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音楽の宝物 第3回 ラリー・アドラー「 愛のアランフェス( Adagio )」1979年

2019年01月31日 | 自分史


音楽の宝物 第3回 ラリー・アドラー「 愛のアランフェス( Adagio )」1979年
The Concierto de Aranjuez (Adagio) - Larry Adler

 上にお示ししたポートレートは
ラリー・アドラーさんの最晩年の写真です。
ちょっと神経質そうな、瘦せぎすのポートレートですが、
若い頃はアメリカのジャズシーンで
大活躍されていました。


 中央のポートレートはそんな大活躍されていたこの頃のものです。
( 以下の文章はWikipediaより参照しました。)



アメリカ合衆国出身のハーモニカ奏者。
本名はローレンス・セシル・アドラー( Lawrence Cecil Adler )
ボルチモアのユダヤ系ロシア人の家に生まれました。
2歳でアル・ジョルソンの物まねをし、6歳からピアノを始め。
10歳で地元の聖歌隊の最年少の先唱者となり、
ピーボディ音楽院に通うようになったが、
落第して放校処分となりました。

 その後、ハーモニカを独学し1927年にメリーランド・ハーモニカ・チャンピオンシップに挑戦して優勝しています。
翌年、ニューヨークに出てヴァイオリニストのナット・ブルシロフの事務所に所属し、
ルディ・ヴァレーのクラブで演奏したり、ディズニー映画のハーモニカの音の吹き替えなどをしたりしています。
1931年にはブロードウェイで演奏するようになり、フレッド・アステアらと共演。
また、イギリスやオーストラリアにも演奏活動に行き、
1936年にはシリル・スコットからハーモニカとピアノのためのセレナーデ、
1941年にはジーン・バーガーからハーモニカ協奏曲をそれぞれ献呈されます。
1940年頃からタップ・ダンサーのポール・ドレイパーと組んで演奏活動をするようになったが、
1948年に赤狩りの影響で業界から干され、1949年にロンドンへの移住を余儀なくされてしまいます。
イギリスにわたってからも演奏活動を続け、アーサー・ベンジャミン、マルコム・アーノルドや
ダリウス・ミヨー等からも作品の献呈を受けるようになり、
演奏家として自らのレパートリーを広げるためヨハン・ゼバスティアン・バッハや
アントニオ・ヴィヴァルディらのヴァイオリン協奏曲をハーモニカに編曲。
また、モーリス・ラヴェルのボレロやジョージ・ガーシュウィンの
ラプソディ・イン・ブルー等もハーモニカで演奏できるように編曲しています。

ロンドンにて没。ラリー・アドラー(英語: Larry Adler, 1914年2月10日 - 2001年8月7日)
下のYouTubeの演奏は最晩年に録音されたクラシック音楽をクロマチック・ハーモニカ用に
アレンジされたシリーズの1曲ですが、このシリーズが一番ゾクゾクします。




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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして、たぶん。 (つゆ)
2019-01-31 20:27:52
こんばんは〜
アランフェス協奏曲は、大好きです。
ハーモニカで聴いたのは初めてです。
なんだかゾクゾクっときました。
メーキャップからも、そう感じたのでしょうか。
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