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銭の花《商魂》 ♯011

2023-08-29 21:00:00 | 日記

 ■タンスにゴン!!

 大日本除虫菊株式会社
 (だいにほんじょちゅうぎく)
登記上の商号は大日本除蟲菊株式会社
 大阪府大阪市西区土佐堀に本社を置く、殺虫剤など衛生薬品の製造・販売をおこなう日本の日用品メーカーである。



 《概要》

  「金鳥」「KINCHO」(きんちょう)の商標名で知られる。
 正式な社名より商標が浸透している状態であるが、創業のきっかけを忘れないため、「大日本除虫菊」の社名は堅持している。
 また、2020年現在でも東京証券取引所を含め、国内外の株式市場に上場していない。みどり会の会員企業である。
 企業スローガンは、「昔も今も、品質一番の金鳥」。
 アース製薬、フマキラーと並んで、家庭用殺虫剤では日本の主要シェアを誇る。
 金鳥蚊取り線香は、東南アジアでも市場占有率は高く、ほぼ日本と変わらぬ包装で市販されている。
 自社の製品で多くの害虫を殺虫している事から、毎年1月に、加盟している業界団体の「日本家庭用殺虫剤工業会」で虫供養を実施している。

 《沿革》

 ・1885年(明治18年)

 和歌山県でみかん農園を営んでいた上山英一郎を、慶應義塾大学時代の恩師・福澤諭吉の紹介でアメリカ・サンフランシスコの植物会社社長のH・E・アモアが訪れる。
 珍しい植物種苗の交換を約束される。

 ・1886年(明治19年)

 アモアより、ビューハク(除虫菊)を含む各種の種苗が届く。

 ・1887年(明治20年)

 除虫菊の第一回収穫、試験的に除虫菊を製粉。
 蚤(ノミ)取り粉の製品化に成功。

 ・1890年(明治23年)

 除虫菊と澱粉を混ぜ合わせた棒状の蚊取り線香「金鳥香(きんちょうこう)」を発売。

 ・1902年(明治35年)

 「渦巻き型蚊取り線香」を発売。

 ・1905年(明治38年)

 「日本除蟲菊貿易合資會社」設立。

 ・1910年(明治43年)

 上山英一郎に勅定藍綬褒章受章が授与される。
 「金鳥」の商標を登録。

 ・1928年(昭和3年)

 フランス・ペルメル創案の家庭常備薬「ペルメル」を製造販売。

 ・1934年(昭和9年)

 「キンチョール」発売。
 発売当初は家庭用噴霧器に入れて使用する液体タイプであった。

 ・1935年(昭和10年)

 商号を「大日本除蟲菊株式會社」に変更。

 ・1936年(昭和11年)

 東京支店開設。

 ・1942年(昭和17年)

 大阪市西区土佐堀に本社移転(現在の本社所在地)。
 上山勘太郎社長が東南アジア出張中、シンガポールで航空機事故に遭い死亡(享年53)。

 ・1943年(昭和18年)

 創業者・上山英一郎没(享年81)。

 ・1952年(昭和27年)

 「キンチョール」が日本初のエアゾール式殺虫剤として発売。

 ・1959年(昭和34年)

 ・サンポールの旧製造販売元だった「日本電酸工業株式会社」が東京都足立区にて設立。

 ・1967年(昭和42年)

 金鳥蚊取り線香のテレビCMに歌手の美空ひばりを起用。

 1969年(昭和44年)

 日本電酸工業の商号を「サンポール株式会社」に変更。

 ・1970年(昭和45年)

 ワンタッチぞうきん 金鳥「サッサ」発売(殺虫剤以外の部門にも進出。
 多角経営のきっかけ)。

 ・1973年(昭和48年)

 金鳥「蚊取りマット」、金鳥「電子蚊取り器」発売。

 ・1974年(昭和49年)

 サンポール、会社更生法を申請。

 ・1975年(昭和50年)

 サンポール、会社更生法をまとめ再建へ。

 ・1979年(昭和54年)

 サンポール、アメリカのクロロックス社と提携。

 ・1980年(昭和55年)

 使い捨てカイロ 金鳥「どんと」発売。

 ・1982年(昭和57年)

 アメリカのクロロックス社、サンポールに資本参加、「サンポールクロロックス株式会社」に変更。

 ・1983年(昭和58年)

 タンス用防虫剤 金鳥「ゴン」発売(ピレスロイド成分の防虫剤としては世界初)。

 ・1985年(昭和60年)

 創業100周年。
 「サンポールクロロックス」が当社の傘下に入る。

 ・1988年(昭和63年)

 新本社ビル(大阪市西区土佐堀)落成。

 ・1990年(平成2年)

 「キンチョウリキッド」発売。
 サンポール株式会社の経営を譲り受ける。
 国際花と緑の博覧会(花の万博)に「グリーンアドベンチャー」出展。

 ・1997年(平成9年)

 タンス用防虫剤「ゴンゴン」発売。
 アメリカ・クロラックス(英語版)社の「コンバット」シリーズと家庭用クリーナーの販売権を取得。

 ・2002年(平成14年)

 「カトリス」発売。

 ・2003年(平成15年)

 「カトリス」の商品名を「蚊に効くカトリス」に変更。

 ・2005年(平成17年)

 住友製薬より大衆薬販売子会社・住友製薬ヘルスケアを買収、同社はダンヘルスケアに社名変更。

 ・2007年(平成19年)

 「虫コナーズ」発売。

 ・2009年(平成21年)

 「ゴキブリがいなくなるスプレー」発売。

 ・2010年(平成22年)

 「蚊がいなくなるスプレー」発売。
 和歌山工場(和歌山県海南市)竣工。
 長居球技場(大阪市東住吉区)のネーミングライツを取得し、「キンチョウスタジアム」とする。

 ・2011年(平成23年)

 大阪広告協会主催の「第54回大阪広告協会賞」を受賞。
 長年に渡りCMで多くの流行語を生み出したのが受賞理由。

 ・2012年(平成24年)

 蚊取線香「金鳥の渦巻」が「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞。
 「キンチョール ハエ・蚊ハンター」「ゴキブリハンター」発売。

 ・2015年(平成25年)

 上山英介会長逝去(享年78)

 ・2017年(平成29年)

 当社が保有する「日本における殺虫剤産業の発祥を示す資料」が日本化学会により化学遺産として認定される。

 ・2021年(令和3年)

