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心のたねを言の葉として

カネの力と権力 岸信介

2024-07-02 05:11:17 | 安倍晋三

カネの力と権力 岸信介

                                                         関川宗秀

 

 巨額のカネを動かして人脈と権力を培養し、人脈と権力を動かしてカネを集めるという手法は、紛れもなく岸のものだったからである。彼は、その意味でもすでに「立派な政治家」であった。(『岸信介 -権勢の政治家―』 原彬久 p72)

 

 これが理想の政治家だろうか。

 カネの力で人脈と権力を得た者が、一国の宰相として人々の信頼を得られるとは思えない。

 

 

 

岸信介の言葉

 1957年2月、急病の石橋湛山の後を受けて首相となった岸信介は所信表明演説で、次のような言葉を残している。

 

 私は、また、石橋前首相と同じく、何よりもまず国会運営の正常化に寄与したいと存ずるのであります。各党間においてできるだけ多く話し合いの場を作り、もって国会の運営を民主主義の原則に従って円滑に行うことは、国会に対する国民の信頼を高めるゆえんでありまして、また、国民がひとしく期待するところであります。

 今や、わが国は、経済自立の基盤を整え、また、国際連合に加入して、その国際的役割に重きを加え、ここに新日本を建設し、世界の平和に寄与する歴史的段階に立つに至ったのであります。今こそ、国民は、民族的団結を固め、自信と希望をもって立ち上がるべきであります。とりわけ、私は、わが国の将来をになう青年諸君が、真に国家建設の理想に燃え、純真な情熱を傾けてその使命を達成されるよう、切に奮起を望みたいのであります。また、私は、国民の福祉と繁栄をはかるとともに、政治に清新はつらつとした機運を作り上げたいと思うものであります。

私は、国民大衆の理解と納得の上に立つ政治こそ民主政治の正しい姿であると信じますがゆえに、常に国民大衆と相携えて民族の発展と世界平和への貢献を期したいと念願してやまないものであります。( 第56代第1次岸内閣 1957/2/27)

 

 国会運営を民主主義の原則に従って行う、と岸は言ったが、1960年5月19日に安保改正案を強行採決した。この日は、「民主主義が死んだ日」と人々の胸に刻まれた。この日以降、安保改正案の自然成立までの間、国会は連日のように数万人の人々で埋め尽くされた。6月18日には33万人が国会を取り囲んだ。

 1960年の安保反対運動は、「反岸運動」だったと多くの人が書き残している。岸信介の言葉、彼の政治姿勢は、今も腐敗した政治の象徴として語り継がれている。

 

 

 

満州が岸信介を育てた

 二・二六事件の直後、岸信介は満州にわたった。満州で関東軍と結びつきを深め、約三年間、国家主義的な統制経済を指導する官僚として辣腕を振るう。岸は満州で、優秀な官僚から、「立派な政治家」になったと原彬久は『岸信介 -権勢の政治家―』に書く。

 そして、岸のカネの力を伝えるものとして、甘粕正彦との次のようなエピソードを伝えている。

 

岸が甘粕をのちに(昭和十四年)国策会社満映(満州映画会社)の理事長にすえたことからもわかるように、岸と甘粕は満州で終始一貫親密な関係にあったことは事実である。古海忠之はこう回想する。「たとえばこんな話がある。甘粕正彦の排英工作……、要するに特務だな。この甘粕のために岸さんが一〇〇〇万円つくってやったことがある」(『新版・昭和の妖怪 岸信介』)。「一〇〇〇万円」といえば、少なくともいまのおよそ八五億円にはなるだろう。古海が甘粕のこの資金調達依頼を岸に取り次いだところ、岸は、それくらい大したことはないといって、あっさりその場で引き受けたという(同書)。

 

 関東大震災の混乱の中、無政府主義者大杉栄らを殺したとして懲役刑を受けた甘粕正彦。フランスへの逃亡生活の後、満州国皇帝に担ぎ出された溥儀の警護役のリーダーとして姿を現す。その後、満州で情報・謀略工作活動をおこなったとされる。アヘンがらみのカネを操り、「満州の影の帝王」といわれた。甘粕正彦と岸信介の黒い噂は、満州国の闇を思わせる。

 

 

 

