ、さらにそれはシリウスの観察によって精緻(せいち)な暦法に発展した。
 新大陸でも、マヤやインカでは高度な天文知識、暦法、占星術が行われた。日本へも中国経由で体系化された神話や知識が入ったが、日本の星に関する伝承は、農漁民の生活感に基づく素朴なものが多い。

 《神話と信仰》

 太陽と月以外の天体である星の信仰は、古代世界ではとくにギリシア、ローマやバビロニア、インド、中国、メキシコのマヤなどがよく知られているが、各地の先住民族でも多少は行われており、サン人(かつての俗称「ブッシュマン」)やエスキモーおよびイヌイットなどでは、星は死んだ人間の霊がなったものと信じられている。
 またアメリカ先住民やポリネシア人などでは、天の川、北斗七星、宵の明星(よいのみょうじょう)、明の明星(あけのみょうじょう)など、目だつ星だけが神話や俗信の対象となった。
 太陽の通路としての黄道(こうどう)を中心にいくつかの束をなしている恒星の群を星座といい、中国では宿(しゅく)とよぶが、ギリシア神話のおおぐま座・こぐま座などの話で知られるように、これをいろいろな神や英雄、動物などの姿に結び付けて神話や俗信を語ったりする風習は、もともとはバビロニアの占星術が源泉となっている。
 占星術は、恒星とは動き方の違う5惑星(火、水、木、金、土星)や彗星(すいせい)、日月などの色や動き、またそれらと恒星の座との関係が帝王や個人の運命、さらには国家や社会の運勢にまで影響するという観想から生まれた卜占(ぼくせん)法であり、この発達とともに天文観測の技術や天文台、そして後の天文学が生まれた。
 バビロニア、中国、朝鮮の新羅(しらぎ)、マヤなどでは、天文台とともに占星台も設けられていた。
 バビロニアの12の星座(十二宮)や中国の二十八宿の星は、占星術と結び付いて尊崇されていた。
 日本では、星辰信仰は奈良時代以前から陰陽道、宿曜道(すくようどう)などを通じて盛んとなり、とくに北斗七星は寿命をつかさどる神として、北辰とか妙見とかよばれて尊崇されている。
 朝鮮でも北斗は古くから寿命の神とされ、七星堂、七星岩などの聖壇で安産祈願などに信仰されている。

〔情報元 : コトバンク
 

言の葉辞典 『星/★』②

2023-09-12 21:00:00 | 日記

 ■『星/★』②

 星(ほし、せい) star

 ・天文学での星については
  天体の中のひとつの物体。
 天体(てんたい)
(英語: object、astronomical object)とは、宇宙空間にある物体のことである。

 ・記号の星・星印については
「スター (記号)」
 スター (star) は、中が塗りつぶされた五芒星の記号である。
 星(ほし)・星印(ほしじるし)とも呼ぶが、これらは五芒星以外の星型多角形、または「○●(丸印)」「(アスタリスク)」「(押しボタン式電話機に使われる、スターマーク)」を意味することもある。
 中が白い(外枠だけを描いた)「☆」を白星または白スター、中が黒い/塗りつぶした「★」を黒星または黒スターと呼ぶ。
「惑星記号」


 ・図形としての星については

(五芒星)

〔六芒星)

(星型正多角形)

 ・星(国の略称)
  シンガポールを漢字一字で表す時の表記。
  「星加坡(Xīn jiā pō 」と、「新」以外にも「星」表記も使えることに由来。

 ▼その他

 ・星 (紋) 紋(家紋)の一つ。
  渡辺星(三つ星に一文字)
  月星紋、九曜紋、など。

 ・星 (姓名) 姓若しくは名の一つ。

 ・星 (囲碁) 囲碁用語の一つ。

 ・星 (タロット) タロットの大アルカナの一つ。

 ・星 (クルアーン) - クルアーンのスーラの一つ。

 ・大相撲の取組での勝敗を表す俗語。

 《惑星・準惑星》

 惑星は、恒星の周りを公転する天体のうち、中心で核融合を起こすほどには質量が大きくなく、自分で光を放たない天体である。
 ただし、太陽の周りを公転する天体については、重力平衡に達するのに十分な質量を持ち、かつ軌道上から他の天体を排除しているもののみが惑星である。

 準惑星は、太陽の周りを公転する天体のうち、重力平衡に達するのに十分な質量を持つが、軌道上から他の天体を排除していないものである。

 太陽系小天体は、太陽の周りを公転する天体のうち、重力平衡に達するのに十分な質量を持たないものである。

 《衛星》

 衛星は、惑星、準惑星、太陽系小天体の周りを公転する天体である。
 衛星の周りを公転する天体は孫衛星とも呼ばれる。

 ・月(地球)
 ・フォボス(火星)
 ・ダイモス(火星)
 ・ガリレオ衛星(木星)
 ・タイタン(土星)
 ・小惑星の衛星

 《恒星など》

 恒星はガスが自己重力によって球状にまとまり、中心の核融合反応によってエネルギーを放出している天体である。
 光度階級により、主系列星、準巨星、巨星、輝巨星、超巨星のように分類され、各階級は青いO型から赤いM型までOBAFGKMの順に分類される。

 ▼主系列星

 ・O型主系列星
 ・B型主系列星
 ・A型主系列星
 ・F型主系列星
 ・G型主系列星(太陽はこの分類に含まれる)
 ・K型主系列星
 ・赤色矮星

 ▼巨星

 ・赤色巨星
 ・青色巨星

 ▼超巨星

 ・赤色超巨星
 ・青色超巨星

 ▼ウォルフ

 ・ライエ星

 ・コンパクト星

 ▼白色矮星

 ・黒色矮星(白色矮星は黒色矮星という状態になると推測されている。)

 ▼中性子星

 ・パルサー
 ・マグネター

 ▼ブラックホール

 《星団》

 星団は恒星の集団である。

 ・散開星団
 ・球状星団

 《星雲》

 星雲は星間ガスが濃く集まり、我々から観測できる状態にある天体である。

 ▼散光星雲

 ・輝線星雲
 ・
 ・反射星雲

 ▼暗黒星雲

 ▼惑星状星雲

 ▼超新星残骸

 《銀河》

 銀河は数多く(典型的な銀河は数千億個)の恒星や星雲・惑星、星間ガスからなる天体である。

 ▼銀河団・超銀河団

 ・銀河団は数百から数千個の銀河が重力的に束縛された状態にある天体である。

 ・超銀河団は更に複数の銀河団同士が重力で引き合ってできている大規模な天体である。

 関連項目 ー 天文学 ー

 天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia), sterrenkunde (sterrekunde), 仏:astronomie)

 天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。

 《概説》

 現代の天文学は主に3つの分野に分類できる。位置天文学・天体力学・天体物理学である。
 天文学は自然科学としてもっとも早く古代から発達した学問である。
 先史時代の文化は、古代エジプトの記念碑やヌビアのピラミッドなどの天文遺産を残した。
 発生から間もない文明でも、バビロニアや古代ギリシア、古代中国や古代インドなど、そしてイランやマヤ文明などでも、夜空の入念な観測が行われた。
 現代の天文学 (astronomy) を、天体の位置と人間界の出来事には関連があるという主張を基盤とする信念体系である占星術 (astrology) と混同しないよう注意が必要である。
 これらは同じ起源から発達したが、現代では完全に異なるものである。
 なお、現代において、天文現象について天文学的に論ずるときは当然占星術はいっさい排除しなければならないが、学問的に17世紀ごろまでの天文学史を研究する時は、占星術と天文学の関係も研究しなければならない。
 もともと天文学という学問は、研究者が研究対象に直接触ったり取り扱ったりすることができず、また実験を行うことができないものと考えられていた。
 ところが近年は探査機が資料を持ち帰る時代になり、そのため太陽系の天体は純粋な天文学の対象から惑星物理学の領域に移りつつある。
 この例を除けば、天文学が基本的に用いる手段は電磁波を受信するリモートセンシングが中心となる。
 天文学の研究には2つの側面がある。宇宙には地球のどんな実験室でも実現が難しい超高温・超高密度の領域がさまざまなところにあり、このような極限状態でも地上の物理法則が適応できることを確認してその普遍性を検証する点がその第一である。
 これは惑星運動を物理法則で説明した試みが嚆矢に当たる。もうひとつは人類が宇宙の中でどのような位置づけにあるかを考えることであり、いわゆる宇宙観の形成と言える。大抵の場合、天文学の研究にはこの両者が含まれる。
 一方、「天文学は、宇宙を研究対象とする宇宙論(うちゅうろん、英:cosmology)とは深く関連するが、宇宙論のほうは思想哲学を起源とする異なる学問である」と述べる者もおり、立場の違いによってさまざまな見解が存在する。