 第70回日経広告賞大賞受賞

 関連項目

 ★ジュビロ磐田 - Jリーグ ユニフォームスポンサー(1998年〜2005年)
 タンス用防虫剤『ゴン』と、当時所属していた中山雅史選手の愛称「ゴン」を掛け合わせた事に因む。
 中山は実際に『ゴン』のテレビCMに出演し(CM出演自体はユニフォームスポンサーになる以前から)、桃井かおりと社交ダンスを踊る(「ダンスにゴン」≒「タンスにゴン」のシャレである)などしていた。

 ★セレッソ大阪 - Jリーグ ユニフォームスポンサー
 2010年7月より同チームへのスポンサードを開始。

 ★長居球技場
  セレッソ大阪へのスポンサードと同時に2010年8月より同チームのホームスタジアムとなる大阪市長居球技場の命名権を取得、「キンチョウスタジアム」と命名された。

 略称は「金鳥スタ」。スタジアムの入場門、メインスタンドの屋根、及び電光掲示板付近に「KINCHO」のロゴが入った看板・横断幕が設置されている。
 但し、FIFA(国際サッカー連盟)主催サッカー国際試合(AFCチャンピオンズリーグなど)では命名権行使が禁止されている為、国際試合開催時は正式名称に戻され、全ての「KINCHO」ロゴ入り看板・横断幕も撤去される。
 契約期間は当初2010年8月1日から2013年12月31日までの3年5か月間とされていたが、さらなる契約更新により2018年12月31日までの8年5か月間まで延長された。

 ★大阪エヴェッサ
  ホームゲームでのゴールスポンサーで上の部分はダングゴー!ゴー!、下の部分はタンスにゴンゴンとなっている。

 ★上山千穂(テレビ朝日アナウンサー)
  創業者の曾孫。

     〔ウィキペディアより引用〕

銭の花《商魂》 ♯010

2023-08-28 21:00:00 | 日記

 ■驚安の殿堂

 株式会社ドン・キホーテ
 (英: Don Quijote Co., Ltd.)
 日本の主要都市や主要地方都市でドン・キホーテブランドなどの主に総合ディスカウントストア及び総合スーパーマーケットを展開する企業。
 本社は東京都目黒区青葉台。
 略称はドンキ。


 現在の株式会社ドン・キホーテは2代目法人である。
 2013年8月に株式会社ドン・キホーテ分割準備会社(ドン・キホーテぶんかつじゅんびがいしゃ)として設立され、初代法人より会社分割で事業を承継した。
 初代株式会社ドン・キホーテは2013年12月に商号を株式会社ドンキホーテホールディングス(現・株式会社パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス)へ変更し、持株会社体制に移行。

 《概要》

 1号店は、京王線東府中駅近くにある東京都府中市の「ドン・キホーテ府中店」。当初は平屋の小さな店舗で倉庫形態を採用していた。
 本社も府中市に置いていた。
 その後、総合ディスカウントストアとして展開を開始。
 1997年11月に東京都江戸川区の「ドン・キホーテ葛西店」内へ本店を移転。
 2006年9月には東京都新宿区西新宿の新宿住友ビル35階に本店を移転。
 さらに2009年9月には、東京都目黒区の「ドン・キホーテ中目黒本店」(イエローハット跡地)内に本店を移転した。
 営業本部は東京都八王子市松木の「ドン・キホーテ京王堀之内店」の3階にある。
 パーティー用品や雑貨などのほか、食料品や酒類、化粧品、日用品、衣料品、レジャー用品、インテリア、家電製品、携帯電話本体および関連商品、宝飾品、ブランド品、アダルトグッズなどを、幅広く取り扱っている(取扱商品は店舗により異なる)。

 《特徴》

 ▼営業時間

 大半の店舗は、午前9時から11時に開店して深夜0時から5時の間に閉店する長時間深夜営業で、一部の店舗は24時間営業である。
 ただし、午後8時から9時など比較的早い時間に閉店する店舗も存在するため、ドン・キホーテの店舗がすべて深夜営業というわけではない。
 幹線道路沿いの店舗では駐車場を完備しているが、都心・駅前店などでは立体駐車場を併設している場合が少数あるのみである。
 駐車場は基本的に無料だが、店舗によっては買物金額に応じて無料時間を設定したり、近隣のコインパーキングと提携している店舗もある。

 ▼陳列・販促方法

 「圧縮陳列」と呼ばれる陳列方法を採用しているのが特徴である。
 隙間なく商品を並べて店内は半ば迷路のようになっており、買い物客に目当てのものを探し出させる宝探し的な要素をもたせている。

 ▼POP広告

 店内に散在している数多くのPOP広告もドン・キホーテの特徴である。
 これらの広告はドン・キホーテの本部が各店舗に配布しているわけではなく、各店舗で「POPライター」を採用して1店舗ごとに1人から3人配置し、「買場」の担当者と共に作成しており、POP文字は「ドンキ文字」と呼ばれるドン・キホーテ独自のフォントを使用している。

 ▼店舗による価格の違い

 同じ市町村内の店舗であっても、店舗により同一商品でも価格が異なることは珍しくない。
 これは価格決定が担当者(店長や地域マネージャーの場合もある)の裁量に広く委ねられているためである。
 店舗によっては「ロープライス保証商品」と銘打った商品を陳列するときがあり、その場合は購入後に他店舗(ドン・キホーテの他店舗も含む)でさらに安い価格が設定されていた場合に差額を返金する保証制度を取っている。
 またかつては無期限で返品可能とするなど返品に柔軟であったが、その後は店長の裁量で返品受付の可否を決定している。

 ▼公式キャラクター

 ペンギンを図案化した
 「ドンペン」と「ドンコ」。

 ▼テーマソング

 同店のテーマソング「MIRACLE SHOPPING〜ドン・キホーテのテーマ〜」が基本的に流れている。
 このテーマソングのCDはドン・キホーテ店内で販売されており、着うたの配信もされている。
 また店舗に電話をかけると保留音としてこのテーマソングが流れる。
 作詞作曲・歌唱は同社の元社員でプロ・ミュージシャンの経歴を持つ田中マイミである。

 ▼従業員の就業規則

 2022年3月から規則を改定し、ヘアカラーは自由となり、ネイルについても凹凸のないデザインであれば色は自由に緩和された。

 《沿革》

 ・1978年
  創業者の安田隆夫が小規模店舗「泥棒市場」を杉並区上荻四丁目に開業する。

 ・1980年9月
  卸売業を主体として株式会社ジャストを設立する。

 ・1982年7月26日
  本店を東京都杉並区桃井四丁目4番19号から埼玉県新座市栗原一丁目6番8号へ移転する。

 ・1989年
  ◇2月10日 本店を東京都府中市八幡宿北7782番地5へ移転する。
  ◇3月 小売業へ業態変更し、「ドン・キホーテ」第1号店となる府中店を出店する。

