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川喜田半泥子(かわきた はんでいし)1878-1963年

2018年06月20日 | アート

川喜田半泥子(かわきた はんでいし)1878-1963年

 半泥子さんはもともと優秀な銀行家でした。
なのに陶芸が好きで好きでたまらず、実業家として
名を成しながら陶芸家になった稀有な人物です。
東の魯山人、西の半泥子、または昭和の光悦などと称されています。
幼名は善太郎。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」や
「其飯(そのまま)」等があってユーモア溢れるネーミングがたまりません。
以下の文章はウィキペディアより参照しました。

本名は久太夫政令さん(きゅうだゆう まさのり)
大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。
裕福な家庭で育ちましたが、祖父や父は生後まもなく他界し、
1歳で川喜田家16代当主となりました。
筆頭分家の川喜田四郎兵衛から教育を受け、
当時の三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)に入学。
1900年(明治33年)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学。
1901年(明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。
1903年(明治36年)に25歳で百五銀行の取締役に就任。
1919年(大正8年)に第6代頭取となり、
1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。
頭取としては「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で
地元の中小銀行を買収・合併して行きました。また、
1909年(明治42年)からは津市会議員。
1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めました。

上に掲載させて頂いたのは川喜田半泥子さんの人生を余すところなく
綴ったノンフィクション・ストーリーです。とにかく驚かされるのは
堅い堅い経歴から下の写真にあるような柔らかい器を
50歳から本格的に生み出すのですからそのギャップに驚かされます。
人生に遅いも早いもないのかも知れません。
ご興味が湧いた方は是非一度。読んで見てください。

追記:(以下の文章は敬称を略させて頂きました。)
1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年からは相談役となります。
芸術・文化活動では陶芸は趣味で、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するように。
1955年には再び千歳山に住まいを移しました。
死後、「石水会館」を母体として1980年「石水博物館」が設立され、
川喜田家に所蔵されていた半泥子の作品を公開していました。
石水博物館はその後、2011年に千歳山に新築移転している。
専修寺玉保院の境内には地理学者の稲垣定穀の墓碑や陶芸家・川喜田半泥子の墓があります。
川喜田家の墓所の右側2つ目が半泥子の墓で、仙鶴院と刻まれていて
半泥子の遺志でおばあさんと奥さんと供に1つの墓に入っています。
1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始します。
主に抹茶茶碗を製作しました。作風は自由奔放で「破格」と評されていました。
陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、
生涯にほとんど売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えたそうです。






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2 コメント

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Unknown (熊子の百葉箱)
2018-06-21 05:15:57
ワイシャツにベスト姿がとても印象的です。
勤めながらのめり込んだのでしょうが
才能があって陶芸に花が開いたのでしょう
かね。素敵な方が居るものですね☆彡
ほんとですね。 (暮野そら)
2018-06-21 11:41:16
いつもコメントをありがとうございます。
本当に印象的な写真ですね。
ロクロに向かうと大変な勤めのことも
忘れられたのかも知れませんね。

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