 ▼位置天文学・天体力学・天体物理学

 位置天文学は天体の位置を、天体力学は天体の運動を研究する学問で、天文学の中でも古典分野とみなされている。
 「天文学」(astronomy) と「天体物理学」 (astrophysics) は同義語である。 
 厳密な辞書的に定義すると、天文学は「地球大気の外にあるモノやコト[訳語疑問点]についての物理・化学的性質に対する研究」であり、天体物理学は「天体や天文現象の振る舞い・物理的性質・動力学的過程」を取り扱う天文学の一分野である。
 たとえば、フランク・シューが1982年に著した入門書『The Physical Universe』の導入部には、天文学は対象の質的研究を指し、天体物理学が取り扱う対象は物理学的志向が高いという。
 しかし、現代のほとんどの天文学の研究は物理学的対象を取り扱う[訳語疑問点]ようになり、天文学は事実上天体物理学とみなされるようになった。
 歴史的には、天文学の学問領域は位置天文学や天測航法また観測天文学や暦法などと同じく多様なものだが、近年では天文学の専門家とはしばしば天体物理学者と同義と受け止められる。
 一方、観測天文学など一部の分野は、天体物理学というより旧来の天文学にあたる。
 天体に関わる研究を行うさまざまな分野では両方の単語が用いられ、その分野が歴史的に物理学の一部に相当するかによって決まることもある。
 なお、現代では多くの専門的な天文学者は、天文学でなく物理学の学位を取得している。

 《歴史》

 ▼古代

 古代になり、文字で記録や歴史が残される時代になっても、星の研究はもっぱら肉眼で行われた。しかし文明が発達するとともに、バビロニア・中国・エジプト・ギリシア・インド・中央アメリカなどで天文台が建設され、宇宙の根元についての考察が発展を始めた。
 ほとんどの初期天文学は、恒星や惑星の位置を記す、現在では位置天文学と呼ばれるものだった。
 これらの観測から、惑星の挙動に対する最初のアイデアが形成され、宇宙における太陽・月そして地球の根源が哲学的に探求された。「地球は宇宙の中心にあり、太陽・月・星々が周囲を廻っている」と考えられた。
 この考え方は、クラウディオス・プトレマイオスから名を取って「プトレマイック・システム (Ptolemaic System)」と呼ばれる。

 数学的または科学的な天文学は、初期段階における非常に重要な進展だった。これらはバビロニアの人々によってもたらされ、後に多くの文明へと展開していく天文学の潮流を創り上げたものだった。
 バビロニアの天文学(英語版)では、月食が一定の期間で再度起こることをサロス周期として発見した。

 バビロニアの後、古代ギリシアとヘレニズム世界において天文学はさらに進歩した。
 ギリシア天文学はその初期段階から、天球における天体の回転運動を物理的に説明することを目指した点を特徴とした。
 紀元前3世紀、アリスタルコスは地球の大きさと、月や太陽の大きさと距離を計算し、太陽中心説による太陽系モデルを提案した。
 紀元前2世紀にはヒッパルコスが歳差を発見し、月の大きさと距離を計算し、アストロラーベのような初期の天文学装置を発明した。
 ヒッパルコスはまた、1020個の星とギリシア神話の神々の名に由来する北半球の星座のほとんどについて、詳細なカタログを作成した。
 紀元前150〜80年ごろ制作のアンティキティラ島の機械は、特定の日における太陽や月および星々の場所を計算するよう設計された、初期のアナログ計算機である。
 ヨーロッパにおいて、これに匹敵する制作技術の再興は14世紀の機械式天文時計の登場を待たなければならなかった。

 ▼中世

 中世の時代、天文学は少なくとも13世紀になるまでヨーロッパでは停滞し、替わってイスラム世界などほかの地域で発展した。
 イスラムでは、9世紀初頭までに最初の天文台が建設され、これが寄与した。
 964年にはアブドゥル・ラフマーン・スーフィーによって局所銀河群最大の銀河であるアンドロメダ銀河が天の川の中から発見され、著作『星座の書』に記録された。
 1006年、非常に明るい等級で輝いた超新星SN 1006は、エジプトのアラビア人天文学者アリ・イブン・リドワンや、中国の天文学者らによって記録された。バッターニー、サービト・イブン・クッラ、アブドゥル・ラフマーン・スーフィー、アブー・マアシャル、アブー・ライハーン・ビールーニー、ザルカーリー、ビールジャンディーらイスラム世界の天文学者(ほとんどがペルシャやアラブ人)や、マラーゲ天文台、ウルグ・ベク天文台などは、科学の発展に大きく寄与した。彼らが用いた星の名は、多くが現在に引き継がれている。
 これらの他にも、グレート・ジンバブエ遺跡やトンブクトゥに天体観察をする建物があったという推察もある。
 以前、ヨーロッパ人は植民地化される前のブラックアフリカでは天文観察は行われなかったと考えていたが、近年の発見はこの思い込みを覆しつつある。

 〔ウィキペディアより引用〕



 

 

 

言の葉辞典 『星/★』③

2023-09-12 21:00:00 | 日記

 ■『星/★』③

 ▼中世末期からルネッサンス期へ、科学革命 (惑星運行の理論に関しては)

 ヨーロッパ中世では、地球を中心にして太陽や他の惑星が回っているとする説(地球中心説、geocentric model)が信じられていて、惑星の逆行に関しては周転円で説明していた。
 ルネサンス期、ニコラウス・コペルニクスは、太陽を中心に惑星が回っているとする説(太陽中心説、heliocentricism)を提唱した。
 彼の説はガリレオ・ガリレイとヨハネス・ケプラーの支持を得た。(観測法に関しては)ガリレオは望遠鏡を使うことで天体観測に革新をもたらした。

 ヨハネス・ケプラーは1609年刊行のASTRONOMIA NOVA(邦訳名『新天文学』)において、従来の「惑星は完全な円の軌道で動く」という理論を超える「楕円の軌道で動く」という説を提唱した。
 そしてケプラーの法則も発表した。ただし、初めて太陽を中心とした惑星の各運動について、その詳細を説明することに挑んだが、その理論体系を構築するまでには至らなかった。
 それに成功したのはアイザック・ニュートンであり、天体力学と引力 gravitation の法則(万有引力の法則 law of universal gravitation)を導き出し、惑星運動に関する理論体系を構築してみせた。
 ニュートンはまたニュートン式望遠鏡(ニュートン方式の反射望遠鏡)も発明した。

 ▼18世紀から19世紀にかけて

 さらなる発見には、望遠鏡の大きさと性能の向上が寄与した。
 大規模な星の一覧はニコラ・ルイ・ド・ラカーユが作成した。ウィリアム・ハーシェルは星雲と星団の詳細な一覧をまとめ上げ、1781年には天王星新発見を成し遂げた。
 初めての星までの距離測定は、1839年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルが視差を用いてはくちょう座61番星までの距離を求めたことにさかのぼる。 
 18〜19世紀には、レオンハルト・オイラー、アレクシス・クレロー、ジャン・ル・ロン・ダランベールが三体問題に取り組み、月や惑星の動きに関する予測精度が増した。
 この仕事はジョゼフ=ルイ・ラグランジュとピエール=シモン・ラプラスによってより洗練され、月や惑星の摂動からこれらの質量を計算できるようになった。

 ▼19世紀

 分光器と写真など新技術の導入によって、天文学はさらなる大幅な進歩を遂げた。
 1814〜15年にヨゼフ・フォン・フラウンホーファーは、分光した太陽光線の中に約600の帯を発見し、1859年にはグスタフ・キルヒホフによってこれらから異なる元素が存在することを説明した。
 夜空の星々が太陽と同じ恒星であることも明らかになったが、それらの温度や質量、そして大きさは広い範囲に分布することも分かった。
 こうした分光学の発展は、のちに天体物理学へと発展する基礎となった。

 ▼20世紀

 地球が存在する天の川銀河が、ほかから切り離されたある星の集団ということが判明したのは1924年のことで、エドウィン・ハッブルによってであり、その外には無数の銀河が存在すること、そして1929年には同じくハッブルによって宇宙が膨張していることが次々と分かり、人類の宇宙に対する認識(≒宇宙観)がどんどん変革した。
 1958年にはヤン・オールトによって、天の川銀河が渦巻き状をしていることが判明した。
 1957年にはスプートニク1号が人類史上はじめて宇宙へと打ち上げられた人工衛星となり、これ以降人類は大気圏外の事象を直接観測する手段を手に入れた。こののちアメリカ合衆国とソヴィエト連邦によって宇宙開発競争が始まり、1960年代から1970年代にかけては両国の人工衛星が続々と打ち上げられ、宇宙空間の知見が急速に集積した。
 1959年にはソヴィエトがルナ1号によって月探査を初めて成功させ、ついでアメリカのマリナー計画やソヴィエトのベネラ計画、マルス計画などによって内太陽系の調査は徐々に進んでいった。外太陽系も、1973年にはパイオニア10号が木星を初探査、1979年にはパイオニア11号が土星を初探査した。
 1977年に打ち上げられたボイジャー2号は1986年に天王星、1989年に海王星を初探査し、この両惑星における貴重なデータをもたらした。
 1990年には初の地球大気圏外の望遠鏡としてハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられ、これにより地上での観測よりもはるかに詳細なデータの入手が可能になった。

