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中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

無知という罪

2015-07-02 | 徒然なるままに
除草剤を撒いても、他の雑草は枯れて全滅するのに枯れない作物があったらどうでしょう?

害虫が食べない、食べたら死んでしまう作物があったらどうでしょう?

生産者はさぞかし楽になるでしょうね。
それが遺伝子組み換え作物、アメリカがどんどん生産している作物です。

「遺伝子組み換え」表示義務のない大豆加工食品の殆どが遺伝子組み換え大豆、あるいは無分別大豆で作られているとしたら…
表示義務のない加工食品が私たちの身近にたくさんあるとしたら…
遺伝子組み換え大豆を最も食べているのが日本人だとしたら…。

*****

子どもが子どもらしくある時間を奪っている時間泥棒は誰?

大人はなぜ待てないの?

過度の競争・管理がどれほど子どもの成長を歪めているか、人間らしい心を欠落させているか…

男が男らしく女が女らしく、人間になるための激しい葛藤、まさにその入り口である14歳の壁とどう向き合うか!

これらは今日、いのちの現場から来てくださった中野司朗先生、教育の現場から来てくださった比嘉昇先生のご講演の中の極々一部分です。

日夜、現場で闘っておられる先生方の生の声は、今日参加してくださったみなさんの心に沁みわたったことと思います。
私も、久しぶりに「目からウロコ」の衝撃的とも言うべき知識が、頭の中 になだれのように流れ込んできました。

中野先生の最後の言葉、
『無知という罪』
この言葉が胸に深く刻み込まれました。

講演終了後、このグループの目標は何かと中野先生に尋ねられました。
「奈良で…」と私が分かったような分からないようなことをぐたぐたと並べたてると「日本でしょ、日本中に真実を伝えられるきちんとした組織を作るべきなんですよ」と力強い助言を頂きました。

今日はお二人の先生ともに「そこまで私たち教えて頂いても大丈夫ですか?」というようなことまで、ブレることなく真っ直ぐに伝えて下さいました。
『何も怖いものはない!』
お二人の先生の言葉に「決意」と「覚悟」を感じました。

「奈良で」なんて呑気なことは言っていられません。先生方の「決意」と「覚悟」を受け、必ず日本中に!

「いのちの学び」今日、日本に向けて、小さいけれど、確かな、力強い一歩を踏み出しました。


最後はお二人の先生に揃ってステージに上がって頂き会場の皆さんと…








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心の風景

2015-07-01 | 徒然なるままに
「自転車のカゴ」という文を公演で取り上げることがあります。ある母親が、もう必要のなくなった自転車の子供用の座席を取り外しながら、自転車の上での子どもとの思い出、様々な風景を綴ったもので、多くの人の涙を誘う、また私自身溢れそうになる涙を堪えて読むのがとても辛い文です。

「カレーライス」という詩はある女性の苦い恋の思い出を綴っています。「カレーライスの日は、あの夜、私を送る電車の中のあの人を思い出す」というこの詩もまた多くの人の涙を誘います。

自転車のカゴやカレーライスのような極ありふれたものでも、思い出とくっつくと特別な「心の風景」となります。
コンビニのおにぎりや缶コーヒーだって、思い出とくっつくと、その人にとって特別な「心の風景」になります。

同じ風景でも見る人によって感じ方がまるで違うのは、人生が人によってまるで違うのと同じ。
心を透して見るからその風景は生気を得、美しくも、時に悲しくも見えたりするのです。

奈良を中心に美しい日本を「こころ歩き」したその「心の風景」をエッセイに綴っています。8月から奈良新聞などでご覧頂ける予定です。

こんな雨の日、みなさんはどんな「心の風景」が呼び覚まされますか?

