清宮 質文( せいみや なおぶみ )1917年 - 1991年
私の最も尊敬する芸術家の一人です。
日本の木版画家で父は版画家の清宮彬さん(ひとし)。
東京都新宿区に生まれ育ち、
美術教師や商業デザイン会社勤務を経て、
木版画家の道を歩み始めた人です。
「 蝶 」1963-1964年
(以下の情報はウィキペディアを参照しました。)
清宮自身が以下の言葉を残しています。
「外の限界を拡げることは不可能ですが、
内面の世界を拡げることは無限に可能です。」
清宮さんを語る時、最も引用されている言葉です。
洋画家の脇田和さんは「清宮さんの作品は普通の版画とはちがいます。
筆のかわりに版を使って1枚ずつ描く絵なんだ」と述べました。
清宮さんは作品によって一点一点色や摺りを変えている。
また、清宮さんは以下のように自身のことを述べています。
「多くの職業分類の中から一番抵抗のないものを選ぶとすれば
それは『詩人』ということになります。」、
「私は自分を詩人だと思っています。」、
「表現形式に『絵』という方法をとっている詩人です。」
清宮さんは水彩画とガラス絵の作品も制作しました。
水彩については、
「画材というものは音楽でいえば楽器に相当するものでしょう。
私にとっての水彩とは、なにかヴァイオリンという感じがします。
ヴァイオリンにあった作曲をし、
それを充分に鳴らし切ることができたら満足ですが、
それはなかなかむずかしいことです」と述べています。
(『別冊美術手帖』第1号、1982年より抜粋。)
代表作品
「巫女」1954年(昭和29年)
「葦」1958年(昭和33年)
春陽会第31回展に初出品し、初入選。
「火を運ぶ女」1957年(昭和32年)
「キリコ」1959年(昭和34年)
「はるかなるもの」1960年(昭和35年)
清宮質文木版画展に出品。
「小さな炎」1969年(昭和44年)
「一つの燈」1970年(昭和45年)
火と炎の絵画展(神奈川県近代美術館)に出品。
「告別」1974年(昭和49年)
「告別」は春陽会展に出品した最後の作品です。
「 行く手の花火 」1981年
私の最も尊敬する芸術家の一人です。
日本の木版画家で父は版画家の清宮彬さん(ひとし)。
東京都新宿区に生まれ育ち、
美術教師や商業デザイン会社勤務を経て、
木版画家の道を歩み始めた人です。
「 蝶 」1963-1964年
(以下の情報はウィキペディアを参照しました。)
清宮自身が以下の言葉を残しています。
「外の限界を拡げることは不可能ですが、
内面の世界を拡げることは無限に可能です。」
清宮さんを語る時、最も引用されている言葉です。
洋画家の脇田和さんは「清宮さんの作品は普通の版画とはちがいます。
筆のかわりに版を使って1枚ずつ描く絵なんだ」と述べました。
清宮さんは作品によって一点一点色や摺りを変えている。
また、清宮さんは以下のように自身のことを述べています。
「多くの職業分類の中から一番抵抗のないものを選ぶとすれば
それは『詩人』ということになります。」、
「私は自分を詩人だと思っています。」、
「表現形式に『絵』という方法をとっている詩人です。」
清宮さんは水彩画とガラス絵の作品も制作しました。
水彩については、
「画材というものは音楽でいえば楽器に相当するものでしょう。
私にとっての水彩とは、なにかヴァイオリンという感じがします。
ヴァイオリンにあった作曲をし、
それを充分に鳴らし切ることができたら満足ですが、
それはなかなかむずかしいことです」と述べています。
(『別冊美術手帖』第1号、1982年より抜粋。)
代表作品
「巫女」1954年(昭和29年)
「葦」1958年(昭和33年)
春陽会第31回展に初出品し、初入選。
「火を運ぶ女」1957年(昭和32年)
「キリコ」1959年(昭和34年)
「はるかなるもの」1960年(昭和35年)
清宮質文木版画展に出品。
「小さな炎」1969年(昭和44年)
「一つの燈」1970年(昭和45年)
火と炎の絵画展(神奈川県近代美術館)に出品。
「告別」1974年(昭和49年)
「告別」は春陽会展に出品した最後の作品です。
「 行く手の花火 」1981年
とても繊細で、素敵な色合い、、、。
版画とは思えません。
北斎や広重の写実の世界と全く違いますね。
かと言って、まるきり抽象でもなく。
清宮ワールドに引き込まれます。