 関連項目 ー 宇宙開発 ー

 宇宙開発(うちゅうかいはつ)
 (英語: space exploration)

 宇宙空間を人間の社会的な営みに役立てるため、あるいは人間の探求心を満たすために、宇宙に各種機器を送り出したり、さらには人間自身が宇宙に出て行くための活動全般をいう。

 《歴史》

 人類が宇宙空間へ進出する宇宙開発の構想としては、19世紀にはSF作家のジュール・ヴェルヌの小説に描かれた砲弾宇宙旅行などがあるが、実現化を目指した研究として、1903年にはロシアのコンスタンチン・ツィオルコフスキーが、液体燃料型多段式ロケットや人工衛星、惑星への殖民など宇宙開発の基礎技術を提言した。アメリカでは1926年に、ロバート・ゴダードによる液体燃料ロケット打ち上げが成功している。
 ドイツでは、1923年にヘルマン・オーベルトがロケット推進に関する実証的理論を提言し、1927年には財団法人としてVfR(宇宙旅行協会)が設立される。
 その後、世界恐慌などの影響で宇宙開発の研究は資金不足に陥る。
 宇宙旅行協会も1934年には散会するが、ドイツでは1929年に陸軍兵器局がロケット兵器の開発に着手し、協会にも所属していたヴェルナー・フォン・ブラウンやオーベルトらが中心となり、1942年には液体燃料を使ったロケット兵器の開発に成功。
 第二次世界大戦においてはV2ロケットなどが実戦でも使用された。
 大戦におけるドイツの敗色が濃厚になると、フォン・ブラウンらロケット技術者はアメリカへ投降し、原子爆弾の開発でアメリカに遅れをとっていたソ連も科学者やロケットの実物や資料などを接収し、ドイツで培われたロケット技術は戦勝国へ引き継がれた。

 第二次大戦後には、米ソ両国が冷戦状態になると、国家的プロジェクトとして弾道ミサイルや人工衛星など、軍事的利用が可能な技術の研究が競われる宇宙開発競争となる。
 人工衛星の実現による通信網の拡大は民間事業においても期待されており、アメリカは海軍主導のヴァンガード計画に基づき1955年7月に、ソ連は8月にそれぞれ人工衛星の打ち上げを宣言。
 アメリカが技術的問題に直面しているなか、ソ連は1957年10月に人工衛星スプートニク1号、11月には犬を乗せたスプートニク2号に成功し、アメリカに対して技術的優位を見せ付ける。
 アメリカは12月にヴァンガード1号の打ち上げを実行するが失敗し、ソ連の衛星打ち上げの成功はアメリカの安全保障を脅かすと懸念され、スプートニク・ショックが走った。
 アメリカではヴァンガード計画を改め、1958年にはNASAが設立され、1月にはジュノーI型の打ち上げに成功した。
 それから米ソは、世界初の成果を上げるために激しく争うことになる。

 ソ連は有人宇宙飛行や月・惑星への探査機着陸など、世界初の偉業をことごとく独占した。
 しかし、有人月面着陸ではアメリカのアポロ計画が先行した。アポロ計画は巨額の資金が必要であり、政治家などから多くの反対を受けたが、世論の強い支持を得て計画は推進された。
 1969年7月20日にはアポロ11号が世界初の有人月面着陸に成功し、宇宙開発競争は頂点を迎え、21世紀に向けて楽観的な未来予測がされた。

 関連項目 ー ロケット(Rocket) ー

 ロケット(英: rocket)

 自らの重さ(質量)の一部を後方に射出し、その反作用で進む力(推力)を得る装置(ロケットエンジン)、もしくはその推力を利用して移動する装置である。

 空気などの外部の物質を使用しない点でジェットエンジンなどとは区別される。
 狭義にはロケットエンジン自体をいう。広義にはロケットエンジンを推進力とし、人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを搭載したローンチ・ヴィークル全体をロケットということも多い。
 日本では、地上から照射されたマイクロ波やレーザービームをリフレクターで反射し、空気の電離によるプラズマ発生時の爆発などを推進力とし、燃料を使わないローンチ・ヴィークルも「ロケット」と呼ばれる。
 推力を得るために射出する推進剤や、推進剤を動かすエネルギー源によって様々な方式がある。
 燃料の化学反応を用い、燃料自体を推進剤とする化学ロケット(化学燃料ロケット)が最もよく使われ、ロケットを話題にするときは、暗黙のうちに化学ロケットを前提にしていることが多い。

 また、ロケットの先端部に核弾頭や爆薬など軍用のペイロードを搭載して標的や目的地に着弾させる兵器は、日本では無誘導の場合は「ロケット弾」、誘導装置を持つものはミサイルとして区別される
 特に弾道飛行をして目的地に着弾させるミサイルは、弾道ミサイルとして区別している。
 なお、北朝鮮による人工衛星の打ち上げは、国際社会から事実上の弾道ミサイル発射実験と見なされており、国際連合安全保障理事会決議1718年と1874年と2087年でも禁止されているため、特に日本国内においては、人工衛星打ち上げであってもロケットではなくミサイルと報道されている。
 また他国ではミサイルとされるところを、ロケットやその類語で呼称する国もある(「ロシア戦略ロケット軍」「中国人民解放軍ロケット軍」を参照)。
 ロケットの語源は、イタリア語で「糸巻き」を意味する「rocchetto」に由来する。
 イタリアで打ち上げられたロケット花火の形状が、機織り紡錘に似ていたところから、こう呼ばれるようになった。

 関連項目 ー ケスラーシンドローム ー

 ケスラーシンドローム(Kessler Syndrome)

 スペースデブリの危険性を端的に説明するシミュレーションモデル。
 提唱者の一人であるアメリカ航空宇宙局(NASA)のドナルド・J・ケスラー にちなんでこう呼ばれるようになった。

 《概要》

 スペースデブリが互いに、あるいは人工衛星などに衝突すると、それにより新たなデブリが生じる。
 デブリの空間密度がある臨界値を超えると、衝突によって生成されたデブリが連鎖的に次の衝突を起こすことで、デブリが自己増殖するような状態が存在するかもしれない。
 ケスラーシンドロームはこの状態の生起を許す、スペースデブリの挙動を定式化したモデルのうちの幾つかが示すシミュレーション結果の一つ。

 ▼シミュレーション

 ・結果

 1980年代後半、国際宇宙ステーションの計画において、スペースデブリが大きな脅威になりうることが明らかになったため、この時期にデブリに関する研究は大きく前進した。
 この結果、多くのデブリ環境の予測シミュレーションが行われ、多くの研究者が高度1,000km近傍ですでにケスラーシンドロームが始まりつつあるという結果を得た。
 高度 1,000 km で始まる理由は、観測に適した太陽同期軌道の高度に対応しており、もともと人工衛星の密度が高く、また軌道寿命も数百年と長いためである。

 ▼パラメータ依存性

 ・初期デブリ分布

 初期デブリ分布は、短期間のシミュレーションでは、プログラムの違いよりも影響が大きい重要なパラメータであり、常に改良が行われ続けている。
 たとえば、1998年のイタリア学術会議のモデルでは、過去に発生した 140 の爆散、16 の原子炉衛星からの冷却用金属液体の漏洩、ロケットの残骸と、宇宙における活動によって発生したデブリを含んでいる。
 また、それぞれのデブリは発生した時期からシミュレーションが行い、最終的にカタログに登録されているデブリと統合して、6千5百万のデブリを生成している。
 初期デブリ分布が決まると、デブリの流量が決まり、デブリの衝突頻度が決定される。
 1999年の国連の報告書では、軌道物体同士の衝突頻度の計算例として以下のような数字を示している。
 値の範囲はプログラムによる違いを示しており、小さなデブリほど不確実性が大きい。

