あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

どなたが眠っているのかが大問題に

2010-09-11 02:01:15 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

 

 

                            写真:川上村 御舟の滝は冬季、氷の滝に            

                     

 

   さてさて道草をしているうちに、本筋を忘れてしまいそうになります。「<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県川上村;" Address="奈良県川上村">奈良県川上村</st1:MSNCTYST>および<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:上北山村;" Address="上北山村">上北山村</st1:MSNCTYST>に残る、後南朝の遺跡と伝説」に戻ります。特に問題となっているのは、「後南朝後胤の親王墓」でした。

 

 

 写真:金剛寺左上にある「河野宮墓」(伝 自天親王陵)に入る際にはきちんと禊を

 

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ところで天皇さまのお墓についてウィキペディアで調べてみると、宮内庁の区分では、「天皇・皇后・太皇太后(たいこうたいごう:以前皇后だった宮)・皇太后妃のものを『陵(みささぎ・りょう)』(御陵ともいいます)、それ以外の皇太子や親王など皇族のものを『墓(はか・ぼ)』と呼んでいます。

 

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このほかに、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた「髪歯爪塔」などの「供養塔」、また被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が高い「陵墓参考地」などがあり、一般にこれらを総称して「陵墓(りょうぼ)」といいます。

 

 

写真右:金剛寺左の階段を登ると「河野宮墓」(伝 自天親王陵)

 

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ちなみに陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は31基であり、天皇、皇后、皇子名を合葬したものを差し引くと合計65基あるようです。やはり圧倒的に奈良県と京都府に多いです。

 

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しかしその土地の人たちの意識や呼び方は、宮内庁に準じているわけではありません。大切に守ってきた人のお墓は、天皇であろうとなかろうと「帝王さま」であり「御陵」であるのです。ここでは伝わっている呼び名で紹介します。

 

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<o:p>写真左:高原地区の「南帝王(なんておう)の森」にある「陵墓参考地」入り口。地元では「忠義王(ただよしおう)墓」と伝わる</o:p>

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前々回に書いたように、『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』(伊藤 獨、檜書店、昭和47)によると、「明治45129日に告示発表された宮内庁の『治定』は、<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民にとって晴天の霹靂(せいてんのへきれき)」でありました。

 

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<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>民、特に「朝拝式」を550年以上の長きにわたって執り行い、二人の親王をお祀りしてきた筋目衆(すじめしゅう)にとって、2つの墓の改称はとても受け入れられるものではありません。

 

 

写真右:高原地区の「南帝王(なんておう)の森」は歴史を感じます

 

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その後の驚天動地(きょうてんどうち:大いに世間を驚かす)※書きながら「えーと、どっちだったかなあ?と調べてみると「驚地動天」でも同じ意味で使えるのだそう。「どうっちでもいいですかあ~?」(どうも横道にそれる)について『悲運の南朝後胤並自天王祭祀について』では次のように書いています。

 

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 「この告示は、村民とは何の交渉もなしに達せられたので、村長の狼狽、村民の驚愕は名状すべからざるものあり、(中略)・・・・陳情書を携えて上京したが、宮内省は「あくまでいったん勅裁をあおいで御治定なったものを変更できないとして却下した。(中略)」このように何度も大陳情団を結成して上京するのです。

 

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 両村の過熱・過激ぶりを見かねた宮内省は「明治4557日の御沙汰による妥協案」を提示します。

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【<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="29:奈良県吉野郡かわかみ村;" Address="奈良県吉野郡かわかみ村">奈良県吉野郡かわかみ村</st1:MSNCTYST><o:p></o:p>

1金 五千円<o:p></o:p>

右、多年尊秀王ノ為メ祭祀奉修ノ段奇特ニ付下賜事<o:p></o:p>

大正5729日 宮内省】

 

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村民はこの処置に満足したわけではなかったが、ご沙汰書に「尊秀王ノ為メ」とあることによって、せめて心を慰めお墓所改称運動の矛を納め、御下賜金五千円也はそのまま<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>に蓄積せられた。・・・後略」

 

写真:はすの花が満開でした

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 宮内省はつまり、お金で問題解決をはかろうとしたわけです。そして5千円は村の金庫に納まったようですが、いったいそれは当時どのくらいの額だったのでしょう?
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