今日、マガジンハウスさんからananの1960号が届きました。
「美しい日本語が私を変える。」というタイトルです。
僕も、"完全暦生活”という内容で数ページを書かせていただいたのですが、
実はどんな内容の号に掲載されるのかを知ったのは、先週、コンビニに立ち寄った時でした。
ananの2015年後半の占い特集号があったので手にとって見ていたのですが、
その最後のほうの次号予告で、杏(あん)さんの凛々しい横姿と一緒に「美しい日本語」の文字が。
僕は雑誌を持ったまま「!?」となり、絶句しました。
「これは・・・場違いなことになってやしないだろうか・・・」と一抹の不安。
第一弾の時よりも、少し占いの側面を濃くした書き方をしたので、
もしかすると、この号の内容にそぐわないんじゃないだろうか。そんな風に感じました。
しかしその一方で、占い特集号ではなく、
より一般性のある内容を扱った号に載せていただけるんだと知り、嬉しさも感じたのでした。
まあ、そんな僕の気持ちはともかく。
今日届いたanan1960号は、改めて自分の日本語を見直すきっかけになりそうです。
さっき、これを書き始める前に、杏さんのインタビュー記事を読みました。
テレビをほとんど見ることのない僕は、実際には名前くらいしか知らない方でしたが、
年間に本を100冊以上も読むとあり、もうそれだけでスーッと心惹かれるものがありました。
多忙な中でも自発的に本を読む時間を作るというのは、もちろん読書好きだということもあるんでしょうけど、
なによりも、日々の自己管理ができる人じゃないと難しいことだと、僕は思うのです。
日常を思い返してみると、言葉遣いが乱れている人は、大体のところ生活態度もあまり良くない気がします。
最近危惧しているのは、子供たちがテレビアニメやゲームなどの影響からか、
なにかと感情的になって声を荒げている場面を見聞きすることです。
遊びの中でも「(・・・ちょっと公には書けない言葉・・・)」を使っていたり、
気に食わないことや思い通りにいかないことがあると、咆哮にも似た叫び声やうなり声を上げることもある。
自分の気持ちを伝える適切な言葉を探すよりも早く、感情を露にしてしまう・・・。
暴力性のあるアニメや動画、中毒性のあるゲームなどに触れ続けることの恐ろしさを感じずにはいられません。
そして、そうした志向性とは逆に、文学や学術書を含めた「本」そのものを読む機会が減ってきている。
ひょっとしたら学校の教科書止まりの子さえ、いるかもしれない。
それと比例するかのように、人が作ったものを見たり、プレイしたりするだけで、
自分から遊びを作り出すとか、なにか自分で面白いことを創造するってことをしない子が増えている気もしています。
言ってしまえば、思考停止というか。
だけど、それは僕のうがった見方なのかもしれないので、普段は口にしないのですが。
それにそうした環境や状況をお膳立てしているのは、今の大人たちでもあるわけで、
子供たちに非があるとするのは、僕自身を含め、責任転嫁しているようなものだとも思えます。
本(あるいは新聞でもブログでもいいと思いますが)を読むことで、
書き手の意図を考えたり、筋道を追って理解したり、論理的に推測したり、
小説ならば、登場人物の心理に寄り添い、場面描写を鮮明に思い描きながら想像を逞しくする。
こうしたことは、自然と相手の気持ちを考える練習にもなっていて、
それが現実生活での会話や心の交流にも生きてくるものだと思います。
言語そのものにしても、
今は学校も日本語以上に英語教育へとシフトしていこうとしている感があるように思えますが、
母国語としての普段の言葉をしっかり身につけ、それを磨いていくことが土台にないと、
いくら他の語学に堪能になっても、それはやっぱり、どこか欠けたところができてしまうんじゃないでしょうか。
そして子供ばかりでなく、彼らの成長を見守る親や周りの大人自身も、
改めて自らの言葉遣いを見直す必要があるように思います。
僕自身、ざっとページを繰りながら、敬語や謙譲語の使い方や手紙の書き方など、
しっかり学んでおかなきゃ、と思うことがたくさんありました。
言葉は、その人の心が反映されたものだと僕は考えているので、
やっぱり聞いて心地よい言葉を使いたいし、そんな言葉を聞きたい。
自分で書いた暦解説をチェックする度に、この号を開くことになるので、
そこで「自分の日本語、大丈夫か?」と自問し、
その都度、学び直せるのは、とてもありがたいことだなと思います。
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