 ・軌道寿命

 軌道寿命とは、軌道物体が大気圏に落下突入して消滅するまでに要する時間である。
 軌道物体の高度が下がる主な要因は大気抵抗であるが、大気は太陽の活動によって約 11 年周期で膨張収縮するため、初期状態における太陽の状況によって軌道寿命は変動する。
 10 cm 四方の 300 g のデブリを考えた場合、典型的な軌道寿命は高度 600 km では数年程度、高度 800 km で数十年程度、高度 1,000 km で数百年程度になる。
 将来の大気密度を予測することは極めて困難であるが、デブリ環境のシミュレーションに及ぼす影響は小さい。

 ・平均衝突強度

 軌道物体同士が衝突した際、標的が粉砕される衝突を破局的衝突(catastrophic collision)と呼ぶ。
 破局的衝突でなくても、衛星を機能不全に至らせることは可能であるが、新たなデブリを大量に生成するのは破局的衝突の場合である。
 平均衝突強度とは破局的衝突に必要なエネルギーのことであり、NASA の一連の衝突実験により 1 g あたり 40 J という経験的な値を得ている。
 2000年、NASA のP.クリスコは平均衝突強度を 30 J/g から 60 J/g まで変化させて、将来のデブリの予測値がどの程度変化するか調べた。
 その結果、10 cm 以上のデブリの数は計算誤差の範囲内でしか変化しなかった。

 ・爆散頻度とロケット発射頻度

 計算には不確実なパラメータを含むが、長期的なシミュレーションにおいて重要でありながら不確かなのが爆散頻度とロケットの発射頻度である。
 特に爆散に関しては、2004年までに 173 回以上の軌道物体の爆散があり、ロケットや衛星の残骸と並んで主要なデブリ生成源となっている。
 意図的でない爆散は技術の進展によって減る可能性もあるが、原因のわかっている爆散のうち約 4 割が故意の爆破であるという事実が状況を複雑にする。
 通常は、軌道物体が爆散する確率も、ロケットの発射頻度も計算当時の状況が続くとするのが、もっともありうるシナリオとして提示される。
 1999年、イタリア学術会議のL.アンセルモと、A.ロッシ、C.パルディーニは、モデルがどれだけパラメータに左右されるか確かめるため、以下のような系の計算を行った。

 ★これまで通りの爆発とロケット射出が行われる。
 ★二度と爆発が起きない。
 ★二度と爆発が起きず、ロケットの本体を軌道に残さず、人工衛星は寿命がきたら全部回収する。

 を含む 5 つのシナリオを計算した結果、たとえ二度と爆発を起こさなくても、加速度的なデブリの増加は避けられない。
 新しい軌道物体を全部回収するようにしたときのみ、10 cm 以上のデブリを減らすことができるとなった。
 この計算は、不確かなパラメータを妥当な範囲で可能な限り変化させても、既にケスラーシンドロームに突入しているという状況は変わらないということを示した。

 ・軌道離脱

 多くの計算では、今後二度と爆発を起こさないとしても、今世紀中にケスラーシンドロームに突入する。
 そこで、新しく打ち上げられる衛星の寿命がきたら軌道離脱をさせ墓場軌道へ送るなり地球に突入して燃え尽きさせるなりし、新たなデブリが発生しないようにした場合の計算が行われている。
 2000年、NASA のP.クリスコは今後のミッションにおいて、適当な期間、たとえば 25 年以上軌道物体を残さないようにすれば、デブリの増加を大きく抑えられるという計算結果を得た。
 しかし一方で、2006年、NASA のJ.-C.リウとN.L.ジョンソンは、2004年12月にロケットの発射を一切止め、爆発も二度と起こらないとしても、2055年以降衝突による爆散で発生するデブリの総数が急速に増えてしまうという計算結果を得ている。
 つまり、2004年末で既に純粋なデブリの衝突のみによるケスラーシンドロームに突入していることになる。
 これは、今後のミッションでデブリを発生させないだけでなく、すでに存在するデブリを人為的に除去しなければ、ケスラーシンドロームは避けられないということを示している。

 ・静止軌道における議論

 低軌道においては、衝突によるデブリの急速な増加が始まりつつあることは、多くの研究者が同意している。
 一方で静止軌道(高度約 35,800 km)における状況の認識については、観測の困難さも手伝い、
 意見が分かれている。 1994年、NTT電気通信研究所の八坂哲雄は、ケスラーシンドロームによる急速なデブリの増加により、今後 200 年で静止軌道の 100 個の衛星が爆散するという計算結果を示し、墓場軌道への移動を徹底し、爆発の確率を 1/100 以下にする必要があると主張した。
 一方で、1995年のアメリカ国家科学技術会議の報告書では、静止軌道における平均的な軌道物体の密度は低軌道の 1/100 から 1/1000 であり、さらに平均的な相対速度が小さいことから、短期間においては低軌道に比べて衝突の危険性は低いという認識を示している。
 また、1997年、ダレン・マックナイトは観測手段の欠如、静止軌道特有の衛星軌道、ならびに低い衝突確率のために、静止軌道におけるデブリの密度を計算することは困難であると述べている。
 2002年、九州大学の花田俊也と八坂哲雄は静止軌道におけるデブリ環境のモデルを更新し、墓場軌道へ移動しない場合、今後 100 年間で 40 個の衛星が爆発し、衝突が 1 回程度起こると予測した。

 ▼スペースデプリ

 スペースデブリ
(古フランス語: débris, )
 (英語: space debris、orbital debrisとも)
 または宇宙ゴミ(うちゅうゴミ)
 (アメリカ英語: space junk)

 なんらかの意味がある活動を行うことなく地球の衛星軌道上〔低・中・高軌道〕を周回している人工物体のことである。
 宇宙開発に伴ってその数は年々増え続け、対策が必要となってきている。

   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 『プラネタリウム』作詞 愛

 夕月夜 顔だす 消えてく 子供の声

 遠く遠く この空のどこかに 君はいるんだろう

 夏の終わりに2人で抜け出した この公園で見つけたあの星座 何だか 覚えてる?

 会えなくても 記憶たどって 同じ幸せを見たいんだ

 あの香りとともに 花火がぱっと開く

 行きたいよ 君のところへ 今すぐ かけだして 行きたいよ

 まっ暗で何も 見えない 怖くても大丈夫

 数えきれない星空が 今もずっと ここにあるんだよ

 泣かないよ 昔 君と見た きれいな空だったから

 あの道まで 響く 靴の音が耳に残る

 大きな 自分の影を 見つめて 想うのでしょう

 ちっとも 変わらないはずなのに せつない気持ちふくらんでく

 どんなに想ったって 君は もういない

 行きたいよ 君のそばに 小さくても小さくても

 1番に 君が好きだよ 強くいられる

 願いを 流れ星に そっと 唱えてみたけれど

 泣かないよ 届くだろう きれいな空に

 会えなくても 記憶をたどって 同じ幸せを見たいんだ

 あの香りとともに 花火がぱっと開く

 行きたいよ 君のところへ 小さな手をにぎりしめて

 泣きたいよ それはそれは きれいな空だった

 願いを 流れ星に 唱えてみたけれど

 泣きたいよ 届かない想いを この空に...

 〔情報元 : Uta-net〕

ダカーポ ♯010

2023-09-09 21:00:00 | 日記

■イデオロギーの終焉

 イデオロギーの終焉
 (英:The End of Ideology)

 先進資本主義諸国における「豊かな社会」の到来とともに、階級闘争を通じた社会の全面的変革なる理念はその効力を失ったとする論。
 また、ダニエル・ベルによる1960年刊行の著作。

 “イデオロギー”については、「ダカーポ♯002」参照。

 《概要》

 もちろん、ダニエル・ベル以前からイデオロギーの終焉はさまざまに論じられてきたが、1960年にダニエル・ベルがはじめて『イデオロギーの終焉』のなかで理論的に整除されたかたちで唱えることになり、「イデオロギーの終焉」は世界的な流行語となった。
 しかしベルは、ユートピアは終焉せず、第三世界から新たなイデオロギーの出現しうることを展望したが、古典的マルクス主義には破産宣告を行った。

 ベルやシーモア・M・リプセットら、イデオロギーの終焉論者によれば、今や必要なのは不確定な観念的要素に満ちたイデオロギー的構想に基づく社会の全面的変革ではなく、信頼のおける科学的知識と技術とを用いた社会の部分的改造のつみ重ねである。
 そして、そのなかでイデオロギーという概念は死語になりつつあり、資本主義国家と社会主義国家は今後、イデオロギー対立をこえた共通の方向に向かうとした。

 関連項目  ー 階級闘争 ー
       (共産主義における用語)

 階級闘争
 (ドイツ語: Klassenkampf,)
 (英語: Class conflict, class struggle, class warfare)

 生産手段の私有が社会の基礎となっている階級社会において、階級と階級とのあいだで発生する社会的格差を克服するために行われる闘争。
 この闘争により革命が起きるとされている。
 対義語として階級協調が挙げられる。