昨年7月に見た東京 上野恩賜(おんし)公園の不忍池(しのばずのいけ)
この風景を見た翌日、私は目の手術をしました。手術前の半分視野を失った目で見た私の「心の風景」です。



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日本語の難しさ

2015-06-28 | 徒然なるままに
1200年以上も昔の話、貴族の生活がどのようなものであったか、もちろん写真などあるわけもなく、当時の人が書いた歌や物語、手記、描いた絵などから伺い見るより仕方ない。

『源氏物語』に「雨夜の品定め」という有名な場面がある。
『教養をひけらかす女はよくない。嫉妬深い女は妻には向かない。上流の女はつまらないが下流では話にならない』男同士で好き放題語っている場面である。

男たちの言葉に1200年という時の隔たりを感じないから面白い。

平安時代の小説には「夜這い」のシーンが頻出する。
突然入ってきて「お騒ぎになるな」とはまるで強姦ではないかと思うが、高貴なお方のお部屋にはちゃんと鍵がかかっていて女性側が戸を開けない限り中へは入ることはできなかった。しかもお姫様の側には女房たちがザコ寝していたので二人きりで…ということはなかった。

調べれば調べるほど、貴族たちの生活ぶりに驚いてしまう。

世阿弥の謡曲、万葉集、大和物語、源氏物語、少女時代漫画(笑)などを紐解き、奈良時代のお話「釆女ものがたり」が昨夜ようやく書き終わった。
「うた語り」の台本のために書き起こしていたものであったが、新聞で連載して下さることになった。

1200年以上昔の話、誰も見たことない想像の世界、私の言葉一つでニュアンスが全く違ってくるので責任重大である。
たった一行を書くのに、たった一つの言葉を決めるのに、実際そこに足を運んだり、お話を伺いに行ったり、何冊も本を読んだり、何日もかかることがあった。

日本語の難しさ、発する「言葉」の重さ、責任を感じる今日この頃である。

(「あさきゆめみし」より)

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自殺三話

2015-05-28 | 徒然なるままに
今日、ずっと忘れていたある出来事が突然蘇ってきた。
何かとお騒がせ女の私であるが、このお騒がせを越えるお騒がせはまだない。
JRがまだ国鉄と呼ばれていたころ、私が女子大生だったころの話である。

1時間に1~2本しか電車が通らないローカル電車の単線線路、電車が通過したばかりだからしばらくは来ないだろうと思い込んだ私は、家への近道であるその線路を歩いたのだ。
すると間も無く背後から電車の警笛が聞こえてきた。逆方向からの電車が来る可能性があることなど私の頭には全くなかった。

単線なので逃げ場がない!
仕方がないので私は線路脇の土手に必死で這い上がった。
そして急こう配の土手の上でふらふらしながら電車が通過するのを待っていた。ところが、電車は通過せず私の目の前でものすごいブレーキ音を立てて止まったのだ。
なんと私は飛び込み自殺をすると勘違いされたのだ。

「只今、人身事故のため…」などという車内放送が流れたのだろう。窓という窓から乗客の大注目!そのことがあまりにも恥ずかし過ぎて、こっぴどく叱られたことなど全く覚えていない。

さて、笑えないのが実際の自殺者の数。
二年連続して減少していた過労などの「仕事疲れ」による自殺者が昨年は増加に転じたという。
景気上向きと自殺者の増加、専門家はどう分析するのだろう。いずれにしても上司、部下、同僚の心や言動の異変に気づく周囲の目がとても大切な時代だ。

自殺と言えば、奈良にこんな伝説がある。
その昔、帝の寵愛が薄れたことを苦に猿沢の池に身を投じた一人の釆女(うねめ)がいた。その名は春姫。

毎年、仲秋の名月の日に行われている春日大社の神事「釆女祭」は、池を浮遊する「春姫」の霊を慰めるというものである。
この「釆女祭」の前夜、猿沢の池に浮かべた龍頭船の上で「うた語り」をさせていただくという大役を仰せつかった。

帝から愛されなくなったことを苦に入水自殺するという悲しい釆女「春姫」を果たしてどう表現するか、愛されぬようになったことを苦に自らの命を絶つ女の心情やいかに…、そんなことを考えてたら、遠い昔の記憶、目の前で電車が急停止した自殺未遂?事件が突如蘇ってきた。