 ・1995年9月 商号を株式会社ドン・キホーテに変更する。

 ・1996年12月 店頭市場に株式を公開する。

 ・1998年6月 東京証券取引所市場第2部に上場する。

 ・2000年
  ◇6月 ナスダックジャパン市場に上場する。
  ◇7月 東京証券取引所市場第1部銘柄へ昇格する。

 ・2003年 商業施設事業を営む株式会社パウ・クリエーション(現在の日本商業施設株式会社)を設立、初の商業施設パウ川崎を神奈川県川崎市に開設、続けて北池袋、平塚、中川山王など全国27施設を開設し、ドン・キホーテを核テナントとしたショッピングモールを展開。

 ・2003年8月 テレビ電話を利用した遠隔薬剤師による医薬品の販売を開始する。
 後に厚生労働省より指導を受けたため、深夜早朝帯の緊急時に薬剤師がテレビ電話で相談を受け、無料で提供するサービスに変更する。

 ・2004年
  ◇2月 携帯機器販売事業を営む株式会社ドンキ情報館を設立し、2013年6月期に売却した。
  ◇9月 不動産開発事業を営む株式会社ディワンを設立して連結子会社とする。
  ◇12月13日 埼玉県さいたま市内の「浦和花月店」と「大宮大和田店」の2店舗で連続放火被害が発生し、花月店が全焼し店員3名が逃げ遅れて死亡する。
  ◇12月15日 上記と同一犯により「大宮大和田店」で再び放火が発生する。
 放火に乗じた万引き窃盗の容疑で40歳代の女が別件逮捕され、のちにドン・キホーテ放火被害の放火を認める。

 ・2005年
   ◇1月 モバイル・ウェブ・ファイナンス・マーケティング事業を営む株式会社リアリット(連結子会社)を設立する。
   ◇12月8日 経営再建中であったダイエーが所有しているハワイの子会社および現地の食品スーパー4店舗の買収に合意する。

 ・2006年
  ◇2月24日 ダイエーのハワイ子会社の株式を譲り受けて同時に全従業員を受け入れ、「Don Quijote (USA) Co. Ltd.,」が発足し、初の海外店舗となるオアフ島内4店舗を取得する。
  ◇9月 本店を東京都新宿区西新宿二丁目6番1号へ移転する。

 ・2007年
  ◇1月31日 - 埼玉県を中心に展開するホームセンタードイトを子会社化する。
  ◇10月25日 - スーパーマーケットチェーン「長崎屋」の株式を譲り受け、子会社とする。

 ・2009年
  ◇8月31日 本社を東京都目黒区青葉台二丁目19番10号に移転する。

 ・2011年 売掛債権の買取業などを営む株式会社フィデックを子会社とする。
  ◇6月6日 当社元常務が当社から得た経費を私的に流用して着服したとして警視庁に詐欺容疑で逮捕される。      
 2013年
  ◇8月 (初代)株式会社ドン・キホーテにより株式会社ドン・キホーテ分割準備会社が設立。
  ◇12月 (初代)株式会社ドン・キホーテ(株式会社ドンキホーテホールディングスへ商号変更)の持株会社移行に伴う会社分割により、事業を継承した株式会社ドン・キホーテ分割準備会社が、株式会社ドン・キホーテ(2代目)に商号を変更する。

 《業態》

 ▼総合ディスカウントストア事業

 ・ドン・キホーテ

 通常業態。基本的には生鮮食品を扱わない。主に若年層を対象とする。

 ・MEGAドン・キホーテ

 総合スーパー業態をコンセプトにした店舗。
 通常の店舗とは異なり通路が広いことを特長とする。
 家族や高齢者を対象としている。

 ・NEW MEGAドン・キホーテ

 MEGAドン・キホーテより規模が小さい業態。
 生鮮食品の割合を減らすなど、より収益性・効率性を重視した業態。

 ・MEGAドン・キホーテUNY

 後述のアピタやピアゴからの転換で、MEGAドン・キホーテとユニーのダブルネーム店舗。
 UDリテール株式会社が運営する。

 ・ピカソ

 小型店舗の位置づけ

 ・essence(エッセンス)

 ▼スーパーマーケット事業

 ・長崎屋

 スーパー事業(MEGAドン・キホーテに改装されずに長崎屋のまま残った店舗)。
 上記の「ドン・キホーテ」や「MEGAドン・キホーテ」に転換され減少傾向にある。
 株式会社長崎屋が運営するが、MEGAドン・キホーテに転換された店舗の一部も長崎屋によって運営されている。

 ▼その他リテール事業

 ・驚安堂

 ピカソと同様に小型店舗の位置づけだが、かつて展開していた情熱空間を承継したコンビニエンスストア型店舗。
 梅島駅前店、2015年9月8日にオープンする福生店では、「驚安堂」の看板の横に緑地で「野菜・果物・精肉」の看板が取り付けられている。
 なおPPIHの国内業態としては唯一自社系のmajicaを含めたキャッシュレス決済に対応しておらず現金のみに対応している。

 ▼専門店

 いずれも、ミニショップ形態の専門店。

 ・お菓子ドンキ
  輸入菓子や珍味など、菓子類に特化した専門店。

 ・お酒ドンキ
  クラフトビールや変わり種など、酒に特化した専門店。

 上記「お菓子ドンキ」「お酒ドンキ」は、いずれも1号店が2021年5月21日に、八重洲地下街(東京都中央区)にオープンした。

 ・コスメドンキ
  韓国コスメなど、化粧品に特化した専門店。

 ・驚辛ドンキ
  辛い食べ物に特化した専門店。

  上記「コスメドンキ」「驚辛ドンキ」は、いずれも1号店が2021年11月6日に、モラージュ柏(千葉県柏市)にオープンした。
 なお、モラージュ柏には「お菓子ドンキ」も出店している。

 ・キラキラドンキ
  お菓子屋やアジアンコスメなど、トレンドを意識した専門店。

 「キラキラドンキ」は1号店が2022年5月3日に、ダイバーシティ東京プラザ(東京都港区)オープンした。

 ・ときめきドンキ
  Z世代~ミレニアル世代の女性をターゲットした専門店。
 
 「ときめきドンキ」は1号店が2022年11月11日に、ドン・キホーテ中洲店(福岡県福岡市博多区)オープンした。

 ・ ナイトドンキ
  家電など当たるカプセルトイ型のコーナーを設置をした専門店。

 「ナイトドンキ」は1号店が2022年11月25日に、ドン・キホーテすすきの店(北海道札幌市中央区)オープンした。

 関連項目 ー 圧縮陳列 ー

 圧縮陳列(あっしゅくちんれつ)は、ドン・キホーテが買い物の楽しさ・面白さを購買客に煽り、訴えかけるために行っている独自の商品ディスプレイ・販売促進手法である。
 文字通り、狭小な売り場空間を商品で徹底的に満たし、いわば商品の無秩序空間・ジャングルを形成する。