 《概要》

 マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)においては「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と規定され、階級闘争は社会発展の原動力として位置づけられている。

 社会がいくつかの階級に分裂して互いに和解しがたく敵対している場合に、いずれか一方の階級が他方の階級を打倒して、その政治上、経済上、文化上の特権、権利、機会を奪取し、支配権を手に入れようとして行われる闘争をいう。
 階級間の対立、抗争については古くから注目され、種々の学説が生み出された。
 プラトンは富者と貧者の間の闘争を哲人支配によって克服しようとし、下って19世紀初頭のフランスでは、サン・シモンは、フランス革命を進歩的知識層、保守的所有者、無産者という三つの階級間の抗争としてとらえ、産業者を中心とした社会改造を説いたが、階級闘争を理論づけるまでには至らなかった。
 唯物史観の立場から階級間の対立・闘争の必然性とプロレタリアートの歴史的使命を説いて、階級闘争の理論を提出したのは、マルクス、エンゲルスである。それによると、原始共産制の段階を除き、今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史であって、資本主義社会における階級間の対立・抗争は資本家による労働者の搾取(剰余価値の収取)に由来する。
 つまり、富の分配の著しい不平等(貧富の差)は、生産が社会化されているのに領有が私的な性格をもつという矛盾によるが、資本家はこのような搾取の体制を維持する必要上、こうした矛盾をそのままにして労働者に貧困その他さまざまの耐えがたい犠牲を強いるため、労働者はこの桎梏(しっこく)から自らを解放しようとして、現行の生産関係を土台とする社会体制を打破し、変革していく運動を推し進めるようになる、という。
 このような体制変革への条件は、資本主義体制自体のなかにあるが(生産の社会化と所有の私的性格などの矛盾)、同時に体制変革を担うべき労働者階級が孤立・分散、競争の状態を脱却して、大工業地帯に集中し、階級的利害に目覚めて組織をつくり、そのもとに団結して、真の階級意識や階級組織を備えた対自的階級Klasse für sichにまで主体的に成熟していなければならない、とされている。

 階級闘争には労働組合による経済闘争、政党の指導下で体制変革を目ざす政治闘争、敵対階級の誤りを暴露し、自己の立場の正しさを主張するイデオロギー闘争がある。資本主義社会ではそれに内在する法則の作用によって、将来ますます労資二大階級への両極分解が強まり、労働者の状態は悪化し、窮乏化の一途をたどるから、階級闘争はますます激化し、革命は不可避である、と主張される。 しかし、19世紀末以降、とくに現代の先進諸国では、マルクスらの予想に反して、両極分解と窮乏化のかわりに、新中間層の増大と生活の向上・平準化をもたらし、福祉政策の拡充とともに、ベルンシュタインらの修正主義や社会民主主義の路線、階級対立の制度化などの事態を招き、そのため先進諸国における階級闘争は変質して革命性を失い、体制内部に組み込まれていく傾向がある。

 関連項目   ー 市民社会 ー

 市民社会
 (英: civil society)
 (独: bürgerliche Gesellschaft)
 (仏: société civile, société bourgeoise)

 資本主義社会、近代社会、ブルジョア社会。

 市民階級が封建的な身分制度や土地制度を打倒して実現した、民主的・資本主義的社会。
 「市民階級」「市民革命」「市民法」「市民的自由」等と共に、第二次大戦後から有力になった用語。

 この言葉は本来、「市民革命 (ブルジョア革命) によって成立した社会」を意味する。
 資本家や知識人らの市民階級が絶対君主制・封建制を打破し、基本的人権を確保したことで市民社会は成立した。
 政治的には民主主義に、経済的には資本主義に基づく社会だとされる。

 《市民革命》

 またはブルジョア革命、資本主義革命、民主主義革命。

 封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代社会(市民社会・資本主義社会)をめざす革命を指す歴史用語である。
 一般的に、啓蒙思想に基づく人権(政治参加権あるいは経済的自由権)を主張した「市民(ブルジョア・資本家・商工業者)」が主体となって推し進めた革命と定義される。
 代表例はイギリス革命(清教徒革命および名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命など。

 ▼概要

 この「市民」には、封建・絶対主義から解放され、自立した個人という意味および商人・資本家という意味を持っているため、市民革命の定義も二義性を持つ。
 一方で、この二義性は表裏一体をなす。
 すなわち、革命をなすための市民社会の形成には資本主義の発達が不可欠であり、私的所有の絶対を原則とする資本主義社会の成立が必要だったのである。
 ロシア革命もこれに分類されることがある。市民革命は、また、資本主義社会から社会主義・共産主義社会の実現をめざしたプロレタリア革命とは性格を異にする。
 1848年革命、パリ・コミューンなどは一般的にプロレタリア革命に類される。

 ▼市民革命の前提

 ブルジョアジー(ブルジョワジー)の誕生と市民社会の形成とは相支え合う要素であり、ともに市民革命の要件とされる。
 ブルジョアジーが発展するためには労働力の移動、流通の自由や私的所有などが認められていなければならず、これは市民社会の成長を要件としている。
 いっぽうで、市民社会がつくられるためには封建的支配者の打倒が必要であるが、それは経済力を持ったブルジョアジーの力が必要であった。

 ◆ブルジョアジーの誕生

 個人が社会の構成要素として、一定の経済力を持ったかたちで主体的に行動することが封建制・絶対主義を覆すための前提となる。
 したがって市民革命には革命の主体となるブルジョアジーの誕生が前提となる。

 ブルジョワジー
 (仏: bourgeoisie)

 中産階級の事であり、有産階級とも呼ばれる。
 特に17〜19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であったが、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす場合も有る。
 貴族や農民と区別して使われた。

 ❒概要

 この「市民」には、封建・絶対主義から解放され、自立した個人という意味および商人・資本家という意味を持っているため、市民革命の定義も二義性を持つ。
 一方で、この二義性は表裏一体をなす。すなわち、革命をなすための市民社会の形成には資本主義の発達が不可欠であり、私的所有の絶対を原則とする資本主義社会の成立が必要だったのである。

 ロシア革命もこれに分類されることがある。
 市民革命は、また、資本主義社会から社会主義・共産主義社会の実現をめざしたプロレタリア革命とは性格を異にする。
 1848年革命、パリ・コミューンなどは一般的にプロレタリア革命に類される。

 短かくブルジョワ(仏: bourgeois)ともいうが、これは単数形で個人を指す。
 20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。

 ❒歴史

 中世

 古代から中世にかけての経済的な低迷が終わると中世都市に商工業を生業とするものが集まり始めた。
 フランス語ではこうした中世都市の「城壁の中の住民」をさして貴族でも農民でもない存在を「ブルジョワジー」と呼んだ。これがブルジョワジーの語源で、後期ラテン語 burgus(ギリシア語 pygros、ゲルマン語 burg)から派生しできた言葉である。

 近世

 近世になると大航海時代の幕開きにより、港湾都市では交易によって富を蓄積する者が現れ始めた。
 また絶対主義の時代には、中央集権化により特に首都が経済的な中心となり、ここにも富を蓄積するものが現れ始めた。近世における「重商政策」は彼らの成長を積極的に後押しした。
 彼らが市民革命前夜における「ブルジョワジー」である。当時の権力主体であった貴族階級、聖職者と都市の労働者、民衆、農民との間に位置付けられる、都市の裕福な商人を指してブルジョワジーというようになった。
 ブルジョワジーの中には巨万の富を蓄え、貴族に仲間入りするものや貴族に準ずる待遇を受けるものも現れ、新たな支配階級を形成しつつあった。
 ここでブルジョワジーと呼ばれた人々は、市民革命の主体となり、それまでの貴族や聖職者が主体であった体制を革命によって転覆させた。
 そのため市民革命をさして「ブルジョワ革命」とも言う。
 この場合の「市民」とは「ブルジョワジー」のことで現在の「市民」という概念とは異なっている。
 現在の「市民」という概念に近い言葉としてシトワイアン (Citoyen) があった。

 産業革命以降

 市民革命によって政治的な参加権を得たブルジョワジーの中には同時に進行していた産業革命と結びついて「産業資本家」になる者が現れた。
 これによってブルジョワジーは19世紀中頃から資産階級を指す、そして貴族に代わる新たな支配階級を指す言葉として転化した(中華人民共和国では現代中国語でブルジョワジーを「資産階級」としている)。
  支配階級に反抗する社会主義者から見た場合、「ブルジョワジー」、「ブルジョワ」、「ブルジョワ階級」という言葉そのものが蔑称となり、物理的に排除すべき対象となった。
 これにより、かつては貴族の富裕さ、贅沢さを批判するために用いられていた「ブルジョワ」という概念は、今度は自らが富裕さ、贅沢さを批判されるために用いられることとなった。
 そして、かつて貴族が敵視され、市民革命によって打倒されたように、20世紀においてはブルジョワが敵視され、社会主義革命によって打倒されるようになった。
 だが、ブルジョワを打倒した社会主義体制においても、ノーメンクラトゥーラや太子党といった新たな支配階級が台頭し、その富裕さ、贅沢さが批判されるようになった。
 その社会主義体制国家が再び資本主義体制に移行した21世紀現在、グローバリゼーションによって、世界全域でいわゆる「新富裕層」が台頭して新たな支配階級となり、その国の枠をも超える富裕さ、贅沢さが批判されている。