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自然のリズムの中で

2015-05-27 | 徒然なるままに
人間が自然のリズムに合わせる、本来はこうでなければならない。それなのに人間は自然を人間に合わせようとする、自然が狂ってきて当然である。

我が家の庭の梅も収穫の時期を迎えた。
このところ忙しくて、明日、また明日と延ばし延ばしにしていたら、梅の木のご機嫌を損ねたらしく、急に実を落とし出したので慌てて収穫した。

あと二週間もすれば『梅雨』も忘れずにやってくるのだろう。

『梅雨』は『バイウ』として中国から伝わってきた言葉で元の漢字は降り続く雨がモノを黴びさせるので『黴雨』という漢字が使われていた。
しかしそれでは語感が良くないということで『梅雨』という漢字に改められた。
梅という漢字の中の『毎』が毎日毎日降り続く雨という意味を表しているという。思いがけない語源である。

『つゆ』と呼んだのは江戸時代、日本に入って来てからのこと。
この読み方の語源には、木の葉などにたくさんつく雨の露説と、腐ったり熟したりして「潰れる」という意味の「潰ゆ」(ついゆ)説がある。
私としては風情ある露説であって欲しい気がする。

さて我が家の庭の梅、実を落としてしまって百個以上もダメにしてしまったのだが、それでも今年も約3キロの収穫があった。昨年はブランデーに漬け込んだが今年は何に漬け込もうか…。

我が家の梅の木が元気な間は、私は毎年毎年この作業を続けなければならない。
自然のリズムの中で…。











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思い出

2015-05-25 | 徒然なるままに
旅先の思い出をノートに綴ったり手紙を書いたりする「旅の後の時間」がまた楽しみの一つである。

この旅にしかなかった風景、この旅にしかなかった出逢い、ちょっと失敗したことだって何だって、すべてがこの旅にしかなかった大切な思い出、私の人生の中のかけがえのない一コマである。

私は「あの時はよかった」「あの日にもどりたい」と「思い出」に浸って感傷的になるのは好まないが、「思い出」は大切にしている。揉み消してしまいたいような「思い出」は一つもない。

なぜなら、旅にしろ仕事にしろ子育てにしろ、それに恋だって、すべての「思い出」はその時その時を一生懸命生きてきた自分そのものだから。

旅から帰って来るといつも気づくことがある。

我が家のコーヒーの味、我が家のタオルの匂い、友から届くメールの温かさ、慣れ過ぎて感じなくなっていたことを改めて感じる。ほんのわずか離れていただけなのに日々の生活が何か新しい。

「思い出」は旅の中、特別な日の中だけではなく、日々の生活の中でも刻々と刻まれている。

今日もまた私の人生にたくさんの「思い出」が刻まれた。
そんなことを私の白いノートに綴る。






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スマホの向こうの世界

2015-05-21 | 徒然なるままに
忙しくてももっと丁寧に暮らしていたころの自分が懐かしくて、少しだけスマホから離れる生活を送っている。

本を読んだり、音楽やラジオを聴いたり、映画を観たり、ちょっと手間のかかるお料理をしたり、手仕事をしたり、集めた器の整理をしたり、手紙を書いたり、ノートを書いたり、忙しいながらも毎日を丁寧に暮らしていたころの私が少しずつもどってきた。

目の前のスマホの向こうの世界は恐ろしいほどに広くたくさんの人がいる。大規模な娯楽の世界もある。アナログ人間の私には未だに合点がいかないことがいっぱいの不思議な世界である。

