CⅩⅩⅩⅧ「たまあそび」1996を見る聴く、 『エイガニッキ』 SASHI-ハラダ 2024/9/8
街中、通りで屯す若者たち、バンドの仲間たち、演奏する仲間たち、光、影、色彩、蠢くカメラ、役者たち、演技する人々、これもまた、屯す仲間たちとも、撮影風景、カメラマン、衣装、キャスト、スタッフ、撮影隊という、屯す人々、だが、これらは、全てが、お芝居とも、ドキュメントとも、特に、映画の撮影隊の部分は、撮影風景なのか、セッティング、リハーサル、後片付け、ドラマかドキュメントか、判らない、ハッキリしない、故に、どこにドラマが、屯す若者たちの中に、ドラマが、その中に、中から、役者が、町の雑踏の中から、映画に招かれたとも、映画のテーマは、町であり、通りであり、雑踏で有り、屯す若者であり、その中に、恋が、野球青年たち、室内グラウンド、男と男、手前の男、奥に二人の男、この三人の関係は、カメラの前に佇む男、カメラの方を向いている、奥の二人は、じゃれあっている、バットを尻を突きだした男の尻に、寝た男の股間に、二人はグラウンドの外に、壁際の草原でのキス、抱擁、なめ合い、悶え、これは、ドラマの中か、ドキュメントか、入社の挨拶、上司が紹介、野球青年ですと、立ちあがり、挨拶する青年、拍手する新しい同僚たち、主役の青年が、だが、誰が主役とも、解らない、何時から、ホモセクシャルであるのかと、問われて、監督が問うているのか、カメラは監督自身だろうか、侵入者の青年と主人公、野球、恋、だが、主人公には彼女が、野球場での語らい、二遊間が下手だと、見つめる二人、なんで野球をやめたのかと問う主人公、やはり、恋ゆえ、人間関係、別れ、そして、今、また、この地で、野球と恋、だが、主人公の彼女との姿を見てしまう、追いかけてしまう、溜らない、嫉妬、悲しみ、町、通り、雑踏、車、人々、日常、私たち、生活、ドキュメント、ドラマ、重なり合って、町の中から、ドラマが、そしてまた、ドラマは、町の中に、消えて、映画もまた、屯す若者の中から、現れて、スタッフもまた、監督ともども、撮影が、そして、また、町の中に、消える、通りを歩く野球青年たち、四人が並んで、彼らは、実際の街の青年たち、キャスト達、スタッフたち、判らない、役者が演じた、四人の同僚野球青年の姿、恋が、嫉妬、語らい、球場で、試合が行われて、繰り返される野球の試合の映像たち、二人の語り、小屋の前の二人、何かを球を放るのだろうか、上のバルコニーの娘、受け止める娘、デイトするカップル、こうして、また、上司の挨拶、始まりの新入社員の退職、別れ、挨拶、拍手、二人は海に、浜辺を走る走る、一人佇む坊主の男、二人は、彼の横を通り過ぎて、海の中に、坊主の男とは、誰、走り去ったのは、主人公、恋人だった青年、果たして、全く、違った、恋人の二人かもしれない、佇む坊主の青年とは、あの野球場で、手前に佇んだ男、解らない、奥の抱き合う二人、カメラは、追いかけ、佇む男を捕え、奥の二人を捕え、そして、また、元の位置に、舞い戻って、三人を捕え、関係は、誰と誰、ドラマは、どこに、ドキュメントはどこに、全てはドラマ、たまあそびというドラマ、そしてまた、全てが、ドキュメント、通り、グラウンド、町、日本、音楽、音、言葉、繋がれて、フィルムたち、焼けたロールエンド、そこにまた、繋がっていく、フィルム、メカスを感じます、原を感じます、映画です、シーンごとの、空気です、時空なのですが、何が写っているのだ、在る時代の日本が、まさに、映し出されて、有ります、この日常の中の、わたし、私たち、監督も、カメラもまた、私も、私たちも、この時空の中に、同居しているのです、あそびの時空であり、痛ましい時空でも、悲しみの時空でも、快楽の時空でも、在るのです、この時空たちに招かれて、この時空とともに、外の通りに、雑踏に、歩きだす、わたし、わたしたち、