 関連項目 ー 居抜き出店 ー

 
居抜き(いぬき)とは、もともと存在した店舗の家具などがそのまま残った状態で不動産物件を他の者に売却したり、貸したりすることである。

 狭義的には、主として同業種の閉店した地に、その旧店舗の内外装・設備類をそのまま利用して出店することを指す場合もある。
 このような状態の物件を居抜き物件という。
 これに対して旧店舗の内装や設備類などを撤去し建物のみとした状態の物件をスケルトンと呼ぶこともある。
 物件によっては、「床・壁・天井だけあります」「厨房だけあります」というように、内装の一部だけ残っている場合でも居抜き物件という場合もあるが、その場合は「一部居抜き」といった表現をすることが多い。

 ▼メリット

 メリットとしては、過去の店舗から残されている内装や設備をそのまま使用できるため、初期投資を少なく抑えられることがあげられる。

 ▼デメリット

 デメリットとしては、店内のレイアウトがある程度決まっているため、イメージ通りの内装にしにくい点があげられる。
 特に、飲食店の場合では、水回り(厨房やトイレ)の改装が難しいケースが多い。
 また、引き継いだ設備が古く、実際には使えないといった場合、新たに買い足す必要が出てくるため、結果的に造作譲渡料以外に新たに工事費が発生してしまう。

 ▼スケルトン

 床・壁・天井・内装などが何もない「建物の躯体だけの状態」の物件のことは、「スケルトン」という。
 店舗物件は「スケルトン渡し・スケルトン返し」が基本なので、返却する際はスケルトン状態に戻す必要がある。
 しかし、新たなテナントが旧テナントと同じ業種であれば、そのままで引き渡しができれば内装工事費用を節約でき、かつ元テナントにとってもスケルトンに戻す解体費用を節約することができる。
 その結果、引渡時間の短縮により物件のオーナーにとってもメリットとなる。

     〔ウィキペディアより引用〕

 

in the name of ending the war Chord : 12 アインシュタイン=シラードの手紙 ②

2023-08-27 21:00:00 | 日記

 アインシュタイン=
        シラードの手紙 ②

 ▼マンハッタン計画とその後

 結果としてアインシュタインの大統領への手紙は、主にフェルミらによる黒鉛をもちいた天然ウランの原子炉の開発を資金的に後押しすることとなったが、アメリカ政府を原子爆弾開発に本格的に歩みださせるところにまでは至らなかった。
 実際、アーサー・コンプトンは1941年夏にはアメリカ政府による核分裂の軍事的研究はほとんど潰れかかっていたとしている。
 しかし1941年10月、アメリカ政府はイギリスの MAUD 委員会からウラン濃縮とそれによるウラン爆弾が技術的に可能だという報告を受け取った。
 図らずもウラン諮問委員会でロバーツが主張したように、ウラン濃縮の可能性が現実に近づいた後、アメリカは遂に原子爆弾開発へと舵をきることになった。
 こうして計画が滑り出したころアメリカは真珠湾攻撃を受けることとなり、ともすればヨーロッパの戦争と見られていた第二次世界大戦への国内の孤立主義的気分は吹き飛ぶこととなった。
 1942年6月、科学研究開発局の元で進められていた開発は、陸軍の管理下でのマンハッタン計画へと引き継がれることになった。 マンハッタン計画では、フェルミとシラードらの原子炉の研究は、その後ウラン238から作られることがわかった新元素で、やはり爆弾となるプルトニウムの生産計画へと姿を変えた。

 1945年春以降、ドイツの敗北が時間の問題となると、シラードは逆に原子爆弾の実戦使用に反対する活動の先頭に立ち、このとき再びアインシュタインを頼ることとなった。
 この間、アインシュタインはその政治姿勢から政府に機密保持が不可能であると判断され、マンハッタン計画には参加していなかった。
 かつて1920年代にアインシュタインを日本に招聘した雑誌『改造』に対し、1952年にアインシュタインは「日本人への私の弁明」(On my participation in the atom bomb project、原子爆弾計画への私の関わりについて) と題した文章を寄稿した。
 その中で、この手紙が原爆開発において自分が関わった唯一の点だと述べた上で、原爆開発が「人類におよぼすおそるべき危険」を知ってはいたものの、ドイツががそれに成功する可能性が高いという考えによって「この処置をとらざるをえなかった」とし、「他にどうすることもできなかった」としている。
 1955年にアインシュタインが亡くなったとき、その追悼会において生化学者ライナス・ポーリングは、晩年アインシュタインが彼に語った後悔について触れている。「私はひとつ大きな間違いを犯してしまった。
  ルーズベルト大統領に原子爆弾を作ることを勧めた手紙に署名したことだ。」

 《ルーズベルトへの2度目の手紙》

 シラードの求めに応じて再びアインシュタインがルーズベルトへの手紙を書いたのは上述のように戦争末期のことであった。
  1945年3月にナチス・ドイツが原爆を開発していないことが明らかとなり、自分たちが開発してきた原爆が日本に対して使われるという懸念が広がった。
 シラードにとってそれは元々の原爆開発の動機と相容れないものであるだけでなく、科学者の研究チームの結束も、戦後世界の安定をも壊す行為だと思われた。
 シラードは自らの意志を再び大統領へと伝えるために覚え書きを執筆し、大統領への紹介状をプリンストンのアインシュタインに依頼することにした。
 マンハッタン計画の機密保持条項による厳しい規制のため、シラードは、計画外にいたアインシュタインに紹介状を依頼する目的を告げることも、自ら執筆した覚え書きを見せることもできなかった。
 それでもアインシュタインはこの求めに応じ、1945年3月25日、内容にまったく触れられないままルーズベルトへのシラードの紹介状をしたためた。

 シラードは、機密性の問題から紹介状のみを大統領夫人エレノア・ルーズベルトへと送り、夫人と5月8日に面会を行う約束を取りつけた。
 しかし4月2日のルーズベルトの突然の死によって、この機会は失われた[39]。 新たなつてを頼り、シラードはこのルーズベルト宛のアインシュタインの紹介状をトルーマン新大統領に送ることとなった。 これによりシラードは、ワシントンでトルーマンの秘書と会い、新政権で国務長官となる予定のジェームズ・F・バーンズとの会見が設定された。
 5月末のこのバーンズ訪問でシラードは、原爆の実戦使用が、戦後の国際的核管理体制を不可能とし、危険な核開発競争を招くであろうことなど持論を訴えたが、バーンズに理解されることはなかった。
 その後もシラードら科学者によっていくつかの原爆実戦使用への反対活動が続けられたが、これら科学者側からの活動は広島と長崎への原爆投下という政治決定に影響を与えることはできなかった。