言葉が手軽にしかも超速で一気にたくさんの人に伝えられるとても便利なツールのようで、実は誰一人にも真意は伝えられない信用ならないツールではないのか。

日本中、いや世界の端までも届くパワーがありながら、すぐそばにいる大切な人にさえ本当の想いが伝えられない、実は使い勝手の悪いツールではないのか。

お手軽に覗けるこの世界は、お手軽な分どこかに危険な罠が潜んでいることや、どこか「まやかしの世界」であることもちゃんと分かっていなければならない。

闇雲に人を信じたり、羨ましがったり、情報を真に受けてその都度惑わされていたのでは、しまいに自分らしさを失ってしまう。

忙しくても、邪魔くさくても、大切な人とはやはり会って顔を見て想いを声にして喋らなくては真意は伝わらない。
まるで会話しているかのような対話も、会って話していなければ会話ではない。
誤解が生じ関係がこじれてしまったというのはよく聞く話である。

気になるところには自分の足を使って出向いてみるのが一番だ。

いつの間にか人は時間や手間のかかる邪魔くさいことをしたがらなくなってきた。そんな時間は惜しいと言いながら、実は莫大な時間をスマホの向こうの世界につぎ込んでいたりする。

邪魔くささ、非合理的なやり方の中にこそ、人間らしさ、あたたかさがある、そんなことに気づかされる出来事が最近立て続けにあった。

「したく」「かたづけ」「しつらえ」「手仕事」「人づきあい」…日々を大切に、言葉を大切に、人を大切に、友を大切に、そして自分を大切に、今一度、気持ちと暮らしを自分らしく整えて行きたいと思う。















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ハリボテ

2015-05-15 | 徒然なるままに
「今、近江を通過しています。まもなく京都に着きます」
打ち合わせのため、京都駅に隣接するホテルのラウンジで待っている私に新幹線から送られてきたメールの「近江」という響きが未だに忘れられない。

都道府県名の認知度が全国最下位という民間調査の結果を受け、滋賀県では県名変更を巡る議論がにわかに巻き起こっているという。その候補の一つが「近江県」である。
確かにかっこいい。

その男性が滋賀のことをサラッと「近江」と言われたことがあまりにもかっこよかったので、その後、私も何度も真似をしようとするのだが、違和感があるというか、自分には似合わないというか、どうも照れ臭くて遣えない。

打ち合わせでその東京の男性とお話が進む中で、その男性は日本の歴史に精通され近江のお寺や歴史的名所などを殆ど回り尽くされていたということが分かった。近江京のお話なども聴かせてくださり、こよなく近江を愛されているということも分かった。

なるほど、そういう中身があるから「近江」とさらりと言われても違和感がないのか。私が「近江」と言えないはずだ。

近江県であろうと琵琶湖県であろうと、ラベルを張り替えただけで中身が伴わなければただのハリボテだ。

大阪府か大阪都かだって同じだ。聞こえやイメージの問題ではない。問題は中身だ。

政治なんて他人事、他人任せだった人も、今、しっかり中身のことを識る、考えるチャンスではないか。



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赤鉛筆の線

2015-05-15 | 徒然なるままに
晩年の父の趣味は新聞のスクラップであった。
父の一日はまず新聞を読むことから始まる。隅から隅まで舐めるように読み終えると、次に、ハサミ、カッター、カッター台が出てくる。切り抜かれた記事は項目別にクリップで閉じられる。その記事はさらに丁寧にチェックされ、大切なところに赤鉛筆で線が引かれたり、何かしら一言書き添えられたりする。それが終わるとファイルに収められるもの、糊で台紙に貼られるもの、記事はそれぞれの場所にきちんと収められる。

膨大な量のファイルは、父が施設に入ってから母の手によってかなり処分されたが、役に立つような記事のファイル、父の想いの詰まったファイルなど処分仕切れないものが今も実家の書棚に並んでいる。

例えば私の名前がタイトルになったファイルを広げると、音楽や詩に関する記事、子育てに関連する記事などが並んでいる。

昨夜は「瀬戸内寂聴」というタイトルのファイルを実家から持ち帰り、深夜まで読み耽っていた。
読み進むうちに、父がその記事のどこに赤鉛筆で線を引いているかが気になってくる。
寂聴さんが四国八十八ケ所をお遍路された記事のところには、四国八十八ケ所のお寺の名前と住所が懐かし父の字で綴られているものが挟まれていた。便箋八枚に渡っている。いつか行こうと思っていたのだろう。