 関連項目  ー フランス革命 ー

 フランス革命
 (仏: Révolution française)
 (英: French Revolution )

 フランス王国で1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きたブルジョア革命。
 フランス革命記念日(パリ祭)はフランス共和国の建国記念日でもあり、毎年7月14日に祝われている。

 フランス革命を代表とするブルジョア革命は、封建的な残留物(身分制や領主制)を一掃し、

 ・資本主義の発展(法の下の平等・経済的自由・自由な私的所有など)

 ・資本主義憲法の確立(人民主権・権力分立・自由権(経済的自由権)等の人権保障を中心とする原理、典型例としてフランス憲法) を成し遂げた。

 フランス革命はアメリカ独立革命とともに、ブルジョア革命の典型的事例である。
 フランスでは旧支配者(宗教家・君主・貴族)の抵抗がきわめて激しかったため、諸々の階級の対立・闘争がもっとも表面化した。

 ❒概要

 フランス革命とは、フランスにおいて領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう。
 ブルジョワジーは権力を握ったが、貴族を排除することなく一部の貴族とは連立を続けた。
 フランス革命は貴族と上層市民を対等の地位にした。

 フランス革命以前は国王がフランスの5分の1の領土を持つ最大領主だった。
 その国王のまわりで権力を組織していた宮廷貴族は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。
 財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた。
 しかし、ある段階で国家財政が破綻し、もはや支払うべき財政資金がなくなった。
 権力を握っていた宮廷貴族は自分の減免税特権を温存し、ブルジョワジー以下の国民各層に対して負担をかぶせようとした。
 そこで「権力を取らないことには自分たちの破滅につながる」と感じた商工業者や金融業者が、国民の様々な階層を反乱に駆り立てて、領主の組織する権力を打ち破った。
 1789年7月14日のバスチーユ占領がその始まりとなった。
 この時点では上層銀行家と株式仲買人を中核とする金融業者の一団が、雑多な群衆を反乱に向けて組織した。
 さらにパリ駐屯のフランス衛兵が反乱を起こし、国王軍と群衆の衝突の中で、国王軍を敗北させた。
 この軍の反乱には下士官を構成する下級貴族の役割が大きかった。
 この革命によって宮廷貴族の減免税特権は廃止され家柄万能の時代は終わり、フランスの近代化が始まった。

 ❒革命以前の絶対主義

 ▼宮廷貴族の特権

 フランス革命で倒された旧体制はアンシャン・レジームと呼ばれ、日本では絶対主義と呼ばれている。
 この言葉は中世の封建制度[注 1]に比べると国王の権力が強まり、国王の絶対的権威は王権神授説によって理論化されていた。
 「朕は国家なり」という言葉がその本質を表している。
 フランス絶対主義はルイ13世の時代にリシュリュー宰相(枢機卿、公爵)によって確立され、ルイ16世の時代に終わった。
 しかし、絶対主義という言葉で呼ばれているにもかかわらず、必ずしも国王個人が絶対的な権力を持っていたわけではなかった。
 国王はフランスの領土の5分の1を持ち、最大の領主であったが、あくまで領主の一人にとどまり、最大の領主であったというだけであった。
 絶対王政の期間では国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、リシュリューやマザランなどの一群の大領主であった。
 この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった。
 宮廷貴族の地位は家柄で決まっていて、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若いころから任命された。

 これらの西洋の領主・騎士階級を日本語では通常「貴族」と呼んでいるが、実態は平安時代の「貴族(公家・公卿)」よりも江戸時代の「武士(大名・旗本等)」に近いものであり、「貴族」というよりは「西洋の武士階級」とすべきものである。
 当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方であり、学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた。
 宮廷貴族の大多数は大蔵大臣の仕事に向かない者が多かったため、有力宮廷貴族がパトロンとなって能力のある者を大蔵大臣として送り込み、その代わりに自分の要望通りの政治を行わせた。
 これらの宮廷貴族がベルサイユに集まって、王の宮殿に出入りしていた。
 宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた。
 当時の官職収入は桁違いに大きく、正規の俸給よりも役得や職権乱用からあがる収入の方が多かった。
 これらの役得は当然の権利とされていた。
 このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた。
 これらの官職の中には無用な官職も多く、たとえば、王の部屋に仕える小姓の官職だけに8万リーブル(約8億円)[注 6]が支払われていた。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた。

 また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた。
 さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり「赤帳簿」と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた。
 これらは宮廷貴族による国庫略奪であった。
 フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。
 国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫略奪であった。ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた。
 その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。
 宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた。
 この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった。
 このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった。

 ▼法服貴族

 宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院が最も強力であった。
 法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した。
 しかし国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった。
 そのため立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた。
 法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた。
 彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った。
 法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった。

 ▼自由主義貴族

 宮廷貴族の中にはオルレアン公爵ルイ・フィリップ、ラファイエット侯爵など反体制派の一派がいた。
 彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった。
 そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。
 このため王に頼るところが少なかったため、王に服従せず自由主義派になった。
 彼らは宮廷貴族の反主流派だった。

 ▼ブルジョアジー

 フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった。
 これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった。
 この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策をとった。
 商業貴族は「貴族に列っせられた者」と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見なされた。
 しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。
 これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた。
 ブルジョアジーには徴税請負人という一団も存在した。
 フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた。
 その徴税の仕方は極めて厳しかった[注 11]ので、小市民から大商人に至るまで恨みをかっていた。
 徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった。
 徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たしたものが多かったので、本来はブルジョアジーに属する。
 しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。
 そこで商人が徴税請負人を敵と見なすことが多かった。
 徴税請負人は国家と直接契約することはできず、一人の貴族が代表して政府と契約した。
 貴族はその報酬として年金を受け取った。
 すべては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた。

 銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた。
 しかし彼らはいろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い取られ、国王政府の食い物にされた。
 ブルジョアジーは宮廷貴族の被支配者であった。

 ▼領主の土地支配

 フランス絶対主義の時代には貴族や高級僧侶は領地のほとんどを持ち、経済的に強力な基礎を持っていた。
 全国の土地が大小様々な領地に分かれていて、領地は直轄地と保有地に分けられ、直轄地は領主の城や館を取り巻いていた。
 それ以外の土地は保有地として農民や商人、工業家、銀行家などに貸し与えた。それらの土地の保有者は領主に貢租を支払った。
 その土地を売買するときは領主の許可が必要で、許可料を不動産売買税として支払わなければならなかった。
 ブルジョアジーの中には農村に土地を保有して地主となった者もいたが、この場合も領主権に服し、貢租を領主に支払っていた。
 農民で領主であった者は一人もいなかった。
 農民やブルジョア地主は領主に貢租を支払いながら、国王には租税を払うという二重取りにあっていた。

 ▼身分制度

 絶対主義下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2,600万人いた。
 第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。

 ❒フランス革命前夜

 ▼国家財政の悪化

 ルイ14世の晩年以来フランスの国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世の時代になって財政は完全に行き詰まり、1780年代時点の財政赤字は45億リーブル(2017年時点の日本円で54兆円相当)にまで膨張していた。
 しかしルイ16世が任命した蔵相たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた。
 財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はテュルゴーやネッケル等の改革派を蔵相に任命せざるを得なくなった。
 彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた。
 宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された。

 ▼ブリエンヌの弾圧と抵抗運動

 1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵[注 16]に任された。
 彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。
 印紙税は貴族よりブルジョワジーに対して負担が重い税だった。
 パリ高等法院は印紙税の導入に反対した。ブリエンヌは国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。このときオルレアン公が、公債発行を不法だとして抗議し、国王と対立し、オルレアン公はパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした。
 王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した。
 この措置は全国的な動揺をひきおこし、オルレアン公に代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった。
 全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。
 1788年8月の初めにブリエンヌは「国庫は空になるだろう」という報告を受けた。
 8月16日にブリエンヌは、現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払うと命令した。
 この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした。
 ブリエンヌはさらにケース・デスコント (fr:Caisse d'escompte)紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。
 国庫には50万リーブルしか残らず、ブリエンヌは辞任させられた。
 国王は平民の銀行家ネッケルを呼び戻して財務総督にするしかなかった。パリ高等法院は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。
 ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した。
 これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった。