   〔ウィキペディアより引用〕



銭の花《商魂》 ♯009

2023-08-26 21:00:00 | 日記

 ■100円SHOP

 株式会社大創産業
 (だいそうさんぎょう)
 100円ショップのダイソー(DAISO)を運営する日本の企業である。
 日本国内に約3,300店舗、世界26の国家・地域に、約2,000店舗を展開している。


 《概要》

 ▼創業

 当初はスーパーマーケットの駐車場に店舗を構える、移動販売・露店方式の100円ショップを運営していた。    
 1980年頃の100円ショップは、問屋からすべての商品を70円以下で仕入れて100円で売る状態であったことから商品の質にも限界があった。
 当時、ある主婦客の一人が「安物買いの銭失い」とつぶやくのを創業者である矢野博丈が目にし、それ以来仕入れのスタイルを変えた。
 時には98円で仕入れた商品を100円で売ることもあるなど、売価100円の範囲で可能な限り質にこだわった商品構成に変更した。
 これにより「矢野の100円ショップは商品がいい」と評判を呼び、全国から引き合いが増えるようになった。
 スーパーマーケットのオーナーからテナントでの出店を誘われたことが、現在のダイソーのルーツとなる。
 100円商品は安価で品質は劣るという先入観を払拭するため、仕入れ原価が100円に近いものや原価割れしている商品も100円として販売する手法を取った。
 また、テナント形式の店舗により、顧客はいつでも来店して買い物することができ、商品に問題があった場合は店舗にクレームを申し入れられるようになったため、移動販売に比べて格段の信頼を得ることにもつながった。
 それらの理由により、屋内の店舗形式による100円ショップを展開していく大きな原動力となった。
 1991年3月、同社初めての直営100円均一ショップを、香川県高松市の丸亀町商店街内に開店する。
 創業時初期は商店街等への出店が多かった。
 また店舗にはNo.○○とナンバリングをしており、小倉魚町店(No.16)等、現在もその時期の外装で営業する店舗も存在する。

 ▼店舗展開

 バブル崩壊後の平成不況時代(失われた10年)において、消費者の購買意欲が低下している経済状況がチャンスとなり、安価な商品を求める当時の消費者のニーズに応えた。
 また生活に関わる雑貨品を中心に、多岐にわたるジャンルの商品を陳列し、「100円ショップ=多数のジャンルの商品がある」とのイメージを付加した。
 安価の魅力の他に、一度の来店で多様なジャンルの雑貨が購入できる利便性が、来店者数増加・売り上げ拡大の要因ともなる。
 付加価値の高い商品を多く揃えられた背景には、

 ・平成大不況時代において商品の原価や原材料の市中価格は著しい低水準価格であったこと

 ・製造メーカーや卸売業者から大量の商品・商材を、現金取引で行うことで、通常より仕入れコストを抑えていたこと

 が要因である。

 そして、積極的な出店を展開し、豊富な商品の品揃えの中で100円均一というスタイルが、近所の評判やメディアを通じて知名度を一気に上げ、ダイソーは全国区レベルの小売業に成長する結果となった。
 絶大なる知名度と大不況時代の国民からの支持により、売り場面積1,000 - 2,000坪超の超大型店舗や、アジアやアメリカ合衆国を中心とした日本国外への出店も実現した。
 製造メーカーが生産した商品でも、製造メーカー名を伏せて大創産業の社名のみと自社のロゴ(「素材発信」や「ザ○○」など)を明記して自社オリジナル商品仕様にすることにより、単なる小売業ではなく商品開発・管理が特化している企業となり、消費者からは「ダイソーのオリジナル商品」の呼称も多く見受けられるようになり、商品開発力をも持ち合わせる店舗として捉えられることにもなった。
 バブル崩壊後の平成不況時代の末期ごろから、「高額商品」という呼称で100円以上の商品の販売が開始された。
 当初は150円や200円などの、従来の100円商品に多少の付加価値を加えた程度の商品が多く、100円ショップの概念を打ち壊して批判を受けたり疑問を抱かれる不安材料があったものの、100円ショップブームが終焉して経営不振になることを懸念したため、脱・100円ショップ路線を模索する形で実施に踏み切った。
 これは創業者であり社長である矢野の創業以来の考えであった。
 結果的には極端な来店者数の減少を招くことなく、豊富な商品ラインナップにより来店する客が多いことを機軸にして、高額商品を自然な形で定着することができた。

 ▼社名

 創業当時、「会社の規模はまだまだ小さいけど、名前だけは大きな物にしよう」という意気込みから、「大きく創る」を「大創」としたのが社名の由来である。

 ▼キャッチコピー

 「だんぜん!ダイソー」

 ▼店舗ブランド

 ★100円ショップ

 ・ダイソー (DAISO)
 以前は「ザ・ダイソー」の名で出店していたが、2019年3月、店名の表記が「ダイソー」に変更された。

 ・オレンジ
 株式会社中部商会が運営していた100円ショップ。
 2015年10月にダイソーが買収した時点では54店舗存在していたが、「ダイソー」への転換や閉店が進み、2023年3月5日時点で現存するのは、泉たてば店(横浜市泉区)のみである。

 ★300円ショップ

 ・THREEPPY(スリーピー)
 若い女性にターゲットを絞り、専用ウェブサイトやInstagram公式アカウントを開設して宣伝している。

 ・CouCou(クゥクゥ)
 (一部500円の商品もある)
 かつてはビルジャンが運営していたが、2020年5月1日に大創産業がビルジャンから事業譲受した。
 Instagramの公式アカウントが「THREEPPY」と統合されている。