父のファイルを見ていると、父がどんなことを考えていたか、いかに人の考えや想いに丁寧に耳を傾けいかに感銘を受けていたか、また一国民としてどれほど政治に関心を抱き政治に参加していたかなど、記事の内容そのものではなく、父の心、生きる姿勢、生き方のようなものが伝わってくる。

今、親は子に、教師は生徒に、上司は部下に、いったいどんな教育をしているだろうか。
本来、教育というものは、教科書を開けばつらつら書き連ねられているような智識の受け売りではなく、人としての生き方、考え方、生きるための知恵などの伝達、心から心への伝達であるべきではないだろうか。

そんなことを改めて感じさせられた。

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手柄

2015-05-13 | 徒然なるままに
福知山での公演、ピアノが無いことに気づいたのは道中の車の中、亀岡あたりを通過しているときだった。
それぞれの勝手な思い込みが生んだミス、公演始まって以来のまさかのハプニングが発生した。
ちゃんと口に出して確認していればこんなことにはならなかった。しかし、反省している時間などなかった。何としても公演までにピアノを手配しなければならない。

世間はGW最後の週末、電子ピアノ一台ぐらいなんとかなる…楽観的な希望の光が一つ一つ消されていった。

凄かったのはそこからのチームプレーだった。残された僅かなチャンスを見事にゴールに繋げた。

予定通りの時間にリハーサルが始まった。お寺の本堂に鳴り響いたピアノの音をみんなどれほどの安堵の思いで聴いたことだろうか。

しかし私が本当に感動したのはこのチームプレー、チームワークではない。引き受けた公演は何が何でもやり遂げる、これはプロとして当たり前のことである。
感動はその後である。

自分がすべき仕事・役割以外のことでみなが走り回った。子どもの学芸会ではない。みなそれぞれの道のプロだ。
しかし、誰一人文句どころか自分の手柄を一言も語らなかった。
誰か一人でも「あのとき私が…」と自分の手柄を語っていたら、これほど清々しい気持ちにはなれなかっただろう。

この公演で必ず歌う歌「いのちの歌」の歌詞の中に、私がとても大切にしている言葉がある。

「本当に大事なものは隠れて見えない」

これを逆の言い回しにしてみると、

「見せてしまえば本当に大事なものではなくなる」

誰でも手柄は語りたいものだ。
しかし、手柄は語ったらそれだけのもの、いや、ひょっとしたらそれ以下のものになってしまう。
語らなかった手柄は必ずいつか二倍三倍の喜びとなって自分に返ってくる。







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八転び九起き

2015-05-12 | 徒然なるままに
昨夜久しぶりに王子さまから電話があった。

東北大震災直後のチャリティーバザーの代表者として私が頭を抱えている時に颯爽と私の前に現れたKさん、Kさんの登場で私は窮地を脱することができた。それ以来私はKさんのことを「王子さま」と呼んでいる。
ただこの王子さま、白馬に乗ってではなくたくさんの木工作品を抱えての登場であった。

Kさんが提供して下さった大小様々の木工作品のお蔭でチャリティーバザーは大成功した。たくさんの寄付金を集めることができた。
廃材利用とは言えいったいどれほどの手間暇がかかっていることか。その辺のホームセンターで売られている木工作品をしのぐ丁寧さ、美しい仕上がり、椅子などは安全性を追求した愛にあふれる見事な作品ばかりであった。
我が庭の小鳥の巣箱もその一つである。
そんな木工作品をワンボックスカーに優に3杯はあろうかという量を寄付して下さったのだ。無償で。