 ▼三部会の招集

 1788年7月25日パリ高等法院は採決を身分制で行うべきだと声明を出した。
 これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した。
 高等法院は譲歩して12月5日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避された。
 ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。
 国王と王妃も承認せざるを得なくなった。1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された。
 各地で選挙が行われて議員が選出され、1789年5月5日、ヴェルサイユに招集された。
 第一身分(僧侶)が300人、第二身分(貴族)が270人、第三身分(平民)が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった。
 国王は開会式で三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するものとしか言わなかった。
 三部会が始まると議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするかで紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった。
 また議員の俸給一人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった。

 ❒革命の開始

 ▼国民議会の結成

 第三身分は1789年6月18日に自分自身の名を国民議会と呼ぶことに決定した。
 国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した。
 さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく「国債の安全」の宣言も決議された。
 絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。
 これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった。
 このような第三身分の動きに僧侶部会が影響を受け、多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流した。
 貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対した。
 1789年6月20日に国王は国民議会の会場を兵士によって閉鎖するよう命令し、国民議会の集会を禁止し、国王が改めて三部会を招集するという命令を伝えた。

 ▼テニスコートの誓い

 国民議会の議長バイイはこれに抗議して隣接する球技場になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。
 「国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う」ことが決められた。
 これがのちに「テニスコートの誓い」と呼ばれるようになった。
 6月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。
 国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると「国王の承認しない議案は一切無効である」と宣言した。
 そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した。
 これによって国王と国民会議は全面的対決となった。
 国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた。

 ▼国民議会との対立

 宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリアに600万リーブルで売却することなどを決めた。
 強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に国民から金を借り上げようとする政策だった。
 この場合、強制的に大金を政府に貸すことを強要されるのは、大商人、銀行家、金融業者、大工業家であった。このような借り上げでは返還の当てもなく、事実上の没収になってしまう。
 ブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった。
 こうしたうわさがパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった。
 7月11日に国王と宮廷貴族はネッケルとネッケル派の大臣を罷免した。
 代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。ブローイ公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となり、ベルサイユ宮殿を野営地に変えて、パリで暴動が起こったときの戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るにとどめることが指示された。
 これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった。

 ▼バスティーユ監獄の占領

 国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。
 オルレアン公爵の私邸パレ・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。
 7月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルでは「武器を取れ、市民よ」という演説がされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した。
 すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。
 軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた。
 7月14日に再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪ってバスティーユ要塞監獄に向かった。
 群衆が占領したバスティーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。
 国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の反乱が起こった。
 国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった。
 ブローイ元帥は反撃の機会をうかがうべきであると説いたが、すでに軍隊と共に移動する資金も食料もなかった。そこで国王は泣いて屈服した。
 国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と言い和解を宣言した。
 軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。
 有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランスにとどまった。
 この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。
 その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。
 これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。
 兵士の反乱は自然発生的に起こったのではなかった。
 この時生まれた革命のスローガンは「自由・平等・財産」だった。

 ▼革命による財政改革

 国王軍に勝利した商工業者(ブルジョアジー)の上層は、自由主義貴族と連携しながら権力の指導権を握った[71]。これ以降の政権はブルジョアジーの上層が租税徴収権を握り、財政改革を行った。
 宮廷貴族に負担をかぶせ、徴税を実行し、宮廷貴族に対してなされていた財政資金を削減か打ち切り、それによって浮いた財源で商工業、金融業の救済・発展のために支出した。

 ❒明治維新との共通点

 歴史学者の小林良彰は明治維新とフランス革命の構造が同じであると主張した。

 1.フランス革命では領主の組織した権力は破壊され、商工業、金融業の上に立つ者が権力の指導権を握った。
 江戸時代は領主が権力を組織していたこと、明治維新以後、商工業、金融業の上に立つ者が権力を握ったということが確認される。
 この点でフランス革命と明治維新は基本的に同一の変化を引き起こした。

 2.フランス革命も明治維新も市民革命である。「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」これが市民革命の定理である。

 3.どちらも財政問題が基本的原因になった。フランスの宮廷貴族は巨額の国家資金を様々な名目で手に入れ、財政破綻を引き起こした。
 江戸幕府財政は大名をはじめとする領主が租税を負担せず、幕府財政資金から老中以下の幕府官僚が様々な名目で国家資金を引き出していた。
 これが幕府の金庫を空にした。

 4.国庫が空になると大名や宮廷貴族などの特権階級に負担させるのではなく、商人に対する幕府御用金の増加やブルジョアジーからの強制借り入れで負担をかぶせた。
 その時江戸時代末期において、関ヶ原の戦い以来冷遇されていた薩長両藩と商人層の主流が結びつき、討幕派を援助しながら主導権を握っていった。
 フランスでも自由主義貴族とブルジョアジーが反乱を組織した。
 権力の変化と財政問題の絡み合いが日仏両国で、明治維新とフランス革命が同じ変化を持つ変革であると規定できる。

 ❒革命思想・制度

 
 ▼キリスト教との関係

 1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。
 1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。
 当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。
 革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。こうして、クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院などの由緒ある教会・修道院が破壊されるとともに、蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。
 破壊を免れた教会や修道院も、モン・サン=ミシェル修道院のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。
 エベールらは「理性」を神聖視し、これを神として「理性の祭典」を挙行した。ロベスピエールは、キリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、「最高存在の祭典」を開催した。
 しかし、ロベスピエールが処刑され、一度きりに終わり定着しなかった。
 その後もカトリック教会への迫害はしばらく続いたものの、1801年にナポレオンがローマ教皇とコンコルダートを結んで和解した。
 なお、このような経緯を経たが、「革命は宗教を否定するものではない」とする主張もある。

 ▼メートル法

 当時のフランスでは度量衡が統一されていなかったが、単位制度として1791年にメートル法が定められた。
 メートル法は定着までには時間を要したが、今日では国際単位系として世界における標準的な単位系となっている。

 ▼貴族制について

 革命によって貴族が一掃されたわけではなく、貴族たちの中にも革命側に加わった者や、一旦は亡命したもののナポレオン時代以後にフランスに復帰した貴族も多い。 

 ▼奴隷制について

 人権宣言が発せられた際に、すべての人間にとって普遍的で権利であるはずの人権は、啓蒙思想などによって「理性を持たない半人間」とされたフランスの植民地に住むムラート(白人と黒人の混血)や黒人(そしてインディアン、インディオ)には認められず、1791年にブークマンに率いられた黒人奴隷が大反乱を起こすまで奴隷制についての真剣な努力はなされなかった。
 1793年のレジェ=フェリシテ・ソントナ(フランス語版)による奴隷制廃止宣言や、1794年のジャコバン派による正式な奴隷制廃止決議は、1791年に始まったサン=ドマングの黒人大反乱による植民地喪失の危機から植民地を防衛するためになされたものであり、決して人権宣言の理念に直接基づいてなされたものではなかったが、それでもジャコバン派による植民地をも包括した全面的な奴隷制廃止は近代西欧世界史上初となる画期的なものであった。
 この後、ナポレオン・ボナパルトはトゥーサン・ルーヴェルチュールが実権を掌握していたサン=ドマングの再征服を計画し、奴隷制の復活を画策したが、解放された黒人の支持を得られなかったため、サン=ドマングは1804年1月1日に世界初の黒人共和国ハイチとして独立を達成した(ハイチ革命)。
 この結果として、ハイチ革命後のフランス人の頭の中では、奴隷制の廃止が植民地の喪失とイコールで結ばれることになり、のちのフランスにおける奴隷制は1848年に第二共和政下でヴィクトル・シュルシェールが廃止を実現するまで続くことになった。

 〔ウィキペディアより引用〕



銭の花《商魂》 ♯013

2023-09-06 21:00:00 | 日記

 ■マロニーちゃん

 マロニー株式会社
(英語: Malony Co.,Ltd.)
 大阪府吹田市に本社を置く食品メーカーである。
 ジャガイモやトウモロコシなどの澱粉麺「マロニー」ブランドの製造元。


 《会社概要》

 「マロニー」ブランドを中心に、くずきり・ポン酢などの食品を扱う。
 主に鍋の具材として使用されることが多いが、近年では同社ウェブサイトに、マロニーを利用したサラダ・スープなどの各種レシピが掲載されている。
 現在は本社と併設された大阪工場の他、静岡県に浜松工場・福岡県に九州飯塚工場・長野県に信州伊那工場の3ヶ所の生産拠点が所在する。
 