 ・PlusHeart(プラスハート) - 「THREEPPY」の商品も取り扱う。
 Instagramの公式アカウントが「THREEPPY」と統合されている。

 ・Standard Products
 (スタンダードプロダクツ)
 2021年3月26日、
 渋谷マークシティ1階にオープン。

 《沿革》

 ・1972年(昭和47年)
 矢野博丈が家庭用品の販売を目的として矢野商店を創業。

 ・1977年(昭和52年)
 株式会社大創産業として法人化。

 ・1987年(昭和62年)
 100円SHOPダイソー」の展開に着手

 ・1997年
 通産大臣賞「貿易貢献企業賞」を受賞。

 ・2001年
 台湾に出店。
 以後、世界各国に出店。

 ・2015年10月27日
 100円ショップオレンジを展開する中部商会の全株式を取得し、完全子会社化。

 ・2019年3月5日
 CI及びロゴマークを刷新。

 ・2019年4月1日
 ダイソー女子駅伝部を創部。

 《裁判》

 ▼商標権侵害裁判

 2012年に韓国でダイソー(다이소)を運営する大創アソン産業(日本の大創産業と韓国のアソン産業の合弁会社)が、ダイソーと同様に生活用品や雑貨を販売している「ダサソー」(다사소、韓国語の方言で「全部買ってください」の意味。仮処分申請を受けて「ダサヨー」(다사요)に改名)を相手に、商標使用禁止などを求める裁判を起こした。
 一審はダイソー側の敗訴となったが、二審では逆転勝訴。
 高裁判決では、「ダサソーの標章は外見や呼称、観念などを総合的に観察すると、取引上、一般消費者や取引業者がダイソーと誤認、混同する恐れがある」とし、「ダサソーがダイソーの周到性に便乗しようとする意図が推断できる」とも指摘した。
 2015年、韓国の最高裁判所である大法院によってダイソー側の勝訴が確定した。
 2017年、水原地方裁判所はダサソー側の敗訴確定後もダサソー名で営業を続けたとして、経営者に500万ウォンの罰金刑を言い渡したと公表した。

 《不祥事》

 ▼下請法違反

 2012年3月27日、下請会社に支払う代金を不当に減額したとして、公正取引委員会から下請法違反で勧告を受ける。
 2014年に2度目の勧告。公正取引委員会が大創産業に対し調査を行ってきたところ、下請代金支払遅延等防止法(下請法)第4条第1項第4号(返品の禁止)及び同項第5号(買いたたきの禁止)の規定に違反する行為が認められたため、2014年7月15日、下請法第7条第2項の規定に基づき、勧告を行う。

 ▼発癌性物質

 同社が2015年8月から発売開始したマニキュアの新製品について、全148商品のうち26商品から、発癌性物質の一つであるホルムアルデヒドが検出されたとして、同社は発売を中止し自主回収を実施した。
 その後、同年10月22日に全商品の検査の終了を受け、ホルムアルデヒドが検出された製品が当初の26商品から76商品に拡大したことを発表するとともに、万全を期すために、発売中止と自主回収の対象品をホルムアルデヒドが検出されなかった製品を含む全種類に拡大した。
 併せて、問い合わせの電話が繋がらない、質問内容に対する回答が曖昧、店頭での不遜な対応に客から叱りを受けるなど、返金の際に不適切な対応があったとして謝罪している。

 ▼著作権侵害

 子会社の大創出版が2017年12月に刊行し、ダイソーの店舗で発売していた「トリックアートギャラリー」・「トリックアートミュージアム」の2冊について、立命館大学教授の北岡明佳が考案した作品5点を無断転載していたことが2018年3月16日に明らかになった。
 北岡が同年2月下旬に「著作権侵害に該当する」として大創出版に警告書を送付。
 これを受けて大創出版は北岡に対して著作権侵害を認め謝罪すると同時に発売の中止と店舗からの回収を発表した。
 大創出版は「錯視自体には著作権がないと考え、錯視を利用した作品も同様だと考えていた」と釈明している。

 ▼白髪染めから有害物質検出など

 台湾で製造され、京都市の化粧品メーカー・サンパルコが輸入し、ダイソーの店舗で販売していた白髪染め3製品から、日本の基準で配合が認められていない有害物質のホルムアルデヒドが検出されたことが2018年4月13日に判明し、サンパルコが自主回収することを発表した。
 回収は200万個に及ぶという。
 またサンパルコはダイソー向けに発売していたファンデーションなど75品目についても必要な成分を表示していなかったとして自主回収することも合わせて発表した。

 ▼輸入書類改ざん

 台湾でダイソーを展開する台湾大創百貨が、輸入を禁止されている福島県など5県産食品を、他県産と偽って輸入を申請し、経済部から半年間の輸入停止処分が下された後も、輸入書類を改ざんするなどして輸入を続けていたとして、同社の元課長に対して猶予付きの有罪判決を言い渡した。

 ▼商標法違反

 2023年3月3日、高級ブランド「フェンディ」のロゴ入りの布を東京都と神奈川県内の店舗で不正に販売していたとして、同社と仕入れ担当の20代女性社員が商標法違反の疑いで神奈川県警察に書類送検された。
 布は90センチ四方のはぎれとして販売され、「FENDI」のロゴが入っていた。   
 この布は元々フェンディの正規ライセンスを保有していた業者が傘製造用として生産した物であったが、検品で不合格となり、業者によって保管していたものの、業者が倒産したため、外部に流出した可能性があるといい、下請けから大量に仕入れた布に含まれていた。
 女性社員は同県警の調べに対し「仕入れ先から大丈夫と言われ、それ以上確認しなかった」と供述しているという。
 3月28日、横浜地方検察庁は同社と同社社員について不起訴処分とした。

 関連項目 ー 100円SHOP歴史 ー

 ▼前史

 ★江戸・明治時代における均一価格による店舗

 「商品を均一価格で売り出す」というアイデアは、日本国内においては古くは享保7年〜8年(1722年〜1723年)頃から江戸で流行した「十九文見世」(十九文店、十九文屋)、文化6年〜7年(1809年〜1810年)頃から江戸で流行した「三十八文見世」(三十八文店、三十八文屋)、同時期に江戸で流行した均一価格の食べ物屋台「四文屋」、明治時代前半の頃の天保通宝の8厘通用を意識した「8厘均一」や「2銭8厘均一」、松屋呉服店(現:松屋)が1908年(明治41年)に行った「均一法大売出し」や1910年(明治43年)に行った「一円均一」という例があ。

 ▼十銭ストア

 現在の100円ショップに近い業態を営んだ戦前の例として、髙島屋が全国に展開した「十銭ストア(テンせんストア)」が挙げられる。
 アメリカの「10セントストア」を参考にしたものとされる。
 消費者物価指数でみた場合、1935年時点の10銭は2015年の180円程度に相当する(1935年を1とした場合、概算で2015年は1,800前後)。
 1926年(大正15年)に大阪・長堀店に「なんでも十銭均一売場」を設置したのを皮切りに、1930年(昭和5年)には難波南海店に「髙島屋十銭ストア」を開業した。
 その後1932年(昭和7年)にかけて独立型の店舗50店を大阪・京都・名古屋・東京周辺に展開し、大好評を博したという。
 「十銭ストア」の取り扱い商品は「日常家庭生活に必要なものはほとんど全部」に及び、その種類は約2000種近くに達した。
 商品調達にあたっては均一店専門の納入業者を開拓、生産者との直接取引を導入するとともに、生産者への指導・援助も行い、均一店向けの商品開発や商品の標準化にも積極的に関与したという。