その王子さまからの電話。
「8回目の再発です。今月から3ヶ月間の放射線治療に入ります。極めて悪性度の高いガンで…」
Kさんの人生はガンと共にあると言っても過言ではない。
20分ぐらい喋っただろうか、Kさんの口からは一言もネガティヴな言葉は発せられなかった。お互い終始明るく喋った。

一昨年の私の誕生日の日は実はKさんの前立腺ガンの手術の日だった。7回目の再発だった。手術前の王子さまからの電話で「七転び八起きだ」と笑い飛ばした。

極めて厳しい状況からのKさんの帰還、私は声を上げて喜んだ。最高の誕生日プレゼントだった。
あの時が「七転び八起き」だったのだとしたら、今回は「八転び九起き」だ。

九回でも十回でも、とにかく転んだらまた起き上がればいいんだ。そんなことを私に教えてくれたのは他でもない王子さまだ。

王子さまは必ずまた起き上がる!






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女の役割

2015-05-08 | 徒然なるままに
妻が家を出るとき、その家で担っている自分の役割を改めて感じるものである。

旅で少し家を出るのか、そのままもう戻らない覚悟で家を出るのか、家の出方も様々であるが、いずれにしても、自分がいなくなったら家の中がどうなるか…家族がどうなるか…妻としては気にかかることは間違いない。

子どもは?主人は?年老いた親は?
ペットは?庭の花や木は?

少し前までは私はマックス状態、これらのこと全てが気にかかり、家を空けるとなると大事であった。

ところが年月を経るごとに気にかかることは間違いなく一つずつ減って来る。
明日から3日間家を空けるが、驚いたことに私は自分の旅支度以外何もしていない。

子どもたちはそれぞれに独立し、ペットもいなくなった。介護制度にも心から感謝である。

そして、炊飯器の使い方一つ知らなかった主人も、この一年に経験したサバイバル生活のお陰で、掃除、洗濯、料理、庭木の世話まで何でもござれという男に成長した。人間追い込まれると信じられない能力を発揮するものだ。

最近は、結婚するまでにこの能力を発揮してしまう男性が増えている。その昔は女子がするべきとされていたことを難なく器用にこなしてしまう男性が。
おまけに街にはコンビニが網羅し、食べることには全く困らない時代だ。

次男などは週に一度、プロのお掃除屋さんに家を掃除してもらっているという。ひょっとしたら我が家より家の中が綺麗なのかも分からない。料理の腕もなかなかのものである。
女の出る幕がない。というより、女に掃除、料理などを全く期待していない。

「女の役割」、この言葉も死語になりつつあるのかも分からない。

若者の結婚願望が薄らぐはずだ。三組に一組、離婚する夫婦が増えるはずだ。

旅の支度をしながらふとそんなことを思った。
















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病友

2015-04-29 | 徒然なるままに
「病友」とは、病気にかかっている友人のこと、あるいは同じ病院で一緒に治療を受けている人、また同じ病気にかかっている人(かかった人) のことを言う。

これまで病気らしい病気などしたことのない私は、昨年の網膜剥離で思いがけない「病友」ができた。
同じ病室の入院仲間、同じ網膜剥離を経験した友人、長い人生の中で接点はただそれだけなのに、同じ「痛み」を経験した者同士、「痛み」が分かり合える者同士というのは驚くほど心を許し合える。

病気というのは何も肉体的なものばかりではない。
心に同じ傷を持つ者同士、同じ「痛み」をを経験した者同士も然り。そういう友にも、友としての長さとは無関係につい心許してしまう。

さて、昨夕は久しぶりに会った友と実に愉しい時間を過ごした。強くもないお酒だが本当に美味しいお酒だった。

その友はまだ知り合って1年にもならない。2~3回しか会ったことがない。しかしその友と私はお互い心に同じような痛み・傷を持っている。ただそれだけなのだが、計り知れない安心感、安堵感、信頼感があるから不思議だ。