 2017年8月1日付で、ハウス食品グループ本社が全株式を取得して、同社の完全子会社となった。

 《「マロニー」の由来》

 会社名及びブランド名の「マロニー」の由来は、同社ウェブサイトによると、「まろやかに煮える」ことと、創業者の吉村義宗が終戦後のシベリアでの抑留生活中に工場で一緒に働いていた少女「マロン」の明るいイメージを重ね合わせたものであるとしている。

 《マスコット》

 同社のマスコットは「ヨーちゃん」と呼ばれているが、前述のCMで中村玉緒が口ずさんだ「マロニーちゃん」のネーミングが全国的に世に出たことで、一時期東日本では「ヨーちゃん」を可愛くデフォルメした「マロニーちゃん」のキャラクターを登場させたことがある。
 しかし後にマスコットは「ヨーちゃん」に統一されることになったものの、マスコットの名称には「マロニーちゃん」が使われることになった。
 なお「ヨーちゃん」は創業者の吉村義宗がその頭文字から「よーさん」と呼ばれていたことに由来する。ちなみに改められた旧社名は、そのマスコットの名前から「ヨーサン食品」という名称であった。

 《CM》

 女優の中村玉緒が出演する「マロニーちゃん」でお馴染みのテレビCMは、1994年から放映開始。
 当初は関東地方限定で放映されていたが、現在は全国で放送されている。
 なお、一時期は後述の東西のマスコットの存在も関係し、「ヨーちゃん」が登場する西日本版と「マロニーちゃん」が登場する東日本版があったが、マスコットの統一によって現在は解消されている。
 当初の台本には「お鍋にマロニー」「マロニーさん」と書かれていただけで歌唱シーンはなかったが、中村が「マロニーちゃん」と本番前にアドリブで歌ったものを現場にいた河内社長が気に入り、正式に採用された。

 《沿革》

 ・1950年(昭和25年)
 ◆9月 創業者・吉村義宗が大阪市東淀川区淡路に吉村商店創業。当時はもやし製造業であった。

 ・1955年(昭和30年)
 ◆3月 会社組織にして「大洋産業株式会社」を設立。

 ・1959年(昭和34年)
 ◆8月 吹田市中の島町に社屋及び新鋭工場を新築移転。

 ・1962年(昭和37年)
 ◆3月 澱粉麺の基礎研究・製造研究に取り掛かる。

 ・1964年(昭和39年)
 6月 「マロニー」の製造工場を建設。新装置による生産開始。
 ◆同年12月、麺製法で特許(第449343号)を受けた。

 ・1967年(昭和42年)
 ◆3月 ヨーサン食品株式会社に商号変更。

 ・1978年(昭和53年)
 ◆5月 マロニー株式会社に商号変更。

 ・1991年(平成3年)
 ◆7月 吉村義宗が会長に就任。
 後任の社長として長女の河内幸枝が就任。

 ・2017年(平成29年)
 ◆8月 ハウス食品グループ本社が全株式を取得。

 ・2022年(令和4年)
 ◆4月 チルドを除く家庭用事業をハウス食品へ譲渡。
 当社は同事業の製造機能を担うと共に、チルド事業、業務用事業および輸出専売品を継続。

 関連項目 ー マロニーとビーフン・春雨等の違い ー

 先ず、主原料が違います。

 ◆「春雨」の原料は、緑豆(りょくとう)やジャガイモのデンプンです。
 ツルツルとした食感が特徴です。

 ◆「ビーフン」の原料は米粉です。
 お米の中でも、うるち米が原料です。が原料です。
 「ビーフン」は、中国で生まれました。 
 アジアは小麦の生産が少ないので、代わりにお米を使って麺を作ったのが始まりと言われています。
 モチモチした食感が特徴です。
 ところてんのように穴から専用の機械を使って押し出して形を整えます。

 ◆マロニーは、北海道産「じゃがいもでんぷん」です。春雨のイモ類と同じところもありますが、その他に原料として国内製造の「コーンスターチ(とうもろこしでんぷん)」を配合しています。

〔情報元 : マロニー株式会社公式サイト〕

 ◆因みに、くずきりの原料は、葛粉(くずこ)、しらたき・糸コンは、コンニャク芋。

 マロニーは低カロリーですが、ジャガイモ、とうもろこしのでんぷんが原料。
 なので、炭水化物食品と言えるようです。
 血糖値の関係でしょうが、上げにくいものであれば同じようなもので、春雨も豆類で炭水化物でありますが他の物より急上昇は抑えられます。
 麺類という意味なら“こんにゃく麺”とかが健康食品と思われますが。

 関連項目 ー ヘルシー(Healthy) ー

 ヘルシー(healthy)

 健康な・衛生的な・有益な・莫大なというようなことを意味する英語表現である。

 《意味》

 ヘルシー「healthy」は、健康な・健康に良い・健全な・衛生的な・有益な・莫大なといった意味を表現する形容詞である。

 《健康》
(けんこう)
(羅: salus、独: Gesundheit)
(英: health)

 心身ともに健やかな状態であること。 
 疾病の予防や健康の保持、増進などを健康管理(けんこうかんり、英: health care)といい、身体の状態のみでなく、精神の状態を表す時にも使われている。

 《概念》

 健康の概念は、1948年の設立における世界保健機関憲章の前文にある、以下の定義が有名である。

 身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。
 1951年(昭和26年)官報掲載の日本語訳は、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。

 この定義は、健康に関連する権利が不可分かつ相互依存であることを示している。
 世界保健機関は1999年の総会で健康の定義として以下の定義を提案しているが、審議には至っていない。
 強調は1948年との変更箇所(原文に強調はない)。

 健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

 社会的な健康の概念は、健康の社会的決定要因により説明される。すなわち、裕福で、富の分布が公平な社会にすむ人たちは、健康である。
 また、どのような社会においても、社会的地位が低いと、平均寿命は短く、疾病が蔓延している。

 健康に関わる日本国憲法に定められている健康については、
 「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とある。

 《健康の前提条件》

 健康づくりのためのオタワ憲章では、健康を達成するための前提条件(Prerequisites for Health)が明示された。

 1.平和
 2.住居
 3.教育
 4.食糧
 5.収入
 6.安定した環境
 7.持続可能な資源
 8.社会的公正と公平

 これらの健康の前提条件は、1998年に健康の社会的決定要因として整理されている。

 《健康観》

 健康観(けんこうかん)
 (英: health view)

 個人が健康という事象をどう捉えるかという、健康に関する主観的な基準であり、人は各々の健康観に基づいて自分の健康状態を判断したり、健康に関わる行動を決定している。
 健康観は各人の社会的属性・人的属性により異なり、変化するものである。社会的属性とは、会社、学校、地域、国、文化などであり、人的属性とは性別、年齢、身体状態などである。
 感染性疾患から慢性疾患へと社会の疾病構造が変化するにつれて、病気と対置する健康から、豊かな生活を送る上での健康へと健康観も変化しつつある。
 オタワ憲章では「健康は、生きる目的ではなく、毎日の生活の資源である」と謳われ、病気を一定の制約として受け入れた上で、与えられた機会の中でより良い生活を送るために自らの健康をコントロールする、ヘルスプロモーションの理念とともに新しい健康観を打ち出している。

 健康は生きる目的ではなくて毎日の生活のための資源である。

 医学・福祉に従事する者は、健康を医科学的側面と価値観的側面の両立を成しえてこそ維持されるものであり、その点で健康観的な研究、あるいは知識を身につける。
 健康観の研究は、多分野によるアプローチが行われている。
 健康観の研究は、医科学的な分野ではない。
 文化学的、学際的要因と関連がある。そのため、これに研究従事する人々の属する分野は様々である。

 《健康維持》

 ハーバード大学医学部によると、健康を維持することは偶然ではない。
 それは賢いライフスタイルの選択を必要とする。

 1.健康を維持する食事には、玄米などの全粒穀物、ピーナッツなどに含まれる食物繊維、新鮮な果物や野菜、不飽和脂肪、オメガ3脂肪酸が豊富な食品が含まれる。

 2.白米、麺などのような精製穀物、クッキーなどの加工食品を摂取しないことは、健康的な食事のもう1つの要素であり、お菓子、砂糖で甘くした飲み物は食べないほうがいい。

 3.健康のためには身体活動も必要である。

 4.医師との良好な関係を確立して、喫煙しなく、隠れた癌または高血圧、糖尿病、悪玉コレステロールをコントロールすること。

 5.大気汚染を防ぐために、家庭用ガス機器を使用せず、エアコンと空気清浄機のフィルターを定期的に交換し、空気質指数が不健康な場合は、交通渋滞の近くでの野外活動を避け、外出するときはN95マスクを着用すること。

 〔ウィキペディアより引用〕