 1932年(昭和7年)には、同業他社の松屋も銀座に同種の均一店を展開した。
 「髙島屋十銭ストア」の成功は他業種の価格破壊に影響を与えたとみられ、作家の織田作之助は小説『世相』において、「テンセン(十銭)という言葉が流行して、十テン銭寿司、十テン銭ランチ、十銭マーケット、十銭博奕、十銭漫才、活動小屋も割引時間は十銭で、ニュース館も十銭均一、十銭で買え、十銭で食べ十銭で見られるものなら猫も杓子も飛びついた」と描写している。
 のち「髙島屋十銭ストア」は1932年(昭和7年)に「髙島屋十銭二十銭ストア」、1937年(昭和12年)に「髙島屋十銭二十銭五十銭ストア」へ改称した。
 1937年(昭和12年)に施行された百貨店法によって規制が強まると、髙島屋は均一店事業を本社から切り離して「株式会社丸高均一店」を設立。
 1941年(昭和16年)には全国に100店を超えるチェーンを築いたが、その後の太平洋戦争により経営基盤を奪われ実質的な廃業に至った。
 なお、残存したいくつかの店舗は1952年(昭和27年)に「株式会社丸高」のストア部門(後に「髙島屋ストア」)として再出発し、2003年(平成15年)にはイズミヤに買収され、商号を「カナート」へと変えて現在に至っているが、戦後のこれら店舗はいわゆる100円ショップの業態をとってはいない。

 ▼1960年代の催事販売

 100円ショップに見られるような均一低価格による販売手法は1960年代から行われていたが、当時のそれはスーパーや百貨店などの催し物として1週間程度の期間に限るものであった。
 この販売形式を「催事販売」、これを行う業者を「催事業者」と呼び、催事業者らは各店舗を定期的に巡回して催事販売を行った。
 催事販売で売られる商品の大半は「100均メーカー」と呼ばれるメーカーの商品を中心に安定供給できる定番商品と、これに質流れの金融品や仕入先が何らかの事情で現金化を急ぐために販売した「処分品」と称される商品からなり、当時100円以上で販売されていた商品も含め全品100円で販売した。
 さらに販売後のトラブルに対応するためスーパーなどに取引口座を開設し、催事販売をした店舗を通してクレーム対応などもしながら各地を移動して販売を行っていた。

 ▼1980年代 - 固定店舗の出現

 従来の催事販売はしばしば好評を博していたが、1985年3月に有限会社ライフの創業者・松林明が愛知県春日井市に日本初の固定店舗による100円均一店をオープンし「100円ショップ」と命名して販売を開始した。
 その後、現在の100円ショップチェーン最大手の大創産業(「ダイソー」)創業者の矢野博丈は商品の品質アップに力を入れる(一部には採算割れの商品も含む)ことで、催事販売を依頼するスーパーや百貨店の信用を勝ち取り、1991年に最初の常設店舗を開設した。
 これ以後は「キャンドゥ」「セリア」「ワッツ」といった、後に株式公開する同業の他社も参入して店舗網を広げた結果、新たな販売チャンネルとしてメーカーから認知されるようになり、バブル崩壊後の不況とデフレともあいまって急速に店舗数が増加し「不況時代の成長業界」とも称されるようになった。
 また、2000年代からは食料品中心の100円ショップ型の生鮮コンビニという業態も登場し、その先駆けとして1996年に九九プラスが「SHOP99」(現在はローソンストア100に吸収)が出店を開始した。
 その結果2010年までには、いわゆる「バッタ屋」時代に主流だった金融品や処分品を安く仕入れて販売することは少なくなり、大量の店舗による販売力を生かして国内外のメーカーへ自社専用商品(プライベートブランド)の形で大量に生産を委託することで、仕入れ価格のダウンと品質の確保を両立させることが多く行われるまでになった。
 たとえばダイソーでは、数百万個という単位での一括製造を行いコストダウンに努めている。
 しかし製造コストは下がるものの在庫コストは莫大なものとなる。

     〔ウィキペディアより引用〕




Wonder To Oneself ♯004

2023-08-25 21:00:00 | 日記

 ■SF(夢)のお話

 もし、タイムマシンが存在し、乗れる事になれば、アナタはタイムマシンに乗り、タイムスリップして、何処で誰に逢いますか?

 行き先は、未来?それとも過去?

 未来に行って“自分”に逢うのも良いでしょうし、過去に行って元カノに逢うのも良いでしょう。

 そういう事を考えると、懐かしいTVアニメ『タイムボカン』でしょうか。

 『タイムボカン』
 (英語表記:Time Bokan)
 1975年10月4日から1976年12月25日までフジテレビ系列で、毎週土曜18:30〜19:00(JST)に全61話が放映された、タツノコプロ制作のテレビアニメ。

 《概要》

 『タイムボカンシリーズ』の第1作目。
 本作品の企画は、ミニカーを売るためのアニメという発想で、1966年のアメリカ映画『グレート・レース』の影響を受けたカーレースものが源流である。
 1972年頃には「時空を超えた善悪のタイムマシンによるコミカルな競争」という本作品の企画が決定。
 『タンマー大混戦』や『ちょちょいのタンマー』『すっとびタンマー号』などのタイトルがつけられて、その時点でメカブトンのデザインは出来上がり、15分のパイロットフィルムを制作。
 このパイロットフィルムは第1話やオープニングに一部流用された。
 パイロットフィルムでの淳子は金髪だったため、テレビシリーズでは青の髪だった淳子の髪はその流用されたカットで金髪になっている。
 タツノコプロでは当時、ハードなアクションものが続いたためギャグものを、ということだったが、ギャグにしてはタイムトラベルやメカの要素などが盛り込まれた本作品は、監督の笹川ひろしによると中途半端な印象を与えたといい、スポンサーがつかずに放映決定まで3年を要することになった。
 主人公の名前は当時の人気アイドルから取られ、野口五郎と天地真理から五郎と真理だったのが、放映が決定するまで3年の間、アイドルの人気の変遷から、真理が桜田淳子から取った淳子になっており、放送の決定後、タイトルが『タイムボカン』と改められた。
 本作品は後のシリーズ作品のように、主人公の2人もしくは1人が、変身してヒーローにならない唯一の作品である。
 丹平役の太田、淳子役の岡本、チョロ坊役の桂は次作の『ヤッターマン』においても主人公キャラを担当した。
 丹平と淳子およびマージョは2つの山形の隆起がついたヘルメットを常に着用している。
 この隆起のモチーフは、キャラクターデザインを担当した天野嘉孝によれば、ブラジャーである。
 マージョ、グロッキー、ワルサーの「悪玉トリオ」には決まった名称は無いが、後年の出版物では便宜上「マージョ一味」と呼ばれている。
 木江田研究所での会話をあの手この手で盗聴し、出発した丹平達の後を追跡、木江田博士からダイナモンドの場所を聞き出そうと狙う。
 丹平たちと博士が再会した3クール目以降は、ダイナモンド探しの話が中心となるが、第36話や第46話などの様に、丹平たちがダイナモンド探しとは別の目的で時間旅行をし、それを盗聴した三悪が「その場所にダイナモンドが有る」と速断して後を追うという展開も時々行われた。
 当初は2クール全26話を予定。平均視聴率19.0%、最高視聴率26.3%(タツノコプロが所有する資料による)と好評を博し、まず2クール、その後さらに1クール延長され、最終的な放送期間は全5クール(全61話)となった。
 当初の目的の一つだった木江田博士と中盤で再会するのはその名残である。またこの好評ぶりにより、本作品の終了後も「タイムボカンシリーズ」として、基本的な設定やコンセプトを共有した作品群が世に送り出されていくこととなる。