「痛み」が分かり合えるということは友としてとても大切なことである。
ということは「病友」というのは友の位置付けとしてはかなり高いところにあるのかもしれない。

「痛み」が分かり合えるということが友であることの一番大切な条件ではないだろうか…そんなことを思う宵であった。














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稲穂

2015-04-27 | 徒然なるままに
田圃に水が張られ始めると「いよいよ始まる」そんな風に感じるのは日本人だからかもしれない。
田植えから稲刈りまで、パン食が増えたとは言え、稲の成長と我々の生活は少なからず影響し合っている。

「実るほどに頭を垂れる稲穂かな」

稲というと母がいつも口にするこの言葉を思い出す。
実れば実るほど頭を垂れる、それは稲も人間も同じである。人間ができている人ほど頭が低く謙虚であるというわけだ。

確かに私の周りでも、立派な人、出来た人ほど決して威張らず謙虚な人が多い。
自分もそうありたい、見習いたいと切に思う。

しかし、この言葉には「謙虚であれ」という意の他にもう一つ大切なことが隠されていると私はずっと思っている。

あくまで「実るほどに」なのである。

実らないうちから頭を垂れていたのでは稲で言うなら病にかかった稲、育たないダメな稲である。

実りもしていないうちから頭を垂れてばかりしていたら、実るものも実らない。
人間、「傲慢」にぐいぐい行かねばならない時だってある。
頭を打ち、失敗し、痛い目にあい、そんなことを繰り返しながら成長していく。実っていく。
そうしてやがて頭を垂れる時がやって来るのだ。

「傲慢」は「謙虚」の対義語で悪者扱いされることが多いが、成長するためには時にはとても大切なことだ。

特に若い人に言いたい。

頭を垂れるのはまだまだ早い!実りもしていないのに頭を垂れるなんておこがましい話だ。
ときには「傲慢」なほどに突き進んで欲しい。

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寄生獣「ジブン」

2015-04-25 | 徒然なるままに
夜、布団にに入ると自分の中に寄生している寄生獣「ジブン」が現れる。

「あれ、断りなさいよ!やりたくないんでしょ?」
「断われたら苦労しないわよ!」
「そういうところがあなたの一番悪いところなのよ。いいかげんNoが言える人間になったらどうなの!」

ある時は…

「やりなさいよ!何迷ってんの?」
「でも後悔しそう…」
「何言ってるの!どうせ後悔するなら、やらずに後悔するよりやって後悔しなさいよ!」

またある時は、

「バレたらどうするの?」
「バレないよ、黙ってりゃわかんないっ
て」
「天が見てるわよ…」


自分の中に寄生する寄生獣「ジブン」と頭の中で会話するのではなく、こうして面と向かって会話できたらどんなにかいいだろう。
私の全てを知っている私と会話するのだから本音で腹を割ってやり合える。言葉を選ぶ必要もない。怒らせたって自分だから構わない。

昨夜、映画『寄生獣』の主人公 新一が自分の右手に宿った寄生獣「ミギー」と会話するシーンを見ながらそんなことを思った。

誰の心(脳)にももうひとりの「ジブン」という寄生獣が宿っているのではないだろうか。
自分の背中を押したり、通せんぼしたり、落ち込んでいる自分を励ましたり、有頂天になっている自分を非難したり、自分と補完関係にあるもうひとりの「ジブン」が寄生しているような気がする。

だが「ジブン」は「ミギー」のように目の前に現れてはくれない。面と向かって会話することはできない。
だから、人は迷ったり落ち込んだり心細くなったりすると「ジブン」によく似た人の側に行きたくなる、喋りたくなるのだと思う。
説教したり意見するばかりでもなく、慰めるばかりでもなく、「ジブン」のように補完関係でいてくれる友の側に行きたくなる。
「ジブン」とやり合っているように本音で腹を割って喋れる人、「ジブン」によく似た人の側に行きたくなる。

映画『寄生獣 完結編』が本日一斉劇場公開される。
が、私はいつものようにテレビにやって来るまで待つことになるだろう。

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