東条英機と岸信介

 満州から日本に戻った岸は、東条内閣の閣僚として政治家のキャリアを積んでいく。

 太平洋戦争も中盤には日本軍は劣勢となった。昭和19年のサイパン陥落により、日本は制海権、制空権を喪失した。すると岸信介は「早期終戦」論となり、東条英機の責任を問う動きを見せるようになる。東条英機は、内閣改造により打開を図ろうとする。軍需次官兼国務相だった岸信介は東条から退任を要求されるが、これを拒否。政局は混迷を深め、内閣の総辞職という事態を生んでしまう。

 戦後になって、岸のこの「反東条・倒閣」は、狡猾な駆け引きだったとしばしば論難されてきた。戦争末期、極度の戦況が悪化する中、岸は早々と東条を見限り、東条の戦争政策に反逆したのは敗戦を見越しての責任逃れだったのではないか、また東京裁判でA級戦犯として拘留されながら、結局起訴されなかった理由のひとつが、この「反東条・倒閣」にあったのではないか……。このように岸の戦略的駆け引きは、岸の政治姿勢を批判するときの格好の材料となってきた。

 

 岸の「反東条・倒閣」にまつわる憶測について、原彬久は『岸信介 -権勢の政治家―』(1995年 岩波新書)の中で、「この憶測をすべて肯定するには、事態はあまりにも複雑であったといえよう」と書いている。が、その一方で岸の「矛盾した行動」について触れている。

 

 すなわち岸の「反東条・倒閣」が、一筋縄では理解しえない彼自身の相矛盾した行動から成り立っているということである。当時陰の倒閣推進者であり、なおかつ、この時期取り沙汰された「東条暗殺計画」に何らかの形で関与していたとされる高木惣吉(海軍教育局長)は、細密な日記を書き遺しているが、そのなかで内閣改造たけなわの頃、つまり七月六日における岸との会見の模様を記している(『高木惣吉日記』昭十九・七・六)。

 岸は高木にたいして、「(東条に代わりうる人材が見当たらないので)東条をして何とか国力を結集して戦争に向かわせる外なしと思う故、助力ありたし」とのべ、「次の手」として「東条だけは残って閣僚も三長官も総替りする位のことが必要」と訴えている。岸が「反東条・倒閣」のみならず、次期政権として「寺内寿一長州内閣」の実現を画策していることを知っていた高木は、この岸の「提案」に強い警戒心を抱く。彼は岸のこの働きかけについて「政治屋の言動ほど当てにならぬものはない」としたあと、「(東条・寺内)のどちらに転んでも損しないという虫のいい両面作戦なのだろう」と推断している。

 

 原彬久の『岸信介』は、「日本政治に巨大な足跡を残したその事実は否定できない」と書いてもいるように、岸という政治家の功績、偉大さを称えることに多くのページが割かれている。しかし、その原が引用する『高木惣吉日記』の記述の重さは、もはや憶測などというグレーゾーンの話ではなく、権力にしがみつこうとする男の、どす黒い心性を浮き彫りにする。

 

 

 

政治家岸信介の心性

 岸の反権力の動きを「上にはめっぽう強い」岸の本領だとか、「権力の論理を完全に吞み込んだうえでの反権力」などと擁護する声もある。

 岸は戦後直後の吉田内閣にも異議申し立てをしたことがある。

 

 一方岸は「両岸」などといわれるように、あらゆる方面につながりを作ろうとする節操のなさも指摘されてきた。

 戦後、社会党に入党しようとしたこともあった。

 首相になってからは、「次の総理はあなたに」と密約を交わして、主流派の力を凌いだこともあった。

 岸の政治的な駆け引きは、義理とか人情などといったものは度外視され、よく考え抜かれ、計算され尽くした結果なのだろう。

 しかし、岸の行動は、何とか糊口をしのいでいるような市井の人々の気持ちを引き付けるとは思えない。

 岸信介は、あらゆる手段を使って、権力にしがみつこうとした男だった。

 

 

 「民信なくんば立たず」。孔子は為政者の「信」を説いた。人々の信頼が得られなければ、政治はその基盤を失う。

 二千五百年前の戦乱の時代も、先進国から没落しつつある今の日本も、政治のその基本は変わらない。

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