 《ストーリー 概要》

 ある日の事、科学者・木江田博士は自ら開発したカブトムシ型タイムマシン「タイムボカン」の試運転に出かけたが、程なくして帰ってきたのはオウムのペラ助と世界最高級の宝石「ダイナモンド」だけで木江田博士の姿はどこにも無く、行方不明となってしまう。
 博士の孫娘・淳子と博士の助手の丹平はコンビを組み、どこかの時代に消えてしまった博士をタイムトラベルしながら探す事を決意する。
 一方博士をスパイしていた悪玉トリオ・マージョ一味は博士のいるところにダイナモンドが存在すると睨み、タイムボカンを追いかけ、妨害するのだった。
 その後、木江田博士は現代に帰還し丹平たちと再会する(第27話)。
 それ以降は、悪玉トリオのダイナモンド入手の阻止や、ペラ助の故郷探しなどの旅をする。

 話の内容から、モチーフは童話劇『青い鳥(チルチルミチル)』と思われる。

 『青い鳥』(あおいとり)
 (フランス語:L'Oiseau bleu)

 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。
 1908年発表。
 初版は5幕10場、最終版は6幕12場。

 《内容》

 貧しい木こりの子供であるチルチル(Tyltyl)とミチル(Mytyl)の兄妹が、クリスマス・イヴの夢の中で老婆の姿をした妖精ベリリュンヌ(Bérylune)(若月訳では「ベリーリウンヌ」)に頼まれ、彼女の病気の娘のために、幸福の青い鳥を探しに行く。
 チルチルが、ベリリュンヌから与えられた帽子の額に付いているダイヤモンドを回すことによって、頭のコブが押され、物の本質を見通すことができ(“心眼”が開く)、動物や火や水などの元素が魂を持っているのがわかる。
 ふたりは光に案内され、青い鳥を探して思い出の国、夜の御殿、森、幸福の花園、墓地、未来の王国を冒険する。
 夢からさめた後、森や家の中が以前よりも幸福であるように見える。
 チルチルは自分の鳥かごの鳥が以前より青くなっているのに気づき、それを妖精に似た隣人のベルランゴ夫人(Berlingot)(若月訳では「ベランゴー」)の病気の娘に与える。
 病気が治った娘が礼を言いに来るが、彼女は鳥に逃けられてしまう。

 なお、メーテルリンクによる続編『チルチルの青春』(原題:Les Fiançailles(いいなづけ)、『チルチルの婚約』とも)がある。

 関連項目 ー青い鳥症候群 ー

 青い鳥症候群(あおいとりしょうこうぐん)

 モーリス・メーテルリンク作の童話「青い鳥」(仏: L'Oiseau bleu)の中で「主人公のチルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされる」ことから、「今よりもっといい人が現れる」「今よりもっといい仕事が見つかる」など現実を直視せず根拠の無い「青い鳥」を探し続ける人たちを指す通俗的な呼称である。

 関連項目 ー キジバト ー

 キジバト(雉鳩、Streptopelia orientalis)は、鳥綱ハト目ハト科キジバト属に分類される鳥。
 別名ヤマバト。


 《分布》

 ユーラシア大陸東部、日本。
 日本では国内で繁殖する留鳥(北海道や本州北部に分布する個体群は越冬のため南下する夏鳥)。
 種小名 orientalisは「東洋の」の意で英名と同義。

 《生態》

 平地から山地の明るい森林に生息するが、都市部でも普通に見られる。
 樹上に小枝等を組み合わせた皿状の巣を作るが、古巣を利用することも多く、人工建築物に営巣することもある。
 このため野良猫などの獲物になることも多い。
 雄のさえずり声はかなり特徴的であり、伝統的には「デーデー ポッポー」と表現される。
 「ホーホー ホッホー」と表現する人もいる。
 主に早朝にさえずる。
 さえずり声は個体によって音程などに違いがあり通常5音の発声であるが、4音でさえずる個体も確認される。
 人によっては譜例のようにさえずり声を8分の9拍子、付点4分音符=約72のテンポで「クーク グッググー」あるいは「ホーホ ホッホホー」と表現したほうがわかりやすいであろう。
 食性は雑食で主に果実や種子を食べるが昆虫類、貝類、ミミズ等も食べる。
 繁殖期は春から夏が多いもののほぼ周年で行い、1回に2個の卵を産む。抱卵日数は15 - 16日。
 抱卵は夕方から朝までの夜間は雌、昼間は雄が行う。
 雛は孵化後、約15日で巣立つ。
 一般的には番つがいで見られることが多いが、繁殖がうまくいかなかった場合は、1シーズンで番を解消するパターンも多い。
 冬季には繁殖していない個体が群れを作ることもある。

 《人間との関係》

 日本においては鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律の元で狩猟鳥に指定されている。
 ヤマバトという別名のとおり、かつては山岳地帯に生息し、めったに人前に姿を現さなかったが、1960年代に都市部での銃猟が制限されるようになってからあまり人間を恐れなくなり、1970年代には街路樹や建造物でも営巣するようになり、都市部への進出を果たした。
 但し、外来種のカワラバトに比較すれば警戒心は遥かに強い。
 耕地にまかれた豆などの種子を食害することもある。

     〔ウィキペディアより引用〕